青の彼方へ
「ハッハー!! どうだ!! 見たか親父!! 俺は、俺はやったぞ!!」
さっきまで静かに余韻へ浸っていたハルクは、どこかへ消えていた。
今、目の前にいるのは、父への対抗心を燃やし、無邪気に月を目指していた頃のハルクだった。人間だった頃の心が、ようやく羽の隙間から飛び出してきたみたいだった。
月の向こうにある宇宙へ向けて、たぶん父親へ向けて、ハルクはべっと舌を出している。
それがあまりにも子供みたいで、あまりにも晴れ晴れとしていて、私は笑いをこらえ切れなくなった。
甘い香りのする地面に転がるようにして笑うと、ハルクも一緒に笑ってくれた。
月の裏側に、二人分の笑い声が弾む。
それは鈴の音に似ているようで、けれどもっと不格好で、もっと温かい音だった。
やがてハルクは笑いながら、見下ろす形で私を見る。
「ひかりは、やっぱり笑っていた方がいい」
不意にそんなことを言われて、私は急に恥ずかしくなった。
咳払いをして立ち上がり、姿勢を正す。
ハルクは何でもないことのように言ったのだろう。けれど、その表情が今までと少し違って見えた。さっきまでの大鷲でも、初めて会った頃の不遜な男でもない。
ずっと昔に死んで、それでもようやく自分の月へ辿り着いた、大人の顔だった。
記憶を取り戻した影響なのだろうか。私には分からない。
頭を抱えて悩んでいる私をよそに、ハルクは楽しそうだった。
「さて――そろそろ帰ろう。このままじゃ、キースが心労で倒れちまう」
「もう、いいんですか?」
私は思わず訊いた。
ずっと目指していた月だ。百年どころではない時間、彼の心を縛ってきた場所だ。
そんなにすぐ帰ると言えてしまうものなのだろうか。
ハルクは足元の金色の大地を見下ろし、それから自分の胸を軽く叩いた。
「いいさ。俺の月は、ここにだってある」
その言い方が、とても穏やかだった。
届いたから終わりなのではない。
持ち帰れたから、帰れるのだ。
そんなふうに見えた。
長すぎるほど長かった旅が、ようやく終わろうとしている。
私はそう思った。
ハルクの背に乗って、私たちは飛び立った。
月の裏側へ、またね、とは言わなかった。
見上げれば、どこでも私たちを見守ってくれている。そんな気がしたからだ。
月の縁を越え、表側へ戻る。
あれほど私たちを拒んでいた月は、もう静かだった。
砲台もない。金平糖の弾もない。
当たり前の顔をした月が、そこにあった。
ゆっくりと降下していくハルクの身体は、まだどこか余韻に浸っているようだった。翼が風を掴むたび、私の体も一緒に浮き上がる。さっきまでは必死でしがみついていたはずなのに、今はほんの少しだけ、空を信じられる気がした。
月の光が、少しずつ弱くなっていく。
「月が、昇っていっている」
私は呟いた。
祭りの夜が終わったのだ。
世界へ降りてきていた月が、その身を再び宇宙へ打ち上げていく。闇夜を優しく照らす月へ戻っていく。
そして、月とは反対の方角から光が差し込んできた。
陽の光だ。
世界に朝が訪れる。
光の方角を見つめると、遠くできらきらと輝く大きなものが見えた。
広い、広い樹海の先。
そのさらに向こう。
「ハルク!」
「なんだ!?」
「もしかして、あれって……海?」
そう。
私たちの目の前に広がっていたのは、海だった。
日の光を受けてきらめくそれは、この世界で初めて見た月とも、星空とも違う美しさだった。光が波の上で砕けて、また集まって、どこまでも続いている。
空の青と、海の青。
二つの青が、遠くで溶け合っていた。
「私、海って初めて見た!」
「そうか。じゃあ、しっかり目に焼き付けておけ!」
ハルクは風の中で笑った。
「これが、ひかりが初めて見た海だ」
本当に初めてだと思う。
私の記憶の中の私は、海を見たことがない。
この世界にいる私が、ハルクたちのようにすべての記憶を持っていない可能性だってある。
でも、今はそれでもいいと思った。
覚えていないことがある。
分からないことがある。
兄のことも、ポーチのことも、列車のことも、私はまだ何も知らない。
それでも今、私の目には海が見えている。
月も見た。
空も飛んだ。
落ちそうになった誰かの背中に、しがみついた。
誰かの願いが、もう一度風を掴む瞬間を見た。
それでいい。
だって。
私は胸いっぱいに笑った。
だって、こんなにも素晴らしい世界が、私には見えているのだから。




