樹海の魔女
かぐわしいトーストの香りが、今日も私を朝食へ誘った。席に腰掛けて、昨日とは違う発見を二つする。
一つは、バターの代わりにオレンジのマーマレードが用意されていることだった。硝子の小瓶に詰まったそれは、朝の光を受けて琥珀色に透けている。蓋を開ける前から、柑橘の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。もう一つは、私の正面に、眉間に皺を寄せた先生が座っていることだった。
「あの……まだ怒ってます?」
私が恐る恐る訊くと、キースの眉がぴくりと動いた。どうやら、まだ怒っているらしい。
「当たり前だよ。人を助けること自体は良いことに決まっている。そこは否定しない。だけど、我先にと飛び出さなくてもいいだろう。今回はたまたま良い方向に転がっただけで、事件現場にいた君とハルクを見た時、ボクがどんな気持ちだったか」
言葉がそこで切れる。キースは小さく息を吐いた。
「全く。食べなさい」
「はい……」
私はほんのり温かいトーストにマーマレードを塗り、口へ運んだ。お説教の最中だというのに、舌の上に広がる酸味と甘みに、思わず頬が緩んでしまう。
「そのマーマレード、君が助けた子供の家で作ったものだよ」
私はトーストとキースの顔を交互に見た。キースの表情は、いつの間にか「仕方ないな」とでも言いたげな優しいものに変わっている。
「ひかりへのお礼だそうだ。それだけ美味しそうに食べているなら、彼らも本望さ」
あのあと、被害に遭った親子は命に別状はなかったらしい。助けた子供の笑顔は、まだ私の記憶に新しい。
「そう、ですか……」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。私は残りのトーストを大事に食べ、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「それにしても、ハルクもハルクだ。あの破壊的なサイレンが鳴ったと思ったら、その音めがけてとてつもない速度で――」
直後、建物が揺れた。玄関の方から大きな音がする。どうやら力任せに扉が開け放たれたらしい。音の主は、あっという間に部屋へ現れた。何かを言う間もなく、私は食事の席から引き剥がされ、背中へ乗せられる。
「キース、こいつ借りるぞ」
ハルクだった。
「ハルク! お前、ひかりの事情も――」
キースの声が遠ざかる。私はハルクの大きな背にしがみついた。昨日、頭を下げた大鷲と、今朝のこの強引な大鷲が同じ相手だということが、どうにも信じがたい。
「こんな朝から、どうしたんでっ――」
揺れる中で喋ったせいで、舌を噛んだ。ひりひりする痛みに耐えている間も、ハルクは少しも気にせず森を抜け、丘を下っていく。人波をすいすいと縫い、町の外れまで来たところで、ようやく足を止めた。
「すまん。何か言ったか?」
私は全速力で走った後のように、ぜいぜいと息を荒げていた。
「あなたは、どうして、何もかも、突然なんですか……」
ハルクは首を傾げた。何を言っているんだ、という顔である。
「だって、俺の手伝いをしてくれると言ったじゃないか。本当なら昨日の夜でもよかったんだが、キースがうるさかったからな。今朝なら構わんだろう」
呆れと諦めが、私の中で仲良く肩を組んだ。結局、この人はこうなのだ。
けれど昨日までと違って、背中の乗せ方は不思議と乱暴ではなかった。走り方はめちゃくちゃでも、私が落ちないように角度を変えたり、枝を避けたりしていたことには気づいている。あまり他人のことを考えない人。でも、まったく考えないわけではない人。そう思うと、怒りきれないのが少し悔しかった。
「それで、どうしてこんなところまで来たんですか?」
地面に降り立ち、私は周囲を見回した。目の前には森林が広がっている。いや、森というより、樹海だった。列車のアナウンスで聞いた、あの<ナニカ>のいる樹海。入口に立っただけで、内側の暗さがこちらを見ているような気がして、思わず身構える。
「樹海の魔女だ」
「樹海の魔女?」
こんな場所に、人が住んでいるのだろうか。そもそも、なぜ魔女に会いたいのか。どうやって、この広大な樹海からたった一人を探すのか。疑問は次々湧いてくる。
私の不安が顔に出ていたのだろう。ハルクは私を見て、少しだけ声を落とした。
「大丈夫だ。ひかりは俺が守る」
そこまで言われると、手伝うといった手前、断るわけにはいかない。
「では、その言葉が本気かどうか期待しておきます。でも、昨日のように無理はしないでください」
「ああ、分かった」
返事だけは素直だった。それが信用できるかどうかは、また別の話である。
*
樹海へ入ると、最初に耳へ届いたのは木々の音だった。高く伸びた幹の上で、梢が風に誘われるように揺れている。見上げても、その先は葉の重なりに隠れてしまい、空は細く裂かれた光としてしか見えない。見たことのない植物たちが、足元でそれぞれの縄張りを主張していた。色も形も、私の知る草花とは少しずつ違う。けれど、不気味というより神秘的だった。生きているものと、朽ちていくもの。その二つが左右対称の模様みたいに絡み合い、美しさを作っている。
「あまりじろじろ見るな。木々が騒ぐ」
「木が騒ぐ?」
何を言っているのだろう。そう思った直後、葉擦れの音が変わった。
息吹は波のように、彼方へ届く。
我らは動かぬもの。
せめて言葉だけでも届けておくれ。
荒れた大地も、燃える世界も、朽ちた身体も、
我らを遮るものは何もない。
それは、唄だった。どこまでも届くような澄んだ唄。葉と葉が触れる音の中に、声が隠れている。
「これは……」
誰が唄っているのだろう。私はハルクを見る。彼の体はこわばり、鋭い眼光が周囲へ放たれていた。
「他の生き物の鼓動を何も感じねえ。魔女どころか、虫の羽ばたき一つ聞こえねえほど静かだ。以前入った時とは違う。なんだ、これは」
「え?」
「何か聞こえるのか」
「唄が聞こえませんか? とてもきれいな」
「唄?」
ハルクは眉を寄せた。
「何も聞こえない。ひかりには聞こえるのか?」
私たちは立ち止まった。やがて繰り返されていた唄はふつりと途切れ、樹海には静寂だけが残った。
「気をつけろ。ひかりにしか聞こえなかったのなら、魔術の類かもしれん」
何も知らない世界の、危険な場所。それだけでも怖いのに、これ以上何を気をつければいいのか分からない。それでも私たちは、再び歩き出した。
樹齢を重ねた巨大な木々の根を越え、道とは呼べない場所の中でも、比較的通りやすいところをハルクが先に進んでいく。
「以前入った時とは違うって、どんな感じだったんですか?」
「三十分もしないうちに入口へ追い返された。防衛魔術でもかかっていたんだろう」
ハルクは答えてくれたが、視線はこちらへ向かなかった。周囲を警戒しているのだ。
「そういった魔法は、ハルクさんやキースさんは使えないんですか?」
「俺たちが? まさか。魔法や魔術と呼ばれるものは、俺たちには使えない」
「でも、風を起こしたり、家事をこなしたりしてるじゃないですか」
「あれは俺たちが風の友であるからだ。羽のある奴らは、大抵それくらいはできる。もっとも、手術ができるほど器用な奴なんて、数えるほどしかいないけどな」
キースのことだろう。こんな場所で聞く話ではないのに、その言い方が少しだけ微笑ましかった。
「結局、ここには何をしに来たんです? 魔女に会って、何かあるんですか?」
私は大きな根を跳ねるように越えながら訊いた。最初に私を魔女かと訊いた理由も、そこにあるのかもしれない。
「月を目指すために必要なものがある。それを持っているのは、魔法使いか魔女しかいない。だから最初にひかりを見た時、樹海の魔女が化けた姿か、その使いかと思った。毛も羽もない。その不思議な姿は、魔女の特徴そのものだ」
「なるほど……」
つまり、この世界でいう魔女は、人間の姿をしているらしい。彼ら獣人たちとは違う理を持った者。そう考えれば、ハルクの失礼な勘違いにも、少しだけ筋は通る。納得はしないけれど。
やがて道はさらに険しくなってきた。
「木の上へ登ろう。背中に乗れ」
ハルクに言われ、私は再び彼の背へ乗った。羽にしがみつくと、ハルクは脚に力を入れ、しなやかなバネのように跳ね上がる。あっという間に、大きな木の枝へ飛び乗っていた。
それは枝というより道だった。世界樹の通路だと言われても信じてしまうほど太く、ハルクが乗ってもびくともしない。
「ひかりは乗ったままでいい。落ちたら危険だ」
「それはいいんですけど、どうして進む方向が分かるんですか?」
体を持ち上げて先を見ても、どちらの方角も果てしなく続いているようにしか見えなかった。
「こっちが幹の方角だ。枝が少しずつ太くなっている」
目を凝らしても、私にはその違いが分からない。ハルクの目には、私が見えないものが見えているらしい。
しばらく進むと、目の前に大きな木の洞が口を開けていた。大口を開けたクジラのような穴。その中に何かいるのかもしれないと思うと、私はハルクの羽を掴む手に力を込めた。
「大丈夫だ。俺には見えている」
ハルクはそう言って、洞の中へ入った。中は暗かったが、真っ暗ではなかった。自然の洞窟のようになった壁には、古いカンテラが点々と置かれている。火は小さいのに、道の先まで淡く照らしていた。
「やはり正解のようだ。この中に、魔女がいる」
私は身構えた。こんな場所に住んでいる魔女とは、どんな人なのだろう。攻撃的で、人嫌いで、想像通りの魔女が出てきたらどうしよう。
そんなことを考えながら進んでいくと、一本道の終わりに光が見えた。抜けた先に広がっていたものを見て、私は息を呑む。
そこには、天井から降り注ぐ光に照らされた、一面の花畑があった。
水色の花畑。
私はその花に既視感を覚え、ハルクの背から飛び降りた。
「これは――」
ハートがくれた花びらと同じ花だ。そう思った。
もしかして、ここにハートがいるのだろうか。それとも、ここへ来たことがあるのだろうか。謎は深まるばかりだった。
私たちは花の咲いていない細い道を見つけ、そこを進むことにした。空間の端まで辿り着くと、そこには不釣り合いなものがあった。
「扉、か」
ハルクが呟く。
「扉、ですね」
目の前には、木製の青い扉が立っていた。横には呼び鈴が備えつけられている。これで呼び出せということなのだろうか。
「鳴らすしかないだろう。さすがの俺でも、そうする」
そういう常識はあるんだ。口にはしないまま、私は目だけで訴えた。
呼び鈴の紐を引く。
りぃん。
澄んだ音が響いた。
ここでも鈴か、と思ったその時、扉の向こうからばたばたと足音が聞こえてきた。扉が開く。
「いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは、人間の少女だった。
「この子が、樹海の魔女……?」
幼い魔女らしき少女は、私たちが顔を見合わせるのを眺めながら、ただ静かに微笑んでいた。




