あの高さはどれほどでしょう
夜が近づく頃、気球の準備はようやく整った。庭に出ると、空にあるはずの薄紫色はどこにもなかった。いつまでも昼間のような明るさが続いている。それは、空に浮かぶ巨大な月が、とうとう空を食い尽くしてしまったからなのだろう。
気球は相変わらずおんぼろだった。それでも、朝に見た時よりはずっとましに見える。継ぎ当てられた布はしっかり張られ、縄は締まり、籠の中央には空炉が収まっていた。閉じられた投入口の下で、橙色の光がかすかに呼吸している。
「これで、飛べるんですか?」
「飛ばす」
「またそれですか」
「飛ぶ」
ハルクは言い直した。私は少しだけ笑う。
その時、遠くから足音が聞こえた。振り返ると、町の方からいくつもの影が近づいてくる。先頭にいたのはキースだった。その後ろには、診療所で見かけた動物たちや、町で会った者たちが続いている。袋を抱えた者、縄を持った者、ランタンを掲げた者。それぞれが何かを持ち寄り、こちらへ歩いてきていた。
ハルクの表情が険しくなる。
「……何のつもりだ」
低い声だった。横を見ると、ハルクの翼がわずかに広がっている。
「止めに来たのか」
キースは足を止めた。町の動物たちも、少し距離を置いて立ち止まる。私は息を呑んだ。昨日、キースは見届けに行くと言った。けれど、ハルクにはそれが伝わっていない。
「違うよ」
キースは静かに言った。
「止めに来たんじゃない」
「なら何だ」
「手伝いに来た」
ハルクは眉を寄せた。
「手伝い?」
「そう」
キースが合図すると、後ろにいた動物たちがそれぞれ持っていたものを掲げた。マシュマロの袋、補強用の縄、予備の布、ランタン、水筒、工具。物はばらばらなのに、それらは全部、気球を空へ行かせるためのものだった。
誰かが気まずそうに笑う。
「月まで行くなら、腹も減るだろうと思ってな」
「これ、うちの店で一番ふわふわのマシュマロ」
「布は余りだけど、丈夫だよ」
「縄も持ってきた。古いのは切れると危ないから」
ハルクはしばらく黙っていた。怒っているようにも、困っているようにも見える。やがて、彼はキースを見た。
「お前が言い出したのか」
「半分はね」
キースは答えた。
「半分は、みんなが勝手に」
「……止めるんじゃなかったのか」
「今でも止めたいよ」
キースは正直に言った。
「今でも、君には行ってほしくない。月なんか諦めて、ここでおとなしく療養していてほしい」
ハルクの目が鋭くなる。けれど、キースは逃げなかった。
「でも、君は行くんだろう」
「ああ」
「なら、ボクはせめて、落ちる理由をひとつでも減らす」
キースは持っていた小さな鞄を開けた。中には包帯や薬瓶、針や糸が入っている。
「医者としては反対だ。友達としても反対だ。でも、友達だから、手伝う」
ハルクは何も言わなかった。町の者たちも黙っている。月に照らされた気球の布だけが、小さく揺れていた。
「キース」
ハルクが呼んだ。
「何」
「俺は、たぶん止まれない」
「知ってる」
「また落ちるかもしれない」
「知ってる」
「それでも、俺は行く」
「知ってるよ」
キースの声が少しだけ崩れた。
「そんなこと、ずっと前から知ってる」
その言葉に、胸の奥がざわついた。ずっと前。それは、この世界でのことなのだろうか。それとも、もっと前のことなのだろうか。けれど、今それを尋ねる空気ではなかった。
ハルクはキースを見つめたまま、静かに言う。
「なら、見ていろ」
「うん」
「俺が月へ行くところを」
「うん」
「落ちるところじゃない」
キースは一瞬だけ目を伏せた。それから顔を上げる。
「見ているよ」
その返事を聞いて、ハルクはようやく翼を畳んだ。
「……手伝いなら、まずその袋をこっちへ」
キースは小さく笑う。
「了解」
そこからは、町のみんなが一斉に動き出した。マシュマロの袋が気球のそばに積まれていく。私はその量に目を丸くした。
「こんなに入れるんですか?」
「月まで行くんだ。多いに越したことはない」
「重くなりません?」
「空炉が燃料に変える」
「便利だけど、ちょっと不安ですね」
「不安がっている暇はないぞ」
ハルクはそう言って、空炉の蓋を開けた。投入口の奥で、橙色の光が揺れている。町の誰かが、最初のマシュマロをひとつ落とした。すると、マシュマロは穴の中でふわりと溶け、白い煙ではなく淡い金色の光になった。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。次々と投げ込まれるマシュマロは、空炉の中でやわらかな光へ変わっていく。おんぼろだった気球が内側から照らされ、少しずつ夢の乗り物のように見えてきた。
「ひかり」
ハルクが呼んだ。
「乗れ」
「はい」
私は籠に足をかけた。木の床がぎしりと鳴る。やっぱり少し怖い。けれど、昨日の小鳥を思い出した。
怖くない場所にいられるといいね。
自分で言った言葉なのに、今は自分に返ってくる。深く息を吸い、籠の中へ入った。
ハルクも続いて乗り込む。大きな体が入ると、籠が少し沈んだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「たぶん」
「もう」
眉を寄せると、ハルクはほんの少しだけ笑った。
キースが籠の外から見上げている。
「ハルク」
「何だ」
「無茶はするな」
「月へ行こうとしている時点で無茶だろう」
「そういうことを言っているんじゃない」
「分かっている」
ハルクは静かに答えた。そして、少しだけ間を置く。
「キース」
「何」
「俺は、戻る」
キースの瞳が揺れた。
「……約束だよ」
「ああ」
「絶対だよ」
「ああ」
私は二人を見ていた。交わされているのは、短い言葉だけだ。けれど、その奥には、私の知らない時間が沈んでいるようだった。
キースが私の方を見る。
「ひかり」
「はい」
「お願い」
それ以上は言わなかった。けれど、分かった。ハルクをよろしく。そう言われた気がした。
「はい」
私は頷いた。
キースはそれ以上何も言わず、気球をつないでいた最後の縄に手をかけた。町のみんなも、それぞれ縄を持つ。
ハルクが空炉の前に立った。
「点火する」
投入口に、最後のマシュマロが落とされた。それは他のものより少し大きく、真っ白で、月の欠片のようだった。空炉の中で光が膨らむ。夕焼けの橙、夜明けの金、月の白が混ざり合い、気球全体がふわりと震えた。
ハルクが翼を広げる。
ほんのわずかに、風が起きた。
それは強い風ではなかった。けれど、確かにハルクの翼から生まれた風だった。私はそれに気づいて、ハルクを見上げる。ハルクは気づいているのかいないのか、ただ前を見ていた。
「離せ!」
キースが叫ぶ。
町のみんなが一斉に縄を放した。
気球が浮いた。
最初はゆっくりと。それから、思っていたよりずっと速く。地面が離れていく。町のみんなの顔が下へ遠ざかる。キースが見上げている。マリィの瞳のような橙色の火が、空炉の中で揺れている。
「飛んでる……」
私は籠の縁を掴みながら呟いた。
「ああ」
ハルクは月を見上げていた。
「飛んでいる」
その声は、とても静かだった。けれど、その静けさの奥に、震えるような喜びがあるのが分かった。
*
気球はあっという間に町を離れた。屋根が小さくなり、道が糸のようになり、森が黒い絨毯のように広がっていく。風は冷たかった。私はパーカーの前をぎゅっと掴み、籠の中で身を縮める。
「寒いか」
ハルクが尋ねた。
「少し」
「これを使え」
ハルクは籠の隅に置いてあった布を、こちらへ押した。
「ありがとうございます」
肩にかけると、布は古いけれど思っていたより温かかった。
空炉は静かに燃えている。マシュマロを燃やしているはずなのに、焦げた匂いはしない。むしろ、ほんのり甘い香りが漂っていた。
「なんか、空が甘い匂いします」
「マシュマロだからな」
「月へ行く匂いがマシュマロなの、ちょっと変ですね」
「魔女とマシュマロは近しいらしい」
「それ、結局どういう意味だったんでしょう」
「知らん」
ハルクは真面目な顔で答えた。少しだけ笑う。笑うと、寒さがほんの少し和らいだ。
気球はさらに高く昇っていく。やがて、雲が下に見えた。息を呑む。雲の上は、思っていたより静かだった。風の音も、町の音もない。ただ、空炉の低い唸りと、気球の布が揺れる音だけが聞こえる。
月はもう、かなり近くに見えた。丸く、白く、どこか甘そうで、けれどまだ遠い。
ハルクはずっと月を見ている。私はその横顔をそっと見た。嬉しそうなのに、苦しそうでもある。怖いのかもしれない。けれど、怖いと言わないだけなのかもしれない。
「ハルクさん」
「何だ」
「怖く、ありませんか?」
ハルクは少しだけ黙った。
「怖くないと言えば、嘘になる」
驚いた。そんなふうに正直に言うとは思わなかった。
「でも、行きたい」
「はい」
「怖いから行かない、という選択はもうできない」
ハルクは月を見上げたまま言う。
「俺は、ずっとあれを見ていた」
私も月を見る。眩しくて、眩しくて。ハルクが焦がれ続けたもの。手を伸ばしても届かなかったもの。
「届くといいですね」
私が言うと、ハルクは静かに頷いた。
「ああ」
その時だった。
月の表面が、かすかに動いた。
「え?」
目をこする。見間違いではなかった。白く丸い月の表面に、黒い点がいくつも現れている。点は少しずつ大きくなり、やがて筒のような形になった。
砲台。
なぜか、その言葉が頭に浮かぶ。
「ハルクさん、あれ」
「見えている」
ハルクの声が低くなる。
月から、複数の砲台が突き出していた。まるで月そのものが、近づく者を拒んでいるようだった。
次の瞬間、砲台の先が光る。
ぱん、ぱん、ぱん。
乾いた音が空に弾けた。
放たれたのは、砲弾というにはあまりにも可愛らしいものだった。金平糖のように尖った弾が、祭りの飴玉みたいな色を散らしながら、こちらへ向かってくる。
「きれい……じゃない!」
叫んだ直後、最初の弾が気球の布をかすめた。びり、と嫌な音がする。布に穴が開いた。気球が大きく揺れる。
「掴まれ!」
ハルクが叫んだ。私は籠の縁にしがみつく。
二発目が籠の側面に当たった。木の板が弾け、床の一部が抜ける。
「きゃっ!」
足元が崩れた。
ハルクが翼を伸ばす。けれど、風はうまく起きなかった。ほんの少し空気が揺れただけで、気球の傾きは止まらない。
その時、ハルクの翼の付け根に、細い黒い糸のようなものが絡んでいる気がした。
羽でも、影でもない。
それはどこか遠くから伸びてきて、ハルクが空を見上げるたび、ほんの少しだけ下へ引いているように見えた。
瞬きをすると、もう何もなかった。
けれど私は、その黒いものが消えたあとも、胸の奥に嫌な冷たさだけが残っているのを感じていた。
「くそっ……!」
ハルクの声が荒れる。
さらに金平糖の弾が降ってくる。布が裂ける。縄が切れる。空炉が激しく揺れ、投入口から金色の火花がこぼれた。
「ハルクさん、どうしましょう!」
「炉を守れ! 火が消えたら落ちる!」
「でも床が!」
「俺が押さえる!」
ハルクは片翼で籠の柱を押さえ、もう片方の翼で裂けた布をかばおうとした。けれど、体が思うように動いていない。
キースの言葉が頭に蘇る。
傷は塞がっている。でも、飛ぼうとすると、あの日に戻る。
ハルクは飛べる。本当は、風を操れる。けれど今は、月の砲台が撃つ弾と、壊れていく気球と、落ちるかもしれない恐怖が、ハルクの翼を縛っている。
さっき見えた黒い糸のことが、どうしても頭から離れなかった。
あれは本当に、見間違いだったのだろうか。
「何か……何かないの?」
私は星型ポーチに手を突っ込んだ。必要なもの。今、必要なもの。穴を塞ぐ布。切れた縄。気球を直す道具。落ちないための何か。
指先が、紙のようなものに触れた。
「これ……?」
掴んで引き抜く。手の中にあったのは、一枚のきっぷだった。
古びた色をした、小さなきっぷ。見覚えがある。あの駅で受け取ったもの。行き先の読めない、夢の列車のきっぷ。
「なんで今、きっぷ……?」
呟いた瞬間、空が鳴った。
汽笛だった。
長く、遠く、けれどすぐそばで響くような音。
ハルクが顔を上げる。私も振り向いた。月と気球の間を、黒い影が横切った。
最初に見えたのは、古い蒸気機関車だった。黒い車体。月明かりを受けて鈍く光るヘッドマーク。その後ろには、緑の線が入った通勤電車のような車両が続き、さらに黒い布に包まれた奇妙な車両が揺れている。
ありえない。
けれど、私は知っている。
あの列車だ。
夢の駅から、私をここへ連れてきた列車。
空飛ぶ列車が、月の前を横断していた。
きっぷが、手の中で熱を持つ。その瞬間、分かった気がした。列車は、私たちを救いに来たのではない。少なくとも、ただ助けに来たのではない。
もっと奥へ。
ハルクさんの、月へ届かなかった場所へ。
「ハルクさん!」
私は叫んだ。
けれど、気球はもう大きく傾いている。金平糖の弾がまた布を裂いた。籠の床が割れ、私の体が宙へ投げ出されかける。
「ひかり!」
ハルクが叫んだ。今まで聞いたどの声よりも、切羽詰まった声だった。
私はきっぷを握りしめる。列車の窓が、目の前を流れていく。黒い蒸気、月明かり、砕ける床、甘いマシュマロの匂い、ハルクの翼。すべてが一度に混ざり合った。
汽笛がもう一度鳴る。
私の視界が、白く弾けた。
ハルクの声が聞こえた気がした。
けれど、その言葉の意味を掴む前に、意識は途切れた。切れた。




