梟はいつまでも歌う
樹海を抜ける頃には、空の色が少しずつ夕方へ傾いていた。湿った土の匂いと花の香りが、まだ服に残っている。歩くたびに、魔女の庭で見た白い花々を思い出した。色を失った庭。翼を痛めた小鳥。硝子瓶に灯った橙色の火。そして、ポーチの中で静かに眠っている小箱。
ハルクはしばらく黙って歩いていた。その横顔は疲れているようにも、何かを決めたようにも見えた。
「ひかり」
樹海の出口が見えたところで、ハルクが足を止めた。
「俺はこのまま家へ戻る」
「診療所には行かないのですか?」
「ああ。あいつに会ったところで、説教が待っているだけだ」
ハルクは空を見上げた。枝葉の隙間から、薄い夕空が見える。その空を覆いつくすような大きな月が、橙色に染まっていた。
「明日までに確かめておきたいものがある」
「確かめたいもの?」
「月へ行くための乗り物だ」
私は目を瞬かせた。
「もう、あるんですか?」
「ある。使えるかは別だが」
ハルクはそう言って、少しだけ笑った。その笑みは頼もしいというより、無茶を隠しているように見えた。
「手伝いましょうか?」
「今日はいい。ひかりも休め」
「でも」
「明日、手伝ってもらう」
私の言葉を遮るようにそう言ったが、声は乱暴ではなかった。
「明日の朝、俺の家に来てくれ。場所はキースに聞けば分かる」
「分かりました……」
私は頷いた。星型ポーチの中には、空炉の種が入っている。それを持っているのは私なのだから、本当はこのまま一緒に行った方がいいのではないかと思った。けれど、ハルクの顔を見ると、それ以上は言えなかった。今のハルクには、ひとりで確かめたいものがある。そんな気がした。
「ひかり」
「なんですか?」
「今日はありがとう」
あまりにもまっすぐ言うものだから、どう返せばいいのか分からなくなる。
「えっと……はい」
「明日、頼む」
「はい。また明日」
ハルクは頷くと、樹海とは反対の道へ歩き出した。大きな背中が、夕方の光の中へ遠ざかっていく。私はしばらくその背中を見送っていた。
見送っているだけなのに、胸の奥が少しざわつく。その気持ちに名前をつける前に、私は診療所へ向かって歩き出した。
*
診療所の扉を開けると、薬草と古い木の匂いがした。キースは机に向かって何かを書いていたが、私の足音に気づくと、すぐに顔を上げた。
「おかえり。ハルクは?」
「家に戻りました。明日の準備があるって」
その瞬間、キースの羽がわずかに震えた。
「……そう」
短い返事だった。けれど、それが普通の「そう」ではないことくらい、私にも分かった。
キースは羽ペンを置き、眼鏡の奥から私を見る。
「ひかり。少し、話せるかな」
診療所の奥の部屋へ通されると、そこはいつもより少し空気が重かった。壁には乾燥させた薬草が吊るされ、棚には丸い瓶がいくつも並んでいる。粉、葉、種、私には何なのか分からない細い骨のようなものまであった。キースは扉を閉める。それだけで、外の音が遠くなった。
「ひかり」
彼は振り返った。その顔は、医者の顔でも、私を咎める顔でもなかった。
「頼む。ハルクを止めてほしい」
息が止まった。そう言われる気はしていた。それでも、実際に言葉にされると、胸の奥がぎゅっと縮む。
「止めるって……」
「明日の挑戦だ。月へ行くなんて、無茶だ」
「でも、ハルクさんは本気です」
「だから怖いんだ」
キースはすぐに言った。
「本気だからこそ、彼は止まらない。止まれない。自分がどこまで傷ついているかも分からないまま、空へ行こうとする」
私は何も言えなかった。その言葉は、樹海の魔女の言葉に似ていた。願いを長く抱えた者は、自分の痛みに慣れてしまう。痛いのか、苦しいのか、もう分からなくなる。
「ハルクさんは……怪我をしているんですよね」
尋ねると、キースは苦しそうに目を伏せた。
「していた」
「していた?」
「傷は塞がった。骨も、筋も、翼も。医者として診れば、もう問題はない」
そこで一度、言葉が止まる。
「でも、飛ぼうとすると、あいつはあの日に戻る。落ちた日の空から、まだ帰ってこられないんだ」
「ハルクさんは、それを知っているんですか」
「知っているかもしれない。知らないふりをしているのかもしれない。どちらにしても、危うい」
キースの声が低くなる。
「彼は明日、月へ行こうとしている。まだ飛べないと思い込んだまま、飛びたいと願っている。そんな状態で空へ出たら、何が起こるか分からない」
私は星型ポーチに手を当てた。中には、魔女から受け取った小箱がある。空炉の種。マシュマロを燃料に変える、不思議な炉。
「でも、私たちは燃料をもらいました」
「だから言っているんだ」
キースの声が少し強くなった。
「燃料があるから、なおさら止めてほしい。届きそうなものが目の前にあるとき、ハルクはきっと自分の痛みなんて見ない」
「……それは、キースさんも同じじゃないんですか」
キースの瞳が揺れた。自分でも少し驚いた。けれど、口に出してしまった言葉は戻らなかった。
「キースさんも、ハルクさんの願いじゃなくて、ハルクさんが傷つくことばかり見ている気がします」
「それの何が悪いんだ」
声が変わった。いつもの穏やかな医者の声ではなかった。
「傷つかせたくないと思うことの、何が悪い」
「悪いとは言ってません」
「なら、止めるべきだ。君も見ただろう。彼は自分の願いのためなら、どれだけ危ない火でも掴もうとする」
「見ました」
私は答えた。
「だから、止めるんじゃなくて、見なきゃいけないと思いました」
「見なきゃいけない?」
「はい」
私は樹海の庭で出会った小鳥のことを話した。翼を痛めていたこと。飛びたがっていたこと。一度、私が飛ばせようとして失敗したこと。落ちそうになった小鳥を受け止めたこと。飛べるようにすることだけが助けることではないと気づいたこと。
キースは黙って聞いていた。眼鏡の奥の瞳は、いつもよりずっと大きく見えた。
「私は、ハルクさんを無理に飛ばせたいわけじゃありません。でも、飛びたいって言っているハルクさんに、飛んじゃだめって言うのも違う気がするんです」
「死んだらどうする」
キースの声は震えていた。胸が詰まる。
「また落ちたらどうする。今度こそ戻ってこなかったらどうする。君は知らないからそんなことが言えるんだ」
「知らないです」
私は小さく答えた。
「私は、キースさんが何を知っているのか知らない。ハルクが本当は何を怖がっているのかも、全部は知らないです」
「だったら――」
「でも、知らないからこそ、見たいんです」
キースが言葉を止めた。
「ハルクさんが本当に何を見たいのか。何に届きたいのか。何が怖いのか。私は、見ないまま止めたくない」
「……君は」
キースの声が低く沈む。
「君は、ハルクを失っていないからそんなことが言える」
その言葉は、今までのどの言葉よりも重かった。もっと深いところから出てきた言葉だった。
キースはすぐに口を閉じた。言いすぎた、と顔に書いてあった。
「失って……?」
「今のは忘れて」
「でも」
「忘れてくれ」
キースは眼鏡を指先で押し上げた。その仕草で、何かを隠したように見えた。
「ボクは医者だ。怪我人を危険な場所へ行かせるわけにはいかない」
「でも、キースさんはハルクさんの友達でもあります」
私は言った。
「友達だから、止めたいんですよね」
「そうだよ」
キースは即答した。
「友達だから止めたい。あいつがまた落ちるところなんて、見たくない」
最後の声だけ、ひどく幼く聞こえた。
それ以上、強くは言えなかった。キースが本当に怖がっていることが分かったからだ。小鳥を落としそうになった時、私は胸の奥が凍るような気がした。キースはきっと、それをもう経験している。もっと大きな形で。もっと取り返しのつかない形で。
「私も、ハルクさんに死んでほしくないです」
私は言った。
「だから、一緒に行きます」
「ひかり」
「止めるためじゃなくて、見ているために。落ちそうになったら、ちゃんと手を伸ばすために」
「君に何ができる」
キースの言葉は厳しかった。けれど、責めるためのものではなかった。
「分かりません」
私は正直に答えた。
「でも、何もできないかもしれないから、最初から見ないことにはしたくないんです」
キースは黙った。
部屋の中に、薬草の匂いだけが残る。どれくらい沈黙が続いたのか、私には分からなかった。
やがて、キースは深く息を吐いた。
「……ボクは、まだ止めたい」
私は頷いた。
「はい」
「今すぐにでもハルクの家へ行って、明日の準備を全部壊してしまいたいくらいだ」
キースの声が震える。
「でも、そんなことをしたら、あいつはボクを許さないだろうね」
「ハルクさんは怒ると思います」
「だろうね」
キースは力なく笑った。それから、机の上に置かれていた古い地図を広げる。町の外れに、小さな印がついていた。
「ハルクの家はここだ」
「ここ……」
「明日の朝、行くならこの道を通るといい。森沿いの道は避けて。夜明け前は霧が濃い」
私は地図を見つめた。
キースはまだ止めようとしている。けれど同時に、私が行くための道を教えてくれている。それが、キースなりの答えなのだと思った。
「キースさん」
「勘違いしないで」
キースは静かに言った。
「ボクは許したわけじゃない。納得したわけでもない。ただ」
そこで一度、言葉が止まる。
「ただ、ハルクの願いを、ボクだけで閉じ込めることはできないと思った」
私は何も言わず、頷いた。
「ひかり」
「はい」
「ハルクを見ていて」
その声は、ほとんど祈りのようだった。
「もし彼が、自分の痛みを忘れたまま飛ぼうとしたら。もし、また落ちそうになったら。その時は――」
キースは言いかけて、言葉を飲み込んだ。私は静かに続きを待った。けれど、彼は首を横に振る。
「いや。いい」
「いいんですか」
「君に全部背負わせるのは違う。ボクも、明日行く」
「え?」
「止めに行くんじゃない」
キースは眼鏡の奥で、苦しそうに笑った。
「見届けに行くんだ。友達として」




