そして、素晴らしい世界が見えますか?
――ようやくお前か。
昨晩の最後の言葉が、頭の中で繰り返された。眠ってはいけない。そう思っていた。冷たい水を飲んで、明かりをつけたまま布団に入り、意味もなく何度も時計を見た。けれど、眠気というものは、こちらの事情を考えてはくれない。必死に抵抗したはずの努力は、むなしく破れた。私は今夜もまた、あの夢の続きを見ている。しかも、これ以上ないほど最悪のタイミングで。
猿の顔が、目の前にあった。全身が警告を鳴らす。脈が早鐘のように打ち、視界が短く刻まれる。色彩とモノクロがかわりばんこに私の前へ顔を出し、世界の輪郭が何度も揺らいだ。前触れもなく現れた恐怖に、私はその場で固まっていた。
「……い」
遠くで声がする。現実の誰かが、私を起こそうとしているのかもしれない。そんな都合のいい願いにすがりつきたくなる。
「おーい」
返事をしたいのに、喉が動かない。
「おいってば」
その声に、ようやく意識が戻った。私はびくりと身体を震わせ、うつむいていた顔を上げた。そこには、昨晩見た猿が苛立ちを隠す様子もなく腕を組み、私を睨んでいた。
「人間と脳がひっくり返っちまったのかと思ったよ。ほら、お前の番だ。あんた、名前は」
「ひ……ひかり、です」
突然聞かれたせいで、素直に答えてしまった。言ってから後悔した。けれど、猿はそんな私の戸惑いなど気にも留めず、首から下げた箱の中をまさぐっている。
「ひかりだな。代金は……っと」
人語を流暢に話すどころか、笑えない皮肉まで交えてくる猿との会話。しかも、夢の中だというのに、その声も表情も妙に鮮明だった。現実ではありえないはずのものが、現実よりもはっきりしている。それが何より怖かった。
「……ああ、あんたからはもらわない話になってるんだったな。あと、これもつけてやれって言われてた」
猿は箱の中から、きっぷと一緒に肩掛けのポーチを取り出した。星の形をした、黄色いポーチだった。その瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。初めて見るはずなのに、知っている気がした。どこかでこれを肩にかけて、笑っていたような気がする。けれど、誰の前で笑っていたのかだけが思い出せない。記憶の底を覗こうとした途端、頭の中に白い霧がかかった。
「ほら、受け取れ」
本当に受け取っていいものなのか、判断できるほど落ち着いてはいなかった。けれど差し出されたものを拒む勇気もなく、私は恐る恐るポーチときっぷを受け取った。
「それじゃあな。良い旅を」
「はい……」
反射的に返事をしてしまった。そして私は、改札をくぐった。
それを境界に、世界が歪む。ぐにゃりと、色彩が丸ごと混ざり合った。見えていたものすべてが水に溶け、次の瞬間には別の景色へ塗り替えられていく。どこからか、踏切の音がした。カン、カン、カン。その音が鳴り終わる前に、私はまったく違う場所に立っていた。
「あ……」
声が自然と漏れた。目の前に横たわるそれを、列車と呼んでいいのかどうか、すぐには分からなかった。先頭だけを見れば、黒鉄の蒸気機関車だった。絵本や古い映画の中でしか見たことのない、時代がねじれたような姿。白い蒸気が立ちのぼり、無表情のヘッドマークだけが、そこだけ生き物のようにかすかに光っている。けれど視線を少し後ろへずらしただけで、私の理解は途切れた。
二両目は、見慣れた通勤電車のような緑のラインを持つ車両。その後ろには、真っ黒な布で覆われ、輪郭さえ飲み込んでしまう車両がつながっている。四両目は古い洋館の一室を切り取ったように優雅で、さらに後ろには、銀色の尾翼やロケットの推進部のようなものがのぞいていた。まるで、誰かが夢の中で拾い集めた乗り物を、無理やり一本につなげたみたいだった。
「まさか……これに乗るの?」
嫌な予感が胸をかすめた。それでも立ち止まれなかった。背後から、夢の空気そのものが私を押し出している。あの列の流れは、改札を抜けてもまだ私を解放してくれないらしい。
どの車両に乗るべきなのかを確かめようと、私は手元のきっぷを見た。そこに書かれている文字は、私の知るどの言語にも似ていなかった。文字なのか、記号なのか、あるいは模様なのかさえ分からない。困って周囲を見回す。そこは、さっきまでの古びた駅舎からは想像できない、現代的なホームだった。天井はガラス張りで、夜のせいか、その向こうには何も映さない暗闇が広がっている。人の気配はある。けれど、視界の中に誰もいない。緊張が限界に達して、私は一度しゃがみ込んだ。息を吐く。
そのときだった。
「お客様、何かお困りデスカ?」
突然の声に驚き、私は反射的に立ち上がった。振り返った先には、腰の高さほどのモルモットのような生き物が二匹、二足で立っていた。
「あ……かわいい……」
思わず声が出た。栗毛色と抹茶色のふわふわした体。つぶらな瞳。小さな手足。紺色の車掌帽のようなものをかぶり、ヘッドホンマイクまでつけている。
「あの……お困りデスカ?」
「あ、そうなんです。このきっぷ、どの車両に乗ればいいのか分からなくて」
私はきっぷを差し出した。一瞬、齧られたりしないだろうかと失礼な不安がよぎったが、きっぷはすぐに返された。
「大丈夫デス。列車はこちらデス。お席までご案内するデス」
先ほどまで胸を締めつけていた恐怖が、ほんの少しだけ薄れた。まるでテーマパークの案内係のようだ。そう思いかけた矢先、視界の端を何かが通り過ぎた。
人波だった。ただし、それを人と呼んでいいのかは分からない。周囲の景色は鮮明なのに、すれ違う者たちの身体だけが落書きの線のように歪んでいる。輪郭は崩れ、顔も手足も認識できない。歩いているのに、紙の上を這う黒い線の集まりのようだった。
息を呑む。けれど、案内役のモルモットたちは平然としていた。その落ち着いた様子が、目の前の異様さを少しだけ遠ざけてくれた。
私が案内されたのは、あの黒い布に覆われた三両目だった。一番乗りたくないと思っていた車両である。
「え、本当にここ? 間違ってない?」
「ハイ。間違いないデス。怖がらないで下さい。ここはお楽しみ車両なのデス」
何がお楽しみなのかを言わないところが、むしろ怖い。もしかして食べられるのでは、という失礼な想像が頭をかすめた。いやいや、こんなかわいい顔をしているのに、さすがにそれはない。私は慌ててその考えを振り払う。
ここまで来て、引き返す勇気もなかった。改札前の恐怖を越えてしまった以上、今さら逃げ道を探すこともできない。
「こちらデス」
私は片足を昇降部にかけ、思い切って車両へ乗り込んだ。中は薄暗く、足元以外はおぼろげだった。案内役の小さな背中に続いて進むと、車両の中ほど、窓際の席へ案内される。
「お客様のお席はこちらになります」
私は手探りで席へ移動し、そっと腰を下ろした。座席は、風船のように弾んだ。訪れるはずだった衝撃をやわらかく吸い込み、私の体を受け止めてくれる。
「それでは、列車は出発準備に入ります」
ヘッドホンマイクを通して合図が送られる。すると、車内に淡い色がゆっくりと満ちていった。
薄闇の中に、海底のような静寂が広がる。天井や通路には色とりどりの魚たちが泳ぎ、クラゲや光の粒が、まるで水の中にいるように漂っていた。光彩は割れたガラスの破片のように瞬き、私が手を振ると、私の影は魚たちの間に隠れ、また現れた。プロジェクションマッピングのような投影技術なのかもしれない。かもしれないけれど、仕組みなど分からなくても、目の前の光景が綺麗なことに変わりはなかった。
「どうデスか?」
小さな胸を張ったモルモットが、誇らしげにこちらを見る。
「すごく……きれい」
夢の中であることを忘れそうになった。秘密のベールに包まれたナイトアクアリウム。そんな言葉が頭に浮かび、私は文字通り、夢中になった。
間もなく、列車の出発を告げる放送が流れる。
『これより当列車は発車します。お席にお座りのまま、お立ちにならないようお気をつけください』
その言葉を合図に、車体へじわりと力が伝わる。蒸気が吹き上がり、車輪が回る。汽笛は優しくも力強く、唄うように鳴った。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
規則的な音が車内を満たす。長く止まっていた古びた時計に、再び命が吹き込まれたようだった。初めての感覚に胸が弾む。
ふと、私は真っ暗な窓の外を覗こうとした。
「やあ、お嬢さん」
低く柔らかい声が、通路の向こうから届いた。顔を向けると、そこには熊が座っていた。
いくつXがつけば表せるのか分からないほど巨大な黒いタキシードを身にまとい、片手でシルクハットを持ち上げている。もう片方の大きな手には、少し短めで不釣り合いなステッキが控えめにのぞいていた。
もう何が起きても驚かないつもりでいた。けれど、熊である。悲鳴が喉元まで飛び出しかけたが、目の前の紳士を怒らせてはいけない気がして、私はどうにかそれを飲み込んだ。
「こんばんは、熊さん。良い夜ですね」
自分でも少し固い笑顔になったと思う。けれど熊は満足げにうんうんと頷いた。
「確かに、今夜は良い夜だ。ひと時の出会いに」
そう言って、熊はステッキを持っていない方の腕を差し出した。通路を挟んだ向かいの席にいるはずなのに、その爪は私の喉元にも届きそうなほど鋭く光って見えた。
「手を出して」
声は見た目からは想像できないほど優しかった。すべてを包み込むような響きに導かれて、私は素直に手を差し出す。すると、熊の手のひらからふわりと花びらが舞い上がり、私の手の上へ落ちた。水色の、小さな花びらだった。
「わぁ……ありがとうございます、熊さん」
自然と笑みがこぼれた。熊もまた、飾り気のない柔らかな笑みを浮かべる。
「熊さん……と呼ぶのは失礼でしょうか。お名前を訊いてもいいですか?」
「ああ、僕は――あぁ、うぅん」
熊は快く名乗ろうとしたものの、途中で言葉に詰まった。
「どうしたんですか?」
「それがね、僕にはたくさんの名前があるんだ。その中からどれを答えようか迷ってしまってね」
たくさんの名前。私は不思議に思って首を傾げた。
「そんなにたくさん名前があったら、私だったら忘れてしまいます」
ぽつりと漏らした言葉に、熊は目を瞬かせた。
「なら、私から名乗りますね」
座席が小さく軋む。私は少し身を乗り出し、熊へ近づいた。
「私はひかり。……ひかりです」
名乗った瞬間、熊の体がわずかに震えたように見えた。
「ひかり、だね?」
「はい、そうです」
「教えてくれてありがとう、ひかり。それなら……そうだな」
熊はしばらく表情を変えながら悩んでいたが、やがて小さく手を叩いた。
「ハート。そうだ、ハートと呼んでくれ」
「ハートさん、ですか?」
「そう。熊の紳士、というのが通称なんだが、最近は呼ばれ飽きていたところでね。ちょうどいい」
その名は、彼によく似合っている気がした。
「それで、ひかりはこの列車に乗るのは初めて?」
「初めて……なんです。でも、笑わないで聞いてほしいんです」
不安げな私に、ハートは大きな胸を叩いてみせた。
「もちろん。ひかりが足の生えた人魚でも、ロボットでも、宇宙から来た侵略者だと言い出したって笑わないさ」
私はこれまでの出来事を話した。灰色の夢。古い駅。猿の駅員。読めないきっぷ。そして、この列車。ハートは黙って聞き終えると、ゆっくり頷いた。
「なるほどね。ここはひかりが見る夢の中……そうか。ところで、きっぷにはなんて書いてあったんだい?」
「きっぷ?」
「列車に乗ったなら、いずれ降りなきゃならない。途中で目覚めるならいいが、その様子もないんだろう?」
私は自分の頬をつねった。
「痛いです」
「だろうね」
軽く肩をすくめるハートをよそに、私は改めてきっぷを見た。
「それが、この文字……読めなくて」
きっぷを覗き込んだハートは、眉間に皺を寄せた。
「これは、僕にも読めない文字だね」
私は肩を落とした。モルモットたちに聞けばよかったのだ。けれど、あのときは混乱していて、そんな余裕はなかった。どこへ向かう列車なのか。私は、どこへ連れて行かれるのか。沈みかけた私に、ハートが言った。
「だが、読める者を知っているよ」
「本当ですか?」
「検札だ。運行中にきっぷを確認しに来る係員だよ」
私は顔を上げた。
「その人に聞けば、降りる駅が分かるんですね」
「そういうことだ」
胸に少しだけ安堵が戻る。
そのとき、ハートは私を上から下まで見て、何か言いにくそうに口を開いた。
「ただ……さっきからずっと気になっていたんだけど」
「なんでしょう?」
「ひかりの格好がパジャマなのは、直前まで寝ていたからなのかな?」
「えっ」
私は一瞬で顔が熱くなり、慌てて自分の格好を見下ろした。紛れもない寝間着だった。黄色いフリルの袖口が、現実の記憶を容赦なく突きつけてくる。
「ああ……どうしよう。こんな格好じゃ降りられない」
慌てる私へ、ハートが星型ポーチを指した。
「それなんだけど、そこに入っていないのかい?」
「え……?」
「それは魔法のカバンだよ。誰かがひかりのために用意した、特別なものだ」
私は肩から下がった星型ポーチを見た。誰かが、私のために。その言葉に、胸の奥がまた小さく痛んだ。
「欲しいものを思い浮かべながら手を入れてごらん。気まぐれでなければ、ちゃんと出してくれる」
深呼吸をして、ポーチに手を入れる。指先が硬いものに触れた。掴んで取り出した瞬間、息を呑む。宝石を散りばめた、魔法少女のようなコンパクトだった。
「これって……」
見覚えがあった。かつて大好きだったアニメ、『キャロットウィッチ リリィ・ペンシルベニア』の変身アイテム。けれど、思い出せたのはそこまでだった。これを誰と見ていたのか。誰が、これを私に差し出して笑っていたのか。そこだけが、霧に隠れて見えない。
「便利だよ。それは早着替えコンパクト。持ち主に最適な服を選んでくれるんだ。ただ、僕には似合わないけどね」
ハートの冗談に返事をする余裕もなく、私はそっと蓋を開いた。
「わわっ」
まばゆい光が私の体を包み、一瞬でパジャマの形を変えた。淡い水色のパーカー。左胸には星のマークが淡く光っている。ショートパンツは同系色で、裾には小さなフリルが揺れていた。
「どうですか? 似合ってますか?」
思わずはしゃぐと、ハートは優しく笑った。
「ええ、とても似合っているよ。ただ、危ないから座ろうね」
私は照れながら席へ戻った。
「ありがとうございます」
「似合うものには、似合う理由があるのさ。これで寒い場所でも平気だね」
私はポーチを見つめた。どうして、こんなものがここにあるのだろう。どうして、私はこれを懐かしいと思うのだろう。分からないことは増えるばかりだった。けれど、今ここで立ち止まっていても、答えが降ってくるわけではない。
「ハートさん。私、思いついたことがあるんです」
「ふむ。いったい何かな」
「どうやら、この夢の世界からすぐには出られそうにありません」
そう口にすると、怖さが少しだけ形を持った。けれど、形を持った恐怖は、見えない恐怖より少しだけ扱いやすい。
「だったら、駅から駅へ旅をしてみようかなって」
「おお」
「別の世界から来たのなら、戻る方法もどこかにあると思うんです。それを探してみようかなと思います」
言いながら、自分で自分の声に驚いていた。さっきまで怯えていたはずなのに、胸の奥には小さな高揚が生まれている。怖い。けれど、見たことのないものを見てみたい。そう思ってしまった。
ハートはゆっくりと大きく頷いた。
「それはいいね。駅から駅、町から町を訪ねてみるといい。ひかりが夢から目覚める方法も、きっと見つかるはずさ。ただ――」
声の調子が少しだけ低くなる。
「旅や冒険というものは危険なものだ。これがひかりの世界での冒険だったならまだしも、ここではひかりの常識は通用しないだろう。逆に、それが助けになることもあるかもしれないけれど、ほとんどはよくない意味で、だ」
私は少し怖気づいた。けれど、いずれにせよ、この列車をいつかは降りなければならない。誰もがそうだ。私だって。その言葉を胸の中で繰り返すと、少しだけ恐怖が薄れた。
「私、大丈夫です。世界の果てまででも、行ってみせます。後先なんて、今は考えてないんですけど」
言葉に詰まった私の頭に、突然やわらかいものが降ってきた。ハートの大きな手のひらだった。
「いいじゃあないか。今のひかりなら、長い長い線路を歩いていけるはずさ。そうだ、それなら僕から餞別をあげよう」
さっきの花びらは、お嬢さんに。これは、冒険の旅へ出る旅人に。そう言って、ハートは私へ小さな機械を渡した。
「これは……」
手のひらに収まるミュージックプレイヤーだった。ハートの見た目には少し似合わない、コードのきれいにまとめられたヘッドホンも一緒にある。
「それも魔法の道具だよ。耳にかければ、必要なときにだけ音楽を流してくれる。怖い声を聞きたくないときも、少し疲れたときも、そっと助けてくれるんだ」
試しにヘッドホンをつけ、再生ボタンを押してみる。何も聞こえなかった。不思議そうにする私を見て、ハートは苦笑した。
「今のひかりは、助けを必要としていないからね。少し気まぐれなことが難点だけど、悪い奴じゃないよ」
私はミュージックプレイヤーを見下ろした。初めて触るはずなのに、指が自然とボタンの位置を覚えているような気がした。誰かがこれを私の手に握らせて、笑っていたような気がする。また、思い出せない。
『間もなく、<ドコカ>、<ドコカ>。お降りになるお客さまは降車のご準備をお願いします』
車内アナウンスが流れた。私は耳を疑った。この列車がどこへ着くのか、車掌はおろか運転手さえ知らないのだろうか。それとも、そんな名前の駅が本当にあるのだろうか。戸惑ってハートを見ると、彼は「ほらね」とでも言うように肩をすくめた。
「さて、ひかり。僕はもう行かなくちゃ。しばしのお別れさ」
「え。ここで降りるんですか?」
ハートは立ち上がろうとしていた。こんなところで降りるのか、という気持ちが顔に出てしまったのだろう。彼は小さく笑った。
「ひかりと一緒さ。僕も旅の途中、というわけだ」
それなら邪魔をするわけにはいかない。そう思ったのに、胸の中に突然寂しさが広がった。私は笑顔が下手にならないように意識して、どうにか口角を上げる。
「また、会えますよね?」
そう訊くと、ハートは私と同じような顔になった、ような気がした。
「ああ、もちろんさ。それじゃあね、ひかり。良い夢を」
「はい、ハートさん。良い夢を」
昇降口へ消えていくハートを見送る頃には、<ドコカ>への到着を知らせるアナウンスが車内に響いていた。ホームを歩くハートを見ようとして窓を覗いたけれど、その先には暗闇しかなかった。
再び列車が動き出す。私は座席へ戻った。さっきまでいた話し相手がいなくなるだけで、時間は急に長くなる。けれど、私にはハートとの出会いによって、大きな目標ができていた。
元の世界へ戻る方法を探す。この夢の世界を、駅から駅へ旅する。そう自分に言い聞かせていると、再び車内アナウンスが届いた。
『ご連絡いたします。この列車は間もなく<飛行区間>に入るため、高度が上昇いたします。危険ですので、ご着席のまま、お手元にございますシートベルトの着用をお願い申し上げます』
私は、聞き返したいような、聞き返したくないような気持ちで、ハートの消えた昇降口を見つめた。同時に、列車の後部に搭載されていたものを思い出す。あのロケットのような噴射口。
先頭から汽笛が聞こえた。それを合図に、車両後部からとてつもない推進力が押し寄せる。あくまで私の感じ方ではあるけれど、何か巨大な手で背中を突き飛ばされたようだった。慌てて傍らのシートベルトを装着する。
想像の中で、列車は翼もないのに弾むように持ち上がった。車輪は線路から、地面から、当たり前のように離れていく。暗闇ばかりの窓からは外の様子が見えない。そのせいで、余計に恐ろしい。途中でレールが消えたジェットコースターに乗っているようなものだった。
どうせ常識の外にいるなら、もう思うようになればいい。半ば開き直った私は、握りしめていたミュージックプレイヤーとヘッドホンを身につけた。目をつむり、なりふり構わず再生ボタンを何度も押し、ヘッドホンの耳当てをぎゅっと押さえる。
最初に聞こえたのは、優しいアルペジオだった。何かが流れ込んでくる。次の瞬間、脳を揺り動かすようなシンセサイザーとエレキギターが鳴った。強い音圧。胸を突き抜けるメインテーマ。音楽が私の頭の中を満たし、不安を塗りつぶしていく。体のどこかにぽっかり空いていた隙間へ、音が流れ込んでくる。その隙間がすべて埋まったわけではない。けれど、少しだけ呼吸ができるようになった。
私は目を見開いた。
「思い、だした……」
――この曲、良いだろう? 俺のお気に入りなんだ。ひかりもいつか、この窓から空を見上げたとき、この曲を聴いてくれたら嬉しいな。
――このポーチ、ひかりにやるよ。ひかりはいつもそそっかしいからな。大事なもの、しまっておけよ。
――お前、これ好きだっただろう? え、もう見てないって? 女の子って、成長早いんだなあ。
記憶が、音に引っ張られて浮かび上がってくる。ポーチも、服も、コンパクトも。それを私にくれた人がいた。笑って、少し困ったように頭をかいて、それでも私のことを見ていてくれた人がいた。
「……兄さん」
声は震えていた。なぜ忘れていたのだろう。こんな大事なことを。それらが今、どうしてここにあるのかは分からない。けれど、閉じた目の隙間から、雫がぽろり、ぽろりと落ちていった。
「兄さん……どこに行っちゃったの」
絞り出した声は、自分の耳には届かなかった。
曲は佳境へ向かっていく。語りかけるようなボーカル。身体の奥を叩くベースとドラム。音が、線路のない列車にリズムという道を示しているようだった。イントロを越え、メロディーが体の中へ入り込む。感覚がほどけていく。世界が、少しずつ溶けていく。
『当列車は予定されていた高度へ到達いたしました。安全で快適な空の旅を、お楽しみください』
アナウンスは流れていたらしい。けれど、それは私の耳には届かなかった。やがて列車は、正常な重力と安定した揺れを取り戻した。私自身も少しずつ落ち着きを取り戻していく。
ゆっくりと目を開き、ふと窓の外を見た。そこには、星々と暗闇で描かれたモノクロのキャンバスが広がっていた。輝きは点いては消える。一瞬ごとに完成し、一瞬ごとに未完成へ戻る絵画のようでもあり、遠く瞬く生命のようでもあった。
私は窓辺へ引き寄せられた。耳に残っている歌詞の中で一番好きな部分を、小さく口ずさむ。この瞬間のために、兄がこの曲を用意してくれていたような気がした。少しだけ、嬉しかった。
光も、星も、暗闇も、時間さえ。この歌が、すべてを変えて、置き去りにしていく。
列車は空を駆けていた。
私はその窓から、初めて見る世界を見ていた。




