ずっと、あったのだ。
薬屋の扉が閉まると、外を流れていた水路の音が遠くなった。
代わりに、乾いた葉が擦れる音と、奥の炉で湯が煮える音が聞こえる。壁には細い根や丸めた樹皮が吊られ、棚には色の違う粉を詰めた壺が並んでいた。
老犬は部屋の中央にある椅子を顎で示した。
「座れ」
「立ったままでいい」
「立てるかどうかを見たいわけじゃない」
カイは動かなかった。
老犬も同じ場所から動かない。
二匹の間へ、炉の小さな音だけが続いた。
「短くしろ」
先に折れたのはカイだった。
荷物を床へ置き、椅子へ腰を下ろす。
老犬は私へ壁際の丸椅子を示した。
「お前も座れ」
「ここにいます」
「倒れられると二匹診ることになる」
私は言われた通り、丸椅子へ座った。
老犬はカイの右手を出させ、手袋を外した。
指先を一本ずつ押し、曲げさせる。
「痛むか」
「痛くない」
「痺れは」
「ない」
「握れ」
カイが指を閉じる。
最後まで握り込む直前、薬指と小指の動きが遅れた。
老犬は何も言わず、今度は手首へ指を当てた。
「左も」
「右だけで十分だろ」
「決めるのは俺だ」
左手も同じように調べる。
こちらは遅れなかった。
次に老犬はカイの目を覗き、瞼の裏を確かめた。耳の付け根へ触れ、首元から外套の内側へ手を入れる。
「冷たいな」
「外を歩いてきた」
「火のそばにいても戻っていない」
老犬は炉の横から浅い金属皿を取り出した。
皿の底には、青黒い石が一つ載っている。
夜空を削って固めたような色だった。
「手を置け」
「何だ、それは」
「古い検査具だ」
「そんなもので何が分かる」
「置けば分かる」
カイは嫌そうに皿へ右手を載せた。
青黒い石はしばらく何も変わらなかった。
老犬が炉の灯りを遮る。
暗くなった皿の中で、石の縁へ薄い白が浮かんだ。
光というより、霜に近い。
白は石の半分まで広がり、そこで途切れた。
老犬の細い目が、さらに狭くなる。
「左も出せ」
左手では、白は石の端にしか現れなかった。
老犬は皿を棚へ戻し、布を掛けた。
「いつから動きにくい」
「動きにくくない」
「右だけ遅れている」
「疲れてるだけだ」
「疲れなら左右へ出る」
カイは黙った。
老犬は私へ顔を向ける。
「気づいたのはいつだ」
「昨日です。濡れた石の上で足が流れて、荷物の紐を掴み直していました。食事の時にも、匙が器へ当たりました」
「その前は」
「分かりません。私が見落としていたかもしれません」
「夜に震えたことは」
「寒い時はありました。でも、今までと違う震えかは」
「月が見えない夜が何日続いた」
私は指を折りかけ、やめた。
山へ入ってから、雲や吹雪で空を見られない夜が多かった。岩陰や石の建物で過ごし、月が出ていたかどうかさえ分からない日もある。
「何日かは、分かりません」
老犬はカイを見る。
「お前は分かっているな」
「数えてない」
「嘘だな」
「何の話だ」
「自分の身体のことだ」
カイの耳が僅かに後ろへ倒れた。
老犬は炉へ向かい、湯の入った器を二つ用意した。片方をカイの前へ置き、もう片方を私へ渡す。
湯からは乾いた根の匂いがした。
「先に言っておく。これは薬ではない」
老犬は椅子へ座らず、炉の前に立ったまま続けた。
「月光欠乏症だ」
聞き慣れない言葉だった。
「月光、欠乏症」
「犬と狼だけに出る。月の光を身体へ留められなくなる病だ」
私はカイを見る。
彼は老犬だけを見ていた。
「月の光を、留める?」
「犬や狼の身体は、月から僅かな熱を受け取る。普通なら見えないほど少しずつ蓄え、寒さや疲労へ耐える力に変える。だが、この病にかかると、それが抜け続ける」
「月が見えないと悪くなるんですか」
「見えない夜が続けばな。初めは指先が遅れる。次に足が重くなる。体温が戻らなくなり、息が浅くなる」
「その先は」
老犬は答える前に、カイを見た。
「眠ったまま、起きなくなる」
炉の中で木片が小さく割れた。
私は器を両手で持ったまま動けなかった。
言葉の意味は分かる。
けれど、それがカイへ向けられていることだけが、うまく繋がらなかった。
「治せるんですか」
老犬はすぐには答えなかった。
「月が出れば、戻ることはある」
「治るんですね」
「戻るのと治るのは違う」
低い声だった。
「失った分の一部が戻り、歩けるようになることはある。だが病そのものは消えない」
「薬は」
「ない」
短い答えが、乾いた葉の匂いの中へ落ちた。
「昔は治す方法を探した者もいた。だが、この病は絶えたと言われて久しい。記録も道具もほとんど残っていない」
「絶えたはずなのに、どうしてカイが」
「それを俺に訊いても分からん」
老犬は青黒い石を覆った布へ目を向けた。
「俺も実際に診るのは初めてだ。記録と反応が同じだから、名をつけられただけだ」
「間違いかもしれない」
カイが言った。
「そう思いたいなら、今夜までここにいろ」
「何が変わる」
「月が出れば動きが戻るかもしれん。出なければ、さらに落ちる」
「待ってる時間はない」
「お前が決めることではある」
老犬はそこで一度言葉を切った。
「だが、一人で歩いているなら、だ」
視線が私へ向く。
カイの眉が僅かに動いた。
「こいつは勝手についてきてる」
「それでも隣にいる」
「俺の目的とは関係ない」
「倒れれば、この子が残る」
カイは何も答えなかった。
私は器の中へ目を落とした。
湯の表面に、炉の明かりが揺れている。
「神の国まで、あとどれくらいですか」
私が訊くと、老犬は少し考えた。
「天候と道次第だ。歩ける者なら数日。今の狼を連れてなら、読めん」
「月が出れば」
「その夜は戻るかもしれない。次の夜も同じとは限らん」
「どうすれば、連れていけますか」
「ひかり」
カイの声が低くなる。
私は老犬から目を離さなかった。
「歩かせ続けるのは無理ですか」
「悪くなればな」
「荷物を減らせば」
「それだけでは足りん」
「では、何が要りますか」
老犬は私をしばらく見た。
それから、棚の奥から布包みを二つ取り出した。
「根の粉だ。湯へ溶かせば、体温が落ちるのを少し遅らせる」
「治療ではないんですよね」
「ああ。時間を稼ぐだけだ」
「ほかには」
「濡らすな。冷えたまま歩かせるな。指と足の動きを何度も確かめろ。息が浅くなったら止めろ」
「止まって月を待つ?」
「待てる場所ならな」
「歩けなくなったら」
老犬は窓の外へ目を向けた。
「集落の北端に古い橇置き場がある」
カイが立ち上がった。
「要らない」
「まだ話は終わっていません」
「俺は乗らない」
「誰も今すぐ乗れとは言っていない」
私は自分でも驚くほど強く言っていた。
カイがこちらを見る。
「橇があれば、荷物を載せられます。カイが歩ける間は歩けばいいです」
「荷物は持てる」
「さっき落としました」
「一度だ」
「何度目なら認めますか」
カイは答えなかった。
「倒れてからですか」
「言い方を考えろ」
「考えています」
声が震えそうになる。
私は器を卓へ置いた。
「カイが北へ行くのは止めません。私も行きます。でも、歩くことだけが行くことではないと、教えたのはカイです」
進むために戻る。
道具は使う。
歩けるうちに止まる。
何度も言われてきたことだった。
「橇を用意します」
「勝手に決めるな」
「使うかどうかは、その時に決めればいいです」
「荷物になる」
「荷物を載せます」
「お前には引けない」
「試してから決めます」
カイは目を細めた。
老犬が小さく息を吐く。
「よく似た話し方をするようになったな」
「誰にだ」
「目の前にいるだろう」
カイは老犬を睨んだ。
私は少しだけ息を整えた。
「今日はここで休め」
老犬が言った。
「夕方までに月が出るかを見る。橇はその間に選べばいい」
「出る」
「診察代を払え」
「いくらだ」
「今日は出ないことだ」
「ふざけるな」
「金より高いぞ」
老犬は根の粉を私へ渡した。
「その狼を二階へ連れていけ。空いている部屋がある」
「宿へ戻る」
「歩かせる距離を増やすな」
カイは拒む言葉を探すように黙った。
やがて、荷物へ手を伸ばす。
右手が紐を掴む前に、私が先に持った。
「ひかり」
「二階までです」
「自分で持つ」
「左手でお願いします」
「命令するな」
「お願いです」
カイは私を睨み、左手だけで荷物を持ち上げた。
それで十分だった。
二階の部屋は狭かった。
窓が一つあり、集落の屋根と、その向こうへ続く白い斜面が見える。寝台には厚い布が重ねられ、壁際には小さな炉があった。
「横になってください」
「座るだけだ」
「では座ってください」
カイは窓際の椅子へ腰を下ろした。
私は炉へ木片を足し、湯を作った。
根の粉を入れると、湯は濃い茶色へ変わった。
匂いは強く、土と焦げた木を混ぜたようだった。
「苦そうです」
「お前が飲め」
「私は病気ではありません」
「疲れてる」
「カイよりは」
カイは器を受け取り、一口飲んだ。
眉間へ深い皺が寄る。
「苦い」
「老犬も薬ではないと言っていました」
「味の話だ」
「効きそうな味です」
「効かない」
「時間は稼げます」
カイは器を見下ろした。
「時間を稼いで、どうする」
「神の国へ行きます」
「お前が決めるな」
「カイが行くと言ったので」
返事はなかった。
窓の外で、水路の氷を割る音がした。
私はしばらくカイのそばにいた。
右手の震えは、火へ当たるうちに少し弱くなった。足も動かせる。息も乱れていない。
それでも、老犬の言葉は消えなかった。
戻ることはある。
治るわけではない。
時間を稼ぐだけ。
昼を過ぎた頃、私は一人で北端の橇置き場へ向かった。
カイは寝台へ横になってはいなかったが、老犬が見張ると言ったので任せた。
集落の家々を抜けると、水路が二本に分かれる。その間に、低い石壁で囲まれた広場があった。
雪の中へ、古い橇が何台も並んでいる。
板が割れたもの。
底が反ったもの。
縄が切れたもの。
横倒しになり、半分雪へ埋もれたもの。
老人が一匹、壁際で板を削っていた。
「薬屋の爺さんから聞いた」
私を見るなり、老人は言った。
「狼を運ぶのか」
「まだ歩けます」
「なら、歩けるうちは荷を運べ」
「歩けなくなったら」
「その時は載せろ」
老人は削っていた板を置き、橇の間へ入った。
「軽すぎるものは割れる。重すぎれば、お前が先に潰れる。底が広く、前が少し上がったものを選べ」
私は一台ずつ板を見た。
表面だけで決めず、端を押し、裏側を確かめる。縄を通す穴へ指を入れ、ひびがないかを見る。
三台目の橇は、片側の板が腐っていた。
五台目は軽いが、底へ長い割れ目がある。
七台目は黒ずんでいたものの、板の厚さが揃い、前の曲がりも残っていた。
「これは」
「悪くない」
老人が裏返す。
「縄は替えろ。横木も一本足す」
「自分でできますか」
「できるところまでやれ。足りない分は教える」
私は新しい縄を取り出した。
輪を作り、穴へ通し、締める。
氷の谷で使った結び方とは違う。
引く力が一か所へ集まらないよう、左右を同じ長さへ揃える必要があった。
「そっちは短い」
「こちらを緩めます」
「全部ほどくな。留めを残せ」
言われた通りに直す。
何度か引き、板が傾かないことを確かめた。
横木には、老人が削っていた板を使った。
穴へ差し込み、縄で固定する。
最後に私が全体を引くと、橇は雪の上を真っ直ぐ進んだ。
「使える」
老人が言った。
「ありがとうございます」
「礼は、戻れた時に言え」
私は橇の縄を握った。
空を見上げる。
雲はまだ厚い。
けれど、西の端だけが僅かに明るくなっていた。
月が出るかどうかは分からない。
カイの動きが戻るかも分からない。
この橇へ、いつ何を載せることになるのかも分からない。
それでも、何も用意せず待つことだけはできなかった。
薬屋へ戻ると、カイは二階の窓から橇を見下ろしていた。
私が入口へ停めて縄を畳むと、背後で扉が開く。
「本当に持ってきたのか」
階段を下りてきたカイが言った。
「使えるものを選びました」
「返してこい」
「荷物を載せます」
「お前が引くのか」
「はい」
「無理だ」
「少し動かしました」
「平らな場所だけだ」
「では、平らな場所は私が引きます。上りは分けます」
「病人扱いするな」
私は縄から手を離さなかった。
「病名がつきました」
カイの目が鋭くなる。
「名前がついたから、カイが別の誰かになったわけではありません」
「なら、今まで通りでいい」
「今まで通りに行くために使います」
「……」
「私を神の国まで連れていくと言いましたよね」
「言ってない」
「南の町へ行けと言われたのに、勝手についてきました」
「ああ」
「だから今度も、勝手にします」
カイは長い間、橇を見ていた。
新しく結んだ縄。
足した横木。
雪の上へ残る細い二本の跡。
「俺は乗らない」
「今は荷物だけです」
「今は、か」
「歩けなくなったら、その時に話します」
「話してる余裕があると思うな」
「では、私が決めます」
カイが低く唸る。
けれど、橇を返せとはもう言わなかった。
老犬が戸口から布包みを投げてよこす。
私は両手で受け取った。
「粉は朝と夜だ。月が出たら、外へ連れ出せ。ただし冷やすな」
「分かりました」
「息が浅くなったら進むな。足先の感覚がなくなったら、無理に立たせるな」
「はい」
「狼の言う大丈夫は数に入れるな」
「聞こえてるぞ」
「聞かせている」
私は布包みを星形ポーチへ入れた。
黄色い布の残りと、根の粉が同じ中へ収まる。
道を示すものと、進む時間を稼ぐもの。
どちらも、これから必要になる。
夕方が近づくと、西の雲が細く裂けた。
まだ月は見えない。
けれど、その向こうに明るい空がある。
私は橇の縄をもう一度引き、結び目が動かないことを確かめた。
カイは薬屋の壁へ背を預け、黙ってそれを見ている。
「明日、出ます」
私が言った。
「俺が決める」
「では、明日決めてください」
「面倒だな」
「面倒でも見ます」
カイは目を細めた。
それから、ほんの僅かに息を吐いた。
「勝手にしろ」
「はい」
私は橇の上へ荷物を一つずつ載せた。
食料と鍋。
布と着火剤。
歩ける間は、カイを載せない。
けれど、歩けなくなった時に置いていくこともしない。
そのための橇だった。




