SOSを歌って
先日の夢から、数日が経った。誰もが何かに取り憑かれたように並んでいる、その列の終着点を、私はようやくはっきりと認識した。そこには、大人の男性と変わらない体格の猿がいた。
濃紺の帽子に、着古したスーツ。人間ならば駅員と呼んでしまいそうな格好で、猿は列の先頭に立っていた。首から下げた紐の先には浅い箱がぶら下がっており、その中から小さな長方形の紙――きっぷを一枚ずつ取り出しては鋏を入れ、先頭の者へ淡々と手渡している。あまりにも自然な仕草だった。だから私は、この古びた建物を駅なのだと理解した。猿は、駅員なのだ。夢の中の理屈は、ときどき現実より強引に物事を納得させてくる。
初めて見る光景のはずなのに、そこにあるものは現実よりも鮮やかだった。私の足は、後ろから押されるように勝手に前へ進む。人々は当たり前のようにきっぷを受け取り、古ぼけた改札へと消えていく。猿もまた、それが自分の仕事であるかのように、同じ動作を繰り返していた。ただ、その瞳の奥だけが妙に赤く、血走っているように見えた。
――まだ目覚めないの。
私は恐ろしくなって、猿から視線をそらした。
目の前には木造の駅舎があった。くすんだ赤に白を混ぜたような屋根が、曇り空の下で静かに沈んでいる。改札の脇には、現代ではほとんど見かけなくなった待合室があった。改札を通らずに入れる造りは、誰かの帰りをそこで待つためのものなのだろう。薄汚れた傘立て。文字の滲んだ新聞を挟んだラック。時代に取り残されたことを、恥じるどころか受け入れてしまったような沈黙が、そこにはあった。
駅舎の横には、ひしゃげたバス停が倒れかけている。まるで車に衝突されたかのように支柱が歪み、その隣には背もたれの割れたベンチが置かれていた。壊れたものばかりだ。それらがみんな、声にならない声で助けを求めているように見えて、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
――私も、助けてほしい。
そんなことを思った瞬間、旅行雑誌で見た国内最南端の単線の駅を思い出した。あれは誰に借りた雑誌だっただろう。思い出そうとしたけれど、夢の中の記憶は水の中に落とした紙みたいにふやけて、うまく掴めなかった。
無人の窓口へ目を向ける。薄い水色のカーテンで中は隠され、アクリル戸に開いた会話用の穴は埃をかぶっていた。窓辺には、紅い花がひとつ飾られている。おそらくドライフラワーだ。生きてはいないのに、そこだけが妙に鮮やかで、私はしばらく目を奪われた。
その赤に引き寄せられていたとき、背後から列が詰まった。仕方なく数歩進む。気づけば、私はもう先頭から二番目にいた。
胸がきゅっと縮んだ。逃げ場はどこにもない。列から外れようにも、後ろの人々は私の存在など見えていないかのように、ただ前へ進み続けている。呼吸が浅くなる。気を紛らわせようとしても、不安だけが胸の奥でじわりと広がっていく。
――さめろ、さめろ、さめろ。お願い、さめて。
声にならない声が、喉の奥で震えた。
すべてがゆっくり進んでいく。前の人物がきっぷを受け取る。改札へ歩く。背中が薄暗い駅舎の中へ溶ける。そして、私の番が来た。
猿が、ぎぎ、と錆びた歯車のような音を立てて顔をこちらへ向ける。頬の端がゆっくりと吊り上がり、口もとに歪んだ笑みが浮かんだ。その顔を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。猿は、私を待っていた。そんな気がした。
――ようやくお前か。
その声が、耳で聞こえたのか、頭の中に直接落ちてきたのかは分からない。
次の瞬間、私は現実へ引き戻された。
見慣れた天井が視界に入る。荒れた呼吸をどうにか整えながら、私は布団の中で手を握った。夢だったことに安堵しているのに、どこかで「夢であってほしい」と願っている自分がいて、そのことが少し怖かった。
枕元の時計は、午前零時零分を示していた。
日付が変わった。
私は、静かに十六歳になった。
祝ってくれる声はなく、ただ夢の猿の笑みだけが、まぶたの裏に張りついていた。




