大鷲はいつまでも夢を見る
翌朝、私は地図を握りしめながら、町の外れへ向かって歩いていた。空はまだ白く、朝の冷たい空気が頬を撫でる。通りの店はほとんど閉まっていて、時々、早起きの動物たちが窓を開ける音だけが聞こえた。星型ポーチの中には、空炉の種が入っている。歩くたびに、その小箱が小さく揺れた。昨日、私はそれを願いの重みだと思った。今日も、その重みは変わらなかった。
キースに教えられた道を進むと、町の外れに一軒の家が見えてきた。家、と呼んでいいのか少し迷う。大きな木の幹をくり抜いたような造りで、屋根には板や金属片がつぎはぎのように打ちつけられている。丸い窓に、やけに大きな入口。大鷲のハルクが出入りするには必要なのだろうが、全体的に少し傾いて見えた。
「ここ……だよね」
戸の前で立ち止まると、中から大きな音がした。がしゃん。ごとん。何かが崩れたような音だ。
「ハルクさん?」
声をかけると、少し間を置いて扉が開いた。出てきたハルクは、羽に油のようなものをつけている。
「来たか」
「来たか、じゃなくて、今すごい音がしましたけど」
「問題ない」
「本当ですか?」
「問題ない。たぶん」
「たぶんって言いましたね」
私が眉を寄せると、ハルクは少しだけ目を逸らした。
「中に入れ」
ハルクの家の中は、思っていたより広かった。ただ、広いからといって片づいているわけではない。床には工具が転がり、紙の束が積まれ、壊れた木箱や金属の輪、用途の分からない管が壁際に寄せられている。天井からは布や紐が垂れ下がり、窓辺には乾きかけの草のようなものが置かれていた。
私はしばらく無言で部屋を見回した。
「……すごいですね」
「何がだ」
「いろいろです」
「作業場だからな」
「作業場って言えば何でも許されるわけじゃないと思いますけど」
ハルクは聞こえなかったふりをした。
「こっちだ」
家の裏手へ出ると、私は思わず足を止めた。そこにあったのは、気球だった。正確には、気球だったもの、と言った方が近いかもしれない。大きな布の球は継ぎはぎだらけで、ところどころ色の違う布が当てられている。籠は古い木材で作られ、片側が少し歪んでいた。金属の枠は錆び、縄は新しいものと古いものが混ざっている。
おんぼろ。
頭に、遠慮のない言葉が浮かんだ。
「……これで?」
「ああ」
「月へ?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
ハルクは真剣だった。だから私は、それ以上笑えなかった。どれだけ古く見えても、どれだけ頼りなく見えても、ハルクにとってこれは月へ向かうための乗り物なのだ。
「昔から直していたんだ」
ハルクは気球を見上げた。
「飛ばしたことはあるんですか?」
「少しだけなら」
「少しだけ?」
「屋根より高いくらいだ」
「それ、月には全然足りないと思いますよ」
「だから力が必要だった」
ハルクは私の星型ポーチを見る。私は慌ててポーチから小箱を取り出した。
「これですね」
「ああ。空炉の種だ」
ハルクは小箱を受け取ると、籠の中に置かれた古い金属箱を示した。
「ここに組み込む」
「私は何をすれば?」
「小箱を開けて、中の石をこの炉の真ん中に置いてくれ」
「ハルクさんは?」
「俺はこっちを押さえる」
ハルクは片翼で気球の枠を支えた。その動きは、ほんの少しだけぎこちない。私は昨日のキースの言葉を思い出す。傷は塞がった。骨も、筋も、翼も。医者として診れば、もう問題はない。でも、飛ぼうとすると、あの日に戻る。
「……痛い、ですか?」
私が尋ねると、ハルクはすぐには答えなかった。
「痛みはない」
「じゃあ」
「うまく動かないだけだ」
そう言った声には、自分でも納得していないような響きがあった。私は何か言いかけて、やめた。ここで、本当は飛べるんでしょう、と言うことはできた。でも、それはキースから聞いたことを、私が勝手に突きつけることになる。それに、言葉だけで飛べるなら、ハルクはもう飛んでいる。
小箱を開ける。透明な石の中に、橙色の光が揺れていた。魔女の庭で灯った火と同じ色。小鳥の胸にあった光と同じ色。
「これを、ここに?」
「ああ。ゆっくり置け」
金属箱の丸いくぼみへ、石をそっと置いた。その瞬間、石の中の光がふくらむ。炉の内側に刻まれた模様が、ひとつ、またひとつと橙色に染まっていく。古びた金属箱が低く唸った。
「わっ」
「離れるな」
「離れるなって言われても、怖いんですよ」
「大丈夫だ。たぶん」
「またたぶんって言いました」
文句を言うと、ハルクはほんの少しだけ笑った。
炉の唸りはやがて落ち着き、金属箱の上に小さな蓋が現れる。そこには、投入口のような丸い穴が開いていた。
「ここに燃料を入れる」
「マシュマロを?」
「ああ」
「本当にマシュマロで飛ぶんだ……」
「樹海の魔女がそう言った」
「言いましたけど」
「なら飛ぶ」
当然のように言われて、私は少しだけ呆れた。魔女の言葉を疑わないところは、ハルクらしいのかもしれない。
それから二人で、気球の準備を続けた。私は縄をほどき、工具を渡し、穴の空いた布に当て布をした。ハルクは翼とくちばしを器用に使いながら、金属の枠を締め直していく。
ただ、ときどき風を使おうとして、失敗した。軽い布を浮かせようとしても、風はほんの少し揺れるだけで止まってしまう。そのたびに、ハルクの表情が硬くなる。
「ハルクさん」
「何でもない」
私が声をかける前に、彼はそう言った。
「でも」
「何でもない」
今度の声は少し強かった。私は口を閉じる。荒れているわけではない。けれど、そこに触れられたくないのだと分かった。
だから私は、代わりに工具箱を持ち上げた。
「じゃあ、次は何をしましょう?」
ハルクは一瞬だけ私を見た。それから、少しだけ力を抜いたように言う。
「その赤い紐を取ってくれ」
「これですか?」
「ああ。それを右の柱に結ぶ」
「分かりました」
私は赤い紐を持って、気球の籠へ乗り込んだ。古い木の床がぎしりと鳴る。その音が、少しだけ怖い。けれど、ハルクは真剣に気球を見つめていた。その横顔を見ていると、不思議と足元の不安が薄くなる。
この気球は、おんぼろだ。
けれど、ハルクがずっと月へ行くために残してきたものなのだ。
私は赤い紐を強く結んだ。
*
昼を過ぎる頃には、私の腕は少しだるくなっていた。気球の炉はどうにか組み込めた。布の穴も大きなものは塞いだ。縄も取り替えた。それでも、おんぼろであることに変わりはない。私は気球を見上げながら、少しだけ不安になった。
「本当に飛びますか?」
「飛ばす」
「飛ぶかどうかを聞いたんですけど」
「飛ばす」
「答えになってません」
ハルクは聞こえないふりをした。
「少し休むぞ」
彼はそう言って、家の中へ戻っていく。私も後を追った。
通されたのは、ハルクの部屋だった。入った瞬間、私は固まった。さっき見た作業場のような居間も十分散らかっていたが、この部屋はさらにひどかった。本の山、紙の山、工具の山、壊れた模型、欠けた歯車、空の瓶、用途不明の管、食べかけらしい包み紙。部屋というより、月へ届かなかったものたちの墓場みたいだった。
「ハルクさん」
「何だ」
「これは……部屋ですか?」
「部屋だ」
「巣ではなく?」
「部屋だ」
それ以上追及するのをやめた。足元に床が見えない場所を部屋と呼ぶには、少しばかり勇気が要る。
「片づけますね」
「必要ない」
「必要あります」
「俺は場所を把握している」
「じゃあ、この紙の下に何があるか分かります?」
足元の紙の束を指差すと、ハルクは黙った。
「……たぶん、床だ」
「片づけます」
私は紙の束を持ち上げた。ハルクは不満そうだったが、止めはしなかった。
本をまとめ、工具を端へ寄せ、紙をなるべく種類ごとに重ねる。紙には、気球の設計図らしきものや、月までの距離を計算したような数字が書かれていた。けれど、ほとんどは私には読めない。線は多すぎるし、文字はところどころ雑で、書いた本人にしか分からないように見えた。
「これ、全部ハルクさんが書いたんですか?」
「ああ」
「すごいです」
「そうでもない」
「すごいですよ」
素直に言うと、ハルクは少しだけ黙った。
「……そうか」
「はい」
それ以上、彼は何も言わなかった。褒められることに慣れていないのか、それとも受け取り方が分からないのか。
私はまた片づけに戻る。棚の下に落ちていた布を引っ張ると、その奥から小さな金属のものが転がり出た。
「ん?」
拾い上げる。ロケットの形をしたフィギュアだった。細長い胴体に、小さな翼のような突起がついている。古びてはいるが、作りは細かい。台座も金属でできていて、そこに何か文字が刻まれていた。けれど表面は削れ、ほとんど読めない。
「ハルクさん、これ」
私が差し出すと、ハルクは目を細めた。
「ああ。それか」
「何ですか、これ」
「昔からある」
「誰かにもらったんですか?」
「知らない」
「知らない?」
私は台座をもう一度見た。文字は確かにある。けれど傷だらけで、読めるところはほとんどない。
「何か書いてあるみたいです」
「読めないだろう」
「はい。削れてますね」
「俺も知らない」
ハルクはそう言って、ロケットのフィギュアを受け取った。その扱い方は雑ではなかった。けれど、大切にしているというより、どう扱えばいいのか分からないものを持っているようだった。
「気づいた時には、そばにあった」
「そばに?」
「ああ。この世界で目を覚ました時には、俺はこの姿だった。親も、家族も、誰も知らない。だが、これはあった」
私は黙った。この世界の動物たちが何者なのか、私はまだよく知らない。ここでの生まれ方も、持ち物の意味も、何も知らない。
「キースさんも?」
「似たようなものだ。あいつも、自分の親は知らないと言っていた」
「そう……ですか」
私はロケットを見つめた。
削れて読めない台座。知らない誰かからの贈り物かもしれないもの。ハルクが、この世界で目覚めた時から持っていたもの。そこには、何かが残っている気がした。けれど今の私には、何も読めない。
「ハルクさんは、気にならないんですか?」
「何が」
「これを誰がくれたのかとか、何て書いてあるのかとか」
「昔は気にした」
「今は?」
「読めないものは読めない」
ハルクはそう言って、フィギュアを棚の上へ戻した。
「それに、俺には月がある」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ静かになった。
ハルクはいつも月を見る。読めない文字よりも、分からない過去よりも、届かない空の先にある月を。
それが強さなのか、逃げなのか、私には分からなかった。
「ひかり」
「はい?」
「それはそっちじゃない」
「え?」
私が持っていた紙の束を、ハルクが指した。
「その紙は大事な方だ」
「じゃあ、この床に散らばってた包み紙は?」
「それは捨てていい」
「よかった」
包み紙を集めながら、少しだけ笑った。
部屋はまだ汚い。けれど、ほんの少しだけ床が見えた。
窓から差し込む光は、昼のものとも昨日の夕方のものとも違っていた。
月は、もう空を覆いつくしてしまう寸前だった。




