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星の下で紡ぐ

 朝、薬屋の二階へ淡い光が差し込んでいた。

 窓の外では、水路の上に残った霧が細く流れている。昨夜まで空を塞いでいた雲は大きく裂け、白い山肌が朝の光を受けていた。

 夜中には月も出ていたらしい。

 私は途中で一度だけ目を覚ました。窓から差し込んだ青白い光が床を横切り、椅子に座っていたカイの足元まで伸びていたことを覚えている。

 その時、カイが起きていたのかは分からない。

 今は窓際に立ち、右手の指を一本ずつ動かしていた。

 昨日は遅れていた薬指と小指も、ほかの指と同じ速さで曲がっている。右足へ重さを移しても、膝は折れなかった。

「戻ったんですか」

「声が大きい」

「でも、動いています」

「見れば分かる」

 カイは右手を閉じ、もう一度開いた。

 確かめるような動きだった。

「治ったんですか」

「違う」

 返事は早かった。

「昨日より動くだけだ」

「月が出たから?」

「たぶんな」

 老犬が言っていた。

 月の光を受ければ、失った熱の一部が戻ることはある。けれど、病そのものが消えるわけではない。

 動いているから大丈夫なのではない。

 今は動けるというだけだった。

「今日は出るんですよね」

「ああ」

「本当に歩けますか」

「歩ける」

「カイの大丈夫は数に入りません」

「余計なことばかり覚えたな」

「必要なことです」

 階下から、杖で床を叩く音がした。

「動くなら下りてこい」

 老犬の声だった。

 カイは扉へ向かった。

 歩き方は昨日より滑らかだった。右足が遅れることも、壁へ手をつくこともない。

 それでも私は少し後ろを歩き、その足元を見た。

「見すぎだ」

「見ます」

「足元を見ろ」

「両方見ます」

「忙しいぞ」

「もう慣れてきました」

 階下では、老犬が炉の前へ青黒い石を置いて待っていた。

 カイが右手を載せると、石の縁へ浮かんだ白は、昨日より薄くなっていた。

 老犬はカイの指を曲げさせ、右足を何度か上げさせる。

「戻ってはいる」

「なら行く」

「最後まで聞け」

 老犬は石へ布を掛けた。

「歩く力は戻った。だが、荷を背負って斜面を越え、夜まで保つかは分からん」

「保つ」

「お前の言葉は診立てに入らん」

 老犬は根の粉を溶かした器をカイへ差し出した。

 カイは眉を寄せたものの、何も言わずに受け取った。

 一口飲む。

「苦い」

「昨日も言っていました」

「今日も苦い」

「飲めるならいい」

 老犬は私へ顔を向けた。

「橇には荷を載せろ。狼には背負わせるな」

「はい」

「歩幅が乱れたら止めろ。右手と右足が遅れた時もだ」

「はい」

「息が浅くなったら火を使え」

「はい」

「本人が平気だと言っても」

「数に入れません」

「覚えがいい」

「余計なことを教えるな」

 カイが低く言う。

「元はお前が教えたことだろう」

 老犬は布包みを私へ渡した。

 中には残りの根の粉が入っている。

「月が見えても冷やしすぎるな。光を浴びればすぐ戻るというものでもない」

「分かりました」

「分からない時は止まれ。決められないまま進むよりはましだ」

 私は包みを星形ポーチへしまった。

 黄色い布の残りと、根の粉。

 道を示すものと、進める時間を少し延ばすものが、同じ場所へ収まった。

 薬屋を出ると、集落は朝の音に満ちていた。

 水路の氷を砕く音。

 屋根から雪を落とす音。

 薪を積む音。

 昨日、霧へ隠れていた家々は輪郭を取り戻し、その間を流れる水までよく見えた。

 薬屋の壁際には、前日に選んだ橇が置いてある。

 新しく結んだ縄へ薄い霜がついていた。

 私は手袋で霜を払い、結び目を一つずつ引いた。

 左右の長さは変わっていない。

 横木も動かない。

 板の裏にも、新しい割れ目はなかった。

「確認に時間をかけすぎるな」

 カイが言った。

「でも、途中で壊れたら困ります」

「見る場所を決めろ」

「縄と板と横木」

「それでいい」

 食料、鍋、燃料、予備の布を橇へ載せる。

 カイが持っていた荷物も、地図と火口を残して積んだ。

「これは持つ」

「それだけなら」

「許可を取るな」

「確認です」

 私は荷を縄で固定し、橇の前へ回った。

 肩へ掛ける縄を取ると、集落の入口にいた鹿の老人が近づいてきた。

「月は出たか」

「ああ」

 カイが答える。

「なら、今日は動けるだろう」

 老人は橇の板を杖で軽く叩いた。

「月が出た翌朝は雪が締まる。硬い場所ではよく滑るが、薄いところでは板を石へ当てやすい。速さを出すな」

「はい」

「橇は、歩けない者だけが使うものじゃない。歩ける者の力を残すためにも使う」

 老人の視線が一度だけカイへ向いた。

 カイは何も言わなかった。

 門を抜けると、水路沿いの道は緩やかに北へ続いていた。

 橇は動き始めるまでが重い。

 けれど、一度板が滑れば、強く引かなくても後ろからついてきた。

「腕だけで引くな」

 カイが横から言う。

「歩幅を揃える」

「そうだ。急に曲がるな」

「先に橇の向きを変える」

「覚えてるな」

「はい」

 雪の表面は、朝の冷えで硬く締まっていた。

 橇の板が擦れる音が、二本の細い跡と一緒に後ろへ続く。

 灰色に沈んだ雪があれば避けた。

 水が下を流れている場所では、板が深く沈む。

 段差へ入る前には一度止まり、橇を斜めにしてから下ろした。

 カイは私の横を歩いていた。

 昨日より足取りは軽い。

 時々先へ出て、雪の硬さや斜面の形を確かめる。

 以前のように、私が追いかける背中へ戻っていた。

 それでも、私は速さを上げなかった。

 歩けるからといって、昨日までのことが消えたわけではない。

「遅い」

「橇があります」

「もっと歩ける」

「カイが速いだけです」

「昨日よりはな」

「昨日と比べないでください」

「お前が見てるから言った」

「見ています」

 カイは面倒そうに息を吐き、私の歩幅に合わせた。

 水路から離れると、道は山肌へ沿って上り始めた。

 黒い土や草は減り、周囲は再び雪と岩ばかりになる。

 急な斜面では橇が横へ流れた。

 カイが後ろへ回り、左手で板を支える。

「持たなくていいです」

「横へ落ちる」

「右手は使わないでください」

「動く」

「今は、です」

「なら今使う」

「左手だけでお願いします」

「注文が多いな」

 私たちは歩幅を合わせ、斜面を越えた。

 上り切ったところでカイが手を離す。

「どうだ」

「何がですか」

「見てただろ」

「今は大丈夫そうです」

「そうか」

 少しだけ得意げに聞こえた。

「でも、次も見ます」

「面倒だな」

 昼を過ぎる頃、道は広い雪原へ出た。

 遮る岩がなくなり、空が一気に大きくなる。

 雲は高い場所を速く流れ、切れ間から薄い青が覗いていた。

 遠くの山肌までよく見える。

 古い標も、雪へ埋もれる前に見つけられた。

 標の根元には、山と川と木々の模様が刻まれている。

 私は橇を止めかけたが、模様は雪の上からでも十分に読めた。

「今は直さなくていい」

 カイが言った。

「見えていますから?」

「ああ」

「では進みます」

 必要のない場所で力を使わない。

 残すことを覚えたからこそ、触れずに通り過ぎることも覚えなければならない。

「同じ模様なのに、見る場所で違って見えますね」

「何がだ」

「あの山と川と木々です。最初は神の国だけの印だと思いました。でも、祈りの布にも、霧の中で火を灯す台にもありました」

「同じものを見て、全員が同じことを考えるとは限らない」

「カイには、どう見えますか」

「まだ分からない」

「着くまで決めない」

「ああ」

 以前と同じ答えだった。

 けれど今は、答えを避けているようには聞こえなかった。

 見てもいないものへ、先に名前をつけない。

 カイはそのために歩いているのかもしれない。

 夕方が近づくと、雲の流れがさらに速くなった。

 山の向こうへ白い塊が押し流され、その奥から濃い青が現れる。

 カイが足を止め、空を見上げた。

「今夜は見える」

「月ですか」

「ああ」

 その声は、朝より僅かに軽かった。

 日が山の向こうへ沈む前に、岩壁の窪みへ着いた。

 自然にできた深い窪みへ、誰かが低い石壁と屋根を足した場所だった。入口には古い板が残り、奥の床は乾いている。

 私は橇を風の当たらない側へ寄せ、板の下へ平たい石を入れた。

「なぜ石を入れた」

「夜に雪が締まると、板が張りつくからです」

「縄は」

「外して中へ入れます。濡らしません」

「ならいい」

 橇から荷物を下ろし、必要な順番で中へ運んだ。

 カイが炉を確かめる間に、私は入口の隙間を塞いだ。

 火がつくと、カイは自分から炉の近くへ座った。

 私は鍋へ水を入れながら横目で見る。

「何だ」

「何も言っていません」

「顔に出てる」

「今日は、火の近くへ座るんだなと思っただけです」

「寒いからだ」

「そういうことにしておきます」

「言うようになったな」

「カイのせいです」

 カイは少しだけ息を漏らした。

 夜が深くなると、外の空は見違えるほど澄んでいた。

 私は入口の板を少しだけずらし、外を見た。

 息を忘れた。

 空一面に、星があった。

 ただ散らばっているのではない。黒い空の奥から溢れて、山の端まで流れ落ちてくるようだった。星の海、という言葉が頭に浮かんだ。

 列車の中でも、私は星の海を見たことがある。

 あの星たちは、手を伸ばせば届きそうで、けれどどこまでも遠く、夢の奥に吊るされた飾りのようにも見えた。けれど、列車の外で、地面に足をつけたまま、こんなにも大きな星の海を見上げるのは初めてだった。

 月もあった。

 丸くはない。けれど、雲に隠れてはいなかった。山の縁に少し傾き、薄い光を雪の上へ落としている。その光を受けて、白い地面がぼんやり青く見えた。

「カイ」

 私が呼ぶと、カイはゆっくり立ち上がった。

 少しふらついたが、自分の足で入口まで来た。そして、外の空を見上げた。

「見えたな」

「はい」

「今日は、まだましだ」

「本当に?」

「ああ」

 カイはそう言った。

 その声は、久しぶりにいつものカイに近かった。

 私は安堵しかけて、すぐに老犬の言葉を思い出した。月が満ちて、雲がなく、身体がまだ戻れるところにあれば、少しは戻ることもある。これは治ったわけではない。戻ったように見えるだけなのかもしれない。

 それでも、今夜のカイは、昨日より話せそうだった。

 私たちは入口の近くに並んで座った。

 外套を重ね、火の熱を背に受けながら、星を見上げる。寒い。けれど、不思議と嫌な寒さではなかった。空気は鋭いのに、星の光があるだけで、世界が少しだけ広く見える。

「昔、もっと大きな月を見たことがあります」

 私は言った。

「月を?」

「はい。すごく大きな月でした。空に浮かんでいるというより、目の前にあって、手を伸ばすものではなく、そこへ辿り着くものみたいでした」

「辿り着いたのか」

「はい。ハルクさんと一緒に」

「誰なんだ、そいつは」

「大鷲の人です。ずっと月へ行きたがっていて、私はその人と一緒に、月まで行きました」

 カイは何も言わなかった。

 でも、聞いている。

 それは分かった。

「最初は、とても失礼な人でした。自分のことしか考えてない利己的な人。親友の気持ちも無視して命も大事にできない人、でした」

 今でも思い出す、ハルクとの諍いと、キースの涙。

「でも、ハルクさんは思い出したんです。お父さんの残した言葉を、親友との過去を、本当の自分を」

 そう、彼は翼を取り戻した。

 風が彼を迎えに来ていた。

「痛みを知って、ハルクさんは強くなりました。だから月まで届いたんです」

 私は星を見上げた。

 列車の中の星の海。ハルクさんと見た大きな月。雪山の星空。全部違うのに、どこか似ている。

 キースがいれば、あの大きな月があれば、カイの病も治せたかもしれないけど、カイはそれを望まないだろう。

「次は、港町の猫でした」

 そう言って私はシドの大きな身体を思い出した。

 優しい表情、温かい喋り方、この場にいたら雪を溶かしてくれそうだった。

「私が観覧車に乗りたいと言ったら、なくした宝石を探してほしいと頼まれたんです」

「見つかったのか」

「はい、でも、宝石を探して町を歩くうちに、その人が本当に探していたのは、宝石だけじゃなかったような気がしました」

 シドが探していたのは、宝石であってそうではなかった。

「自分がいるべき場所と、ずっと会えなかった人たちなのかもしれません」

 あの時、彼に必要だったのはツムギの本当の言葉、そして、彼を迎え入れてくれる場所であった。

「彼は会えました。亡くなった恋人の本当の言葉と友達の涙に。そして町の人々が、彼を温かく愛していることも」

「そうか」

 ぽつり、ぽつりとカイは返事をする。

 それで良かった。

「それから、魔女の国で、二人の魔女見習いに会いました。アリスとローゼです」

 その名前を口にすると、記憶に新しい魔女の国の景色が浮かんだ。

「二人は、全然違うように見えました」

 そう、アリスとローゼは全く違う。

 普通なら一緒にいることのない二人なのかもしれない。

「でも、互いのことをすごく大切に思っていました。うまく言えなかったり、すれ違ったりしても、相手のことを見ていました」

「親友か」

 カイが言った。

 その声が、ほんの少しだけ低く聞こえた。

 私は隣を見る。

 カイは星を見上げたままだった。けれど、さっきまでよりも横顔が静かになっている気がした。寒さのせいではない。どこか遠いものを見ているような顔だった。

「はい」

 私は頷いた。

「私も、親友になれたと思います」

「思う、なのか」

「はい。本人たちにそう何度も確認したわけではないので」

「面倒な言い方だな」

「でも、そう思いたいんです」

 カイはしばらく黙っていた。

 星の光が、雪の上に薄く落ちている。火は背中で小さく鳴っていた。私は、カイが何かを言うのを待った。

「友と呼べる相手は」

 やがて、カイが言った。

「そう何度もできるものじゃない」

 私は息を止めた。

 カイの声は、いつもと同じように低かった。けれど、その言葉だけは、雪の上へ落ちても消えずに残る石のようだった。

「カイにも、いたんですか」

 訊いてから、踏み込みすぎたと思った。

 カイは答えなかった。

 ただ、星を見ていた。

「……大事にしろ」

 少しして、カイはそれだけ言った。

「はい」

 私は小さく頷いた。

 アリスは器用と不器用、両極端だった。ローゼも、強そうに見えて、きっとたくさん怖いものがあったと思う。それでも、二人は互いを思い合っていた。私は、それが羨ましかったのかもしれない。

「誰かのために迷ったり、怒ったり、泣いたりできることが、少し羨ましかったんです」

 カイは何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は拒むものではなかった。

「それから、カイに会いました」

 カイは少しだけこちらを見た。

「俺の話はいい」

「まだ何も言ってません」

「だいたい分かる」

「分からないと思います」

「なら言え」

 私は息を吸った。

 冷たい空気が胸の奥まで入ってくる。

「最初、怖かったです」

「ああ」

「知らない小屋で目を覚まして、大きな狼がいて、外は雪で、列車もなくて」

「普通はそうだ」

「でも、カイは助けてくれました」

「倒れていたからな」

「それだけですか」

「それだけだ」

「カイは、いつもそれだけって言います」

「余計な理由はいらない」

「でも、私は助かりました」

 カイは答えなかった。

 私は続けた。

「最初は、カイの背中を追いかけるだけでした。足元も見られなかったし、雪の下に何があるのかも分からなかった。戻ることが進むためになるなんて、考えたこともありませんでした」

「ああ」

「でも、少しずつ分かってきました。足元を見ること。火を消さないこと。濡れたものをそのままにしないこと。印を残すこと。道具を使うこと。怖い時は、立ち止まって見ること」

「覚えているな」

「はい」

「ならいい」

「よくないです」

 カイが私を見る。

 私は自分の手を見た。

 縄を握った跡が、まだ指に残っている気がした。

「覚えただけじゃ、足りない気がします」

「何が足りない」

「分かりません」

「分からないのか」

「はい」

「なら、考えろ」

 カイはいつも通りだった。

 でも、今夜はそれがありがたかった。

「私は、ずっと兄さんを探しています」

「ああ」

「でも、兄さんに会ったら、何を言えばいいのか分からないんです」

 口にすると、胸の奥が少し痛んだ。

「会いたいのに、会うのが怖いです。見つけたいのに、見つけた後のことが分からない。兄さんが私を見て、何を思うのかも分からない」

 カイは星を見ていた。

 その横顔には、いつものように表情が少ない。けれど、耳だけがほんの少しこちらへ向いている。

「会いたいのか」

 カイが訊いた。

「会いたいです」

「怖いのか」

「怖いです」

「それでも探すのか」

「探します」

「なら、それでいい」

「いいんですか」

「怖くないふりをしても、足は軽くならない」

 私はカイを見た。

「怖いまま歩くしかない日もある」

「カイも、怖いですか」

 訊いてから、踏み込みすぎたと思った。

 カイはすぐには答えなかった。

 星の海が、彼の瞳に小さく映っている。

「怖くないやつから、雪に呑まれる」

 やがて、カイはそう言った。

「怖いなら見ろ。見て、考えろ。考えて、それでも行くなら行け」

「戻る時は」

「戻れ」

「目的は」

「変えなくていい」

「道は」

「選べ」

 私は小さく頷いた。

 その言葉を、もう何度聞いただろう。けれど、今夜のそれは、少し違って聞こえた。雪道の話でもあり、兄さんを探す話でもあり、私がこれからどう歩くのかという話でもあった。

「私は」

 私はゆっくり言った。

「助けられてばかりじゃなくなりたいです」

 カイは黙って聞いていた。

「誰かを助けられる人に、急になれるとは思っていません。でも、せめて、誰かが歩けなくなった時に、置いていかない人になりたいです」

「重いぞ」

「はい」

「自分も沈む」

「はい」

「それでもか」

「それでも」

 私は橇の方を見た。

 暗がりの中で、橇の輪郭が小さく見える。荷物用だと言われた橇。でも、私はもう、その先の使い方を考えていた。

「連れていきたいです」

 カイは長い間、何も言わなかった。

 星が瞬いている。

 火が背中で小さく鳴っている。

 月の薄い光が、雪の上を青く照らしている。

「歩けるやつが、歩けないやつを連れていく日もある」

 カイが言った。

 私は息を止めた。

「その時は、先に見るな」

「先に?」

「足元を見ろ。次に、運ぶ相手を見ろ。最後に、行き先を見る」

「行き先は最後なんですか」

「行き先ばかり見ると、足を取られる」

「はい」

「相手ばかり見ると、二人で落ちる」

「はい」

「足元だけ見ていると、どこへ向かっているか分からなくなる」

「……難しいです」

「だから、忙しいと言った」

 私は少しだけ笑った。

 笑えたことに、自分でも驚いた。

「覚えておけ」

 カイは言った。

「歩けなくなったやつを運ぶなら、泣くのは後だ」

「泣きません」

「嘘が下手だ」

「カイほどじゃありません」

 カイは少しだけ目を細めた。

 それは笑ったようにも見えた。

 夜は深くなっていく。

 星はさらに増えたように見えた。空の黒は濃く、そこに光の粒が無数に浮かんでいる。雪の山も、岩も、橇も、私たちの息も、その星の光に薄く縁取られていた。

「カイ」

「何だ」

「今日は、少し楽ですか」

「ああ」

「よかった」

「よくはない」

「でも、昨日より」

「昨日よりはな」

 私は頷いた。

 この夜がずっと続けばいいと思った。

 カイが普通に話せて、星が見えて、月の薄い光が雪を照らしている。このまま朝が来なければいい。吹雪も、病も、神の国も、全部少し先に置いたまま、今だけが伸びてくれればいい。

 けれど、そんなことはありえない。

 夜は必ず明ける。

 道は続いている。

 カイは行く。

 私も、行く。

「あの星を知っているか」

 ふいに、カイが空を指した。

 カイの方から話しかけてくるのが、珍しく思えた。

「どれですか?」

「あれだ。四つ並んでいる」

 私はカイの指先が示す先を見た。

 確かに、そこには四つの星が並んでいた。完全な一直線ではない。少しずつ高さを違えながら、それでも互いから離れずに光っている。

 私は目を細めた。

 そもそも私は、元の世界の星の名前すらほとんど知らない。ここにある星が、私の知る空にも浮かんでいるのか、それさえ分からなかった。

 私が答えられずにいると、カイが口を開いた。

「左から、狼星、羊星、狐星、熊星だ」

「狼、羊、狐、熊」

 言われてから見直しても、星の並びからそれぞれの姿を見つけることはできなかった。

「どこが狼なんですか」

「知らない」

「カイが言ったんですよね」

「俺たちが勝手にそう呼んだだけだ」

「俺たち……?」

 私が訊き返すと、カイは少しだけ口を閉ざした。

 喋りすぎたと思っているのかもしれない。

「カイのお友達の話ですか?」

「そうだ」

 答えは、思っていたよりも早く返ってきた。

「もう何十年も昔の話だ」

 私はそれ以上、すぐには訊けなかった。

 星は変わらず並んでいる。

 狼。羊。狐。熊。

 どれが誰なのかは分からない。けれど、四つの中には、カイ自身もいるのだと思った。

「四つの星は、いつもそこにある」

 カイが言った。

「その距離が変わることもない。どこへ行っても、見上げれば同じ場所に並んでいる」

 カイは一度、言葉を切った。

「俺たちは、そういうことにした」

「約束したんですか」

「約束というほどのものじゃなかった」

 カイの声は低かった。

「ただ、離れても、空を見れば同じものが見えると、そう言った」

 星の光が、カイの瞳に映っている。

 そこにいるのは、私の知っているカイだった。けれど、同時に、私の知らない遠い時間を見ているようにも思えた。

「星は今も、あの時と同じ場所にある」

 カイは言った。

「だが、俺たちは違った。どれだけ近くにいても、命が尽きれば、同じ場所にはいられない」

 その後に続ける言葉が見つからなかった。

 大丈夫ですか、と訊くこともできない。

 悲しいですか、と訊くことも違う気がした。

 気づけば私は、両手の指を絡め、胸元で強く握っていた。

「俺は、どうしても神の国へ行かなければならない」

 カイは四つの星を見上げたまま言った。

「それは、あいつらとの約束だからだ」

「約束……」

「あいつらは、もういない」

 カイの声は揺れなかった。

 けれど、揺れないからこそ、その言葉が長い間繰り返されてきたものだと分かった。

「だから、確かめる。俺たちが探したものが、本当にあったのか。それとも、何もなかったのか」

 月の光が、カイの横顔を薄く照らしている。

「それが、あいつらと俺を繋ぐ、最後の、最後の星だ」

 カイはゆっくりと立ち上がった。

 足元がわずかに揺れた。

 私は手を伸ばしかけたが、カイは自分で踏みとどまった。

 彼は星の海を見上げ、深く息を吸った。

 そして、吠えた。

 長く、遠くへ届かせるような声だった。

 それは誰かを呼んでいるようにも、もう届かないことを嘆いているようにも聞こえた。悲しさも、苦しさも、言葉にできなかったもののすべてが、その一つの声になって夜空へ放たれていく。

 咆哮は山々にぶつかり、何度も形を変えながら返ってきた。

 一度。

 二度。

 やがて遠くなり、星の海の中へ溶けていく。

 カイはしばらく空を見上げたまま動かなかった。

 私は声を掛けられなかった。

 その背中は、今まで見たどの時よりも大きく見えて、それなのに、ひどく遠くにいるようだった。

 やがてカイは小さく息を吐き、こちらへ顔を向けた。

「寝ろ」

「カイは」

「少ししたら寝る」

「本当に?」

「見張りがいる」

「私が代わります」

「お前は寝ろ」

「でも」

「明日、橇を引くんだろ」

 私は言葉を失った。

 カイはもう一度、四つの星を見上げた。

「なら寝ろ。足を残せ」

「……はい」

 私は立ち上がり、入口の板を少しだけ閉めた。

 星の海が細くなる。

 それでも、隙間から少しだけ光が入っていた。

 布にくるまると、身体の疲れが一気に戻ってきた。足が重い。肩も痛い。指も固い。それでも、胸の奥だけは、不思議と少し温かかった。

 カイの声が、暗がりから聞こえた。

「ひかり」

「はい」

「怖いままでも、歩け」

 私は目を閉じた。

「はい」

 星の光が、瞼の裏に残っているような気がした。

 外では、冬の空がどこまでも澄んでいた。

 その夜が、カイに残された最後の穏やかな夜になることを、私はまだ知らなかった。

 

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