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ムーン・フォール・ムーン

 窓の外では、名前も知らない星々が代わる代わる現れていた。紺碧の空の奥で、いくつもの光が点いては消える。私が見ていようと、見ていまいと、それらはずっとそこにあったのだろう。そう思うと、胸の中に小さな不思議が生まれた。

 次に目を向けたのは、列車の中に広がるアクアリウムだった。淡い光をまとった魚たちは、同じ場所を泳いでいるようでいて、決して同じ動きを繰り返さない。クラゲはゆっくりと傘を開き、光の粒は水のない車内をふわふわと漂っている。どれも作り物のはずなのに、本当に生きているように見えた。

 左手には、うんともすんとも言わなくなったミュージックプレイヤーが握られていた。さっきまで私を助けてくれたそれは、もう何も歌わない。列車が大地と再会するまでの間、私の相棒であったはずなのに、今は物言わぬ星と大して変わらない。

「勝手な奴」

 私はミュージックプレイヤーを兄に見立て、指先で軽く弾いた。そのとき、車両の扉が開く音がした。

 薄暗い車内に、かすかな気配が生まれる。私は辺りを見回したが、誰の姿も見えない。

「検札です。きっぷの確認にご協力ください」

 声は、足元から聞こえた。反射的に見下ろすと、私の膝の上に小さなリスが立っていた。

「えっ」

 驚く間もなく、リスは私の手のひらへ軽やかに移り、長いこと握りしめて折れ線だらけになったきっぷを取り上げた。リスが車掌であることより、きっぷの状態を怒られないかという不安の方が先に来た自分に、私は少しだけ情けなくなった。

「ありがとうございます。もういいですよ。それにしても、やっぱりあなたもアレですか。お祭りですか」

「はい?」

 素っ頓狂な声が出た。リスの車掌は首をかしげる。

「あれ、ご存じではない? ルチトクの街は今、百年に一度のお祭りの最中なんですよ。それが目的できっぷをお求めになられたのでは?」

「いえ……」

 意図せず行き先を知ることができたのに、つい否定してしまったせいで、私は言葉に詰まった。

 ルチトク。

 それが、私の降りる場所らしい。

「ふぅん。あ、いえ、失礼しました。なんせ私も初めての出来事ですもので」

 車掌は頭に乗せていた極小の帽子を、深くかぶり直した。

「あの、ついでになんですけど、ルチトクまではあと何駅ですか?」

 私が訊くと、車掌は尾をゆらゆら揺らしながら答えた。

「あと二駅ですよ。ユメクイ鳥が食事を終えるまでよりは早く着くかと」

 それがどの程度の時間なのか、私には分からない。ただ、車掌の言い方からして、それほど長い時間ではないのだろう。

「ありがとうございます。助かりました」

 礼を言うと、車掌はつぶらな瞳を細め、笑った。

「お気になさらず。仕事ですので。良い旅を――あ、そうそう」

 立ち去ろうとした車掌が、ふと思い出したように振り返る。

「次回からは、きっぷはもう少し丁寧に扱ってくださいね」

 やっぱり気にしていた。気まずくなって頭を下げると、車掌は小さく苦笑し、車両の薄闇へ消えていった。

 私はなくさないように、きっぷを星型ポーチへしまった。その時だった。

『間もなく、<樹海>、<樹海>。私たちは地域社会の発展と貢献、環境保全への協力を惜しみません。<ナニカ>の肥やしになることをご希望の方は、こちらでお降りください』

 私は思わず窓の外を見た。そんな危険そうな場所で降りたい人などいるのだろうか。というより、この列車を走らせている会社は何を主張したいのだろう。

 けれど、樹海という言葉には少しだけ興味があった。見えるかな、という軽い気持ちで目を凝らす。外は暗く、遠くまで見渡すことはできない。けれど近くの木々だけでも、そこが普通の森ではないことは分かった。

 木々は群れを成し、どこまでも続いている。地平線と呼ぶべきなのか、樹海だから水平線なのか、あるいは木平線とでも呼ぶべきなのか分からない。夜の中に沈むその連なりは、まるで一つの巨大な生き物の背中のようだった。

 列車は、その木々の隙間を縫うように建てられた、アーチ状の橋の上を走っているらしい。おかげで私が<ナニカ>の肥やしになることはなさそうだった。

 やがて<樹海>駅への到着と出発を終えた列車は、再び暗闇の中を進んだ。しばらく窓を眺めていると、視界が突然真っ黒に遮られた。トンネルに入ったのだ。

『本日は当列車をご利用いただきまして、誠にありがとうございました。間もなく終点、終点<ルチトク>、<ルチトク>です』

 終点。

 その言葉に、少しだけほっとした。乗り過ごすことはなさそうだ。

 しかし、安堵するより早く、続きのアナウンスが流れる。

『なお、この列車の停車期間は五日間となります。五日目の発車を過ぎますと、次回の当駅着は<五十年後>となります。お間違いのないよう、ご注意ください』

 その放送は、繰り返されなかった。

 私は薄っすらと恐怖を覚えた。五日。余裕を持って考えれば、実際に動けるのは四日ほどだろう。その間に、私は元の世界へ戻る方法を探さなければならない。

 列車は速度を落としていく。慣性に背中を押されるようにして、私は名残惜しくも席を立った。あんなに怖がって乗ったはずなのに、この弾むような座席との別れを少し惜しんでいる自分がいる。

 ルチトクの駅のホームは、最初の猿の駅の内側と似た造りをしていた。ただ、目の前には古い改札ではなく、現代的な機械式の自動改札がいくつも並んでいる。

 このきっぷを入れて通れるものなのだろうか。誰もいない駅で不安を抱きながら、私は投入口へきっぷを入れた。

 改札機は当たり前のようにきっぷを吸い込み、私の前に新しい世界への扉を開いた。

 一歩、また一歩と進む。

 そのたびに、視界が変わっていった。

 最初に見えたのは、月だった。

 それは、とても、とても巨大な満月だった。

 空に浮かんでいるというより、世界そのものが月の下へ押し込められているようだった。見上げる者すべての視界を埋め尽くし、今この瞬間に落ちてきても、誰も驚かないのではないかと思えるほど近い。

 私はただ茫然と、それを見上げた。

 ――踏切の音が鳴る。

 カン、カン、カン。

 その音でようやく正気を取り戻し、辺りを見回した。さっきまで背後にあったはずの駅は、もうどこにもない。私は広場の上に立っていた。

「え……?」

 駅は、どこ。

 何が起こったのか分からない。それなのに、目の前にはすでに雑踏があった。

「おい、早く行こうぜ。ルチトクの夜景はあそこが一番きれいらしい」

「あそこでヨウシタンレイが踊っているらしい。見に行こう」

「こんばんは。今夜は一段とすごい月だねえ」

 耳に入ってくる言葉を交わしているのは、人語を話す動物たちだった。犬や猫、爬虫類やねずみ。私の知らない動物たちまでもが、人間と同じように二本の足で歩いている。唯一、鳥類だけは鳥の姿のままだった。ただし、ほかの動物たちと同じように、人間ほどの大きさがある。

 広場は、私が思っていた以上に騒がしかった。屋台のようなものが並び、どこからか甘い匂いと香ばしい油の匂いが混ざって流れてくる。街灯はどこか提灯に似ていて、空中に浮かんでいた。月の光と喧嘩することなく、むしろ互いを引き立て合っている。

 お祭り。

 リスの車掌が口にした言葉が、ここでようやく現実味を帯びた。誰もが少し浮き足立ち、夜を急いでいる。私はその中で、ひとりだけ立ち止まっていた。

「……すごい」

 思わず漏れた声は、雑踏にあっさり溶けた。

 そのとき、視界の端に、ゆっくり空へ伸びていくものが映った。広場の奥、石畳の坂の先に、細いレールが斜面を貫くように続いている。それに沿って、小さな箱のような乗り物が、音もなく昇っていくのが見えた。

 ケーブルカー。

 なぜだか、すぐに分かった。そして、あれに乗れば高い場所へ行けることも。

 ――夜景は、あそこが一番きれいらしい。

 先ほどすれ違った誰かの言葉が、背中を押した。私は足先をそちらへ向け、人の流れに混じった。

 ケーブルカーの乗り場は、広場の喧騒から少し外れた場所にあった。簡素な屋根と、古びた看板。それでも列は途切れておらず、私は最後尾に並んだ。

 やがて箱が降りてきて、扉が開く。中は意外と広く、すでに何人か――いや、何匹かが乗り込んでいた。私が足を踏み入れると、扉は静かに閉じる。

 ぎい、ぎいと小さく軋む音。足元から伝わる振動は、列車とは違ってどこか現実的だった。例えるなら、これは船に近い。地面の上を進んでいるのに、静かな水面を渡っているような感覚があった。

「初めてかい?」

 金管楽器のようによく通る声がした。

 声の主は、私の斜め前に立っていた。細身の体に、落ち着いた色合いの外套。その奥から覗く顔は、狐だった。金色がかった毛並みと、切れ長の目。口元には、笑っているのかどうか分からない線が引かれている。

「え……あ、はい」

 答えると、狐の男は満足そうに頷いた。

「そうだろうね。この時期に来る人は、大抵そうだ。もっとも、ここへ呼ばれて来る人もいるけれど」

 呼ばれて。

 その言葉の意味を測りかね、私は黙って耳を傾けた。

「この街、ルチトクはね」

 狐の男は窓の外、ゆっくり遠ざかっていく広場を見下ろしながら続ける。

「月が、世界でいちばん近くに見える場所なんだよ」

「……近く?」

「そう。あの月が、だ」

 彼は顎で空を示した。巨大な満月は、まだ視界の大半を占めている。

「それを祝うのが<落月祭>。百年に一度、月がいちばん低く、いちばん近くまで降りてくる夜があってね」

 胸がわずかにざわついた。

「その夜は、四日後だ」

 狐の男はそこでようやく私を見た。その視線は、探るようでもあり、確かめるようでもあった。

「だから皆、浮かれている」

 おどけたように肩をすくめてから、彼はまた窓の外を見る。

「願いが叶うとか、失くしたものが戻るとか、まあ、そういう話が好きな連中が集まる祭りさ」

 失くしたもの。

 その言葉が、胸のどこかに引っかかった。

 ケーブルカーは頂上へ近づいていた。角度が緩やかになり、視界が一気に開ける。夜の街が、足元に広がった。

 無数の灯り。提灯、窓、屋台、道。ケーブルカーをつなぐレール。それらすべてを包み込むように、月の光が降り注いでいる。

 丘の上から見下ろすルチトクは、まるで巨大な舞台装置のようだった。私は息をするのを忘れ、ただその光景を見つめた。

「お嬢さん」

 狐の声が、意識の外から届いた。振り返ると、彼の細い目が薄く開いている。

「お嬢さんは、これからどこへ行くんだい?」

「私は……」

 答えられなかった。戻る方法を探す。それは目的だ。でも、ここでどこへ向かうべきかは分からない。何をすれば正解なのかも分からない。

 黙っていると、狐は不意に鼻で笑った。嫌味ではなく、ごく自然にこぼれた笑いだった。

「そうだな。それじゃあ、とっておきの情報を教えよう。この丘のはずれにある森を抜けた先に、小さな診療所がある。そこの医師を訪ねるといい。彼はお人好しだから、祭りの間、君を泊めるなんてこともあるかもしれない」

 ケーブルカーが減速する。狐は外套の襟元を軽く整え、揺れに身を任せるように体を傾けた。

「――ああ、着いたね」

 扉が開くと、夜風が一気に流れ込んできた。広場の熱気とは違う、ひんやりとした空気だった。

「ここから先は、君ひとりだよ」

 狐は私に場所を譲るように一歩下がった。戸口に立つと、街の灯りはもう少し遠くなっていた。

「さっき言った診療所だが」

 背後から狐の声が続く。

「森に入る手前に、小さな鐘が下がっている。それが見えたら、迷わず鳴らすといい。夜道を彷徨うより、よほど安全だ。祭りから離れているから、人通りが少ない」

「……ありがとうございます」

 振り返ると、狐はもう笑っていなかった。代わりに、どこか慎重な目をしていた。

「礼を言うほどのことじゃないさ。この街の住民は、どこかおかしいほど利他的だ。ここにいる間、それに当てられたのかもね」

 そう言って、彼は肩をすくめる。

「それに、落月祭の前に、その医師に会っておくのは悪くない。あの人は、変わり者が好きなようだから」

 意味ありげな言い方だった。問い返す前に、狐はもう背を向けていた。

「じゃあ、良い夜を。月に近づきすぎないように」

 そう言い残し、狐は丘の反対側、街灯りの方へ歩いていった。その背中は人混みに紛れる前に、夜の中へ溶けてしまう。

 私はしばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、深く息を吸い、吐く。

「……診療所、か」

 足元には、舗装された道が一本だけ伸びていた。街へ戻る道ではなく、丘の外れへ向かう細道だ。私はそちらを選び、歩き出した。

 数分も進むと、祭りの音は驚くほどあっさり遠ざかった。喧騒は風に薄められ、代わりに草を踏む音と自分の靴音だけが耳に残る。

 道はやがて土へ変わり、両脇には背の低い木々が増えていった。森の入口だった。

 月明かりはあるが、街灯はもうない。私はポーチの紐を握り直し、慎重に足を運ぶ。

 ――鈴の音。

 ごく小さな音が、風の隙間から届いた。

「あ……」

 顔を上げると、木々の間に一本の古い柱が立っていた。その先に、小さな鐘がぶら下がっている。狐の言葉を思い出す。

 少しだけためらってから、私は鐘に手を伸ばした。

 ちりん。

 澄んだ音が、夜に広がる。

 ほどなくして、林の奥から灯りが見えた。淡く、揺れる橙色の灯。

 それを頼りに、私は夜を歩いた。

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