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悲しみは消える

 どれくらい、そうしていたのか分からない。

 桜の花びらは、風もないのに降り続けていた。

 雪ではなかった。

 冷たくも、痛くもない。薄く、やわらかく、触れればすぐに壊れてしまいそうな花びらが、カイの肩に、外套に、閉じられた瞼の上にそっと落ちていく。

 カイは眠っているようだった。

 もう苦しそうではなかった。

 吹雪の中で何度も息を詰まらせ、身体の熱を失い、それでも前へ進もうとしていた姿が嘘のように、今のカイの顔は静かだった。

 桜の下で、遠い旅の続きを夢に見ているようだった。

「ここに、いられるの?」

 私が訊くと、アリスはカイを見つめたまま頷いた。

「うん。ここなら、春が見える」

「ずっと?」

「ずっと、とは言えないよ。どんな場所も、同じままではいられないから。また冬が来る時には戻さないと」

 アリスは膝をつき、カイの外套に残っていた雪を指先で払った。

「でも、彼が見たかったものは、ここにある」

 桜の花びらが、アリスの髪にも落ちる。

「彼がここへ辿り着いたことも、なくならない」

 私はカイの手を握っていた。

 さっきまで冷たさしか感じられなかったその手は、今は桜の花びらに覆われている。温かいわけではない。けれど、不思議ともう、雪の中に取り残されたもののようには思えなかった。

「私、本当に連れてこられたのかな」

 声にすると、喉が痛んだ。

「カイを」

 アリスは私を見た。

 蜂蜜色の瞳が、春の光の中でやわらかく揺れている。

「ひかりが連れてきたんだよ」

「でも」

 言葉が喉につかえた。

「もっと早く歩けたら」

「うん」

「橇を壊さなかったら」

「うん」

「最初から、もっと上手にできていたら」

「うん」

「カイは」

 その先を言えなかった。

 アリスは私の言葉を遮らなかった。

 違うとも、大丈夫とも言わず、ただ待ってくれた。

「生きていてほしかった」

 ようやく出た声は、ひどく小さかった。

「うん」

「でも、カイはここへ来たかった」

「うん」

「どっちも、本当なの?」

「本当だよ」

 アリスの声は、魔女の国で聞いた少女の声より少し低く、穏やかになっていた。けれど、そこには確かに、私が知っているアリスの気配があった。

「本当のことは、一つだけじゃない」

 アリスは言った。

「助けたかったことも、辿り着けたことも、悲しいことも、よかったと思えることも、全部一緒に残る」

 私はカイの顔を見た。

 頑張ったね。

 ありがとう。

 口にした言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 足りない気がした。

 どれだけ言っても足りない気がした。

 それでも、言えたことだけは、きっとなくならない。

 アリスは桜の幹に手を触れた。

 その指先から、細い線が伸びる。

 さっき世界を変えたものより、ずっと小さく、静かな線だった。線は桜の根元をなぞり、カイのまわりへゆっくり円を描いていく。

 すると、地面から若い草が伸び始めた。

「何を」

「彼が休める場所を作るだけ」

 アリスはそう言った。

「寒くないように。見たかったものを見ながら、眠れるように」

 草はカイの身体を隠さなかった。

 ただ、雪に濡れた外套の下へ春を敷くように、やわらかく広がっていく。その上へ桜の花びらが積もる。

 白く、薄く、そして静かに。

 私はカイの手を、最後にもう一度だけ強く握った。

「カイ」

 返事はない。

「私、行くね」

 それでも言った。

「教えてくれたこと、忘れない」

 歩き方。

 火の扱い。

 戻ること。

 印を残すこと。

 縄の結び方。

 怖いままでも歩くこと。

「全部、忘れません」

 花びらが落ちる。

「カイがいなかったら、私はここまで来られなかった」

 声が震えた。

 それでも、最後まで言った。

「だから、ありがとう」

 カイは何も言わなかった。

 けれど、その顔はやはり穏やかだった。

 私はゆっくり手を離した。

 立ち上がろうとした瞬間、足から力が抜けた。

 アリスがすぐに私の肩を支えてくれる。私は情けないくらい簡単に、その腕へ寄りかかってしまった。

「歩ける?」

「歩けます」

「嘘が下手だね」

 私は小さく息を呑んだ。

 その言い方が、カイに少し似ていた。

 アリスもそれに気づいたのか、寂しそうに笑った。

「少し休んでからでいいよ」

「でも」

「大丈夫」

 アリスは桜の向こうへ目を向けた。

「列車は、必要な時に来るから」

 列車。

 その言葉を聞いた瞬間、遠くで汽笛が鳴った。

 私は顔を上げた。

 桜の向こうに、線路が見えた。

 さっきまではなかったはずだ。

 青々とした草の間を、二本の銀色の線が伸びている。山と川と木々の間を抜け、どこか遠くへ続いていた。

 線路の先には、薄い煙が上がっている。

 ガタ、ゴト。

 懐かしい音が聞こえた。

 どこか頼りなくて、不思議で、それでも私を次の場所へ連れていく音だった。

「また、列車に」

「うん」

「アリスは?」

「私はここに残るよ」

「ここに?」

「季節を届けるのが、今の私の役目だから」

 アリスは桜を見上げた。

「この場所は、神の国じゃない」

「違うんですか」

「少なくとも、誰かの願いを何でも叶えてくれる場所じゃないよ」

 私はカイを見た。

「じゃあ、カイが見たものは」

「春だよ」

 アリスは答えた。

「雪が溶けて、土が見えて、花が咲いて、水が流れる。ここで起きているのは、それだけ」

「それだけ……」

「でも、誰かにとっては、それが神様みたいなものなんだと思う」

 アリスの瞳が、遠くの山を映していた。

「長い冬を歩いてきた人にとって、春が来ることは、当たり前じゃないから」

 私はカイの顔を見た。

 カイは最後に、何を見たのだろう。

 私には春が見えた。

 桜が見えた。

 山と川と木々が見えた。

 けれど、カイにはきっと、そこにもっとたくさんのものが見えていた。

 四つ並んだ星。

 遠い昔の友たち。

 同じ場所を目指して歩いた道。

 果たせなかった約束。

 何十年も消えずに残っていた、辿り着く理由。

 カイは最後に、神はいたと言った。

 それが本当の神だったのか、私には分からない。

 けれど、カイがそう見たのなら、それでいいのかもしれないと思った。

「ひかり」

 アリスが私の名を呼んだ。

「行こう」

「はい」

 私は一歩踏み出した。

 足は痛んだ。

 肩も、腕も、指先も、すべてが重い。

 それでも、歩けた。

 雪道ではない。

 今度は、草の上だった。

 靴の下でやわらかく沈み、すぐに戻る。歩いても足が深く沈まない。

 暖かい。

 花の匂いがする。

 土はやわらかい。

 水は凍っていない。

 カイが話してくれた春の感触を、私は今、遅れて知った。

 線路へ向かう途中、私は何度も振り返った。

 桜の下に、カイがいる。

 花びらが降り続けている。

 その姿が見えなくなるのが怖くて、私は何度も足を止めた。

 そのたびに、アリスは何も言わずに待ってくれた。

 やがて、線路のそばに小さな待合所が見えた。

 駅というには、あまりにも小さい。

 木で作られた低い屋根と、古い椅子が一つあるだけだった。横には小さな標識が立っている。標識には、ひらがなで何かが書かれていた。

 けれど、涙で滲んで、よく読めなかった。

 列車は、もう来ていた。

 黒い車体が春の光を受け、静かに停まっている。煙突からは白い煙が上がっていた。

 扉は開いている。

 誰かが乗れと言っているようだった。

「ひかり」

 アリスが、私の手を握った。

「また会える?」

 私は訊いた。

 アリスは少しだけ考えるように目を伏せた。

「きっと」

「きっと、なんですね」

「うん」

 アリスは指先を上げた。

 空中に、小さな線が現れる。

「だって、私はもう線を引けるから」

 そう言って、アリスは微笑んだ。

 その笑顔は、私の知っているあの子と同じだった。

「アリス」

「うん」

「会えて、よかった」

 アリスの瞳が少しだけ揺れた。

 彼女はもう一度、私を抱きしめた。

 今度は短く、けれど強く。

「私もだよ」

 耳元で、アリスが言った。

「ひかりが、ここまで来てくれてよかった」

 私は頷いた。

 言葉にしたら、また泣いてしまいそうだった。

 アリスの腕から離れ、列車の扉へ向かう。

 乗り込む前に、私は最後にもう一度だけ振り返った。

 桜の木が見える。

 その下に、カイがいる。

 春の中にいる。

 私は深く息を吸った。

 花の匂いがした。

「さようなら、カイ」

 小さく呟く。

「またね、アリス」

 アリスは線路の向こうで手を振っていた。

 私は列車へ乗り込んだ。

 扉が閉まる。

 ガタ、ゴト。

 列車がゆっくり動き出した。

 窓の外で、春の景色が流れていく。

 山が遠ざかる。

 川が光る。

 桜の花びらが風に舞う。

 その中で、一枚の花びらが窓の外を追いかけるように流れてきた。

 私は硝子に手を当てた。

 花びらは向こう側で少しだけ揺れ、それから春の光の中へ消えていった。

 胸の奥が痛かった。

 でも、その痛みの中には、確かに温度があった。

 カイは辿り着いた。

 私は連れてきた。

 そして、また進まなければならない。

 列車は春の国を離れ、ゆっくりと次の暗がりへ向かっていった。

 

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