天の魔女
「待ってたよ、ひかり」
私の名を呼んだ声の主は、その瞳を蜂蜜色に輝かせていた。
息が止まりそうになった。
知らない女の人だった。
少なくとも、私はその人を知らない。長い髪は火の光を含んで淡く揺れ、白い頬には雪の気配がない。外の吹雪とは切り離されたように、彼女のまわりだけがやわらかな温度を持っていた。
けれど、その瞳を見た時、私はまったく知らないとも思えなかった。
蜂蜜色の瞳。
それから、どこか懐かしい声。
あの国で出会った、あの子に似ている気がした。
「あなたは」
声を出そうとして、喉が擦れた。
女の人は立ち上がった。
その動きは静かだった。けれど、次の瞬間には私のすぐそばにいて、雪と風と苦しさで強張った身体を、そっと抱きしめていた。
「ようやく会えた」
耳元で、彼女が言った。
「本当に、ようやく」
私は動けなかった。
知らない人に抱きしめられているはずなのに、怖くなかった。むしろ、長い旅のどこかで置き忘れてきた温度を、突然返されたような気がした。
けれど、気を抜いている場合ではない。
私の肩には、まだカイの重さが残っている。
「カイが」
私は彼女の腕の中で声を絞った。
「カイが、もう」
女の人は私から少し離れ、カイを見た。
カイは入口のそばで壁にもたれていた。立っているというより、倒れないためにそこへ引っかかっているようだった。外套には雪が貼りつき、息は浅く、目の焦点も揺れている。
女の人の表情が、ほんの少しだけ沈んだ。
「月光欠乏症だね」
「知っているんですか」
「知ってる」
「治せますか」
私は訊いた。
訊くしかなかった。
ここにいるのが誰であれ、私の名前を知っていて、こんな吹雪の奥の小屋にいて、外とは違う温度を持っている人なら、何かできるのではないかと思った。
思いたかった。
けれど、女の人はすぐに首を振った。
「ごめんね」
その声は静かだった。
「それは、私には治せない」
私は言葉を失った。
治せない。
ここまで来ても。
この小屋に辿り着いても。
暖かな火があって、花の匂いがして、この人が私を待っていたとしても。
カイは治らない。
「そんな」
「ひかり」
カイの声がした。
細く、掠れていた。
私はすぐに振り返った。
「カイ」
「いい」
「よくないです」
「いいんだ」
カイは壁に片手をつき、何とか顔を上げた。その目は女の人へ向いていた。もう立っているだけで精一杯なのに、その眼差しだけは、まだ折れていなかった。
「ここは」
カイは息を吸った。
その音が、ひどく苦しそうだった。
「ここは、神の国じゃないのか」
女の人は、しばらくカイを見ていた。
火が小さく鳴る。
外では吹雪が壁を叩いている。
小屋の中には、乾いた草と花の匂いが満ちている。
それなのに、誰もすぐには答えなかった。
「これも運命だね」
やがて、女の人はそう溢した。
その言葉は、ため息のようでもあり、遠い記憶に触れた声のようでもあった。悲しそうなのに、泣いてはいない。懐かしそうなのに、喜んでいるわけでもない。
私はその表情を見て、ますますこの人が誰なのか分からなくなった。
ただ、あの子と深く繋がっている人だと思った。
魔女の国で、線を引くことに怯え、それでも必死に手を伸ばしていたあの子と。
「外へ行こう」
女の人が言った。
私は耳を疑った。
「外?」
「うん」
「無理です」
私は即座に首を振った。
「カイはもう立っているのもやっとなんです。今また外へ出たら」
「ひかり」
カイが私の名を呼んだ。
私は振り返る。
カイは壁に寄りかかりながら、私を見ていた。苦しそうだった。今にも膝から崩れそうだった。
それでも、彼は頼むように目を細めた。
「連れていけ」
「でも」
「頼む」
その一言で、私は何も言えなくなった。
カイは今まで、そんなふうに頼まなかった。
命令はした。
止めろとも言った。
置いていけとも言った。
けれど、頼む、とは言わなかった。
私は唇を噛んだ。
外は吹雪だ。
何も見えない。
ここまで来るだけで、私たちは壊れかけた。橇はもうない。カイは歩けない。私は支えるだけで精一杯だ。
なのに、もう一度外へ出るなんて、正気ではないと思った。
それでも、カイは見たいのだ。
見えないまま終わるのは嫌だと、言ったのだから。
「……分かりました」
私はカイのそばへ行った。
「でも、少しでも危なかったら戻ります」
「それでいい」
カイの腕を肩へ回す。
小屋へ入る前よりも、さらに重く感じた。力が入っていないからだ。私は縄をほどき直し、自分の身体とカイの身体をもう一度結ぶ。
何度も教わった結び方が、今は指だけで動いた。
女の人は、それを黙って見ていた。
そして、少しだけ微笑んだ。
「上手になったね」
私は顔を上げた。
「あなたは」
「今は、外へ」
それだけ言って、彼女は扉へ向かった。
扉を開けると、吹雪が小屋の中へ流れ込んだ。
暖かかった空気が一瞬で白く裂ける。火が揺れ、壁の青い布が大きく震えた。私はカイを支え直し、息を吸う。冷たい空気が喉を刺した。
外は、やはり真っ白だった。
どこまでも白い世界だった。
山もない。
川もない。
木々もない。
小屋のすぐ外に出ただけで、世界の輪郭が消えていく。
女の人は、その白の中へ進んだ。
吹雪は彼女の髪を揺らした。けれど、彼女の足取りは乱れなかった。まるで風が、彼女だけを避けているようだった。
彼女は片手を上げた。
その指先が、空中をなぞる。
線が引かれた。
私は息を呑んだ。
魔女の国で見た線とは違った。
迷いながら、震えながら、途切れそうになっていたあの線ではない。目の前に現れた線は、白い吹雪の中で真っ直ぐに光り、細いのに折れず、淡いのに消えなかった。
誰かに支えられながらではない。
自分の力で世界に刻まれる、完成された線だった。
女の人の手が、もう一度動く。
一本の線が、二本になり、三本になり、吹雪の中へ広がっていく。線は地面を走り、空を撫で、白い風の奥へ潜り込んだ。まるで、この真っ白な世界の下に眠っていた形を、一本ずつ起こしているようだった。
カイが、かすかに顔を上げた。
「……これは」
私は答えられなかった。
女の人が手をかざす。
その瞬間、世界は色を変えた。
雪が溶けた。
白い地面の下から、黒い土が現れる。凍りついていたはずの表面がほどけ、濡れた匂いが一気に立ち上がった。足元の雪が水になり、細い流れを作って下っていく。その水は石の間を抜け、やがて一つの川へ繋がった。
土が芽吹いた。
最初は小さな点だった。けれど、それはすぐに緑の線になり、細い葉となって地面を覆っていく。雪に閉じ込められていた場所から、次々に草が伸びる。硬かった世界が、やわらかな息を吹き返していく。
花が咲いた。
名も知らない小さな花が、足元から斜面へ、斜面から谷へ、波のように広がっていく。吹雪に掻き消されていた甘い匂いが、今度ははっきりと空気を満たした。
山が青くなった。
さっきまで見えなかった山々が、白い幕の奥から姿を現す。雪を脱いだ斜面には深い緑が広がり、木々が立ち上がっていた。枝には若い葉が揺れ、遠くの山肌まで青々と続いている。
川が流れていた。
谷の底を銀色の流れが走り、光を受けてきらめいている。水の音が、もう吹雪に混じる細い音ではなく、世界そのものを満たすような響きになっていた。
私は立ち尽くした。
さっきまで、そこには何もなかった。
真っ白だった。
ただの吹雪だった。
けれど今、目の前には山があり、川があり、木々があり、花があった。
布に縫われていた景色。
石に刻まれていた願い。
旅人たちが遠くから神の国と呼んだもの。
それが、私たちの目の前に広がっていた。
「アリス……」
声が漏れた。
女の人が振り返る。
蜂蜜色の瞳が、春の光を受けて揺れていた。
その顔は、私が知っている少女よりずっと大人びている。
けれど、その笑い方を私は知っていた。
「久しぶり、ひかり」
アリスは言った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
けれど、名前を呼び返すより早く、肩に掛かっていた重さが動いた。
「あぁ……」
カイの身体から、ふいに力が抜けた。
私は慌てて支えようとした。
けれど、カイは私の肩から腕を外し、足元の草を掴むように膝をついた。
「カイ」
彼は立とうとしているのではなかった。
倒れそうになりながら、それでも前へ進もうとしていた。
「カイ!!」
私は追った。
何が起こったのか、分からない。
けれど、カイほどの者が取り乱している。
私が追うには、それだけで十分だった。
カイの身体は、もう傷だらけだった。
本来なら、もう動けるような身体ではなかった。
それでも、彼は草を掴み、土に爪を立てるようにして、斜面を下りていく。転び、崩れ、何度も肩を地面に打ちながら、それでも止まらなかった。
斜面の先に、一本の大きな桜があった。
青々とした山々の中で、その木だけが淡い色の花を咲かせている。
花びらは風もないのに舞い、柔らかな光を含んでいた。
カイは、その桜の下へ辿り着いた。
「カイ……?」
私が追いついた時、カイは幹へ背を預けるように座り込んでいた。
息は途切れ、目は春の景色の向こうを見ている。
「やっと……」
カイの口元が震えた。
「やっと、辿り着いた」
「はい」
私はカイの身体を支えた。
「辿り着きました。カイ」
「俺は……」
カイは桜を見上げた。
その瞳に、花びらと空の光が映る。
「俺は、やったぞ……」
声が震えた。
苦しさではない。
押さえ込んできた何かが、もう抑えきれずに溢れたような声だった。
「あぁ……あぁ……!」
こんなカイの声を、私は初めて聞いた。
何十年も背負ってきたものが、その声の中でほどけていくようだった。
私はカイの腕を強く掴んだ。
「カイ」
返事はない。
「カイ、私を見てください」
私は彼の前へ回った。
虚ろだったカイの瞳が、ゆっくり私へ向けられる。
ほんの一瞬だけ、その焦点が合った。
カイは私の顔ではなく、瞳を見ていた。
そして、わずかに目を見開いた。
「その、目……」
「私の目?」
カイの指が僅かに動いた。
私の頬へ触れようとしたのかもしれない。
けれど、その手は途中で止まり、草の上へ落ちた。
「よく、似てる」
「誰にですか」
カイの口元が、かすかに緩んだ。
懐かしいものを見つけたような、悲しい笑みだった。
「あいつに……」
「カイ?」
私は彼の身体を揺らした。
「誰ですか。誰に似ているんですか」
カイはもう、私を見ていなかった。
瞳は桜の向こうへ戻っていた。
そこに、私には見えない誰かがいるようだった。
「アンリ……」
カイが呼んだ。
「フーダ……」
風がないのに、桜の枝が揺れた。
花びらが、カイの肩へ落ちる。
「ユウガ……」
その名に、胸の奥が小さく震えた。
けれど、考える余裕はなかった。
カイは残された息を集めるように、胸を大きく上下させた。
「俺は……」
声が途切れる。
「俺は、来たぞ」
桜の花びらが、カイの頬へ触れた。
「お前らと……来られなかった場所へ」
カイは春の景色を見つめていた。
そのすべてを瞳の中へ残そうとしているようだった。
「ちゃんと……あった」
カイの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「神は……いたぞ」
それが、誰かを本当に神と呼んだ言葉なのか。
春を見たことを、そう言っただけなのか。
私には分からなかった。
カイの身体から、ゆっくり力が抜けていった。
「カイ」
私は呼んだ。
返事はない。
「カイ」
もう一度呼ぶ。
カイの瞳から光が消えていく。
「カイ!!」
私は彼の身体を抱き締めた。
戻ってきて。
カイ。
そっちに行ったら。
もう、私の声が聞こえなくなる。
でも、声は届かなかった。
カイは桜の下で、静かに息を止めた。
苦しそうだった顔は、もうどこにもなかった。
長い旅を終え、ようやく眠りについたような、穏やかな顔だった。
「ひかり……」
背中から声が掛けられた。
アリスだった。
「アリス……」
私はカイを抱えたまま、振り返れなかった。
「カイが」
声が喉に引っかかる。
「カイが、もう」
カイは、命の火を燃やし尽くしていた。
もう、私に何も言ってはくれなかった。
アリスが、私のそばへ膝をついた。
「彼は、辿り着いたんだ」
アリスは静かに言った。
「死にたかったわけじゃない。ここへ来るところまで、生き切ったんだと思う」
「でも」
私はカイの外套を握りしめた。
「生きていてほしかった」
「うん」
「まだ、聞きたいことがあった」
「うん」
「もっと話してほしかった」
「それも、本当だよ」
アリスは私の言葉を否定しなかった。
「悲しいことも、辿り着けたことも、どちらもなくならない」
私はカイの顔を見た。
その表情は、とても穏やかだった。
「カイ……」
私は強く抱き締めた。
ずっと助けてくれた。
色んなことを教えてくれた。
怖いままでも歩けと、言ってくれた。
歩けない者を運ぶなら、泣くのは後だと教えてくれた。
私はカイをここまで連れてきた。
そして今、もう歩かなくてよくなったカイを抱いている。
悲しさに呑まれてしまいそうな私を、アリスが背中から包み込んだ。
「ひかり」
アリスの声が耳元で震えた。
「頑張ったねって、言ってあげて」
私は唇を噛んだ。
「きっと、彼もそう言ってほしいはずだよ」
そうだ。
私は彼に、まだ伝えられる。
返事はなくても。
もう声が届かなくても。
言わずに終わらせたくはない。
渇いた喉から、掠れた声を絞り出す。
「カイ……ありがとう」
涙が頬を伝った。
「頑張ったね」
声が震える。
「カイがいたから、私もここまで来られたよ」
カイは何も言わなかった。
けれど、春の風が初めて吹いた。
桜の花びらが一枚、私の涙の痕へ落ちる。
それはまるで、カイが最後にもう一度だけ、私を褒めてくれたようだった。




