少女の名前は
「夢から覚める方法? 顔に水でもかけてもらったらどうだ?」
「夢追い人なら、この町から何人も出て行ったけどなあ。違う? じゃあ分からないな」
「物知り爺さん? そんな人、この町にはいないよ。観光客の中からそんな人を探すなんて至難の業さ」
私はベンチに腰を下ろし、深くうなだれた。辺境と呼ばれるこの町なら、昔からの伝承や不思議な話が残っているかもしれない。そう思って聞き込みをしてみたものの、結果は散々だった。
今は祭りの時期だ。防犯上の問題から、図書館のような公共施設は軒並み休館しているらしい。さらに、この世界にはインターネットのような情報を調べる道具も存在しないようだった。それでも、目の前の街はにぎわっている。誰もが笑い、誰もが月を見上げ、誰もが今夜という時間に浮かれている。そんなものがなくても、この世界は回っているのだと、街そのものが語っているみたいだった。
「はぁ……前途多難」
ため息は、真昼の月へ向かって消えていく。自分で選んだ道だと分かっている。それでも、地道すぎる行動に少しだけ苦笑してしまう。
今朝、キースと食べた朝食のことを思い出した。
*
溶けだしたバターの香りに、私は思わず笑みをこぼした。トーストの表面にバターを塗ると、ざりざりと小さな音を立てて広がっていく。ちぎらず、そのまま口へ運ぶ。サク、と軽い音。その奥から、ふわっとした食感が追いかけてくる。紅茶を口に含むと、すっきりとした酸味が口の中を洗い流した。香りは薄いけれど、そのぶん朝の光によく似合っていた。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせると、目の前の食器がふわりと浮き、シンクへ向かっていった。昨夜ほど驚かなかった自分に、少しだけ慣れの怖さを感じる。
視線を戻すと、テーブルを挟んだ向かいにキースが座っていた。片翼で頬杖をつき、眼鏡の奥から私だけを見ている。
「さあ、ひかり。君の話を聞かせておくれ。突然現れた謎の少女が空にある島を探しに冒険をする、という物語は大好きなんだが、今回はどんな事情があって宿も取らずにこの町まで来ることになったのかな?」
もう少し食後の余韻を楽しみたかったけれど、観念するしかなかった。私はこれまでのことをすべて話した。灰色の夢。猿の駅。列車。ハート。読めないきっぷ。元の世界へ戻る方法を探していること。キースは最後まで黙って聞いていた。
「にわかには信じ難いな」
話を聞き終えると、彼は崩していた頬杖をもう一度ついた。もちろん、私の話を嘘だと思っているわけではなさそうだった。その言葉は、次の考えへ移るための枕詞のように聞こえた。
「観光以外の目的で来るには、難しい時期に来てしまったものだね」
「偶然受け取ったきっぷが、この町へのきっぷだったんです。お祭りの最中だなんて知りませんでした」
キースは少し考えていた。やがて、思いついたように口を開く。
「祭りの間は、ここにいればいい。泊まる場所なんて、もう見つからないだろう。どうだい?」
「それは……こちらからお願いしたいくらいです。でも、私、お礼もできません」
申し訳なくなってそう言うと、キースは苦笑した。
「そんなものはいらないさ。ただし、条件がある。朝食は必ず一緒に取ること。夜遅くなる前に必ず帰ってくること。何か困ったらボクの名前を出すこと。約束できるかい?」
つまりキースは、祭りの間、私の保護者でいてくれるつもりなのだ。
「キースさん、ありがとうございます」
「気にしないでくれ。性分なんだ」
なんでもないことのように返してから、彼は窓の外を見た。
「まずは町を行き交う人々に聞き込みでもしたらどうだい。ボクは君に答えを用意できないけれど、誰か知っている人がいるかもしれない」
祭りの最中だからこそ難しい。けれど、元の世界へ戻る方法を探すには、そういう行動を積み重ねるしかないのだろう。
二人で席を立ったとき、私はふと窓の外を見た。そこには、硝子の色をした巨大な月が浮かんでいた。
朝なのに月がある。
それが、この町の朝なのだと教えるように。
*
もう昼時らしい。私の体から、正直な空腹の音が鳴った。坂を下ると、飲食店が建ち並ぶ通りへ出た。キースによれば、この一帯の店は祭りの期間、お金を取らないらしい。どうしてそれで成り立つのかは分からない。ただ、一部では学生が店員を務め、職業体験を兼ねている店もあるのだという。
「お嬢ちゃん、揚げたてのドーナツはいかがかな」
声をかけてきたのは、大きな牛の男だった。彼の前にあるショーケースには、さまざまな種類のドーナツが並んでいる。私はせっかくだからと、おすすめを一つだけ注文した。
「はいよ、お待たせ。熱いから気をつけて」
包み紙にくるまれたそれは、ほどよい固さに揚げられたオールドファッションだった。上にはホワイトチョコレートがかかり、薄い桃色のソースと赤いフレークが散っている。手のひらに伝わる熱に負けて、私はお礼を言う前にかじりついてしまった。
サク、と歯が入る。次の瞬間、甘さと香ばしさが口の中でほどけた。ホワイトチョコレートのやわらかな甘みに、ベリーの酸味が小さく跳ねる。揚げたての生地は外側だけが軽く、内側は少しだけしっとりしていた。
「お……おい、お嬢ちゃん。大丈夫か?」
遠くから声がする。やたらと野太い声の天使だ。
「嬢ちゃん、嬢ちゃん!」
はっとして我に返る。どうやら私は、あまりの美味しさにその場で固まっていたらしい。
「す、すみません。あまりの美味しさに意識が飛んでました」
店主は気持ちのいい声で笑った。
「そうかそうか! そりゃ良かった。そんなに喜んでもらえたら嬉しい限りさ」
つられて私も笑顔になる。
「普段からドーナツを売っているんですか?」
「いつもはパン屋をやっているのさ。倅がいろんな種類のドーナツを食べたいって言うんでね。せっかくだからやってみたわけさ」
店主が親指で店の脇を示した。そこでは子供たちが駆け回っている。その中に、店主の子供らしき子牛の姿もあった。こちらに気づいた子供たちが手を振る。胸が温かくなって、私も手を振り返した。
その時、背中に何かがぶつかった。邪魔になっていたのだろう。私は慌てて頭を下げる。
「あっ、すみませ……あ」
言葉が止まった。
「ん? なんだ、お前か」
目の前にいたのは、大量のとうもろこしを抱えた大鷲の男だった。ハルク。昨日の夜、私に向かって風を起こした張本人である。
「ちょうどいい。お前には答えてもらわなきゃならないことが――おい、どこに行く」
私は店主へ軽く挨拶をし、そそくさと歩き出した。
関わらない。それが一番だと思った。
早歩きで立ち去ろうとする私の前に、ハルクの翼が立ちふさがる。黒と茶のべっこうのようなグラデーションは悔しいほど美しく、一瞬だけ見惚れてしまった。
「待てと言っているのが分からないのか」
私は深くため息をついた。こちらが避けているのが分からないのだろうか。空気も読めず、女性の気持ちを欠片ほども理解できなさそうな男に、何を期待していたのだろう。反省の「は」の字を望むことすら、浅ましい考えだったのかもしれない。
呆れは、すぐに怒りへ変わった。
「どうして私が話さないのか――」
私はハルクの胸元を指差した。
「その胸に、聞いたらどうですか」
指先が羽毛に触れる。当然、たいした衝撃は伝わらない。けれど、私の中では理性と衝動をぎりぎり混ぜ合わせた攻撃のつもりだった。
ハルクはただ疑問を浮かべ、私の指を払いのける。そして袋からとうもろこしを取り出し、丸ごとかじりつきながら言った。
「お前、何言ってんのか分かんねえや。腹でも減ってんのか?」
私の頭の中で星々が爆発し、宇宙は燃え、ブラックホールが握り潰された。もちろん、頭の中だけで。
「もう我慢できない! 何なんですか、あなたは。お前お前って、昨日言ったことを覚えてないんですか。私にはひかりという名前があると言いましたよね。三歩歩いたら忘れてしまうような小さな脳みそをお持ちのことりさんには分かりませんでしたか。すみませんね、ことりさん。それに加えてあなたは足りないものが多すぎます。知性や品性だけならまだしも、人間性全般や女性への配慮が全くない。そんな人に話すことなんて何もありません」
言い切った。言ってやった。私は今度こそ、その場を立ち去ろうとした。ハルクはしばらく何が起きたのか分からない様子だったが、我に返ると私を追ってきた。
「お、おい。一方的に話すな。どこへ行く」
その時だった。
「どけ! 邪魔だ!」
怒声が周囲に響く。振り返ると、二つの影が私の横を強引に通り抜け、人波の中へ消えていった。それだけではない。周囲のざわめきが、さっきまでとは違う色に変わっている。
「誰か! 誰か医者を呼んでくれ!」
声の方を見ると、先ほどまで元気にドーナツを売っていた牛の店主が倒れていた。
私は息を呑む。けれど、私より先に駆けつけたのはハルクだった。
「クロオ! お前、何が……!」
店主は薄く目を開き、ハルクを見た。
「ハルク……うちの倅が……」
近くにいた誰かが、震える声で言う。
「誘拐されたみたいだ。二人組で、後ろから店主の頭を……」
血は見えない。けれど、あれほど大きな店主が倒れるほどだ。相当な力で殴られたに違いない。
「俺はいい……息子を、息子を頼む」
その言葉を聞いた瞬間、考えるより先に足が動いた。さっきの二つの影が消えた方へ、私は駆け出そうとする。
「待て! どこへ行く!」
ハルクの声に振り返る。
「助けに行くんです」
「無駄だ」
間髪入れずに否定された。
「お前はキースを呼んでこい。捜索は自警団に任せればいい。そっちを呼びに行ってもいい。お前一人が関わったって、何の役にも立ちはしない」
「でしたら――」
私はハルクを見据えた。その大きな体も、鋭い嘴も、今は少しも怖くなかった。
「でしたら、あなたがそうしてください。今は一刻を争います。たとえ私一人だとしても、もうこの親子と私には縁がつながってる。その縁を、あなたが断ち切る権利なんてどこにもない」
そう言って、私は駆け出した。
影の消えた裏通りへ向かって。
*
裏通りは、白い壁に囲まれた迷路だった。住宅街の隙間を縫う細い道は、遠近感を奪う。同じ道を何度も通ったような錯覚に襲われる。けれど、それは誘拐犯たちも同じはずだ。もしかしたら、まだこの辺りをぐるぐる回っているかもしれない。
私は走った。
息が上がる。腹部が熱を持ち、足が重くなる。腕も上がらなくなってきた。こんなに走ったのはいつぶりだろう。考える余裕もなく、角を曲がる。
――お前一人が関わったって、何の役にも立ちはしない。
ハルクの言葉が、頭の中で繰り返される。本当にそうなのだろうか。息を胸いっぱいに吸い込む。私の言葉は大言壮語だったのだろうか。
そんなはずはない。誰もがそう思ってしまえば、人と人とのつながりなんて成り立たない。複雑なことを考えている暇があったら、走ればいい。
もう一度、角を曲がった。
そして、見つけた。
人通りの少ない住宅街の隙間を、小走りで進む二人組の男。片方は、子供を抱えている。
「待ちなさい!」
声をかけるのは簡単だった。爬虫類を象ったような二人の男が振り返る。
「ちっ、見つかっちまったか」
「いや待て、あれは……」
二人がこちらを見る。顔には表情が現れにくく、何を考えているのか分からなかった。周囲に人影はない。祭りの影響で、裏通りは不気味なほど静まり返っている。
普通に考えれば、戦うのは無理だ。ここまで来て、暴漢二人を前にした恐怖がじわじわと迫ってきた。
「こいつ、魔女の子供じゃないか? 見たこともない姿をしてやがる」
また魔女。その言葉が引っかかる。
「これはいい。高く売れるぞ。捕まえろ。お前はそっちを持っていけ」
一人がこちらへ向き直り、進んでくる。何か戦えるものはないのか。周囲を見るが、何もない。ならば、と私はポーチの中へ手を入れた。
何か。何か出てきて。
指先に、硬い感触が触れた。引き抜いたものを見て、私は一瞬だけ息を止めた。
小学生が持つような防犯ブザーだった。
どこか懐かしい形をしている。ランドセルの横で揺れていたような、誰かが「ちゃんと鳴らせよ」と笑っていたような、そんな記憶の端がかすめた。けれど今は、それを追いかけている場合ではない。
「……何だそれは」
男が足を止める。私はブザーの紐に指をかけた。
「いいんですか。近づくと痛い目を見ますよ」
男は一瞬だけ警戒した。けれど、すぐに口元を歪める。子供の持ち物だと見くびったのだろう。
「何だか知らねえが、やれるもんならやってみろ」
せめて怯ませられれば。そう思い、私は思いきり紐を引いた。
直後、けたたましい音が路地に響き渡った。
想像した何倍もの音だった。ブザーは二人組だけでなく、私自身まで巻き添えにするほど鋭く鳴り続ける。
「ぐぅうう!」
呻いたのは二人組の方だった。近くにいた男は耳を押さえ、うずくまる。
今だ。
私は子供を抱えていた男へ向かって体当たりした。本来の私の力ではどうにもならなかっただろう。けれど、音に怯んだ男は簡単に子供を離した。
子供を受け止め、持ち上げようとする。そこで、自分の力のなさを思い知った。
重い。
子供一人を、思うように抱えられない。
少しでも距離を取ろうと必死になっている間に、もう一人の男が持ち直し、こちらを睨みつけた。
「子供のくせして、小癪な真似を!」
男が飛びかかってくる。応戦する術はなかった。
――お前一人が関わったって、何の役にも立ちはしない。
またあの言葉が繰り返される。
そんなことがあってたまるか。私の想いは、そんな言葉に屈しない。叫びたかった声は、音のない呟きになって喉を叩いた。
けれど、私に降りかかるはずだった魔の手は、いつまでもやってこなかった。
「う……ぁ……」
謎の呻き声が聞こえる。少しずつ目を開く。視界の前に、羽が舞っていた。
そこに立っていたのは、ハルクだった。
「え……」
驚く私をよそに、彼は鋭い嘴を男の喉元へ突きつけていた。今にも喰らいつきそうなほど近い。ハルクが嘴を外すと、尻餅をついた男へ低く告げた。
「消えろ」
その一言で、男は逃げ出した。
もう一人はようやく意識を取り戻したらしく、懐からナイフを取り出す。
「邪魔をするな!」
刃物をちらつかせる男に対し、ハルクの瞳は冷たかった。
「歯向かうやつに容赦は……な……っ」
突然、ハルクが膝をついた。私は昨夜のことを思い出す。ハルクの病気だ。
「ハルクさん!」
体を支えようとすると、ハルクは翼で私を制した。
「問題、ない」
どう見ても問題だらけだった。無理をしているのは明らかだ。
「俺はこの仕事で……変わるんだ……!」
ナイフを持った男が迫る。今度こそ駄目かもしれない。そう思った瞬間、男が突然倒れた。
「止めろ! 止めてくれ!」
空から襲いかかったのは、鳥の群れだった。ハルクほどではないが、この世界の鳥はどれも大きく、男を埋め尽くすには十分だった。
「間に合ったか!」
群れの中から一羽が抜け出してくる。カラスの男だった。
「自警団の者だ。何とかなったな――ハルク、なぜ一人で行った」
声をかけられたハルクは、少しだけ目を伏せた。
「さぁな」
そのやり取りを合図に、私はようやく安堵の息を漏らした。終わったのだ。
私は、役に立てたのだろうか。
その答えは、じわりと訪れる夕闇の中へ溶けていった。
*
「どうして、私を助けてくれたんですか?」
私が訊くと、ハルクはすぐには答えなかった。夕方の光の中で、彼の羽は静かに揺れている。あの荒々しい瞳の奥に、さっきまでとは違う影が差しているように見えた。
私には、彼の中で何が起こっているのか分からない。けれど、何かが重なっているのだとは思った。
私の言葉か。
子供を助けようとした姿か。
それとも、もっと昔の誰かの声か。
ハルクはゆっくりと私に向き合い、膝をついた。目線が合う。何かを言おうとして、彼は一瞬迷った。それから、静かに口を開いた。
「すまない。もう一度だけ、名前を教えてはくれないか」
なぜ、と問い返す気にはならなかった。
「ひかりです」
「ひかり、か」
ハルクは目を閉じた。そして、空の王者の頭を下げた。
「今までの非礼を詫びよう。ひかり、すまなかった」
周囲にいた住民や自警団がざわめく。彼の謝罪に驚いているようだった。私も驚いていた。けれど、それ以上に、名前を呼ばれたことが胸に残った。
お前ではなく、ひかり。
たったそれだけで、目の前の大鷲が、初めて私を見たような気がした。
「俺は、ひかりに助けを求めたい」
私は目を見開いた。何を言っているのだろう。けれど彼の瞳は真剣だった。
「俺は、月に行く」
その一言だけで、十分だった。
私は彼の差し出した翼に、そっと触れた。
羽は思っていたよりも温かかった。




