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カイの異変

 朝になると、窓の外にあった白い霧は、家々の屋根ほどの高さまで薄くなっていた。

 昨夜は灯りの輪郭さえ曖昧だった水路も、今は黒い石の間を流れる姿が見える。集落の中央では、霧へ道を知らせる石台の火が消され、山羊の女が灰を集めていた。夜のうちに誰かが灯したらしい。

 水の音へ、木槌の音と戸を開ける音が重なる。

 宿の食堂にも朝の明るさが入り、窓際の卓へ細長く伸びていた。

 私は温め直した豆の煮込みを食べながら、向かいに座るカイを見た。

 カイは硬い麦パンを片手で割ろうとしていた。

 一度、指が止まる。

 持ち替えて力を入れると、乾いた音を立てて二つに割れた。

「見すぎだ」

「見ていません」

「見てる」

「麦パンを見ていました」

「俺の手ごとだろ」

 私は器へ視線を落とした。

「昨日から、少し変です」

「何が」

「石で滑りました。荷物の紐も掴み直していました。匙も落としかけました」

「落としてない」

「今も、パンを割る前に手が止まりました」

「硬かっただけだ」

「カイが硬いと言うなら、相当ですね」

「そういう意味じゃない」

 カイは割った麦パンを煮込みへ浸した。

 食べ方も、声も、いつもと変わらない。

 けれど、右手だけは膝の上へ置かれたままだった。

「今日はここでもう一日休みませんか」

「霧が上がれば出る」

「急ぐんですよね」

「ああ」

「でも、歩けなくなったら余計に遅れます」

「歩ける」

 短い返事だった。

 それ以上は話さないという形にも聞こえた。

 私は匙で豆を一つ潰した。

「では、せめて薬屋へ」

「必要ない」

「昨日の老犬、カイを見ていました」

「旅人を見るやつはいる」

「顔だけではなく、手や足も見ていました」

「よく見てるな」

「カイに教わりました」

 カイが僅かに眉を寄せる。

 危険を重ねて見ろ。

 一つだけで決めるな。

 これまで何度も言われたことを、そのまま返しただけだった。

「歩けるか、宿の前で確かめる」

「それで変だったら?」

「変なら考える」

「約束です」

「勝手に決めるな」

「今、考えると言いました」

 カイは答えず、残っていた煮込みを食べた。

 食堂を出る前に、私は水筒へ水を満たした。

 女将は帳面へ何かを書きながら、私たちの荷物を見た。

「もう行くのかい」

「霧が上がったらな」

 カイが答える。

「上の道は昼まで濡れてるよ。石の表面だけじゃなく、土ごと緩む」

「分かった」

「分かった顔はしてるね」

 女将は眼鏡の奥からカイを見た。

「顔色までは分かりにくいけどさ」

「何でもない」

「私は何も訊いてないよ」

 カイは荷物を持ち上げた。

 右肩へ掛けた紐が僅かにずれる。

 いつもなら一度で収まるものを、左手で引き寄せて直した。

 女将の目が細くなる。

 けれど、彼女は何も言わなかった。

 宿の外へ出ると、霧は水路の上へ薄く残るだけになっていた。

 空には明るい場所が増え、山の斜面も遠くまで見える。昨日、白へ消えていた北の道は、集落の奥から緩く上り、二本の石壁の間へ続いていた。

 私は入口の前で杖を雪へ刺した。

 表面は硬い。

 その下へ、少し柔らかな層がある。

「女将の言った通りです」

「ああ」

「足を外側から置いて、沈んだら戻る」

「それでいい」

 カイが先へ進む。

 歩幅は普段と変わらない。

 私も少し後ろからついていった。

 水路を越える石橋まで来たところで、カイが一度立ち止まった。

「どうしました」

「霧を見てる」

 谷の奥には、白い帯がまだ残っている。

 けれど、カイの顔はそちらではなく、石橋の手前へ僅かに向いていた。

 私は何も言わず、足元を見た。

 橋は三枚の平石を並べただけのものだった。

 中央の一枚は濡れている。

 カイは左足から乗り、次に右足を出した。

 右膝が浅く折れた。

 身体が横へ傾く。

 すぐに石壁へ手をついたので、水路へ落ちることはなかった。

 それでも、昨日の滑り方とは違った。

 靴底が流れたのではない。

 足が重さを支えきれなかったように見えた。

「カイ」

「騒ぐな」

「今のは石ではありません」

「濡れてる」

「右足は滑っていません」

 カイは石壁から手を離した。

「立ってる」

「立っていれば大丈夫とは限りません」

「先へ行く」

 私の横を抜けようとした時、右手から荷物の紐が外れた。

 袋が石橋へ落ちる。

 乾燥きのこの入った包みが口から転がり、水路の縁で止まった。

 私はすぐに拾った。

 カイも屈もうとしたが、途中で動きを止める。

「触らないでください」

「俺の荷物だ」

「今は私が拾います」

「持てない」

「全部は持ちません。集落へ戻すだけです」

「戻らない」

「考えると言いました」

「まだ歩ける」

「右足が沈んで、荷物も落としました」

「一度だ」

「昨日から数えれば、一度ではありません」

 カイの耳が僅かに後ろへ倒れた。

 怒っている。

 けれど、私は退かなかった。

「一つなら見間違いかもしれません。二つなら偶然かもしれません。でも、もう重なっています」

「誰の言葉だ」

「カイの言葉です」

 水路の音が石橋の下を抜けていく。

 集落では、朝の作業が続いていた。

 誰かが木を割り、誰かが氷を砕き、遠くで子どもの声が上がる。

 その中で、私たちだけが道の途中へ止まっていた。

「薬屋へ行きます」

「行かない」

「では、老犬をここへ呼びます」

「勝手にしろ」

「本当に呼びます」

「……」

「座って待っていてください」

「命令するな」

「では、お願いです。ここで待っていてください」

 カイは返事をしなかった。

 けれど、落ちた荷物を取り返そうとも、先へ進もうともしなかった。

 私は荷物を石壁の内側へ寄せ、急いで集落へ戻った。

 薬屋は昨日と同じ路地の奥にあった。

 入口へ下がった乾燥草が、弱い風の中で擦れ合っている。

 戸の前に老犬はいなかった。

 私は扉を叩いた。

「すみません」

 中で何かが動く音がする。

 しばらくして、白い毛へ灰色の混じった老犬が戸を開けた。

 昨日と同じ細い目が、私の顔を一度見ただけで路地の向こうへ向いた。

「狼はどこだ」

「集落の入口です」

「倒れたか」

「倒れてはいません。でも、右足が支えきれなくなって、荷物も落としました」

「いつからだ」

「昨日、石で一度滑りました。そのあと、手が何度か止まっています」

「熱は」

「分かりません」

「息は」

「普通に見えます」

「夜、咳は」

「聞いていません」

 老犬は戸の内側から外套と小さな鞄を取った。

「案内しろ」

 歩き出す足は速かった。

 私はその横を走りかけ、滑らないよう歩幅を抑える。

「何か分かるんですか」

「まだ何も」

「昨日から見ていましたよね」

「北へ行く狼は、見る場所が多い」

「女将も似たことを言っていました」

「女将は話が長い」

「あなたも短いですね」

「歩け」

 カイと同じ言い方だった。

 石橋へ戻ると、カイは石壁へ背を向けて立っていた。

 座ってはいない。

 荷物も自分で持ち直している。

 老犬は足を止めず、その正面まで進んだ。

「戻ったのか」

「呼ばれた」

「帰れ」

「歩いて帰れるならな」

 老犬はカイの右手を見た。

「開け」

「何を」

「手だ」

「必要ない」

「なら、その紐を片手で結び直せ」

 カイは荷物の紐を掴んだ。

 一度引く。

 結び目へ指を掛ける。

 右手の先が僅かに震えた。

 ほんの小さな動きだった。

 けれど、今度は私だけでなく、老犬も見ていた。

「寒さのせいだ」

 カイが言った。

「そうかもしれん」

 老犬は否定しなかった。

「だから中で見る」

「必要ない」

「必要かどうかを決めるのは、見てからだ」

 カイの眉間へ皺が寄る。

 老犬は気にせず、今度は右足の前へ杖を置いた。

「跨げ」

「子ども扱いするな」

「跨げるなら終わる」

 カイは右足を上げた。

 杖を越える。

 下ろす直前、足先が僅かに外へ流れた。

 老犬の手がすぐに膝の横へ添えられる。

「もう一度」

「やらない」

「左は」

「帰れ」

「左は問題なさそうだな」

 老犬は小さな鞄を閉じた。

「店へ来い」

「行かない」

「なら、ここで外套を脱がせる」

「ふざけるな」

「路地の子どもたちが見に来るぞ」

 実際、少し離れた水路の向こうから、鹿の子どもが二匹こちらを見ていた。

 カイはその視線に気づき、低く息を吐いた。

「短くしろ」

「中へ入ればな」

 老犬が先に歩き出す。

 私は落ちた包みを袋へ戻し、カイの荷物へ手を伸ばした。

「触るな」

「薬屋までです」

「自分で持つ」

「右手を使わないでください」

「命令するな」

「お願いです」

 カイはしばらく私を睨んだ。

 やがて、大きい袋だけを左肩へ掛け直し、軽い包みを私へ渡した。

「それだけだ」

「はい」

 完全に任されたわけではない。

 それでも、今は十分だった。

 私たちは来た道を戻った。

 集落の者たちは、こちらを見ても大きく騒がなかった。

 山羊の女が水桶を脇へ寄せ、通り道を空ける。

 狐の男は積んでいた石から手を離し、カイの足元を一度見た。

 誰も声を掛けない。

 けれど、老犬が前を歩いているだけで、何が起きたのかを察しているようだった。

 薬屋の前へ着くと、乾燥草の匂いが風に混じった。

 戸の上には、輪に編まれた根が下がっている。

 昨日は通り過ぎただけの入口だった。

 老犬が扉を開ける。

 中から、乾いた葉と煮出した根、古い木の匂いが流れ出した。

「入れ」

 カイは戸の前で止まった。

 北へ続く道は、霧の向こうではなく、集落の入口からはっきり見えている。

 昨日とは違い、今なら歩き出せる。

 それでもカイは、その道へ背を向けなければならなかった。

「すぐ終わるんですよね」

 私が老犬へ訊く。

「終わるかどうかは、見てからだ」

 カイが私を見る。

「外で待て」

「待ちません」

「邪魔になる」

「邪魔なら隅にいます」

「勝手についてくるな」

「今さらです」

 老犬が小さく鼻を鳴らした。

「話は中でやれ。冷気まで連れてくるな」

 カイは諦めたように目を細め、薬屋の中へ入った。

 私は軽い包みを抱えたまま、その後へ続いた。

 扉が閉まる直前、北の山が路地の向こうに見えた。

 雲の切れ間から淡い光が落ち、白い斜面を細く照らしている。

 道は消えていない。

 けれど今は、進むより先に確かめなければならないものがあった。

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