↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/82

あの高さはどれほどでしょう

 夜が近づく頃、気球の準備はようやく整った。庭に出ると、空にあるはずの薄紫色はどこにもなかった。いつまでも昼間のような明るさが続いている。それは、空に浮かぶ巨大な月が、とうとう空を食い尽くしてしまったからなのだろう。

 気球は相変わらずおんぼろだった。それでも、朝に見た時よりはずっとましに見える。継ぎ当てられた布はしっかり張られ、縄は締まり、籠の中央には空炉が収まっていた。閉じられた投入口の下で、橙色の光がかすかに呼吸している。

「これで、飛べるんですか?」

「飛ばす」

「またそれですか」

「飛ぶ」

 ハルクは言い直した。私は少しだけ笑う。

 その時、遠くから足音が聞こえた。振り返ると、町の方からいくつもの影が近づいてくる。先頭にいたのはキースだった。その後ろには、診療所で見かけた動物たちや、町で会った者たちが続いている。袋を抱えた者、縄を持った者、ランタンを掲げた者。それぞれが何かを持ち寄り、こちらへ歩いてきていた。

 ハルクの表情が険しくなる。

「……何のつもりだ」

 低い声だった。横を見ると、ハルクの翼がわずかに広がっている。

「止めに来たのか」

 キースは足を止めた。町の動物たちも、少し距離を置いて立ち止まる。私は息を呑んだ。昨日、キースは見届けに行くと言った。けれど、ハルクにはそれが伝わっていない。

「違うよ」

 キースは静かに言った。

「止めに来たんじゃない」

「なら何だ」

「手伝いに来た」

 ハルクは眉を寄せた。

「手伝い?」

「そう」

 キースが合図すると、後ろにいた動物たちがそれぞれ持っていたものを掲げた。マシュマロの袋、補強用の縄、予備の布、ランタン、水筒、工具。物はばらばらなのに、それらは全部、気球を空へ行かせるためのものだった。

 誰かが気まずそうに笑う。

「月まで行くなら、腹も減るだろうと思ってな」

「これ、うちの店で一番ふわふわのマシュマロ」

「布は余りだけど、丈夫だよ」

「縄も持ってきた。古いのは切れると危ないから」

 ハルクはしばらく黙っていた。怒っているようにも、困っているようにも見える。やがて、彼はキースを見た。

「お前が言い出したのか」

「半分はね」

 キースは答えた。

「半分は、みんなが勝手に」

「……止めるんじゃなかったのか」

「今でも止めたいよ」

 キースは正直に言った。

「今でも、君には行ってほしくない。月なんか諦めて、ここでおとなしく療養していてほしい」

 ハルクの目が鋭くなる。けれど、キースは逃げなかった。

「でも、君は行くんだろう」

「ああ」

「なら、ボクはせめて、落ちる理由をひとつでも減らす」

 キースは持っていた小さな鞄を開けた。中には包帯や薬瓶、針や糸が入っている。

「医者としては反対だ。友達としても反対だ。でも、友達だから、手伝う」

 ハルクは何も言わなかった。町の者たちも黙っている。月に照らされた気球の布だけが、小さく揺れていた。

「キース」

 ハルクが呼んだ。

「何」

「俺は、たぶん止まれない」

「知ってる」

「また落ちるかもしれない」

「知ってる」

「それでも、俺は行く」

「知ってるよ」

 キースの声が少しだけ崩れた。

「そんなこと、ずっと前から知ってる」

 その言葉に、胸の奥がざわついた。ずっと前。それは、この世界でのことなのだろうか。それとも、もっと前のことなのだろうか。けれど、今それを尋ねる空気ではなかった。

 ハルクはキースを見つめたまま、静かに言う。

「なら、見ていろ」

「うん」

「俺が月へ行くところを」

「うん」

「落ちるところじゃない」

 キースは一瞬だけ目を伏せた。それから顔を上げる。

「見ているよ」

 その返事を聞いて、ハルクはようやく翼を畳んだ。

「……手伝いなら、まずその袋をこっちへ」

 キースは小さく笑う。

「了解」

 そこからは、町のみんなが一斉に動き出した。マシュマロの袋が気球のそばに積まれていく。私はその量に目を丸くした。

「こんなに入れるんですか?」

「月まで行くんだ。多いに越したことはない」

「重くなりません?」

「空炉が燃料に変える」

「便利だけど、ちょっと不安ですね」

「不安がっている暇はないぞ」

 ハルクはそう言って、空炉の蓋を開けた。投入口の奥で、橙色の光が揺れている。町の誰かが、最初のマシュマロをひとつ落とした。すると、マシュマロは穴の中でふわりと溶け、白い煙ではなく淡い金色の光になった。

「わぁ……」

 思わず声が漏れる。次々と投げ込まれるマシュマロは、空炉の中でやわらかな光へ変わっていく。おんぼろだった気球が内側から照らされ、少しずつ夢の乗り物のように見えてきた。

「ひかり」

 ハルクが呼んだ。

「乗れ」

「はい」

 私は籠に足をかけた。木の床がぎしりと鳴る。やっぱり少し怖い。けれど、昨日の小鳥を思い出した。

 怖くない場所にいられるといいね。

 自分で言った言葉なのに、今は自分に返ってくる。深く息を吸い、籠の中へ入った。

 ハルクも続いて乗り込む。大きな体が入ると、籠が少し沈んだ。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だ」

「本当に?」

「たぶん」

「もう」

 眉を寄せると、ハルクはほんの少しだけ笑った。

 キースが籠の外から見上げている。

「ハルク」

「何だ」

「無茶はするな」

「月へ行こうとしている時点で無茶だろう」

「そういうことを言っているんじゃない」

「分かっている」

 ハルクは静かに答えた。そして、少しだけ間を置く。

「キース」

「何」

「俺は、戻る」

 キースの瞳が揺れた。

「……約束だよ」

「ああ」

「絶対だよ」

「ああ」

 私は二人を見ていた。交わされているのは、短い言葉だけだ。けれど、その奥には、私の知らない時間が沈んでいるようだった。

 キースが私の方を見る。

「ひかり」

「はい」

「お願い」

 それ以上は言わなかった。けれど、分かった。ハルクをよろしく。そう言われた気がした。

「はい」

 私は頷いた。

 キースはそれ以上何も言わず、気球をつないでいた最後の縄に手をかけた。町のみんなも、それぞれ縄を持つ。

 ハルクが空炉の前に立った。

「点火する」

 投入口に、最後のマシュマロが落とされた。それは他のものより少し大きく、真っ白で、月の欠片のようだった。空炉の中で光が膨らむ。夕焼けの橙、夜明けの金、月の白が混ざり合い、気球全体がふわりと震えた。

 ハルクが翼を広げる。

 ほんのわずかに、風が起きた。

 それは強い風ではなかった。けれど、確かにハルクの翼から生まれた風だった。私はそれに気づいて、ハルクを見上げる。ハルクは気づいているのかいないのか、ただ前を見ていた。

「離せ!」

 キースが叫ぶ。

 町のみんなが一斉に縄を放した。

 気球が浮いた。

 最初はゆっくりと。それから、思っていたよりずっと速く。地面が離れていく。町のみんなの顔が下へ遠ざかる。キースが見上げている。マリィの瞳のような橙色の火が、空炉の中で揺れている。

「飛んでる……」

 私は籠の縁を掴みながら呟いた。

「ああ」

 ハルクは月を見上げていた。

「飛んでいる」

 その声は、とても静かだった。けれど、その静けさの奥に、震えるような喜びがあるのが分かった。


 *


 気球はあっという間に町を離れた。屋根が小さくなり、道が糸のようになり、森が黒い絨毯のように広がっていく。風は冷たかった。私はパーカーの前をぎゅっと掴み、籠の中で身を縮める。

「寒いか」

 ハルクが尋ねた。

「少し」

「これを使え」

 ハルクは籠の隅に置いてあった布を、こちらへ押した。

「ありがとうございます」

 肩にかけると、布は古いけれど思っていたより温かかった。

 空炉は静かに燃えている。マシュマロを燃やしているはずなのに、焦げた匂いはしない。むしろ、ほんのり甘い香りが漂っていた。

「なんか、空が甘い匂いします」

「マシュマロだからな」

「月へ行く匂いがマシュマロなの、ちょっと変ですね」

「魔女とマシュマロは近しいらしい」

「それ、結局どういう意味だったんでしょう」

「知らん」

 ハルクは真面目な顔で答えた。少しだけ笑う。笑うと、寒さがほんの少し和らいだ。

 気球はさらに高く昇っていく。やがて、雲が下に見えた。息を呑む。雲の上は、思っていたより静かだった。風の音も、町の音もない。ただ、空炉の低い唸りと、気球の布が揺れる音だけが聞こえる。

 月はもう、かなり近くに見えた。丸く、白く、どこか甘そうで、けれどまだ遠い。

 ハルクはずっと月を見ている。私はその横顔をそっと見た。嬉しそうなのに、苦しそうでもある。怖いのかもしれない。けれど、怖いと言わないだけなのかもしれない。

「ハルクさん」

「何だ」

「怖く、ありませんか?」

 ハルクは少しだけ黙った。

「怖くないと言えば、嘘になる」

 驚いた。そんなふうに正直に言うとは思わなかった。

「でも、行きたい」

「はい」

「怖いから行かない、という選択はもうできない」

 ハルクは月を見上げたまま言う。

「俺は、ずっとあれを見ていた」

 私も月を見る。眩しくて、眩しくて。ハルクが焦がれ続けたもの。手を伸ばしても届かなかったもの。

「届くといいですね」

 私が言うと、ハルクは静かに頷いた。

「ああ」

 その時だった。

 月の表面が、かすかに動いた。

「え?」

 目をこする。見間違いではなかった。白く丸い月の表面に、黒い点がいくつも現れている。点は少しずつ大きくなり、やがて筒のような形になった。

 砲台。

 なぜか、その言葉が頭に浮かぶ。

「ハルクさん、あれ」

「見えている」

 ハルクの声が低くなる。

 月から、複数の砲台が突き出していた。まるで月そのものが、近づく者を拒んでいるようだった。

 次の瞬間、砲台の先が光る。

 ぱん、ぱん、ぱん。

 乾いた音が空に弾けた。

 放たれたのは、砲弾というにはあまりにも可愛らしいものだった。金平糖のように尖った弾が、祭りの飴玉みたいな色を散らしながら、こちらへ向かってくる。

「きれい……じゃない!」

 叫んだ直後、最初の弾が気球の布をかすめた。びり、と嫌な音がする。布に穴が開いた。気球が大きく揺れる。

「掴まれ!」

 ハルクが叫んだ。私は籠の縁にしがみつく。

 二発目が籠の側面に当たった。木の板が弾け、床の一部が抜ける。

「きゃっ!」

 足元が崩れた。

 ハルクが翼を伸ばす。けれど、風はうまく起きなかった。ほんの少し空気が揺れただけで、気球の傾きは止まらない。

 その時、ハルクの翼の付け根に、細い黒い糸のようなものが絡んでいる気がした。

 羽でも、影でもない。

 それはどこか遠くから伸びてきて、ハルクが空を見上げるたび、ほんの少しだけ下へ引いているように見えた。

 瞬きをすると、もう何もなかった。

 けれど私は、その黒いものが消えたあとも、胸の奥に嫌な冷たさだけが残っているのを感じていた。

「くそっ……!」

 ハルクの声が荒れる。

 さらに金平糖の弾が降ってくる。布が裂ける。縄が切れる。空炉が激しく揺れ、投入口から金色の火花がこぼれた。

「ハルクさん、どうしましょう!」

「炉を守れ! 火が消えたら落ちる!」

「でも床が!」

「俺が押さえる!」

 ハルクは片翼で籠の柱を押さえ、もう片方の翼で裂けた布をかばおうとした。けれど、体が思うように動いていない。

 キースの言葉が頭に蘇る。

 傷は塞がっている。でも、飛ぼうとすると、あの日に戻る。

 ハルクは飛べる。本当は、風を操れる。けれど今は、月の砲台が撃つ弾と、壊れていく気球と、落ちるかもしれない恐怖が、ハルクの翼を縛っている。

 さっき見えた黒い糸のことが、どうしても頭から離れなかった。

 あれは本当に、見間違いだったのだろうか。

「何か……何かないの?」

 私は星型ポーチに手を突っ込んだ。必要なもの。今、必要なもの。穴を塞ぐ布。切れた縄。気球を直す道具。落ちないための何か。

 指先が、紙のようなものに触れた。

「これ……?」

 掴んで引き抜く。手の中にあったのは、一枚のきっぷだった。

 古びた色をした、小さなきっぷ。見覚えがある。あの駅で受け取ったもの。行き先の読めない、夢の列車のきっぷ。

「なんで今、きっぷ……?」

 呟いた瞬間、空が鳴った。

 汽笛だった。

 長く、遠く、けれどすぐそばで響くような音。

 ハルクが顔を上げる。私も振り向いた。月と気球の間を、黒い影が横切った。

 最初に見えたのは、古い蒸気機関車だった。黒い車体。月明かりを受けて鈍く光るヘッドマーク。その後ろには、緑の線が入った通勤電車のような車両が続き、さらに黒い布に包まれた奇妙な車両が揺れている。

 ありえない。

 けれど、私は知っている。

 あの列車だ。

 夢の駅から、私をここへ連れてきた列車。

 空飛ぶ列車が、月の前を横断していた。

 きっぷが、手の中で熱を持つ。その瞬間、分かった気がした。列車は、私たちを救いに来たのではない。少なくとも、ただ助けに来たのではない。

 もっと奥へ。

 ハルクさんの、月へ届かなかった場所へ。

「ハルクさん!」

 私は叫んだ。

 けれど、気球はもう大きく傾いている。金平糖の弾がまた布を裂いた。籠の床が割れ、私の体が宙へ投げ出されかける。

「ひかり!」

 ハルクが叫んだ。今まで聞いたどの声よりも、切羽詰まった声だった。

 私はきっぷを握りしめる。列車の窓が、目の前を流れていく。黒い蒸気、月明かり、砕ける床、甘いマシュマロの匂い、ハルクの翼。すべてが一度に混ざり合った。

 汽笛がもう一度鳴る。

 私の視界が、白く弾けた。

 ハルクの声が聞こえた気がした。

 けれど、その言葉の意味を掴む前に、意識は途切れた。切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。