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歌う医師と月に魅入られた男

 木々を抜けた先にあったのは、こぢんまりとした白い建物だった。建物の正面には、その見た目とはどうにも噛み合わない真っ赤なペンキで、乱暴な文字が殴り書きされている。


 誰でも歓迎

 スプートニク医院

 お土産大歓迎!


 どうやら、かなり気さくな人が営んでいるらしい。少しだけ不安が軽くなった私は、木製のドアへ近づいた。ノックをしようと手を上げた瞬間、内側から扉が勢いよく開いた。

 バン、と大きな音がする。

 最初に目に入ったのは、茶と黒の羽に覆われた大きな胴体だった。ゆっくり顔を上げていく。そこには、少し濁った色の瞳でこちらを睨みつける、大鷲の男がいた。

「なんだァ? アンタは」

 二メートルはゆうに超えているだろう。白に包まれた整った頭部には、空の王者と呼ぶにふさわしい風格があった。美しい曲線を描く嘴も、黒と茶の羽も、どこか作り物めいた完成度を持っている。けれど、その瞳と態度は、王者というより不遜な男のそれだった。

「おい、ハルク、待てって!」

 大鷲の男の後ろから声がした。なるほど、そちらが先生なのだろう。そう思ったものの、目の前の大鷲が大きすぎて、声の主の姿は影すら見えない。

「キース、お前こそちょっと待て」

 ハルクと呼ばれた大鷲の男は、振り返りもせずにそう言った。そして、私の目線に顔を合わせるように身をかがめ、じっと見つめてくる。

 怖い。

 最初にそう思った。けれど、それ以上に腹が立った。

 彼の目は、私を見ているようで、私という人間を少しも見ていない。道端に落ちていた妙なものを、勝手に値踏みしているような目だった。

「アンタ、魔女か?」

 突然の問いに、私は言葉を失った。魔女。この人は、いったい何を言っているのだろう。それよりもまず、初対面の相手に対する態度として、何もかもが足りなすぎる。

「どうなんだ、おい、お前」

 お前。

 その一言で、恐怖は完全に怒りへ変わった。

「魔女っていうのは、どんな魔女ですか? お菓子の国に住むキュートな魔女? それとも人を呪う邪悪な魔女?」

「そんな話はしていない。お前は魔女なのか? 答えるべき選択肢は二つ。YESかNOだ」

 私の中で、何かが静かに熱を持った。この世界へ来てから、私は何度も怖い思いをした。猿も、列車も、歪んだ人影も、全部怖かった。でも、この怒りは初めてだった。

「お前じゃなくて、私にはひかりという素敵な名前があります。ひ・か・り。分かりますか? 私がお前なら、あなたはことりさんです。いいですか? こ・と・り・さ・ん」

 ハルクの目つきが変わった。その奥で、何かが焼き切れるような気配がした。

 突如、風がざわめく。嵐が来る直前のように、周囲がすっと静かになった。私が異変に気づいたのは、体を通り抜ける風が、その静けさを裂いてからだった。木々の間を、甲高い音が走る。遠い悲鳴のようにも聞こえた。

「ハルク! やめろ!」

 後ろから聞こえる声にも、ハルクは反応しない。目の前の男が、この風を起こしている。そう理解した瞬間、背筋が冷たくなった。

 逃げなければ。そう思ったのに、足が動かない。しがみつく場所もない。このままでは、私はこの凶悪な風に巻き込まれる。恐怖が再び胸に迫った、その瞬間だった。

「――ッ!」

 声にならない声を上げ、ハルクが膝を折った。あれほど荒れていた風が、唐突に力を失う。何が起こったのか分からず、私は立ち尽くした。

 倒れかけたハルクの体を押しのけるようにして、白衣を着た梟が姿を現した。

「馬鹿野郎が! どうしてキミはそうなんだ!」

 悪態をつきながら現れたその梟こそ、キースだった。彼は翼に抱えていた小瓶のコルクを、くちばしで器用に開けると、その中身をハルクの口へ流し込んだ。

「さあ、これで大人しくしているんだ。そこのお嬢さん、申し訳ないが、少し待っていてくれるかな」

 話しかけられた私は、うろたえながらも反射的に頷いた。その間、あれほど騒いでいた木々も、私も、揃って口を閉ざしていた。

「――よし、そろそろ立ち上がれ。ねじの外れた自動ドアだって、もう少しまともな反応をするぞ。あれだけ暴れられたんだ。一人で帰れるだろう」

 ハルクは黙ったまま、ゆっくりと立ち上がった。その無反応に、キースは呆れたようにため息をつく。そして懐から紙袋を取り出し、ハルクへ押しつけた。

「元々、これを取りに来たんだろう。持っていけ。でも、ボクは何も許してないからな」

 その声は真剣だった。横で聞いていた私の背筋まで、なぜか伸びる。

「すまない」

 ハルクは短く謝ると、私が来た道とは逆の方へ、森の奥深くへとふらふら歩いていった。その目に、私は映っていなかった。

「お嬢さん――いや、ひかり、だったかな。危険な目に遭わせてすまなかった。あいつ、ハルクは、本当は悪い奴じゃないんだ。ただ、病気があってね」

 どうしてキースが謝るのだろう。悪いのは、あの態度も性格も最悪な大鷲の男だ。キースが申し訳なさそうにすることではない。そう思って、私は首を横に振った。

「私は怪我も何もしていませんから。ええと、キースさんが謝ることじゃ……」

「そうは言っても、級友が迷惑をかけたんだ。お詫びくらいさせてほしい」

 キースは一度、なぜか開いたままだった扉を閉じ、改めてゆっくり開けた。そして、私へ手招きをする。

「さあ、どうぞ」

 誘われるまま診療所に入る。最初に感じたのは、薬の匂いだった。

 その次に目に入ったのは、清潔な部屋だった。四台のベッド、診察台、整えられた医療器具。木目調の内装は、診療所というより小さなログハウスのようで、白い外観から受けた印象よりずっと温かい。

 キースに隣の部屋へ案内される。そこは彼の生活圏らしかった。整頓されたキッチンとベッド。棚に並んだ食器。床に落ちたものは何ひとつなく、誰を招いても恥ずかしくない部屋だった。ただ、テーブルに残った二つのマグカップと、少し乱れた椅子の位置だけが、ついさっきまでここにハルクと二人でいたことを教えている。

「ちょっと待っていてくれ。飲み物を入れよう。まあ、座って」

「は、はい。失礼しま――」

 椅子に腰掛けようとした瞬間、目の前に置いてあった二つのマグカップがひとりでに浮いた。

「え」

 マグカップはふよふよと、自我を持ったように空中を泳ぎ、キッチンのシンクへ飛び込んでいく。それだけではない。キースの周囲にあったカトラリーも同じように浮かび、やかんは自ら火にかけられにいった。

「これは……」

 驚いている私を見て、キースはよく曲がる首を傾げた。

「何だい? 何かおかしいことでも?」

「いえ……」

 おかしいことしかない。けれどキースにとっては、これが普通らしい。なんでもないことのように飲み物ができていく様子は、私には魔法そのものに見えた。

 やがて新しいマグカップがテーブルへ運ばれてくる。最後にスプーンがマグカップの縁でちいんと軽い音を立て、中へ滑り込んだ。

「さあ、いただこう。さっきから何を呆けているんだい?」

 私の前には、茶色い飲み物の入ったマグカップが置かれていた。白いものがいくつか浮いている。湯気と一緒に、甘い香りが鼻をくすぐった。

「あっ……はい。ありがとうございます。いただきます」

 先ほどの押し問答で乾ききった喉にはありがたかった。

「よくかき混ぜて」

 キースの囁きは、さざ波のように耳触りがよかった。私はスプーンで中身をかき混ぜる。白いものが少しずつ溶けていく。かちゃかちゃと不規則な音が二つ重なり、目の前の医師は機嫌よさそうに鼻歌を歌い始めた。

 マシュマロの入ったホットチョコレートだった。

 舌に触れる甘みと、淡い苦み。少量のシナモンの香りが、雨のように喉の奥へ降ってくる。溶けかかったマシュマロは、魔女のかけた魔法のかけらみたいに、形を失いながら飲み物をやわらかくしていた。一口ごとに、胸の緊張がほどけていく。

「さっきのやつなんだが」

 キースが切り出した。

「あいつはハルクと言って、この町一番の変わり者さ。昔はルチトク一の月信者――ルナティックなんて呼ばれていたものだ」

「ルナティック?」

 聞き返すと、キースは苦笑した。

「今宵の月を見ただろう? あの月を目指して飛びたい。この町に住む飛べる者たちは、若い時分、そんなことを一度は考える。けれど、月に操られたみたいに本気で飛んだ者は、ボクの知る限り一人しかいない」

「それが、あの……」

 続く言葉を飲み込んだ。

「あの、何だい?」

 分かっていながら訊いたのだろう。キースは小さく息を漏らして笑った。

「ちょうど百年前のことさ。ハルクは初めて見る月に魅入られてしまった。実際、あいつほど飛べる者なんて、ボクはこの百年見たことがない。それでも、無茶な話だったんだ」

 キースは首を横に振る。

「誰が何と言っても、あいつの衝動を止めることはできなかった。ハルクは月への妄執に身を任せ、そして墜落した。一番近くにいたボクが、死に物狂いで止めればよかった。ボクの責任だよ」

 どうしてそこまでハルクを思いやれるのか、私にはすぐには分からなかった。初対面での印象があまりにも悪すぎたのだ。けれど、キースの声は静かで、嘘をついているようには聞こえなかった。だから私は黙って耳を傾けた。

「重症だったあいつを、ボクは必死に治療した。だけど翼は戻らなかった。いや、見た目の話ではないよ。飛ぶことができない状態になってしまったのさ」

 怪我の後遺症で、体のどこかに不具合が残っているのだろう。そう私は解釈した。話の隙間を埋めるように、スプーンをマグカップの中で回す。

「それが原因でハルクは塞ぎ込んでしまったのか、ここに来る以外、家から出ることも少なくなった。もう飛べないことに絶望したのだと思っていた。けれどどうやら、まだ諦めていなかったようでね。止めたら怒り出して、さっきに至るわけさ」

 つまり、さっき二人が言い合いをしていたのは、ハルクが再び無謀にも月へ飛び立つと言い出したからなのだろう。月が迫ってくるこの祭りの夜を、彼はずっと待っていたのかもしれない。

 それでも、私の中のハルクへの印象はまだ悪いままだった。自分のしたいことのために、目の前の友人を押しのける。止められたら怒る。挙げ句の果てに、初対面の私にまで風を向けた。

 勝手な人だと思った。

「ただ、あいつも元々あんな性格じゃなかったんだ。それだけは分かってほしかった」

 目の前の梟は、狐の男が言っていた通り、お人好しなのだろう。変わり果てた友人のために、何十年も相手をし、治療を続けている。ひかりにとって彼は、とても誠実な人に見えた。

「お話は、分かりました。ありがとうございます」

 話が途切れたところで、鈴の音が鳴った。森の入口と同じ音だ。音のした方を見ると、壁掛け時計からからくりの鳩が現れ、小さな鈴を揺らしていた。短針と長針は、十二の上で重なっている。

「もうこんな時間か。ひかりの泊まっている宿に、門限はないのかい?」

 私は視線をそらした。

「まさか、泊まる場所がないとか?」

 無言でゆっくり頷くと、頭上にため息が降ってきた。

「いいかい、ひかりくん。君は辺境で、本来は閑散としている町とはいえ、百年に一度の祭りの最中に来ている。民家ですら部屋を貸し出していて、それも十年も前から満室必至さ。どうりで、こんな若いお嬢さんが夜に一人でここまで訪ねてきたわけだ。不思議だとは思っていたよ」

「すみません……」

 蚊の鳴くような声しか出なかった。私は狐の男を少しだけ恨みながら、目の前の先生を見つめる。

「こんな何が起こるか分からない日付の境目に、家出少女を放っておいたらボクの沽券に関わる。事情は明日訊くとして、ひかりくん。今夜はここに泊まっていきなさい。この部屋なら内鍵もかかるし、ボクは隣室のベッドを使えばいい。これは提案じゃない。指導だよ」

 見返りもないのに、キースは私へ救いの手を差し伸べてくれた。私は子供というほど小さくはないと思う。けれど、今の私は間違いなく迷子だった。その言葉を頼りにここまで来たはずなのに、いざ受け取ると申し訳なさで胸がいっぱいになる。

「ありがとうございます。お言葉に甘えます。でも、この部屋はキースさんが使ってください。私は向こうの部屋で大丈夫です」

 キースは少し悩んだ。けれど、玄関には鍵があり、ベッドのシーツも替えてから日が浅いらしい。やがて問題ないと判断したのか、静かに頷いた。

「では、今日はもう寝よう。君も知らない街の夜を歩いて疲れただろう」

 その通りだった。落ち着きを取り戻した途端、初めての冒険に使った疲れが一気に襲ってきた。たくさんのものを見て、たくさんの相手と話したせいで、頭の中まで固い氷菓子みたいになっている。

 私が頷いて部屋を出ようとすると、キースは片翼を上げて、おやすみの合図をした。

「おやすみ。良い夢を」

「はい、キースさん。おやすみなさい」


 *


 私は、良い夢を見られているのだろうか。現実では体験し得ないことをしている点では、良い方なのだろうか。列車で一人旅をした。いろんな人と出会った。見たことのない大きな月を見て、きれいな夜景も見た。

 今この瞳を閉じたら、私は現実に帰れるのだろうか。そう思った。けれど、この旅がすぐ終わってしまうのは、なんだか惜しいとも思った。

 やがて訪れた睡魔と短い戦いを繰り広げた末に、私は深い眠りの合わせ鏡へ落ちていった。頭からではない。ベッドそのものが境界になり、体ごと鏡の中へ沈んでいくような感覚だった。


 *


 排水口が、ごぼりと咳をする。

 二つのコンセントが笑う。

 鍵穴が首を傾げる。

 巨人が現れ、背の高い山を紙のようにぺらぺらになるまで叩く。

 投げて潰れたジェルボールの洗剤が、巻き戻されて手元へ返る。

 アクリル製の鏡に吸い込まれると、そこは電話ボックスだった。

 公衆電話に、絵の具で作った百円玉を一枚入れる。

 百円玉はおつりが出ません。

 その文字を見ながら、八十一回に渡ってゼロを押した。

 発信音のあとに、メッセージを吹き込む。

「――兄さん、どこにいますか」

 か。

 その最後の音だけが、何度も何度も繰り返され、遠ざかっていく。やがて音は、夢の奥で消えた。


 *


 焼けたトーストの匂いで、私は目を覚ました。飛び上がるように起きた視界の中には、空っぽのベッドが三つ、すまし顔で横になっている。

「よく眠れたかい? 朝食、できているよ」

 日差しを受けたキースが、影から縫い出てくるように姿を見せた。その声に、私は少しだけどきっとした。

 まだ、夢の中にいる。

 そう思ったからだ。

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