翼をください
私――縁紫ひかりは、真っ白な空間にひとり取り残されていた。
私以外の色を忘れたような、どこまでも白い世界だった。涙がとめどなく溢れていた。喉は震え、嗚咽が勝手に漏れていく。
私は、ハルクの心に触れたのだ。
彼の痛みを知った。彼の願いを知った。キースの痛みも、願いも知った。
膝を折り、頽れた稲穂のように蹲る。彼らの人生は、どこまでも続く絶望の繰り返しだった。月へ届かなかったハルク。彼を救えなかったキース。そのすべてが、今も二人の中で終わらない雨として降り続いている。
それでも、最後かもしれないチャンスが訪れた。
なのに、今また、それを失おうとしている。
私の涙は、悲しみだけのものではなかった。彼らの心に触れてしまったことへの痛み。希望が途絶えようとしていることへの悔しさ。その二つが胸の中で混ざり合い、うまく息ができなかった。
「泣いているのか」
その声に、私は振り向いた。
ハルクがそこにいた。
「だって……だって」
それ以上、言葉にならなかった。
ハルクは息を漏らすように笑った。
「気にするな。もう俺にとっては百年どころじゃない。昔の話だ」
ハルクは、すべて思い出したのだ。一度、死んだことも。キースと共にいたことも。月へ届かなかったことも。何もかも。
彼は私の隣に腰を下ろした。
「痛いのか?」
私は首を横に振る。
「俺のために、心を痛めてくれているんだな」
ハルクはそう言うと、しばらく黙った。それから、わざとらしいくらいに大きく伸びをする。
「あーあ。今回も駄目だったな。こればっかりはもう、どうしようもない」
軽く言っている。けれど、その声が決して明るくないことを、私は分かっていた。
「……どうしようもなくありません」
「いや、もう終わりさ。気球は壊れた。空炉もどうなったか分からない。すまなかったな。巻き込んでしまった」
「そんなこと」
唇が震えた。
「そんなこと、言われたくない」
私は駄々をこねる子供のように、彼の視線から目を逸らした。それでも、ハルクがこちらを見ていることは分かった。
「お前でもそういう時があるんだな。いつもみたいに笑ってくれなきゃ、調子が出ねえな」
そう呟いたハルクは、視線を白い頭上へ移した。天井などないのに、そこには何も見えない。
私は代わりに、ハルクの横顔を見た。
彼の姿を見て安心したい。でも、目が合うのは怖い。そんな自分の臆病さを、今さら隠せる気がしなかった。
「キースにも、謝らなきゃな。いや、もう謝れないか」
キース。
その名前で、私ははっとした。
彼が言っていた。
ハルクは、もう。
体の傷は、もう。
次にハルクがこちらを向いた時、私はもう目を逸らさなかった。
「ひかり……?」
「飛びましょう」
泣き腫らした顔を見られたくなかった。それでも、私は彼を見た。
「無理だ。気球はもう壊れちまった」
「あなたには、翼がある」
ハルクは目を伏せた。
「それだって無理だ。俺はもう飛べない」
「飛べます、ハルクさん。あなたなら。だって――」
あなたの怪我はもう治っている。
そう言おうとして、私は踏み止まった。
違う。
それは私が言うべき言葉ではない。
その言葉では、きっと彼の心は動かない。事実を突きつければ飛べるなら、ハルクはとっくに飛んでいる。
必要なのは、正しさではない。
彼の心に火を灯す言葉だ。
彼が忘れていたものへ、手を伸ばせる言葉だ。
今、私が言うべき言葉は何なのだろう。
「ひかり……?」
私は立ち上がった。ハルクの姿がちゃんと見える場所まで歩く。
彼の翼を見る。
彼の目を見る。
彼の希望は、まだそこにある。
「ねえ、ハルクさん」
私は息を吸った。
「月は、あなたの月は、見えていますか?」
ハルクの瞳が揺れた。
その時、ひび割れるような音が鳴った。真っ白な世界に亀裂が走る。白は砕け、光は弾け、世界は終わりを告げた。
私たちは、空へ投げ出された。
落ちながら、風を受ける。身体がどこまでも広がっていくような感覚の中で、私はハルクを探した。
外は月の光を受け、どこまでも綺麗だった。
「ハルク!」
そして、見つけた。
ハルクは、私を見ていた。
月を背にした私の姿を、ずっと見ていた。
落ちているのに。
砕けた気球の破片が空に散っているのに。
彼は月ではなく、私を見ていた。
「ああ、見える」
そう言っていたように、私には見えた。
「見えているよ、ひかり。とても綺麗だ」
刹那、ハルクの姿が消えた。
次の瞬間、私の身体は彼の背に受け止められていた。
「しっかり捕まっていろ!」
言われた通り、私はハルクの背にしがみつく。
風が私を襲うことはない。
彼の心は、風を取り戻したのだ。
ハルクの翼が大きく開かれる。その瞬間、落下していたはずの私たちの体は、空の底を蹴ったように跳ね上がった。
その瞬間、どこかで何かがぷつりと切れる音がした気がした。
見ると、さっき見えていた黒い糸のようなものが、月の光の中でほどけて消えていく。
それが何だったのか、私には分からない。
けれど、次に吹いた風は、もうハルクを下へ引いてはいなかった。
何かに掴まれたわけではない。何かに押し上げられたわけでもない。ただ、風がそこにあった。
見えないはずの風が、今の私には見える気がした。ハルクの翼の下で渦を巻き、背中を支え、月へ向かう一本の道となって伸びていく。
私は羽にしがみついた。羽は思っていたより硬く、けれど奥には確かな温かさがあった。
怖くないと言えば嘘になる。気球の床はもうない。マシュマロの甘い匂いも、空炉の橙色の灯も、壊れた籠も、すべて遠く下へ落ちていった。
今、私を支えているのはハルクだけだった。
けれど、不思議と不安はなかった。落ちるかもしれない。また届かないかもしれない。それでも私は今、ハルクの背にいる。彼が飛ぶと決めたその場所に、一緒にいる。
それだけで、胸の奥に小さな火が灯っていた。
「ハルク!」
「何だ!」
「飛んでる!」
「見れば分かる!」
返ってきた声は少し荒かった。けれど、その荒さの中に、抑えきれない笑いが混じっていた。
ハルクは飛んでいた。
あれほど動かなかった翼で。
あれほど失っていた風で。
月を目指して、まっすぐに。
眼下では、壊れた気球が小さくなっていく。裂けた布は夜空に漂う花びらのように散り、籠の破片はゆっくり落ちていった。
どれも月へは届かない。
けれど、今のハルクにはもう必要なかった。
気球も、炉も、マシュマロの火も。それらは、彼をここまで運んでくれた。でも、最後の一歩を飛ぶのは、ハルク自身だった。
月が迫る。
外から見える月は、白く、美しく、ひどく冷たい。
その表面から突き出した砲台が、再びこちらへ向いた。黒い穴がいくつも開き、その奥に色とりどりの光が灯る。
金平糖のような弾が、また空へ放たれた。
綺麗で、可愛らしくて、それなのに恐ろしい。まるで誰かを傷つけるためではなく、誰も近づけないために作られた飾りのようだった。
「来るぞ!」
ハルクが叫ぶ。
私はさらに強く羽を掴んだ。
金平糖の弾が迫る。
ハルクは翼を傾けた。
風が曲がる。
私たちの体が横へ流れ、最初の弾をかわす。すぐ隣を通り過ぎた弾は、星の欠片のように輝いていた。けれど、その尖った角が空を裂く音は、甘い菓子とはほど遠い。
二発目。
三発目。
次々に弾が迫る。
ハルクは風を読んでいた。いや、読んでいるというより、風そのものに戻っていくようだった。翼を一度打つたび、空気が道を作る。体をひねるたび、月の光が羽の端を滑る。
大きな体が、信じられないほど軽く動いた。
私はただしがみつくことしかできない。
でも、それでいいのだと思った。
私はハルクの代わりに飛ぶことはできない。風を操ることも、月への道を切り開くこともできない。
でも、飛んでいるハルクを見ていることはできる。落ちそうになったら、名前を呼ぶことはできる。彼が自分の月を見失いそうになった時、そこに月があると伝えることはできる。
「ハルク、右!」
「分かっている!」
右から迫った弾を、ハルクは翼の先で起こした風で弾いた。弾は軌道を変え、遠くでぱちんと弾ける。砕けた光は砂糖粒のように散り、夜空へ消えた。
ハルクが息を吐く。
その背中から、わずかな震えが伝わった。
恐怖ではない。
痛みでもない。
歓喜に近いものだった。
長い間忘れていたものを思い出した者の震え。失くしたと思っていた声が、まだ自分の喉に残っていたと知った時のような震え。
ハルクは飛んでいる。
彼自身が、そのことを誰よりも信じ始めていた。
けれど、月はまだ私たちを拒んでいた。
砲台の数が増えていく。最初は数本だったものが、月の表面に次々と現れた。白い月に黒い穴が咲く。
花ではない。
それでも私には、なぜか花のように見えた。
近づいてくる者を遠ざけるために咲いた、硬く尖った花。
ハルクの心の外側。
誰にも触れられたくない場所。
そこに近づくほど、攻撃は激しくなる。
「このまま正面からは厳しい」
ハルクが言った。
「どうするの?」
「裏へ回る」
「裏?」
「月の裏側だ」
月の裏側。
その言葉を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。
ハルクがずっと憧れていた月。外から見える白い月。砲台を突き出し、金平糖のような弾を放つ月。
でも、その裏側には何があるのだろう。外からは見えないもの。誰にも見せないもの。ハルク自身も、まだ見たことがないもの。
「行ける?」
私が尋ねると、ハルクは少しだけ笑った。
「行く」
その返事は、さっきまでの「飛ばす」に似ていた。でも、今は違う。無茶を言っているのではない。自分を騙しているのでもない。行くと決めた者の声だった。
ハルクは翼を大きく打った。私たちの体は月の正面から外れ、弧を描くように横へ流れる。砲台が追ってくる。月の表面を滑るように、黒い筒がこちらへ向きを変えた。
弾が放たれる。
光が走る。
ハルクはそれらをかわしながら、さらに月の縁へ向かう。
月は近かった。近すぎて、もう空に浮かぶ丸いものではなかった。巨大な白い壁だった。冷たい光をまとった、大きな大きな壁。
その縁へ近づくにつれ、風が変わる。下から吹き上げる風でも、横から叩きつける風でもない。月そのものが呼吸しているような、柔らかくも重い空気。
ハルクの翼が、その風を受け止める。
私は息をするのも忘れていた。
月の縁を越える。
その一瞬、世界から音が消えた。
砲台の音も、弾ける金平糖の音も、風の唸りも、何も聞こえない。ただ、白い光だけが視界を満たす。
私はハルクの羽に顔を伏せた。
眩しい。
怖い。
けれど、目を閉じたくなかった。
ここまで来たのだ。
ハルクが、ここまで飛んできたのだ。
だから、見届けなければならない。
白い光が薄れていく。
私たちは、月の裏側へ出た。
そこにあったものを見て、私は言葉を失った。
月の裏側は、硬い岩でも、冷たい砂漠でもなかった。まして、砲台だらけの白い壁でもなかった。
そこは、柔らかな金色の大地だった。
まんまるく膨らんだ丘がいくつも続き、その表面はふわりと焼き色を帯びている。ところどころに小さな気泡のような穴があり、そこから甘い香りが立ちのぼっていた。
月の外側にあった砲台も、金平糖の弾も、ここからは見えない。
あれほど私たちを拒んでいた白い光の裏側に、こんなにも柔らかな場所が隠れていたのだ。
「ハルク……」
声が震える。
「月が」
ハルクは何も言わなかった。
ただ、ゆっくり高度を下げていく。
彼の翼はもう震えていなかった。風は穏やかで、まるで最初からハルクを迎えるためにそこにあったようだった。
ハルクは、月の裏側へ降り立った。
足が金色の地面に触れる。沈み込むかと思ったが、月の表面は優しく弾んだ。ふわり、と小さな甘い匂いが舞い上がる。
私もハルクの背から降りた。
足元はやはりふんわりとしている。靴の裏に返ってくるのは、硬い地面の感触ではない。押せば沈み、離せば戻るような、不思議な柔らかさだった。
遅れて、香りを知った。
どこか香ばしく、懐かしく、甘い匂い。
初めて嗅いだはずなのに、ずっと前から知っていたような気がする。
「結局、ここって月なんですか?」
私は何度も足元を見下ろしながら尋ねた。
月というには、あまりにも温かい。月というには、あまりにも美味しそうだった。
ハルクは少しだけ笑った。
「そうさ。月の裏側さ」
「でも、なんかこう……イメージと違っていて。美味しそうな……この世界だから、なのかな?」
違和感を拭いきれず、私は何度も地表を踏みしめる。踏むたびに、月は小さく沈み、また戻った。そのたびに、ふわりと甘い香りが立ち上る。
ハルクは遠くを見るように目を細めた。
「親父が言っていた」
「お父さん?」
「ああ。宇宙飛行士だった父が、昔、俺に言ったんだ。月の裏側は鈴カステラのような色だって」
鈴カステラ。
その言葉を聞いた途端、足元の金色が急に名前を持ったように見えた。
「そんなわけないって、俺は否定した。月が菓子みたいな色をしているわけがないってな」
ハルクは月の地表を見下ろした。
その横顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「でも、父はこう返してきた」
ハルクの声が少しだけ遠くなる。それは今ここにいる大鷲の声でありながら、もっと昔の、まだ月を見上げるしかなかった少年の記憶を運んでくる声だった。
「自分の瞳で見ていないものは、本当にその形をしているか、その色をしているかなんて、判りはしない。知りたいなら、自分の瞳で確かめてみるんだな」
風が静かに吹いた。月の裏側の風は、地上のものより甘かった。マシュマロの匂いにも、鈴カステラの匂いにも似ていた。
「そう言った父の顔も、百年以上忘れていた」
ハルクはそっぽを向いた。
「ようやく、思い出せた」
私は、ハルクの顔を見ることができなかった。彼が見せまいとしているものを、無理に覗き込んではいけない気がした。
「忘れちゃ、いけなかったのにな」
その声は、月の風に紛れてしまいそうなほど小さかった。
私は何も言わなかった。何を言っても、きっと足りない。忘れていたことを責める言葉も、思い出せてよかったと言う言葉も、今のハルクには軽すぎる気がした。
だから、ただ隣に立った。
小鳥の巣のそばに座った時のように。飛べない今を否定しないために。そして、飛べた今を、ちゃんと一緒に見るために。
「ひかり」
ハルクが私を呼んだ。
「はい」
「さっき、ひかりが言ってくれた言葉」
「私が?」
「月は、あなたの月は、見えていますか」
息を止めた。
真っ白な世界で、私は確かにそう言った。けれどそれは、私が必死に探した言葉だった。ハルクの心に火を灯すために、どんな言葉なら届くのか分からないまま、それでも口にした言葉だった。
「あの言葉は、父が言ってくれた言葉と同じだった」
ハルクは月の空を見上げた。そこには、青く小さな地球のようなものが浮かんでいる。遠くて、届かなくて、それでも確かにそこにあるもの。
ハルクの声が、また少しだけ遠くなる。
「なぁ遥久、月は見えているか?」
それは、父の声をなぞるような言い方だった。
私の知らない名が、月の風に揺れた。
遥久。
それが、かつてのハルクの名なのだと、私はすぐに分かった。
「なんだよ急に」
今度は、幼いハルク自身の声を真似るように、彼は少しだけぶっきらぼうに言った。
「いいから」
「見えてるけど」
「いいか、お前の見ているその姿は、誰と共有しようとも、お前の瞳で、心で捉えているものだ。誰でもないお前自身の心で見つめたものは、すべて真実だ。お前の月の形だけは、忘れるなよ」
ハルクはそこで言葉を切った。
月の裏側に、静かな風が吹く。
私はようやく、ハルクが何を思い出しているのか少しだけ分かった気がした。
父の背中。
父の言葉。
鈴カステラのような月。
そして、そのすべてを忘れたまま、ただ月へ届きたいという願いだけを抱えてきた長い時間。
「つまり、さ」
ハルクは私を見た。
「どの世界であっても、月がどんなものかなんて、見ている者の認識次第なわけさ」
彼の瞳には、月の金色が映っていた。白く冷たい正面の月ではない。砲台を隠し、金平糖の弾を撃つ月でもない。この裏側の、柔らかく甘い月の色だった。
「俺の瞳には、鈴カステラに見える」
ハルクは言った。
「ひかりはどうだ?」
「私には――」
私は足元を見た。
柔らかな金色の大地。ふわりと香る、懐かしく甘い匂い。外側では、私たちを拒んでいた砲台。近づけば撃ち落とそうとする金平糖の弾。それなのに、裏側へ回れば、こんなにも柔らかい。こんなにも温かい。
正解なんてないのだろう。
誰かが見た月と、私が見た月は違う。父が見た月と、ハルクが見た月も、きっと同じではない。
それでも、この月の答えを、私は知っていた。
「不安定で、攻撃的。でも、甘くて、ふんわりとした優しさがどこかできらきらしている。そんな心のような場所に見えました」
言葉にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。まるで、月ではない何かのことを言っているみたいだったからだ。
ハルクはしばらく黙っていた。
それから、低く笑う。
「そんな場所は、嫌じゃないか?」
私はハルクを見た。
彼は、いつものように不敵な顔をしていなかった。自分の中の柔らかい場所を見られてしまった者のように、少しだけ居心地悪そうにしている。
だから私は、ゆっくり首を横に振った。
「嫌じゃありません」
それは慰めではなかった。綺麗ごとでもなかった。外側がどれほど尖っていても。近づく者を拒もうとしても。その奥に、これほど柔らかな場所があることを、私はもう知っている。
「そうか」
ハルクは小さく息を吐いた。
そして、月の大地を見下ろす。
「それが、ひかりの月だ。忘れるな」
「私の月……」
「ああ。この月は、ひかりがこの町を去ろうとも、形を変えない。たとえ見えなくなっても、ここにあったことは消えない」
ハルクは少しだけ言葉を探すように黙った。
それから、静かに続ける。
「闇の中を照らす、きみのひかりだ」
胸の奥に、何かが落ちてきた。
それは重いものではなかった。硝子瓶の中に灯った庭の火のように、小さくて、柔らかくて、けれど消えないものだった。
「ありがとう、ハルクさん」
私は言った。
「私のひかり、絶対に忘れません」
ハルクは少しだけ目を細めた。その表情は、大きな笑顔ではなかった。何かを勝ち取った者の笑みでも、すべてを忘れた者の笑みでもなかった。
ただ、長い間握りしめていたものを、ようやく少しだけ緩めたような顔だった。
私は空を見上げる。月の裏側から見える空は、不思議なほど澄んでいた。遠くに、青く小さな星が浮かんでいる。
そこに彼の前世があったのかもしれない。父がいたのかもしれない。キースと笑い合った時間があったのかもしれない。そして、土砂に飲まれたあの日も。
失われたものは戻らない。
死んだ人は帰ってこない。
届かなかった時間を、なかったことにはできない。
でも、それでも。
届くものはある。
終わったと思った願いが、もう一度風を受けることはある。落ちた翼が、もう一度空を掴むことはある。
私はそのことを、今、ハルクの隣で見ていた。
「キースにも、見せたかったな」
ハルクが言った。
胸の奥がきゅっと痛くなる。けれど、今度は泣き崩れなかった。
「見てるかもしれません」
「そうか?」
「はい」
私は空を見上げたまま言った。
「だって、キースさんはずっとハルクさんを見てたんでしょ」
ハルクは何も言わなかった。
ただ、ゆっくり目を閉じた。
その沈黙は、否定ではなかった。
遠くで、風が鳴る。
まるで誰かが、呆れたようにため息をついたみたいだった。
――馬鹿だな、お前は。
そんな声が聞こえた気がして、私は少しだけ笑った。
ハルクも、同じものを聞いたのかもしれない。目を閉じたまま、ほんの少し口元を緩めた。
それは、人の声に聞こえたのは私だけで。
もしかしたらハルクには、鈴の音が聞こえていたのかもしれない。
月の大地は、私たちの足元で柔らかく弾んでいた。外側の砲台も、金平糖の弾も、もうここからは見えない。
ここにあるのは、甘い匂いと、静かな風と、長い長い時間の果てにようやく届いた小さな足跡だけだった。
ハルクは月へ来た。
そして私も、その隣に立っていた。




