ギリシャの若者は落ちた
私は、遂に月まであと一歩のところまで来ていた。
セレーネ宇宙開発機構に、乗組員として採用されることになったのだ。父とは違う国の所属である。それでも父の名は、そこでも十分すぎるほど知られていた。不本意ながら、私の上司は父の友人でもあった。だから、父の影響がまったくなかったとは言えないだろう。自分の力だけでここまで来た、などと綺麗なことを言い切れるほど、私は子供ではなかった。
だが、それでも私は月へ行きたかった。
父の名前を背負わされようが、父の背中と比べられようが、月の前ではそんなものはすべて些細なことだった。
ある日、別の上司がこちらの派閥へ加わるようにと私を説き伏せに来た。正直言って、かなり目障りだった。派閥など、どうでもよかった。もとより私には、どこかの派閥に属している自覚すらなかった。だが、彼の目にはそう見えていなかったらしい。
この頃の私は、今と変わらず、身体だけ大きくなった子供のようなものだった。断る時の態度も相当不遜だったのだろう。私の拒絶に、その上司は「後悔するぞ」と言った。
後悔。
そんなもの、月の前では言葉にもならなかった。くだらない派閥争いで、自分の軌道を変えられてたまるか。そう思っていた。
そんな日々が続いた頃、同じタイミングで医療班として採用された大学からの友人――キースが、呆れた顔で私に言った。
「ミスター・コープ、叫び散らかしてたよ。何を言ったら、あんなに怒らせられるのさ」
「知らん」
少しばかり、その薄くなった頭髪を気遣ってやっただけだ。それを口にすれば、キースはさらに呆れるだろう。だから、あえて言わなかった。
「それより、気をつけた方がいい」
キースは表情を変え、声を落とした。
「今度の野外訓練、コープの息がかかってる。しかも、ボクらの上司の出張にタイミングを重ねてきた。何があってもおかしくない」
「馬鹿馬鹿しい」
私はそう跳ねのけた。キースは私の肩を掴む。
「冗談じゃないんだぞ。どんな工作があるか分かったもんじゃない。ここは大人しく、腹でも下したってことにして回避するべきだ。今時、危険を感じてもそのまま突っ込むのは、お前かスピード狂の車乗りくらいだよ」
私はキースの手を振りほどいた。
「それで月を諦めるくらいなら、突っ込んだ方がましだ」
立ち去る私に、キースはそれ以上何も言わなかった。今さら、私の月狂いに呆れることでもないだろうに。そう思っていた。
*
バケツどころか、この世のすべてをひっくり返したような豪雨だった。
宇宙空間は過酷なものだ。この程度で訓練を中止するわけにはいかない。そういう名目で、別派閥から押しつけられた野外訓練は強行された。
足場の少ない、岩肌の露出した道を進む。雨は視界を塗り潰し、足元を奪い、声さえまともに届かなくしていた。
私の後ろにはキースがいた。無理やり捻じ込んで参加したらしい。
いつだって、そうだ。
止めるなら、離れていればいい。それなのに、彼は私の近くに来る。
「おい! これ以上は無理だ。戻ろう!」
キースが叫んだ。そのさらに後ろにいた男が、首を横に振る。どうやら、完全に外堀は埋められていたらしい。
「進め」
雨よりも冷たいものが、キースの背中に押しつけられたのが見えた。
その瞬間、胸の中が泥でぐしゃぐしゃになった。自分ひとりなら、無茶をしてでも進めただろうという愚かさ。ここまでついてきてくれた友人への感謝。そして、後ろの男への怒り。それらが混ざり合い、足元の泥よりもずっと重く沈んでいく。
せめてキースだけは離脱させる。そう思って、後ろの男へ向き直ろうとした時だった。
爆発音のようなものが、あたりに響き渡った。
「土砂崩れだ!」
キースの声に、私は頭上を見上げる。雨で霞んだ視界の向こうで、黒い岩肌が動いていた。
最初は目の錯覚かと思った。豪雨の中では、何もかもが輪郭を失う。岩も木も、人の顔も、水に塗り潰されて同じものに見える。だから、崖の一部が揺れたように見えたところで、それが本当に崩落の兆しなのか、すぐには判断できなかった。
だが、次の瞬間には理解した。
崖が動いている。
岩肌に張りついていた土が剥がれ、濁った水を抱え込みながら、こちらへ向かって落ちてくる。それは、ただの土砂ではなかった。岩と泥と木の根と、山そのものの怒りを丸ごと混ぜ合わせた塊だった。
私たちの立っていた道は、道とは名ばかりの細い岩場である。晴れていればまだしも、この雨では足場の一つひとつが罠に等しい。靴底は泥を噛まず、岩の表面は油でも塗られたように滑る。そこへ頭上から土砂が迫ってくる。
避ける場所など、最初からなかった。
「走れ!」
誰かが叫んだ。私だったのか、キースだったのか、それとも後ろにいた男だったのかは分からない。ただ、その声が意味を持つより早く、地面が大きく揺れた。
岩が砕ける音。木が裂ける音。水が叩きつけられる音。それらが混ざり合い、耳の奥で白く弾ける。
私は咄嗟にキースの方を振り返った。
彼は、私の少し後ろにいた。雨に濡れた髪が額に張りつき、眼鏡の向こうの目は大きく見開かれている。いつもの呆れ顔ではなかった。皮肉を言う余裕も、私を馬鹿にするためのため息も、そこにはなかった。
ただ、必死だった。
その顔を見た瞬間、私はようやく自分の失敗を理解した。
私一人なら、どうなってもよかった。月へ近づくために必要な危険なら、それを危険と呼ぶことすら馬鹿馬鹿しいと思っていた。足場が悪かろうが、雨が降ろうが、誰かの悪意が絡んでいようが、前へ進めばいい。そう思っていた。
だが、今ここにはキースがいる。
私が軽んじた危険の中に、キースまで立っている。
無理やり捻じ込んで参加したのは彼自身だろう。止めても来ただろう。そういう男だ。それでも、彼がここにいる理由は私だった。
私が馬鹿だから。
私が月しか見ていなかったから。
私が、自分の足元にあるものをあまりにも粗末に扱っていたから。
「キース!」
私は手を伸ばした。キースもこちらへ手を伸ばしていた。指先が触れる。掴む。その一瞬だけ、間に合ったと思った。
だが、救いというものは、いつも人の都合のいい形では現れない。
私がキースの腕を掴んだ直後、足元の岩が崩れた。踏みしめていたはずの地面が、音もなく消える。体が傾く。靴底が泥に滑る。掴んでいた岩の角は、雨でぬめり、指から簡単に逃げた。
落ちる。
その言葉だけが、妙に冷静に頭の中へ浮かんだ。
私は落ちるのだ。
月へ向かう前に。空へ昇る前に。泥と雨と、くだらない派閥争いの底へ。
だが、その次に浮かんだのは月ではなかった。
キースだった。
キースだけは。
その思いだけで、腕に力を込めた。けれど、それは救いではなく、最悪の選択だったのかもしれない。私の体重と崩れた地面の勢いが、キースの体まで引きずった。
「馬鹿野郎!」
キースが叫んだ。
ボクではなかった。
俺だった。
「手を離せ!」
「嫌だ」
「離せって言ってるだろ!」
「嫌だ」
短く答えることしかできなかった。
本当は分かっていた。ここで私が手を離せば、少なくともキースだけは助かる可能性がある。彼は私より身軽で、足場もまだ完全には崩れていない。私という重りさえなければ、どこかに掴まれるかもしれない。
分かっていた。
分かっていて、それでも手を離せなかった。
人間というものは、どうしてこうも浅ましいのだろう。月へ行くなどと大層な夢を掲げながら、最後の最後には友人の手ひとつ離せない。それが優しさなのか、弱さなのか、執着なのか、私には分からなかった。
ただ、その手だけは離せなかった。
キースの顔が雨の向こうで歪んでいる。怒っていた。怯えてもいた。そして、そのどちらよりも強く、私を生かそうとしていた。
「お前はいつもそうだ!」
キースが叫んだ。声は雨に叩き潰されながらも、どうにか私の耳へ届いた。
「月、月、月って! 少しは自分の足元を見ろ!」
「今説教か」
「今だからだよ!」
キースの声は、泣いているようにも聞こえた。いや、泣いていたのかもしれない。豪雨の中では涙など見えるはずもない。それでも、声だけは誤魔化せない。
「俺は、お前に死んでほしくないんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の何かが止まった。
土砂の音も、雨の音も、崩れる地面の感触も、ほんの一瞬だけ遠くなる。
死んでほしくない。
その言葉は、月よりずっと近くにあった。近すぎて、私はずっと見ないふりをしていた。
私は月を見ていた。父が辿り着いた場所を、自分も見たいと思っていた。父とは違う国に属してでも、父の影を背負わされても、どんな派閥の手が伸びてこようと、月の前ではすべてが塵のように思えた。
だから、見落としていた。
私が月を見るたび、私を見ていた者がいることを。私が危険へ進むたび、止めようとしていた者がいることを。私が笑って跳ねのけた忠告の向こうに、どれだけの恐怖があったのかを。
「キース」
「何だよ!」
「すまない」
「謝るくらいなら上がれ!」
キースは私の腕を両手で掴み、必死に引き上げようとした。だが、彼の足場も崩れかけている。片足は泥に沈み、もう片方は辛うじて岩のくぼみに引っかかっているだけだった。少しでも力の向きが変われば、そのまま私と一緒に落ちる。
いや、もう落ちている途中なのかもしれない。
現実が、あまりにも遅く感じられた。崩れた土砂が流れる速度も、雨粒が落ちる速度も、キースの表情が変わる速度も、すべてが引き伸ばされて見える。
おかしなものだ。
月へ行くための訓練で、私は何度も極限状態について学んだ。呼吸の仕方、姿勢の取り方、判断を誤らないための手順。過酷な環境下で人間がどのように壊れていくのか。何を優先すべきか。
だが、実際に死が目の前に来ると、そんな知識はひどく頼りなかった。
頭に浮かぶのは手順ではない。くだらない後悔ばかりだった。
キースの忠告を笑い飛ばしたこと。父の名を利用されるたび、利用しているのは私自身ではないと言い訳していたこと。そして、キースの表情を見ていなかったこと。
もっと早く見ていれば。
そう思っても、すべてが遅かった。
そのとき、頭上からひときわ大きな岩が落ちてきた。キースが私を見た。私もキースを見た。
言葉はなかった。
だが、分かった。
もう間に合わない。
キースは私の腕を引くのをやめた。代わりに、私の体を抱えるようにして崖の側面へ押しつけた。
「少しでも、こっちへ」
「キース、やめろ」
「黙れ」
彼の声は震えていた。それでも、手は離さなかった。
「俺は医療班だ。最後まで助ける側にいる」
「そんな理屈があるか」
「あるんだよ、俺には」
キースはいつもそうだった。理屈で私を責めるくせに、最後は理屈では動かない。危険だと言いながらついてきた。無茶だと分かっていながら、この訓練に参加した。腹を下したことにして逃げろと言っていた本人が、逃げられない場所まで来てしまった。
結局、彼もまた馬鹿だった。
私とは違う種類の馬鹿だ。
私が月に狂っているのなら、キースはきっと、助けることに狂っていた。
土砂が襲ってきた。
視界が茶色に染まる。息ができない。体が押し潰される。水と泥と岩が、一度に全身へ叩きつけられた。
どこを打ったのかも分からない。骨が軋む音がした気もするし、何も聞こえなかった気もする。ただ、キースの腕が私の肩に回っている感覚だけは、なぜか分かった。
彼はまだ、私を守ろうとしていた。
馬鹿な友人だ。
どうしようもなく、馬鹿な友人だ。
私は月へ行きたかった。父の見た月を、自分の目で見たかった。誰にも邪魔されず、自分の足でそこへ立ちたかった。派閥も、上司も、国も、くだらないしがらみも、すべて置き去りにして。
ただ、月へ。
それだけだった。
それだけのはずだった。
なのに今、私の目の前にあるのは月ではない。
泥に濡れたキースの顔だった。
それが、ひどく悔しかった。月へ届かなかったことではない。キースをこんな場所へ連れてきてしまったことが。私の月狂いの果てに、彼の命まで巻き込んでしまったことが。どうしようもなく、悔しかった。
「ハルク」
キースが私を呼んだ。その声はもう、雨よりも弱かった。
「生きろ」
「無茶を言うな」
「お前がいつも言ってることだろ」
キースは笑った。こんな時に。こんな場所で。血と泥と雨にまみれながら、それでも笑った。
「月まで行くんだろ」
私は何かを言おうとした。だが、喉に泥と雨が絡み、言葉にならない。
キースの腕から力が抜けていく。
それが分かった瞬間、私は初めて本当の意味で恐怖した。
土砂に潰されることではない。自分の命が終わることでもない。キースがいなくなる。その事実だけが、他のすべてを押しのけて胸を抉った。
「キース」
返事はない。
「キース」
もう一度呼んだ。
彼の眼鏡は割れていた。片方のレンズが砕け、雨に濡れた顔に貼りついている。あれほどよく動いていた口も、今は少し開いたまま動かない。
私は腕を動かそうとした。
動かなかった。
体のどこが痛いのかも分からない。痛みが多すぎて、痛みという形を失っていた。人は本当にどうしようもなくなると、悲鳴すら出ないのだと、その時知った。
それでも、空だけは見えた。土砂に削られた崖の隙間から、わずかに空が覗いている。
雨雲に覆われた、暗い空。
そこに月はなかった。
あるはずがなかった。
昼なのか夜なのかも分からないほど、空は分厚い雲に覆われていた。ただ、雲の向こうにきっと月がある。そう思った。そう思うしかなかった。私に残っていたものは、それくらいだった。
「……見えないな」
私は笑ったつもりだった。
声になったかは分からない。
月は見えない。
あと一歩だった。本当に、あと一歩だった。宇宙開発機構に入り、訓練に耐え、父の影にも、派閥の濁った手にも、くだらない脅しにも背を向けて。あと少しで、月へ届くはずだった。
なのに、私は泥の中にいる。
キースを巻き込んで。
友人を巻き込んで。
月が見えないことより、そのことの方が苦しかった。
もしも神というものがいるのなら、ずいぶんと悪趣味な脚本を書くものだと思った。父が先に月へ行き、私はその背を追い、あと一歩のところで地面へ叩き落とされる。それだけならまだ笑えた。私一人の滑稽な失敗として、どこかの誰かが語ればいい。
だが、そこにキースまで巻き込む必要がどこにあった。
彼は月など見ていなかった。
彼が見ていたのは、ずっと私だった。
そのことに、死ぬ間際になって気づくなど、あまりにも遅すぎる。
「すまない」
今度は誰に向けた謝罪なのか分からなかった。キースに。父に。それとも、月を見上げることしかできなかった私自身に。
雨が弱くなった気がした。いや、耳が音を拾えなくなっただけかもしれない。
キースの手が、まだ私の袖を掴んでいた。私は動かない指を、少しだけ彼の手へ寄せた。届いたのかどうかは分からない。ただ、そこに友人がいることだけは分かった。
それだけで、ひどく安らいでしまった。
馬鹿げている。
そんな感情、持っていいはずがないのに。
遠くで、誰かの叫び声が聞こえた気がした。救助の声か。ただの雨音か。分からない。
視界の端が暗くなっていく。
私は雲の切れ間を探した。
月を探した。
けれど、やはり見えなかった。
最後まで、見えなかった。
その代わりに、キースの声が聞こえた気がした。
馬鹿だな、お前は。
そう言っている気がした。
私は返事をしようとした。いつものように、知らん、と。
けれど唇は動かなかった。
ただ、声にならない声で呟いた。
翼があったら、よかったのにな。
俺は、本当に馬鹿だった。




