↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/82

クルシミノハテ

 朝は、来なかった。

 目を開けても、休み場の入口は白いままだった。夜の暗さが薄れたことは分かる。けれど、外に朝の色はない。風が入口の板を叩き、隙間から細かな雪を吹き込ませている。火はまだ残っていたが、炎は小さく、橙色の光が冷たい床を弱く照らしているだけだった。

 吹雪いていた。

 昨夜、あれほど澄んでいた星の海は、どこにもなかった。

 四つ並んでいた星も、山の縁に浮かんでいた月も、すべて白い風の向こうへ消えている。初めから何もなかったように、入口の外には朝も空もなく、ただ雪だけが横へ流れていた。

 私は布から起き上がった。

 足が重い。昨日歩いた疲れが残っている。肩も、橇の縄が当たっていた場所も痛んだ。それでも、指は動く。膝も曲がる。歩ける。

 カイは入口のそばに座っていた。

 眠っていなかったのか、眠れなかったのかは分からない。外套を肩に掛け、片膝を立てたまま、白く塞がれた外を見ている。

 昨夜のカイとは、まるで違っていた。

 星を指した手は膝の上に落ち、指先にはほとんど力が入っていない。目の奥に戻っていた光も薄れ、口元から吐き出される息は短く途切れている。

「カイ」

 私が呼ぶと、彼はゆっくり顔をこちらへ向けた。

「まだ早い」

「もう朝です」

「朝には見えない」

「でも、朝です」

 私は手袋をはめ直し、指を動かした。

 カイはその動きを見ていた。

「今日は待つ」

「待つんですか」

「この吹雪では進めない」

 それは正しい判断だった。

 分かっている。ここまで来るまでに、私はそれを何度も教わった。見えない時は進まない。危なさが分からない場所を選ばない。戻ることも、止まることも、道を選ぶことの一つだ。

 それでも、私はカイの顔を見た。

 昨夜、一度だけ戻ったものが、朝にはすべて失われていた。

 唇の色が悪い。肩に掛けた外套の下で、身体がかすかに震えている。寒いだけではない。月が消えた途端に、カイの身体は急速に冷えていた。

「待ったら、カイはよくなりますか」

 私が訊くと、カイは答えなかった。

「月が見えるまで待てば、また昨日みたいに戻りますか」

「分からない」

「老犬さんは、戻れるだけの余地があればと言っていました」

「ああ」

「まだ、ありますか」

 カイは白い入口へ目を戻した。

 その沈黙が、答えのように思えた。

「待っても、悪くなるかもしれない」

「そうだな」

「進んでも、悪くなるかもしれない」

「ああ」

「なら、カイは進みたいんですよね」

 カイは私を見た。

 私は橇へ視線を移した。

 昨日までは荷物を載せていた橇だった。けれど、昨夜から、私はそれを別のものとして見ている。

 歩ける者が、歩けない者を連れていく日もある。

 カイ自身が、そう言った。

「吹雪が弱まるのを待つ」

「どのくらい」

「分からない」

「今日中に弱まりますか」

「分からない」

「明日は」

「分からない」

 分からない。

 その言葉が、冷えた休み場の中に何度も落ちた。

 私は立ち上がり、火へ木片を足した。大きくしすぎない。けれど、消さない。湯を沸かし、根の粉を溶かす。濃い土の匂いが休み場の中に広がった。

 カイは器を受け取った。

 昨日よりも手が遅い。器を持つ指に力が入りきらず、縁から湯が少しだけ揺れた。私はその下へ手を添えた。

「持てる」

「分かっています」

「なら離せ」

「零したら困ります」

「零さない」

「昨日、匙を鳴らしました」

「よく覚えてるな」

「見ていますから」

 カイは何も言わず、苦い湯を飲んだ。

 朝食は、麦パンを湯でふやかし、豆を少しだけ入れたものだった。カイはいつもの半分ほどしか食べなかった。私は残りを布に包み、荷物へ入れた。

「荷物になる」

「食べない方が困ります」

「言うようになったな」

「カイのせいです」

 カイは返事をしなかった。

 外の吹雪は弱まらなかった。

 昼近くまで待っても、白い風は入口の向こうを塞いでいた。時々さらに強くなり、屋根と壁を叩いた。雪が乾いた粉のような音を立てるたびに、昨夜の咆哮が遠いものになっていく。

 カイは座ったまま、古い地図を見ていた。

 けれど、目が地図を追っているようには見えなかった。指先が一点を押さえている。山の裾から伸びる線。その先に、小さな印がある。

「遠いですか」

「晴れていれば、今日中に着ける距離だった」

「晴れていれば」

「ああ」

 今は何の役にも立たない言葉だった。

「吹雪でも、着けますか」

「普通は行かない」

「カイは」

 カイは地図から目を上げた。

「行きたい」

 行く、ではなかった。

 行きたい、と言った。

 私は息を呑んだ。

 カイは地図を畳み、長く目を閉じた。体力を残そうとしているのか、言葉を探しているのかは分からなかった。

「ここまで来た」

「はい」

「見えないまま終わるのは、嫌だ」

 その声は弱かった。

 けれど、これまで聞いたどんな言葉よりも真っ直ぐだった。

 神の国が本当にあるのか。そこが願いの場所なのか。山や川や木々があるのか。何も分からない。

 それでも、カイは見たいのだ。

 友たちと探し、約束し、一人になっても歩き続けてきた、その先にあるものを。

 私は橇の縄を取った。

「行きましょう」

 カイは目を開けた。

「この吹雪だ」

「はい」

「お前の足では危ない」

「だから、教わったことを全部使います」

「全部使っても、足りないかもしれない」

「足りないところは、カイが教えてください」

「俺が教えられなくなったら」

「その時は、自分で見ます」

「間違えるぞ」

「戻って、見直します」

 カイは黙った。

 外で、風が大きく鳴った。

「昨夜、言いましたよね」

「何を」

「歩ける者が、歩けない者を連れていく日もあるって」

「まだ歩ける」

「では、歩けるところまで歩いてください」

 私は橇の荷物を下ろし、必要なものだけを残した。

 食料。火を起こす道具。布。根の粉。水の容器。重いものは減らす。けれど、必要なものは捨てない。持っているだけのものと、使うものを分ける。

「何をしてる」

「橇を軽くしています」

「荷物用だ」

「昨日までは」

「ひかり」

「カイ」

 私は彼を見た。

「乗ってください」

 カイの目が細くなる。

「嫌だ」

「分かっています」

「なら言うな」

「それでも乗ってください」

「俺は歩く」

「歩けるところまでは。でも、倒れてからでは遅いです」

「倒れない」

「嘘です」

 自分の声が震えていた。

 それでも、引かなかった。

「カイは、嘘が下手です」

 カイはしばらく私を見ていた。

 怒ると思った。

 拒むと思った。

 けれど、彼は怒らなかった。疲れたように、ほんの少しだけ目を伏せた。

「……途中までだ」

「はい」

「歩ける間は歩く」

「はい」

「動けなくなったら、置いていけ」

「嫌です」

「命令だ」

「聞きません」

「聞け」

「聞きません」

 カイは小さく息を吐いた。

「頑固だな」

「カイに言われたくありません」

 今度は、ほんの少しだけカイが笑った気がした。

 出発の準備は、今までで一番慎重にした。

 私は自分の腰と橇の縄を結んだ。輪を作り、端を通し、形を見て、締める。強く引く。さらにもう一本の縄をカイへ渡す。カイが歩ける間は橇を支え、私が引く。乗る時には、身体を固定するために使う。

「見せろ」

 カイが言った。

 私は結び目を見せた。

 カイが引く。

「使える」

 私は頷いた。

 入口の板を外すと、吹雪が休み場の中へなだれ込んだ。

 白い風が顔に当たる。息が詰まる。目を細めても、先はほとんど見えない。

 カイは外へ出て、雪の硬さを確かめた。足跡はすぐに薄れていく。今ここを出れば、戻る道もすぐに消えるだろう。

「印を残す」

「はい」

「短い間隔で」

「はい」

「見えなくなったら止まれ」

「はい」

「橇が沈んだら、無理に引くな」

「はい」

「横風が来たら、山側へ寄せろ」

「はい」

「返事だけで終わるな」

「やります」

 私は橇の縄を肩に掛けた。

 カイは最初、隣を歩いた。私が橇を引き、カイが横から支える。吹雪の中では、それだけでも難しかった。橇は真っ直ぐ進まない。雪に乗り上げ、風に押され、何度も横へ流れようとする。

「歩幅を小さく」

「はい」

「引くな。連れていけ」

「連れていく」

「そうだ」

 私は足を出した。

 白い。

 空も地面もなく、ただ風の流れだけがある。

 棒を刺す。雪の硬さを確かめる。足を置く。橇の重さを感じる。振り返り、作った印が見えるか確かめる。次の場所へ進み、石を積み、黄色い布の切れ端を結ぶ。

 進む。

 止まる。

 振り返る。

 また進む。

 何度も繰り返した。

 それは旅というより、同じ動作を一つずつ積み重ねる作業に近かった。

 けれど、その一つ一つが、私たちの命を繋いでいた。

 しばらく進むと、カイの足が遅れ始めた。

 最初はほんの少しだった。けれど、吹雪の中では半歩の遅れがすぐに縄へ伝わる。橇が止まり、私の肩に重さが掛かる。

 振り返ると、カイは立っていた。

 だが、息が荒い。外套の肩に積もった雪を払う動きも遅い。

「乗ってください」

「まだ歩ける」

「今なら、乗れます」

「……」

「倒れてからでは、私一人では乗せられません」

 カイは反論しようとして、言葉を飲んだ。

 それから、悔しそうに橇を見た。

「少しだけだ」

「はい」

 私は荷物を端へ寄せ、布を敷いた。

 カイが橇へ腰を下ろす。大きな身体が乗ると、橇は深く沈んだ。私はカイの身体を縄で固定した。胸を圧迫しないように、けれど、滑り落ちないように。

 輪を作る。

 端を通す。

 形を見る。

 締める。

 引く。

「苦しくないですか」

「大丈夫だ」

「本当に?」

「本当だ」

 今度は、嘘ではないように聞こえた。

 私は橇の前へ回り、縄を肩に掛けた。

 一歩目で、重さが全身へ来た。

 荷物だけの時とは違う。橇が雪へ食い込み、動き出すまでが重い。私は歯を食いしばり、足を踏み込んだ。

 動かない。

 もう一度。

 少しだけ動く。

 カイが後ろから片手で雪を押した。

「力だけで引くな」

「分かっています」

「分かってない声だ」

「分かっています」

「身体を前へ倒すな。腰を落とせ」

「はい」

「歩幅を小さく。止まる時は先に言え」

「はい」

 カイは橇に乗っていても、カイだった。

 私は言われた通りにした。

 腰を落とす。縄を肩だけで受けず、身体全体で支える。橇を無理に引き上げるのではなく、雪の上を少しずつ滑らせる。硬い場所を探す。柔らかい場所を避ける。避けられなければ、先に踏み固める。

 足元を見る。

 次に、カイを見る。

 最後に、行き先を見る。

 昨夜の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。

 進む。

 止まる。

 印を作る。

 また進む。

 吹雪は弱まらなかった。

 むしろ、山へ近づくほど強くなっている気がした。風は正面から来たり、横から叩いたり、背中を押したりする。白い雪が顔に貼りつき、睫毛まで重くなる。私は何度も手袋で目元を拭った。手袋は濡れ、すぐに冷たくなった。

「手を替えろ」

 カイが言った。

「大丈夫です」

「替えろ」

「はい」

 私は縄を受ける場所をずらし、指を動かした。

 感覚が鈍くなりかけている。

 言われなければ、そのまま握り続けていたかもしれない。

 少し先で、道が消えた。

 雪に埋もれただけではない。山肌から落ちた雪が斜面を覆い、古い道の石も水路も見えなくなっている。右には岩壁。左には白い谷。前には、緩い斜面が上へ続いているだけだった。

 私は足を止めた。

「道が分かりません」

「戻れ」

 カイの声はすぐだった。

 私は頷き、橇を引いて少し戻った。

 進むために戻る。

 もう、その言葉に逆らわなかった。

 さっき作った印まで戻り、別の角度から前を見る。

 風の流れ。

 雪の削れ方。

 岩の出ている位置。

 一つずつ見る。

 左は谷が深い。

 正面は雪が新しすぎる。

 右の岩壁沿いに、黒い石が少しだけ見える。

「あっち」

 私は右を指した。

「岩の下に石があります」

 カイが目を細める。

「見えるか」

「少しだけ」

「近づけ。橇は置け」

「はい」

 私は橇を雪へ固定し、棒を持って岩壁へ近づいた。吹雪で目が痛い。それでも、黒い点は確かにある。

 雪を払うと、平たい石が現れた。

 道の端だ。

「ありました」

「そこを行く」

 カイの声が、少しだけ強くなった。

 私は戻り、橇を引いた。

 その道は狭かった。

 岩壁と雪の斜面の間を、橇一台がようやく通れるほどの幅で進む。橇が傾くたび、私は山側へ押し戻した。カイも片手で雪を掴み、重心を支えている。

「無理するな」

「しています」

「正直すぎる」

「でも、まだできます」

「できなくなる前に止まれ」

「はい」

 吹雪の中で、時間の感覚が消えていった。

 どれだけ進んだのか分からない。印をいくつ作ったのかも、途中から数えられなくなった。ただ、手は動いた。足は出た。橇は少しずつ前へ進んだ。

 何度も沈んだ。

 そのたびに雪を掘り、橇の下へ板を入れ、少しずつ持ち上げた。何度も風で倒れかけた。そのたびに棒を刺し、膝をつき、橇を山側へ寄せた。何度も戻った。戻って、見える場所からまた選んだ。

 カイの声は、少しずつ小さくなっていった。

 最初は指示があった。

 次に、短い注意だけになった。

 やがて、私の名前を呼ぶ声も少なくなった。

「カイ」

 私は振り返る。

 カイは橇の上で目を閉じていた。

 眠っているように見えた。

 けれど、あの老犬が言っていた眠りを思い出し、身体の奥が冷えた。

「カイ」

「……聞こえてる」

「寝ないでください」

「うるさい」

「うるさくします」

「……そうしろ」

 私は喉の奥が詰まりそうになった。

 けれど、泣くのは後だ。

 カイがそう言った。

 涙で道を見失うわけにはいかない。私は息を強く吐き、前を向いた。

 吹雪の奥で、何かが変わり始めたのは、日が傾く頃だったのだと思う。

 白い風の中に、別の匂いが混じった。

 最初は気のせいだと思った。冷えきった鼻では、もう何も分からなくなっていると思っていた。

 けれど、それは確かにあった。

 雪の匂いではない。

 氷でもない。

 土の匂いだった。

「カイ」

 私は息を切らしながら言った。

「土の匂いがします」

 返事はない。

「カイ」

「……聞こえてる」

「土です。水の匂いも」

 カイの閉じかけていた目が、かすかに開いた。

「進め」

「はい」

 道は下り始めた。

 足元の雪が少し変わった。硬すぎず、柔らかすぎない。棒を刺すと、その下に土の感触がある場所もあった。水の音がした。吹雪に混じって、細い流れの音が聞こえる。

 私はその音を頼りにしながらも、耳だけを信じなかった。

 雪の色を見る。

 風の流れを見る。

 土の出ている場所を見る。

 水は低い方へ流れる。道は水を避ける。なら、少し高い場所を歩く。

 カイが、小さく息を吸った。

「……匂う」

「はい」

「花だ」

「花?」

 吹雪の中で、花。

 そんなはずがないと思った。

 けれど、次の瞬間、私にも分かった。土と水の匂いの奥に、かすかな甘さがある。冷たい風に千切られそうなほど薄いのに、それは確かに花の匂いだった。

「カイ、もう少しです」

 私は言った。

「たぶん、もう少しです」

「たぶんで言うな」

「でも、もう少しです」

「……そうか」

 カイの声は、ほとんど息だった。

 私は縄を握り直し、橇を引いた。

 その時だった。

 橇の底で、嫌な音がした。

 ぎし、と木が軋む。

 次の瞬間、左側の板が雪の下の石に引っかかり、橇が大きく傾いた。

「止まれ」

 カイの声が飛んだ。

 私は止まろうとした。

 けれど、横から吹きつけた風が橇を斜面側へ押した。私は縄を掴み直し、膝をついて止めようとする。足元の雪が崩れ、肩に強い痛みが走った。

 ばきん、と乾いた音がした。

 橇の前板が折れた。

 縄が一気に緩み、カイの身体が橇から滑りかける。私は雪の上へ転がるようにして駆け寄り、カイの外套を掴んだ。

「カイ!」

「……離すな」

「離しません」

 橇はもう動かなかった。

 折れた板が雪へ突き刺さり、片側の底が外れている。直せる壊れ方ではなかった。少なくとも、この吹雪の中で、私にどうにかできるものではない。

 私は息を荒げながら、壊れた橇を見た。

 ここまで荷物を運び、カイを連れてきてくれたもの。

 それが、目的地に着く直前で壊れた。

「……置いていけ」

 カイが言った。

「嫌です」

「橇は使えない」

「分かっています」

「俺も、歩けない」

「支えます」

「無理だ」

「無理でも、支えます」

 私は縄をほどき、カイの身体を橇から起こした。

 重い。

 思っていたより、ずっと重い。

 カイも立とうとしている。けれど、足にはほとんど力が入っていない。私は彼の腕を自分の肩へ回し、腰の縄を使って身体を結んだ。

「苦しくないですか」

「……お前が潰れる」

「潰れません」

「嘘が下手だ」

「カイほどじゃありません」

 カイは、かすかに笑った。

 その重さを肩に受けた瞬間、息が詰まった。

 一歩目で、膝が震えた。

 カイの身体は熱を失いかけている。それなのに、重さだけは確かにあった。私は棒を片手に持ち、もう片方の手でカイの腕を押さえた。歩くというより、二人で倒れないように前へ崩れていくようだった。

「右」

 カイがかすれた声で言う。

「はい」

「そこ、沈む」

「はい」

「次、石」

「はい」

 声は小さい。

 けれど、まだ聞こえる。

 私はその声を頼りに進んだ。

 一歩。

 雪が沈む。

 カイの重さが肩へ食い込む。

 もう一歩。

 風が顔を叩く。

 目が痛い。

 もう一歩。

 足が滑る。

 膝が雪につく。

 それでも、倒れない。

 倒れたら、もう起き上がれない気がした。

「ひかり」

「はい」

「休め」

「嫌です」

「休まないと、倒れる」

「休んだら、立てません」

「……そうか」

 カイはそれ以上言わなかった。

 私は歩いた。

 何も考えられなかった。

 ただ足を出す。

 棒を刺す。

 カイを支える。

 雪の硬さを見る。

 土の匂いを探す。

 水の音を聞く。

 花の匂いを逃さない。

 足元を見る。

 カイを見る。

 行き先を見る。

 昨夜教えられた順番を、何度も繰り返す。

 それでも、苦しかった。

 息が吸えない。

 肩が痛い。

 足が熱いのか冷たいのか分からない。

 手袋の中の指が、自分のものではなくなっていく。

 何度も、もう駄目だと思った。

 けれど、そのたびにカイの重さがあった。

 この重さを捨ててはいけない。

 私はそう思った。

 この苦しみの果てに、何があるのだろう。

 そう考えることがあろうとも、歩き続けた。

 やがて、白い風が少し薄くなった。

 吹雪はまだ続いている。けれど、風の向こうに広い空間があるのが分かった。山の壁が遠ざかり、足元の雪が浅くなる。水の音が近い。土と花の匂いも、さっきよりずっと強い。

「カイ」

 私は息を切らしながら言った。

「着きます」

 返事はなかった。

「カイ」

「……聞こえてる」

「着きます」

「ああ」

 私は最後の力を振り絞った。

 一歩。

 もう一歩。

 もう一歩。

 そして、視界が開けた。

 そこは、真っ白だった。

 私は立ち尽くした。

 開けた場所に出たせいで、吹雪はさらに広く吹き荒れている。見えるはずだったものは、何も見えない。

 山もない。

 川もない。

 木々もない。

 花もない。

 目の前にあるのは、ただ白い空間だけだった。

 神の国。

 そう呼ばれていた場所。

 カイが、友たちと見つけようとしていた場所。

 そのために何十年も歩いてきた場所。

 そこへ辿り着いたはずなのに、何もなかった。

 白い。

 ただ、白い。

「……何も」

 私は呟いた。

 声は吹雪にすぐ呑まれた。

「何も、ないの」

 膝から力が抜けそうになった。

 ここまで来た。

 橇は壊れた。

 カイはもう自分で立つこともできない。

 私は何度も戻り、何度も道を選び直し、カイを支えてここまで来た。

 その果てにあるはずの場所が、ただ白いだけだった。

 神の国なんて、どこにもないのか。

「ひかり」

 カイの声がした。

 とても小さかった。

「……立て」

「でも」

「見ろ」

「何も見えません」

「見ろ」

 私は顔を上げた。

 吹雪の白が、少しだけ揺れた。

 風向きが変わったのかもしれない。横殴りだった雪が、ほんの一瞬だけ薄くなる。その白の奥に、黒い影が見えた。

 山ではない。

 木でもない。

 小さな、小屋だった。

 雪に半分埋もれ、低い屋根を伏せるようにして建っている。煙も、灯りも見えない。ただ、そこにある。吹雪の白の中で、かろうじて輪郭を残している。

「小屋……」

「行くぞ」

 カイが言った。

「はい」

 今は、そこに入るしかなかった。

 神の国が何なのか。

 ここに何があるのか。

 何も分からない。

 けれど、小屋がある。壁がある。屋根がある。風を避けられるかもしれない。カイを横たえられるかもしれない。

 私はカイの腕を肩に掛け直した。

 そこからの距離は、きっと長くなかった。

 けれど、今までで一番遠かった。

 一歩ごとに、身体が壊れていくようだった。カイの足はほとんど動いていない。私が支えているというより、二人で倒れないように雪を押して進んでいるだけだった。

 風が来るたびに止まり、雪を踏み固め、また進む。

 小屋は見えているのに、なかなか近づかない。

「もう少しです」

 私は言った。

「……ああ」

「もう少し」

「ああ」

 それはカイに言っているのか、自分に言っているのか分からなかった。

 小屋の前へ着いた時、私は扉に手を掛ける力すら残っていなかった。

 カイの身体を壁へ預け、両手で扉を押す。

 動かない。

 雪が詰まっている。

 肩で押す。

 動かない。

 棒で下の雪を掻く。

 手で払う。

 指先が痛い。

 もう一度押す。

 扉が、少しだけ開いた。

 中から、冷たい空気ではないものが流れてきた。

 暖かい。

 私は驚いて顔を上げた。

「カイ」

「……入れ」

「はい」

 私は隙間を広げ、カイを支えながら小屋の中へ入った。

 中は、外よりずっと暗かった。

 けれど、火の匂いがした。

 古い木の匂い。

 乾いた草の匂い。

 そして、どこか甘い花の匂い。

 床には厚い布が敷かれ、奥の炉には小さな火が灯っていた。火の光が壁を揺らし、そこに掛けられた青い布を照らしている。

 私は息を切らしたまま、入口のそばで立ち尽くした。

 カイの重さが肩に残っている。

 外では、まだ吹雪が鳴っている。

 それなのに、この小屋の中だけは、まるで別の季節のようだった。

 そして、炉のそばに誰かがいた。

 長い髪が火の光を受けて、淡く揺れている。

 その人物は、こちらへゆっくり顔を向けた。

「待ってたよ、ひかり」

 私の名を呼んだ声の主は、その瞳を蜂蜜色に輝かせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。