星の下で紡ぐ
朝、薬屋の二階へ淡い光が差し込んでいた。
窓の外では、水路の上に残った霧が細く流れている。昨夜まで空を塞いでいた雲は大きく裂け、白い山肌が朝の光を受けていた。
夜中には月も出ていたらしい。
私は途中で一度だけ目を覚ました。窓から差し込んだ青白い光が床を横切り、椅子に座っていたカイの足元まで伸びていたことを覚えている。
その時、カイが起きていたのかは分からない。
今は窓際に立ち、右手の指を一本ずつ動かしていた。
昨日は遅れていた薬指と小指も、ほかの指と同じ速さで曲がっている。右足へ重さを移しても、膝は折れなかった。
「戻ったんですか」
「声が大きい」
「でも、動いています」
「見れば分かる」
カイは右手を閉じ、もう一度開いた。
確かめるような動きだった。
「治ったんですか」
「違う」
返事は早かった。
「昨日より動くだけだ」
「月が出たから?」
「たぶんな」
老犬が言っていた。
月の光を受ければ、失った熱の一部が戻ることはある。けれど、病そのものが消えるわけではない。
動いているから大丈夫なのではない。
今は動けるというだけだった。
「今日は出るんですよね」
「ああ」
「本当に歩けますか」
「歩ける」
「カイの大丈夫は数に入りません」
「余計なことばかり覚えたな」
「必要なことです」
階下から、杖で床を叩く音がした。
「動くなら下りてこい」
老犬の声だった。
カイは扉へ向かった。
歩き方は昨日より滑らかだった。右足が遅れることも、壁へ手をつくこともない。
それでも私は少し後ろを歩き、その足元を見た。
「見すぎだ」
「見ます」
「足元を見ろ」
「両方見ます」
「忙しいぞ」
「もう慣れてきました」
階下では、老犬が炉の前へ青黒い石を置いて待っていた。
カイが右手を載せると、石の縁へ浮かんだ白は、昨日より薄くなっていた。
老犬はカイの指を曲げさせ、右足を何度か上げさせる。
「戻ってはいる」
「なら行く」
「最後まで聞け」
老犬は石へ布を掛けた。
「歩く力は戻った。だが、荷を背負って斜面を越え、夜まで保つかは分からん」
「保つ」
「お前の言葉は診立てに入らん」
老犬は根の粉を溶かした器をカイへ差し出した。
カイは眉を寄せたものの、何も言わずに受け取った。
一口飲む。
「苦い」
「昨日も言っていました」
「今日も苦い」
「飲めるならいい」
老犬は私へ顔を向けた。
「橇には荷を載せろ。狼には背負わせるな」
「はい」
「歩幅が乱れたら止めろ。右手と右足が遅れた時もだ」
「はい」
「息が浅くなったら火を使え」
「はい」
「本人が平気だと言っても」
「数に入れません」
「覚えがいい」
「余計なことを教えるな」
カイが低く言う。
「元はお前が教えたことだろう」
老犬は布包みを私へ渡した。
中には残りの根の粉が入っている。
「月が見えても冷やしすぎるな。光を浴びればすぐ戻るというものでもない」
「分かりました」
「分からない時は止まれ。決められないまま進むよりはましだ」
私は包みを星形ポーチへしまった。
黄色い布の残りと、根の粉。
道を示すものと、進める時間を少し延ばすものが、同じ場所へ収まった。
薬屋を出ると、集落は朝の音に満ちていた。
水路の氷を砕く音。
屋根から雪を落とす音。
薪を積む音。
昨日、霧へ隠れていた家々は輪郭を取り戻し、その間を流れる水までよく見えた。
薬屋の壁際には、前日に選んだ橇が置いてある。
新しく結んだ縄へ薄い霜がついていた。
私は手袋で霜を払い、結び目を一つずつ引いた。
左右の長さは変わっていない。
横木も動かない。
板の裏にも、新しい割れ目はなかった。
「確認に時間をかけすぎるな」
カイが言った。
「でも、途中で壊れたら困ります」
「見る場所を決めろ」
「縄と板と横木」
「それでいい」
食料、鍋、燃料、予備の布を橇へ載せる。
カイが持っていた荷物も、地図と火口を残して積んだ。
「これは持つ」
「それだけなら」
「許可を取るな」
「確認です」
私は荷を縄で固定し、橇の前へ回った。
肩へ掛ける縄を取ると、集落の入口にいた鹿の老人が近づいてきた。
「月は出たか」
「ああ」
カイが答える。
「なら、今日は動けるだろう」
老人は橇の板を杖で軽く叩いた。
「月が出た翌朝は雪が締まる。硬い場所ではよく滑るが、薄いところでは板を石へ当てやすい。速さを出すな」
「はい」
「橇は、歩けない者だけが使うものじゃない。歩ける者の力を残すためにも使う」
老人の視線が一度だけカイへ向いた。
カイは何も言わなかった。
門を抜けると、水路沿いの道は緩やかに北へ続いていた。
橇は動き始めるまでが重い。
けれど、一度板が滑れば、強く引かなくても後ろからついてきた。
「腕だけで引くな」
カイが横から言う。
「歩幅を揃える」
「そうだ。急に曲がるな」
「先に橇の向きを変える」
「覚えてるな」
「はい」
雪の表面は、朝の冷えで硬く締まっていた。
橇の板が擦れる音が、二本の細い跡と一緒に後ろへ続く。
灰色に沈んだ雪があれば避けた。
水が下を流れている場所では、板が深く沈む。
段差へ入る前には一度止まり、橇を斜めにしてから下ろした。
カイは私の横を歩いていた。
昨日より足取りは軽い。
時々先へ出て、雪の硬さや斜面の形を確かめる。
以前のように、私が追いかける背中へ戻っていた。
それでも、私は速さを上げなかった。
歩けるからといって、昨日までのことが消えたわけではない。
「遅い」
「橇があります」
「もっと歩ける」
「カイが速いだけです」
「昨日よりはな」
「昨日と比べないでください」
「お前が見てるから言った」
「見ています」
カイは面倒そうに息を吐き、私の歩幅に合わせた。
水路から離れると、道は山肌へ沿って上り始めた。
黒い土や草は減り、周囲は再び雪と岩ばかりになる。
急な斜面では橇が横へ流れた。
カイが後ろへ回り、左手で板を支える。
「持たなくていいです」
「横へ落ちる」
「右手は使わないでください」
「動く」
「今は、です」
「なら今使う」
「左手だけでお願いします」
「注文が多いな」
私たちは歩幅を合わせ、斜面を越えた。
上り切ったところでカイが手を離す。
「どうだ」
「何がですか」
「見てただろ」
「今は大丈夫そうです」
「そうか」
少しだけ得意げに聞こえた。
「でも、次も見ます」
「面倒だな」
昼を過ぎる頃、道は広い雪原へ出た。
遮る岩がなくなり、空が一気に大きくなる。
雲は高い場所を速く流れ、切れ間から薄い青が覗いていた。
遠くの山肌までよく見える。
古い標も、雪へ埋もれる前に見つけられた。
標の根元には、山と川と木々の模様が刻まれている。
私は橇を止めかけたが、模様は雪の上からでも十分に読めた。
「今は直さなくていい」
カイが言った。
「見えていますから?」
「ああ」
「では進みます」
必要のない場所で力を使わない。
残すことを覚えたからこそ、触れずに通り過ぎることも覚えなければならない。
「同じ模様なのに、見る場所で違って見えますね」
「何がだ」
「あの山と川と木々です。最初は神の国だけの印だと思いました。でも、祈りの布にも、霧の中で火を灯す台にもありました」
「同じものを見て、全員が同じことを考えるとは限らない」
「カイには、どう見えますか」
「まだ分からない」
「着くまで決めない」
「ああ」
以前と同じ答えだった。
けれど今は、答えを避けているようには聞こえなかった。
見てもいないものへ、先に名前をつけない。
カイはそのために歩いているのかもしれない。
夕方が近づくと、雲の流れがさらに速くなった。
山の向こうへ白い塊が押し流され、その奥から濃い青が現れる。
カイが足を止め、空を見上げた。
「今夜は見える」
「月ですか」
「ああ」
その声は、朝より僅かに軽かった。
日が山の向こうへ沈む前に、岩壁の窪みへ着いた。
自然にできた深い窪みへ、誰かが低い石壁と屋根を足した場所だった。入口には古い板が残り、奥の床は乾いている。
私は橇を風の当たらない側へ寄せ、板の下へ平たい石を入れた。
「なぜ石を入れた」
「夜に雪が締まると、板が張りつくからです」
「縄は」
「外して中へ入れます。濡らしません」
「ならいい」
橇から荷物を下ろし、必要な順番で中へ運んだ。
カイが炉を確かめる間に、私は入口の隙間を塞いだ。
火がつくと、カイは自分から炉の近くへ座った。
私は鍋へ水を入れながら横目で見る。
「何だ」
「何も言っていません」
「顔に出てる」
「今日は、火の近くへ座るんだなと思っただけです」
「寒いからだ」
「そういうことにしておきます」
「言うようになったな」
「カイのせいです」
カイは少しだけ息を漏らした。
夜が深くなると、外の空は見違えるほど澄んでいた。
私は入口の板を少しだけずらし、外を見た。
息を忘れた。
空一面に、星があった。
ただ散らばっているのではない。黒い空の奥から溢れて、山の端まで流れ落ちてくるようだった。星の海、という言葉が頭に浮かんだ。
列車の中でも、私は星の海を見たことがある。
あの星たちは、手を伸ばせば届きそうで、けれどどこまでも遠く、夢の奥に吊るされた飾りのようにも見えた。けれど、列車の外で、地面に足をつけたまま、こんなにも大きな星の海を見上げるのは初めてだった。
月もあった。
丸くはない。けれど、雲に隠れてはいなかった。山の縁に少し傾き、薄い光を雪の上へ落としている。その光を受けて、白い地面がぼんやり青く見えた。
「カイ」
私が呼ぶと、カイはゆっくり立ち上がった。
少しふらついたが、自分の足で入口まで来た。そして、外の空を見上げた。
「見えたな」
「はい」
「今日は、まだましだ」
「本当に?」
「ああ」
カイはそう言った。
その声は、久しぶりにいつものカイに近かった。
私は安堵しかけて、すぐに老犬の言葉を思い出した。月が満ちて、雲がなく、身体がまだ戻れるところにあれば、少しは戻ることもある。これは治ったわけではない。戻ったように見えるだけなのかもしれない。
それでも、今夜のカイは、昨日より話せそうだった。
私たちは入口の近くに並んで座った。
外套を重ね、火の熱を背に受けながら、星を見上げる。寒い。けれど、不思議と嫌な寒さではなかった。空気は鋭いのに、星の光があるだけで、世界が少しだけ広く見える。
「昔、もっと大きな月を見たことがあります」
私は言った。
「月を?」
「はい。すごく大きな月でした。空に浮かんでいるというより、目の前にあって、手を伸ばすものではなく、そこへ辿り着くものみたいでした」
「辿り着いたのか」
「はい。ハルクさんと一緒に」
「誰なんだ、そいつは」
「大鷲の人です。ずっと月へ行きたがっていて、私はその人と一緒に、月まで行きました」
カイは何も言わなかった。
でも、聞いている。
それは分かった。
「最初は、とても失礼な人でした。自分のことしか考えてない利己的な人。親友の気持ちも無視して命も大事にできない人、でした」
今でも思い出す、ハルクとの諍いと、キースの涙。
「でも、ハルクさんは思い出したんです。お父さんの残した言葉を、親友との過去を、本当の自分を」
そう、彼は翼を取り戻した。
風が彼を迎えに来ていた。
「痛みを知って、ハルクさんは強くなりました。だから月まで届いたんです」
私は星を見上げた。
列車の中の星の海。ハルクさんと見た大きな月。雪山の星空。全部違うのに、どこか似ている。
キースがいれば、あの大きな月があれば、カイの病も治せたかもしれないけど、カイはそれを望まないだろう。
「次は、港町の猫でした」
そう言って私はシドの大きな身体を思い出した。
優しい表情、温かい喋り方、この場にいたら雪を溶かしてくれそうだった。
「私が観覧車に乗りたいと言ったら、なくした宝石を探してほしいと頼まれたんです」
「見つかったのか」
「はい、でも、宝石を探して町を歩くうちに、その人が本当に探していたのは、宝石だけじゃなかったような気がしました」
シドが探していたのは、宝石であってそうではなかった。
「自分がいるべき場所と、ずっと会えなかった人たちなのかもしれません」
あの時、彼に必要だったのはツムギの本当の言葉、そして、彼を迎え入れてくれる場所であった。
「彼は会えました。亡くなった恋人の本当の言葉と友達の涙に。そして町の人々が、彼を温かく愛していることも」
「そうか」
ぽつり、ぽつりとカイは返事をする。
それで良かった。
「それから、魔女の国で、二人の魔女見習いに会いました。アリスとローゼです」
その名前を口にすると、記憶に新しい魔女の国の景色が浮かんだ。
「二人は、全然違うように見えました」
そう、アリスとローゼは全く違う。
普通なら一緒にいることのない二人なのかもしれない。
「でも、互いのことをすごく大切に思っていました。うまく言えなかったり、すれ違ったりしても、相手のことを見ていました」
「親友か」
カイが言った。
その声が、ほんの少しだけ低く聞こえた。
私は隣を見る。
カイは星を見上げたままだった。けれど、さっきまでよりも横顔が静かになっている気がした。寒さのせいではない。どこか遠いものを見ているような顔だった。
「はい」
私は頷いた。
「私も、親友になれたと思います」
「思う、なのか」
「はい。本人たちにそう何度も確認したわけではないので」
「面倒な言い方だな」
「でも、そう思いたいんです」
カイはしばらく黙っていた。
星の光が、雪の上に薄く落ちている。火は背中で小さく鳴っていた。私は、カイが何かを言うのを待った。
「友と呼べる相手は」
やがて、カイが言った。
「そう何度もできるものじゃない」
私は息を止めた。
カイの声は、いつもと同じように低かった。けれど、その言葉だけは、雪の上へ落ちても消えずに残る石のようだった。
「カイにも、いたんですか」
訊いてから、踏み込みすぎたと思った。
カイは答えなかった。
ただ、星を見ていた。
「……大事にしろ」
少しして、カイはそれだけ言った。
「はい」
私は小さく頷いた。
アリスは器用と不器用、両極端だった。ローゼも、強そうに見えて、きっとたくさん怖いものがあったと思う。それでも、二人は互いを思い合っていた。私は、それが羨ましかったのかもしれない。
「誰かのために迷ったり、怒ったり、泣いたりできることが、少し羨ましかったんです」
カイは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒むものではなかった。
「それから、カイに会いました」
カイは少しだけこちらを見た。
「俺の話はいい」
「まだ何も言ってません」
「だいたい分かる」
「分からないと思います」
「なら言え」
私は息を吸った。
冷たい空気が胸の奥まで入ってくる。
「最初、怖かったです」
「ああ」
「知らない小屋で目を覚まして、大きな狼がいて、外は雪で、列車もなくて」
「普通はそうだ」
「でも、カイは助けてくれました」
「倒れていたからな」
「それだけですか」
「それだけだ」
「カイは、いつもそれだけって言います」
「余計な理由はいらない」
「でも、私は助かりました」
カイは答えなかった。
私は続けた。
「最初は、カイの背中を追いかけるだけでした。足元も見られなかったし、雪の下に何があるのかも分からなかった。戻ることが進むためになるなんて、考えたこともありませんでした」
「ああ」
「でも、少しずつ分かってきました。足元を見ること。火を消さないこと。濡れたものをそのままにしないこと。印を残すこと。道具を使うこと。怖い時は、立ち止まって見ること」
「覚えているな」
「はい」
「ならいい」
「よくないです」
カイが私を見る。
私は自分の手を見た。
縄を握った跡が、まだ指に残っている気がした。
「覚えただけじゃ、足りない気がします」
「何が足りない」
「分かりません」
「分からないのか」
「はい」
「なら、考えろ」
カイはいつも通りだった。
でも、今夜はそれがありがたかった。
「私は、ずっと兄さんを探しています」
「ああ」
「でも、兄さんに会ったら、何を言えばいいのか分からないんです」
口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「会いたいのに、会うのが怖いです。見つけたいのに、見つけた後のことが分からない。兄さんが私を見て、何を思うのかも分からない」
カイは星を見ていた。
その横顔には、いつものように表情が少ない。けれど、耳だけがほんの少しこちらへ向いている。
「会いたいのか」
カイが訊いた。
「会いたいです」
「怖いのか」
「怖いです」
「それでも探すのか」
「探します」
「なら、それでいい」
「いいんですか」
「怖くないふりをしても、足は軽くならない」
私はカイを見た。
「怖いまま歩くしかない日もある」
「カイも、怖いですか」
訊いてから、踏み込みすぎたと思った。
カイはすぐには答えなかった。
星の海が、彼の瞳に小さく映っている。
「怖くないやつから、雪に呑まれる」
やがて、カイはそう言った。
「怖いなら見ろ。見て、考えろ。考えて、それでも行くなら行け」
「戻る時は」
「戻れ」
「目的は」
「変えなくていい」
「道は」
「選べ」
私は小さく頷いた。
その言葉を、もう何度聞いただろう。けれど、今夜のそれは、少し違って聞こえた。雪道の話でもあり、兄さんを探す話でもあり、私がこれからどう歩くのかという話でもあった。
「私は」
私はゆっくり言った。
「助けられてばかりじゃなくなりたいです」
カイは黙って聞いていた。
「誰かを助けられる人に、急になれるとは思っていません。でも、せめて、誰かが歩けなくなった時に、置いていかない人になりたいです」
「重いぞ」
「はい」
「自分も沈む」
「はい」
「それでもか」
「それでも」
私は橇の方を見た。
暗がりの中で、橇の輪郭が小さく見える。荷物用だと言われた橇。でも、私はもう、その先の使い方を考えていた。
「連れていきたいです」
カイは長い間、何も言わなかった。
星が瞬いている。
火が背中で小さく鳴っている。
月の薄い光が、雪の上を青く照らしている。
「歩けるやつが、歩けないやつを連れていく日もある」
カイが言った。
私は息を止めた。
「その時は、先に見るな」
「先に?」
「足元を見ろ。次に、運ぶ相手を見ろ。最後に、行き先を見る」
「行き先は最後なんですか」
「行き先ばかり見ると、足を取られる」
「はい」
「相手ばかり見ると、二人で落ちる」
「はい」
「足元だけ見ていると、どこへ向かっているか分からなくなる」
「……難しいです」
「だから、忙しいと言った」
私は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分でも驚いた。
「覚えておけ」
カイは言った。
「歩けなくなったやつを運ぶなら、泣くのは後だ」
「泣きません」
「嘘が下手だ」
「カイほどじゃありません」
カイは少しだけ目を細めた。
それは笑ったようにも見えた。
夜は深くなっていく。
星はさらに増えたように見えた。空の黒は濃く、そこに光の粒が無数に浮かんでいる。雪の山も、岩も、橇も、私たちの息も、その星の光に薄く縁取られていた。
「カイ」
「何だ」
「今日は、少し楽ですか」
「ああ」
「よかった」
「よくはない」
「でも、昨日より」
「昨日よりはな」
私は頷いた。
この夜がずっと続けばいいと思った。
カイが普通に話せて、星が見えて、月の薄い光が雪を照らしている。このまま朝が来なければいい。吹雪も、病も、神の国も、全部少し先に置いたまま、今だけが伸びてくれればいい。
けれど、そんなことはありえない。
夜は必ず明ける。
道は続いている。
カイは行く。
私も、行く。
「あの星を知っているか」
ふいに、カイが空を指した。
カイの方から話しかけてくるのが、珍しく思えた。
「どれですか?」
「あれだ。四つ並んでいる」
私はカイの指先が示す先を見た。
確かに、そこには四つの星が並んでいた。完全な一直線ではない。少しずつ高さを違えながら、それでも互いから離れずに光っている。
私は目を細めた。
そもそも私は、元の世界の星の名前すらほとんど知らない。ここにある星が、私の知る空にも浮かんでいるのか、それさえ分からなかった。
私が答えられずにいると、カイが口を開いた。
「左から、狼星、羊星、狐星、熊星だ」
「狼、羊、狐、熊」
言われてから見直しても、星の並びからそれぞれの姿を見つけることはできなかった。
「どこが狼なんですか」
「知らない」
「カイが言ったんですよね」
「俺たちが勝手にそう呼んだだけだ」
「俺たち……?」
私が訊き返すと、カイは少しだけ口を閉ざした。
喋りすぎたと思っているのかもしれない。
「カイのお友達の話ですか?」
「そうだ」
答えは、思っていたよりも早く返ってきた。
「もう何十年も昔の話だ」
私はそれ以上、すぐには訊けなかった。
星は変わらず並んでいる。
狼。羊。狐。熊。
どれが誰なのかは分からない。けれど、四つの中には、カイ自身もいるのだと思った。
「四つの星は、いつもそこにある」
カイが言った。
「その距離が変わることもない。どこへ行っても、見上げれば同じ場所に並んでいる」
カイは一度、言葉を切った。
「俺たちは、そういうことにした」
「約束したんですか」
「約束というほどのものじゃなかった」
カイの声は低かった。
「ただ、離れても、空を見れば同じものが見えると、そう言った」
星の光が、カイの瞳に映っている。
そこにいるのは、私の知っているカイだった。けれど、同時に、私の知らない遠い時間を見ているようにも思えた。
「星は今も、あの時と同じ場所にある」
カイは言った。
「だが、俺たちは違った。どれだけ近くにいても、命が尽きれば、同じ場所にはいられない」
その後に続ける言葉が見つからなかった。
大丈夫ですか、と訊くこともできない。
悲しいですか、と訊くことも違う気がした。
気づけば私は、両手の指を絡め、胸元で強く握っていた。
「俺は、どうしても神の国へ行かなければならない」
カイは四つの星を見上げたまま言った。
「それは、あいつらとの約束だからだ」
「約束……」
「あいつらは、もういない」
カイの声は揺れなかった。
けれど、揺れないからこそ、その言葉が長い間繰り返されてきたものだと分かった。
「だから、確かめる。俺たちが探したものが、本当にあったのか。それとも、何もなかったのか」
月の光が、カイの横顔を薄く照らしている。
「それが、あいつらと俺を繋ぐ、最後の、最後の星だ」
カイはゆっくりと立ち上がった。
足元がわずかに揺れた。
私は手を伸ばしかけたが、カイは自分で踏みとどまった。
彼は星の海を見上げ、深く息を吸った。
そして、吠えた。
長く、遠くへ届かせるような声だった。
それは誰かを呼んでいるようにも、もう届かないことを嘆いているようにも聞こえた。悲しさも、苦しさも、言葉にできなかったもののすべてが、その一つの声になって夜空へ放たれていく。
咆哮は山々にぶつかり、何度も形を変えながら返ってきた。
一度。
二度。
やがて遠くなり、星の海の中へ溶けていく。
カイはしばらく空を見上げたまま動かなかった。
私は声を掛けられなかった。
その背中は、今まで見たどの時よりも大きく見えて、それなのに、ひどく遠くにいるようだった。
やがてカイは小さく息を吐き、こちらへ顔を向けた。
「寝ろ」
「カイは」
「少ししたら寝る」
「本当に?」
「見張りがいる」
「私が代わります」
「お前は寝ろ」
「でも」
「明日、橇を引くんだろ」
私は言葉を失った。
カイはもう一度、四つの星を見上げた。
「なら寝ろ。足を残せ」
「……はい」
私は立ち上がり、入口の板を少しだけ閉めた。
星の海が細くなる。
それでも、隙間から少しだけ光が入っていた。
布にくるまると、身体の疲れが一気に戻ってきた。足が重い。肩も痛い。指も固い。それでも、胸の奥だけは、不思議と少し温かかった。
カイの声が、暗がりから聞こえた。
「ひかり」
「はい」
「怖いままでも、歩け」
私は目を閉じた。
「はい」
星の光が、瞼の裏に残っているような気がした。
外では、冬の空がどこまでも澄んでいた。
その夜が、カイに残された最後の穏やかな夜になることを、私はまだ知らなかった。




