お前の月はいつでも空に
「ひかり! ハルク!」
地上を踏みしめた私たちに向かって、キースが駆け寄ってきた。
彼は勢いのまま、大きな翼で私たち二人を抱き締めた。
「気球が落ちたのに、二人はいなくて、羽の一枚すら見つからなかった。何が起こったのかと思ったよ」
安堵の声が、キースの喉から漏れる。
抱き締められたまま、ハルクは微笑んだ。
「お前にはいつも心配をかける。あの時も、あの時も――人だったあの時も」
キースの体が、わずかに強張った。
ハルクはそのまま、私ごとキースを抱き締め返した。
どんな表情をしているのか。
見たくないし、見せたくもない。
そんな想いが、二人の間にあったのだと思う。
「――すまなかった」
今までのすべてが詰まった言葉だった。
前世の記憶を、キース一人に背負わせていたこと。
彼の優しさを無碍にしていたこと。
命を、そしてかけがえのないただ一人の親友を、再び失わせてしまうところだったこと。
言葉にできる罪はいくつもある。
けれど、言葉にした途端、どれも足りなくなってしまう。
だからハルクは、ただ一言だけを選んだのだろう。
すまなかった。
その一言が水面に落ちた石のように、静かに波紋を広げていく。
キースはしばらく何も言わなかった。
喉の奥で何度も息が引っかかっている。
ようやく絞り出した声は、ひどく震えていた。
「とんでもない、とんでもない月バカだよ、お前は」
「ああ」
「本当に、本当に馬鹿だ」
「ああ……すまなかった」
キースの肩が震えた。
満たされすぎた心の水槽から、何かが溢れてくる。
それは涙になり、言葉にならない嗚咽になった。
「よかった――本当によかった」
その声を聞いて、私の胸にも熱いものが込み上げた。
私も一緒になって、一筋の涙を頬に伝わせる。
空を見上げると、月は天高く昇っていた。
あれほど近く、硝子色に世界を満たしていた月は、いつもの距離へ戻っている。
けれど、もう遠いだけのものではなかった。
あの裏側に、柔らかな金色の大地があることを、私は知っている。
ハルクの月は、もう空の上だけにはなかった。
*
「――もう、行くのかい?」
キースの声に、私は頷いた。
「いつまでもここにいたら、私の旅は終わらないですから」
そう言って笑うと、二人も同じように笑ってくれた。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
ここに残ってもいいのではないか。
そんな甘えが、一瞬だけ顔を出した。
キースの診療所。
朝のトースト。
マーマレードの香り。
ハルクの月。
海を見た空。
この町には、私が持って帰りたいものが多すぎる。
けれど、私の旅はここで終わらない。
元の世界へ戻る方法も、兄のことも、列車のことも、何も分かっていない。
この町で得たものは答えではなく、次へ進むための灯だった。
「そうだな。それがいい」
ハルクは静かに言った。
「俺たちはいなくなりはしない。いつまでも、この町にいる」
もう、二人の間に蟠りはない。
少なくとも、今の私にはそう見えた。
顔を見合わせる二人を見て、私は幸福感を胸に抱いた。
終わったのだ。
二人の長い夜は、ようやく朝を迎えたのだ。
「ハルクさん。キースさん」
私は二人を見た。
言いたいことはたくさんあった。
ありがとう。
さようなら。
また会いましょう。
全部違う気がした。
だから私は、一番前を向ける言葉を選んだ。
「――いってきます」
私の旅は、これからまた始まる。
いや、今までが階段のゼロ段目だったのかもしれない。
ようやく、足を踏み出せたのかもしれない。
この町で手に入れた形のないものを、しっかり胸にしまい込む。
そして二人に背を向け、歩き出した。
「ひかり!」
背中へ、ハルクの声が届く。
「忘れないでくれ! お前の月は、いつでも空にある!」
あの時よりもずっと大きく、荒っぽい声だった。
でも、その声は確かに私の背中を押してくれた。
私は走った。
走る。
走る。
いつまでもいたい。
でも、そんなことはできない。
私の旅にも、いつか終わりが来る。
それを見つけるまでは、歩き続けよう。
ここには――。
私の心を照らす月がある。
ハルクとキースが、そう教えてくれた。
やがて、私は最初にこの町へ降り立った場所へ辿り着いた。
そこに駅はなかった。
広場があるだけだ。
人々が行き交い、祭りの名残が風に揺れているだけだった。
――カン、カン。
踏切の音がする。
辺りを見回した。
月は遠く、空は青い。
そして、次の瞬間。
私の意識は、ふっと途切れた。




