クルシミノハテ
朝は、来なかった。
目を開けても、休み場の入口は白いままだった。夜の暗さが薄れたことは分かる。けれど、外に朝の色はない。風が入口の板を叩き、隙間から細かな雪を吹き込ませている。火はまだ残っていたが、炎は小さく、橙色の光が冷たい床を弱く照らしているだけだった。
吹雪いていた。
昨夜、あれほど澄んでいた星の海は、どこにもなかった。
四つ並んでいた星も、山の縁に浮かんでいた月も、すべて白い風の向こうへ消えている。初めから何もなかったように、入口の外には朝も空もなく、ただ雪だけが横へ流れていた。
私は布から起き上がった。
足が重い。昨日歩いた疲れが残っている。肩も、橇の縄が当たっていた場所も痛んだ。それでも、指は動く。膝も曲がる。歩ける。
カイは入口のそばに座っていた。
眠っていなかったのか、眠れなかったのかは分からない。外套を肩に掛け、片膝を立てたまま、白く塞がれた外を見ている。
昨夜のカイとは、まるで違っていた。
星を指した手は膝の上に落ち、指先にはほとんど力が入っていない。目の奥に戻っていた光も薄れ、口元から吐き出される息は短く途切れている。
「カイ」
私が呼ぶと、彼はゆっくり顔をこちらへ向けた。
「まだ早い」
「もう朝です」
「朝には見えない」
「でも、朝です」
私は手袋をはめ直し、指を動かした。
カイはその動きを見ていた。
「今日は待つ」
「待つんですか」
「この吹雪では進めない」
それは正しい判断だった。
分かっている。ここまで来るまでに、私はそれを何度も教わった。見えない時は進まない。危なさが分からない場所を選ばない。戻ることも、止まることも、道を選ぶことの一つだ。
それでも、私はカイの顔を見た。
昨夜、一度だけ戻ったものが、朝にはすべて失われていた。
唇の色が悪い。肩に掛けた外套の下で、身体がかすかに震えている。寒いだけではない。月が消えた途端に、カイの身体は急速に冷えていた。
「待ったら、カイはよくなりますか」
私が訊くと、カイは答えなかった。
「月が見えるまで待てば、また昨日みたいに戻りますか」
「分からない」
「老犬さんは、戻れるだけの余地があればと言っていました」
「ああ」
「まだ、ありますか」
カイは白い入口へ目を戻した。
その沈黙が、答えのように思えた。
「待っても、悪くなるかもしれない」
「そうだな」
「進んでも、悪くなるかもしれない」
「ああ」
「なら、カイは進みたいんですよね」
カイは私を見た。
私は橇へ視線を移した。
昨日までは荷物を載せていた橇だった。けれど、昨夜から、私はそれを別のものとして見ている。
歩ける者が、歩けない者を連れていく日もある。
カイ自身が、そう言った。
「吹雪が弱まるのを待つ」
「どのくらい」
「分からない」
「今日中に弱まりますか」
「分からない」
「明日は」
「分からない」
分からない。
その言葉が、冷えた休み場の中に何度も落ちた。
私は立ち上がり、火へ木片を足した。大きくしすぎない。けれど、消さない。湯を沸かし、根の粉を溶かす。濃い土の匂いが休み場の中に広がった。
カイは器を受け取った。
昨日よりも手が遅い。器を持つ指に力が入りきらず、縁から湯が少しだけ揺れた。私はその下へ手を添えた。
「持てる」
「分かっています」
「なら離せ」
「零したら困ります」
「零さない」
「昨日、匙を鳴らしました」
「よく覚えてるな」
「見ていますから」
カイは何も言わず、苦い湯を飲んだ。
朝食は、麦パンを湯でふやかし、豆を少しだけ入れたものだった。カイはいつもの半分ほどしか食べなかった。私は残りを布に包み、荷物へ入れた。
「荷物になる」
「食べない方が困ります」
「言うようになったな」
「カイのせいです」
カイは返事をしなかった。
外の吹雪は弱まらなかった。
昼近くまで待っても、白い風は入口の向こうを塞いでいた。時々さらに強くなり、屋根と壁を叩いた。雪が乾いた粉のような音を立てるたびに、昨夜の咆哮が遠いものになっていく。
カイは座ったまま、古い地図を見ていた。
けれど、目が地図を追っているようには見えなかった。指先が一点を押さえている。山の裾から伸びる線。その先に、小さな印がある。
「遠いですか」
「晴れていれば、今日中に着ける距離だった」
「晴れていれば」
「ああ」
今は何の役にも立たない言葉だった。
「吹雪でも、着けますか」
「普通は行かない」
「カイは」
カイは地図から目を上げた。
「行きたい」
行く、ではなかった。
行きたい、と言った。
私は息を呑んだ。
カイは地図を畳み、長く目を閉じた。体力を残そうとしているのか、言葉を探しているのかは分からなかった。
「ここまで来た」
「はい」
「見えないまま終わるのは、嫌だ」
その声は弱かった。
けれど、これまで聞いたどんな言葉よりも真っ直ぐだった。
神の国が本当にあるのか。そこが願いの場所なのか。山や川や木々があるのか。何も分からない。
それでも、カイは見たいのだ。
友たちと探し、約束し、一人になっても歩き続けてきた、その先にあるものを。
私は橇の縄を取った。
「行きましょう」
カイは目を開けた。
「この吹雪だ」
「はい」
「お前の足では危ない」
「だから、教わったことを全部使います」
「全部使っても、足りないかもしれない」
「足りないところは、カイが教えてください」
「俺が教えられなくなったら」
「その時は、自分で見ます」
「間違えるぞ」
「戻って、見直します」
カイは黙った。
外で、風が大きく鳴った。
「昨夜、言いましたよね」
「何を」
「歩ける者が、歩けない者を連れていく日もあるって」
「まだ歩ける」
「では、歩けるところまで歩いてください」
私は橇の荷物を下ろし、必要なものだけを残した。
食料。火を起こす道具。布。根の粉。水の容器。重いものは減らす。けれど、必要なものは捨てない。持っているだけのものと、使うものを分ける。
「何をしてる」
「橇を軽くしています」
「荷物用だ」
「昨日までは」
「ひかり」
「カイ」
私は彼を見た。
「乗ってください」
カイの目が細くなる。
「嫌だ」
「分かっています」
「なら言うな」
「それでも乗ってください」
「俺は歩く」
「歩けるところまでは。でも、倒れてからでは遅いです」
「倒れない」
「嘘です」
自分の声が震えていた。
それでも、引かなかった。
「カイは、嘘が下手です」
カイはしばらく私を見ていた。
怒ると思った。
拒むと思った。
けれど、彼は怒らなかった。疲れたように、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……途中までだ」
「はい」
「歩ける間は歩く」
「はい」
「動けなくなったら、置いていけ」
「嫌です」
「命令だ」
「聞きません」
「聞け」
「聞きません」
カイは小さく息を吐いた。
「頑固だな」
「カイに言われたくありません」
今度は、ほんの少しだけカイが笑った気がした。
出発の準備は、今までで一番慎重にした。
私は自分の腰と橇の縄を結んだ。輪を作り、端を通し、形を見て、締める。強く引く。さらにもう一本の縄をカイへ渡す。カイが歩ける間は橇を支え、私が引く。乗る時には、身体を固定するために使う。
「見せろ」
カイが言った。
私は結び目を見せた。
カイが引く。
「使える」
私は頷いた。
入口の板を外すと、吹雪が休み場の中へなだれ込んだ。
白い風が顔に当たる。息が詰まる。目を細めても、先はほとんど見えない。
カイは外へ出て、雪の硬さを確かめた。足跡はすぐに薄れていく。今ここを出れば、戻る道もすぐに消えるだろう。
「印を残す」
「はい」
「短い間隔で」
「はい」
「見えなくなったら止まれ」
「はい」
「橇が沈んだら、無理に引くな」
「はい」
「横風が来たら、山側へ寄せろ」
「はい」
「返事だけで終わるな」
「やります」
私は橇の縄を肩に掛けた。
カイは最初、隣を歩いた。私が橇を引き、カイが横から支える。吹雪の中では、それだけでも難しかった。橇は真っ直ぐ進まない。雪に乗り上げ、風に押され、何度も横へ流れようとする。
「歩幅を小さく」
「はい」
「引くな。連れていけ」
「連れていく」
「そうだ」
私は足を出した。
白い。
空も地面もなく、ただ風の流れだけがある。
棒を刺す。雪の硬さを確かめる。足を置く。橇の重さを感じる。振り返り、作った印が見えるか確かめる。次の場所へ進み、石を積み、黄色い布の切れ端を結ぶ。
進む。
止まる。
振り返る。
また進む。
何度も繰り返した。
それは旅というより、同じ動作を一つずつ積み重ねる作業に近かった。
けれど、その一つ一つが、私たちの命を繋いでいた。
しばらく進むと、カイの足が遅れ始めた。
最初はほんの少しだった。けれど、吹雪の中では半歩の遅れがすぐに縄へ伝わる。橇が止まり、私の肩に重さが掛かる。
振り返ると、カイは立っていた。
だが、息が荒い。外套の肩に積もった雪を払う動きも遅い。
「乗ってください」
「まだ歩ける」
「今なら、乗れます」
「……」
「倒れてからでは、私一人では乗せられません」
カイは反論しようとして、言葉を飲んだ。
それから、悔しそうに橇を見た。
「少しだけだ」
「はい」
私は荷物を端へ寄せ、布を敷いた。
カイが橇へ腰を下ろす。大きな身体が乗ると、橇は深く沈んだ。私はカイの身体を縄で固定した。胸を圧迫しないように、けれど、滑り落ちないように。
輪を作る。
端を通す。
形を見る。
締める。
引く。
「苦しくないですか」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「本当だ」
今度は、嘘ではないように聞こえた。
私は橇の前へ回り、縄を肩に掛けた。
一歩目で、重さが全身へ来た。
荷物だけの時とは違う。橇が雪へ食い込み、動き出すまでが重い。私は歯を食いしばり、足を踏み込んだ。
動かない。
もう一度。
少しだけ動く。
カイが後ろから片手で雪を押した。
「力だけで引くな」
「分かっています」
「分かってない声だ」
「分かっています」
「身体を前へ倒すな。腰を落とせ」
「はい」
「歩幅を小さく。止まる時は先に言え」
「はい」
カイは橇に乗っていても、カイだった。
私は言われた通りにした。
腰を落とす。縄を肩だけで受けず、身体全体で支える。橇を無理に引き上げるのではなく、雪の上を少しずつ滑らせる。硬い場所を探す。柔らかい場所を避ける。避けられなければ、先に踏み固める。
足元を見る。
次に、カイを見る。
最後に、行き先を見る。
昨夜の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
進む。
止まる。
印を作る。
また進む。
吹雪は弱まらなかった。
むしろ、山へ近づくほど強くなっている気がした。風は正面から来たり、横から叩いたり、背中を押したりする。白い雪が顔に貼りつき、睫毛まで重くなる。私は何度も手袋で目元を拭った。手袋は濡れ、すぐに冷たくなった。
「手を替えろ」
カイが言った。
「大丈夫です」
「替えろ」
「はい」
私は縄を受ける場所をずらし、指を動かした。
感覚が鈍くなりかけている。
言われなければ、そのまま握り続けていたかもしれない。
少し先で、道が消えた。
雪に埋もれただけではない。山肌から落ちた雪が斜面を覆い、古い道の石も水路も見えなくなっている。右には岩壁。左には白い谷。前には、緩い斜面が上へ続いているだけだった。
私は足を止めた。
「道が分かりません」
「戻れ」
カイの声はすぐだった。
私は頷き、橇を引いて少し戻った。
進むために戻る。
もう、その言葉に逆らわなかった。
さっき作った印まで戻り、別の角度から前を見る。
風の流れ。
雪の削れ方。
岩の出ている位置。
一つずつ見る。
左は谷が深い。
正面は雪が新しすぎる。
右の岩壁沿いに、黒い石が少しだけ見える。
「あっち」
私は右を指した。
「岩の下に石があります」
カイが目を細める。
「見えるか」
「少しだけ」
「近づけ。橇は置け」
「はい」
私は橇を雪へ固定し、棒を持って岩壁へ近づいた。吹雪で目が痛い。それでも、黒い点は確かにある。
雪を払うと、平たい石が現れた。
道の端だ。
「ありました」
「そこを行く」
カイの声が、少しだけ強くなった。
私は戻り、橇を引いた。
その道は狭かった。
岩壁と雪の斜面の間を、橇一台がようやく通れるほどの幅で進む。橇が傾くたび、私は山側へ押し戻した。カイも片手で雪を掴み、重心を支えている。
「無理するな」
「しています」
「正直すぎる」
「でも、まだできます」
「できなくなる前に止まれ」
「はい」
吹雪の中で、時間の感覚が消えていった。
どれだけ進んだのか分からない。印をいくつ作ったのかも、途中から数えられなくなった。ただ、手は動いた。足は出た。橇は少しずつ前へ進んだ。
何度も沈んだ。
そのたびに雪を掘り、橇の下へ板を入れ、少しずつ持ち上げた。何度も風で倒れかけた。そのたびに棒を刺し、膝をつき、橇を山側へ寄せた。何度も戻った。戻って、見える場所からまた選んだ。
カイの声は、少しずつ小さくなっていった。
最初は指示があった。
次に、短い注意だけになった。
やがて、私の名前を呼ぶ声も少なくなった。
「カイ」
私は振り返る。
カイは橇の上で目を閉じていた。
眠っているように見えた。
けれど、あの老犬が言っていた眠りを思い出し、身体の奥が冷えた。
「カイ」
「……聞こえてる」
「寝ないでください」
「うるさい」
「うるさくします」
「……そうしろ」
私は喉の奥が詰まりそうになった。
けれど、泣くのは後だ。
カイがそう言った。
涙で道を見失うわけにはいかない。私は息を強く吐き、前を向いた。
吹雪の奥で、何かが変わり始めたのは、日が傾く頃だったのだと思う。
白い風の中に、別の匂いが混じった。
最初は気のせいだと思った。冷えきった鼻では、もう何も分からなくなっていると思っていた。
けれど、それは確かにあった。
雪の匂いではない。
氷でもない。
土の匂いだった。
「カイ」
私は息を切らしながら言った。
「土の匂いがします」
返事はない。
「カイ」
「……聞こえてる」
「土です。水の匂いも」
カイの閉じかけていた目が、かすかに開いた。
「進め」
「はい」
道は下り始めた。
足元の雪が少し変わった。硬すぎず、柔らかすぎない。棒を刺すと、その下に土の感触がある場所もあった。水の音がした。吹雪に混じって、細い流れの音が聞こえる。
私はその音を頼りにしながらも、耳だけを信じなかった。
雪の色を見る。
風の流れを見る。
土の出ている場所を見る。
水は低い方へ流れる。道は水を避ける。なら、少し高い場所を歩く。
カイが、小さく息を吸った。
「……匂う」
「はい」
「花だ」
「花?」
吹雪の中で、花。
そんなはずがないと思った。
けれど、次の瞬間、私にも分かった。土と水の匂いの奥に、かすかな甘さがある。冷たい風に千切られそうなほど薄いのに、それは確かに花の匂いだった。
「カイ、もう少しです」
私は言った。
「たぶん、もう少しです」
「たぶんで言うな」
「でも、もう少しです」
「……そうか」
カイの声は、ほとんど息だった。
私は縄を握り直し、橇を引いた。
その時だった。
橇の底で、嫌な音がした。
ぎし、と木が軋む。
次の瞬間、左側の板が雪の下の石に引っかかり、橇が大きく傾いた。
「止まれ」
カイの声が飛んだ。
私は止まろうとした。
けれど、横から吹きつけた風が橇を斜面側へ押した。私は縄を掴み直し、膝をついて止めようとする。足元の雪が崩れ、肩に強い痛みが走った。
ばきん、と乾いた音がした。
橇の前板が折れた。
縄が一気に緩み、カイの身体が橇から滑りかける。私は雪の上へ転がるようにして駆け寄り、カイの外套を掴んだ。
「カイ!」
「……離すな」
「離しません」
橇はもう動かなかった。
折れた板が雪へ突き刺さり、片側の底が外れている。直せる壊れ方ではなかった。少なくとも、この吹雪の中で、私にどうにかできるものではない。
私は息を荒げながら、壊れた橇を見た。
ここまで荷物を運び、カイを連れてきてくれたもの。
それが、目的地に着く直前で壊れた。
「……置いていけ」
カイが言った。
「嫌です」
「橇は使えない」
「分かっています」
「俺も、歩けない」
「支えます」
「無理だ」
「無理でも、支えます」
私は縄をほどき、カイの身体を橇から起こした。
重い。
思っていたより、ずっと重い。
カイも立とうとしている。けれど、足にはほとんど力が入っていない。私は彼の腕を自分の肩へ回し、腰の縄を使って身体を結んだ。
「苦しくないですか」
「……お前が潰れる」
「潰れません」
「嘘が下手だ」
「カイほどじゃありません」
カイは、かすかに笑った。
その重さを肩に受けた瞬間、息が詰まった。
一歩目で、膝が震えた。
カイの身体は熱を失いかけている。それなのに、重さだけは確かにあった。私は棒を片手に持ち、もう片方の手でカイの腕を押さえた。歩くというより、二人で倒れないように前へ崩れていくようだった。
「右」
カイがかすれた声で言う。
「はい」
「そこ、沈む」
「はい」
「次、石」
「はい」
声は小さい。
けれど、まだ聞こえる。
私はその声を頼りに進んだ。
一歩。
雪が沈む。
カイの重さが肩へ食い込む。
もう一歩。
風が顔を叩く。
目が痛い。
もう一歩。
足が滑る。
膝が雪につく。
それでも、倒れない。
倒れたら、もう起き上がれない気がした。
「ひかり」
「はい」
「休め」
「嫌です」
「休まないと、倒れる」
「休んだら、立てません」
「……そうか」
カイはそれ以上言わなかった。
私は歩いた。
何も考えられなかった。
ただ足を出す。
棒を刺す。
カイを支える。
雪の硬さを見る。
土の匂いを探す。
水の音を聞く。
花の匂いを逃さない。
足元を見る。
カイを見る。
行き先を見る。
昨夜教えられた順番を、何度も繰り返す。
それでも、苦しかった。
息が吸えない。
肩が痛い。
足が熱いのか冷たいのか分からない。
手袋の中の指が、自分のものではなくなっていく。
何度も、もう駄目だと思った。
けれど、そのたびにカイの重さがあった。
この重さを捨ててはいけない。
私はそう思った。
この苦しみの果てに、何があるのだろう。
そう考えることがあろうとも、歩き続けた。
やがて、白い風が少し薄くなった。
吹雪はまだ続いている。けれど、風の向こうに広い空間があるのが分かった。山の壁が遠ざかり、足元の雪が浅くなる。水の音が近い。土と花の匂いも、さっきよりずっと強い。
「カイ」
私は息を切らしながら言った。
「着きます」
返事はなかった。
「カイ」
「……聞こえてる」
「着きます」
「ああ」
私は最後の力を振り絞った。
一歩。
もう一歩。
もう一歩。
そして、視界が開けた。
そこは、真っ白だった。
私は立ち尽くした。
開けた場所に出たせいで、吹雪はさらに広く吹き荒れている。見えるはずだったものは、何も見えない。
山もない。
川もない。
木々もない。
花もない。
目の前にあるのは、ただ白い空間だけだった。
神の国。
そう呼ばれていた場所。
カイが、友たちと見つけようとしていた場所。
そのために何十年も歩いてきた場所。
そこへ辿り着いたはずなのに、何もなかった。
白い。
ただ、白い。
「……何も」
私は呟いた。
声は吹雪にすぐ呑まれた。
「何も、ないの」
膝から力が抜けそうになった。
ここまで来た。
橇は壊れた。
カイはもう自分で立つこともできない。
私は何度も戻り、何度も道を選び直し、カイを支えてここまで来た。
その果てにあるはずの場所が、ただ白いだけだった。
神の国なんて、どこにもないのか。
「ひかり」
カイの声がした。
とても小さかった。
「……立て」
「でも」
「見ろ」
「何も見えません」
「見ろ」
私は顔を上げた。
吹雪の白が、少しだけ揺れた。
風向きが変わったのかもしれない。横殴りだった雪が、ほんの一瞬だけ薄くなる。その白の奥に、黒い影が見えた。
山ではない。
木でもない。
小さな、小屋だった。
雪に半分埋もれ、低い屋根を伏せるようにして建っている。煙も、灯りも見えない。ただ、そこにある。吹雪の白の中で、かろうじて輪郭を残している。
「小屋……」
「行くぞ」
カイが言った。
「はい」
今は、そこに入るしかなかった。
神の国が何なのか。
ここに何があるのか。
何も分からない。
けれど、小屋がある。壁がある。屋根がある。風を避けられるかもしれない。カイを横たえられるかもしれない。
私はカイの腕を肩に掛け直した。
そこからの距離は、きっと長くなかった。
けれど、今までで一番遠かった。
一歩ごとに、身体が壊れていくようだった。カイの足はほとんど動いていない。私が支えているというより、二人で倒れないように雪を押して進んでいるだけだった。
風が来るたびに止まり、雪を踏み固め、また進む。
小屋は見えているのに、なかなか近づかない。
「もう少しです」
私は言った。
「……ああ」
「もう少し」
「ああ」
それはカイに言っているのか、自分に言っているのか分からなかった。
小屋の前へ着いた時、私は扉に手を掛ける力すら残っていなかった。
カイの身体を壁へ預け、両手で扉を押す。
動かない。
雪が詰まっている。
肩で押す。
動かない。
棒で下の雪を掻く。
手で払う。
指先が痛い。
もう一度押す。
扉が、少しだけ開いた。
中から、冷たい空気ではないものが流れてきた。
暖かい。
私は驚いて顔を上げた。
「カイ」
「……入れ」
「はい」
私は隙間を広げ、カイを支えながら小屋の中へ入った。
中は、外よりずっと暗かった。
けれど、火の匂いがした。
古い木の匂い。
乾いた草の匂い。
そして、どこか甘い花の匂い。
床には厚い布が敷かれ、奥の炉には小さな火が灯っていた。火の光が壁を揺らし、そこに掛けられた青い布を照らしている。
私は息を切らしたまま、入口のそばで立ち尽くした。
カイの重さが肩に残っている。
外では、まだ吹雪が鳴っている。
それなのに、この小屋の中だけは、まるで別の季節のようだった。
そして、炉のそばに誰かがいた。
長い髪が火の光を受けて、淡く揺れている。
その人物は、こちらへゆっくり顔を向けた。
「待ってたよ、ひかり」
私の名を呼んだ声の主は、その瞳を蜂蜜色に輝かせていた。




