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信念の先には

 石の建物を離れてからも、水路の音はしばらく右手に続いていた。

 初めは、昨夜汲んだ場所と同じ細い流れだった。

 黒い石の溝を伝い、雪の下へ潜り、少し先でまた地上へ現れる。

 道が低くなるにつれ、別の水路が一つずつ合流し、流れの音も少しずつ厚くなっていった。

 空は薄い灰色だった。

 雲は残っている。

 けれど、山へ重く垂れ込めていた昨日までとは違い、ところどころ明るい。

 遠くの斜面も、谷の形も、白い霞の向こうへ薄く見えている。

「今日は歩きやすそうです」

「そう見える日ほど気を抜くな」

「はい」

「水が増えてる。雪の下が柔らかい」

「見た目は硬そうなのに」

「見た目だけで歩くな」

「それも覚えました」

「なら使え」

 私は杖を握り直した。

 水路と並ぶ道は、今までのものより広かった。

 石は沈み、ところどころ水に削られ、雪の下から現れたり消えたりしている。

 片側には崩れた壁。

 反対側には低い階段や、屋根を失った囲いが続く。

 昔は、ここを通る者が多かったのだろう。

 山へ近づいているはずなのに、景色は少しずつ白だけではなくなっていった。

 雪の下から土が覗く。

 石の間に低い草がある。

 水路の縁には、細い芽のようなものが幾つも出ていた。

 まだ緑と呼ぶには弱い。

 灰色に近く、寒さへ身体を縮めている。

 それでも、氷でも雪でも石でもなかった。

 水路を跨ぐ濡れた石へ、カイが足を置いた。

 その右足が僅かに滑る。

 転びはしなかった。

 身体はすぐに戻り、何事もなかったように先へ進む。

 けれど、私は足を止めた。

「カイ」

「何だ」

「今」

「石が濡れていた」

「……はい」

「お前も気をつけろ」

「はい」

 そう言われれば、それ以上訊けなかった。

 濡れた石は本当に滑りやすい。

 私なら転んでいたかもしれない。

 それでも、カイの足があれほど簡単に流れたことが、胸の奥へ小さく残った。

 少し先で、カイは荷物の紐を持ち直した。

 右手の指が一度だけ止まる。

 紐の位置を確かめただけにも見える。

「重いですか」

「重くない」

「少し持ちます」

「要らない」

 返事は早かった。

 私はそれ以上言わず、自分へ渡されていた袋を持ち直した。

 道が緩く曲がると、水路の音へ別の音が混じった。

 木を打つ乾いた音。

 石を引きずる音。

 誰かの声。

 もっと進むと、白い空へ細い煙が上っているのが見えた。

「町ですか」

「集落だな」

「こんなところに」

「水があるからだろう」

 近づくにつれ、低い屋根が一つずつ現れた。

 十数軒ほどの家が、谷の斜面へ寄り添うように建っている。

 屋根は雪が落ちやすい形を持ち、壁は石と木を組み合わせて作られていた。

 家々の間には、水路が枝分かれして流れている。

 水の上へ白い靄が立ち、濡れた石の間を細く漂っていた。

 集落の入口には、石柱を二本立て、木の梁を渡した門があった。

 扉はない。

 梁には、高い山と、その間を流れる川、川の両側へ並ぶ木々が彫られている。

 昨夜まで見てきた模様と同じだった。

「また同じ形です」

「古い印だ」

「ここでは、まだはっきり残っています」

「ああ」

 門の下には、鹿の老人が立っていた。

 背中へ薪を負い、片手には短い杖を持っている。

 私たちを見ると、まずカイへ目を向け、それから私を見た。

「旅人か」

「ああ」

「北へ?」

「ああ」

 老人は驚かなかった。

 無茶だとも、戻れとも言わない。

 ただ、カイの姿を少し長く見ていた。

「水路沿いを進むなら、今日はここで止まれ。谷の上は夕方から霧が出る」

「分かった」

「その子も北へ行くのか」

「勝手についてきてる」

 私は少しだけ頭を下げた。

「ひかりです」

「そうか」

 老人は私の靴へ視線を落とした。

「ここまで来た子は、だいたい足から駄目になる。濡らしたらすぐ替えろ」

「気をつけます」

「気をつけるだけでは足りん。冷たさを我慢するな」

「はい」

 老人は集落の奥を杖で示した。

「宿は水路の突き当たりだ。足りない物があるなら、豆と根菜くらいは買える。麦パンは硬いがな」

「硬いのは慣れました」

 私が答えると、老人の口元が僅かに緩んだ。

「旅人らしい顔になってきたな」

 私は思わず目を瞬かせた。

 自分の顔は見えない。

 けれど、雪へ沈むだけだった頃とは、少しくらい違うのかもしれなかった。

 門をくぐると、空気の匂いが変わった。

 寒さは変わらない。

 それでも雪原や岩場にはなかった、乾いた草や濡れた木、煮込まれた根菜、土と煙の匂いが混じっている。

 誰かが暮らしている場所の匂いだった。

 道端では、鹿の子どもたちが水路の薄い氷を木槌で割っている。

 少し離れた家の前では、山羊の女が布を干し、狐の男が崩れた石壁を積み直していた。

 誰も雪を珍しがらない。

 水路が凍れば割り、壁が崩れれば積み、濡れた布は風へ広げる。

 ここでは冬も水も、毎日の仕事の一部なのだろう。

「神の国に近い場所は、もっと静かだと思っていました」

「どうしてだ」

「祈る者だけが集まるような場所かと」

「ここは暮らす場所だ」

「そうですね」

 宿は水路の奥にあった。

 低い屋根を持つ石造りの建物で、入口には厚い布が二重に掛けられている。

 中へ入ると、火の熱と湯気が一度に顔へ触れた。

 女将は鹿だった。

 茶色の毛に黒い斑があり、丸い眼鏡をかけている。

「泊まりかい」

「ああ」

「北へ行くなら、明日の朝まで待ちな。今日は霧が下りる」

「聞いた」

「聞いたなら従いな。あの霧は道を食う」

 道を食う。

 変な言い方だった。

 けれど、吹雪や雪に何度も道を隠されてきた今なら、意味は分かる。

 道は地面へあるだけでは足りない。

 見えなくなれば、そこにないものと同じになる。

「部屋は二つ」

 カイが言った。

 女将は私とカイを交互に見た。

「二つあるけど、片方は火から遠いよ」

「二つだ」

「はいはい。狼はどこでも頑固だね」

「どこでも?」

 私が訊くと、女将は眉を上げた。

「北へ行く狼が、時々ここを通るのさ。多くはないけどね」

 私はカイを見た。

 カイは何も言わない。

「犬も狼も、北に何かを見たがる。似た目をして来るよ」

 女将は鍵を二つ差し出した。

「ただし、見たものをそのまま持って帰れるとは限らない。覚えておきな」

 その言葉が誰へ向けられたのかは分からなかった。

 部屋へ荷物を置いたあと、必要な物を買い足しに出た。

 店は小さかった。

 それでも豆、根菜、乾燥きのこ、硬い麦パン、塩、火を起こすための乾いた繊維、靴紐が揃っている。

 私は乾燥きのこの束を手に取り、根元を見る。

「これは使えますか」

「湿ってる」

「こちらは」

「それならいい」

 火起こし用の繊維も、自分で触って選んだ。

 見た目は乾いていても、握ると冷たさが残るものは避ける。

 軽く、指の間で崩れるものだけを袋へ入れた。

 店番の狐の青年が、私たちを見て笑った。

「ずいぶん仕込まれてるね」

「そう見えますか」

「その狼がそこまで返事をするなら、十分だよ」

 カイは聞こえなかったように代金を置いた。

 店を出る頃には、荷物が少し増えていた。

 私は大きな袋へ手を伸ばしたが、先にカイが持ち上げる。

「持てます」

「明日歩けなくなる」

「少しくらいなら」

「少しだけだ」

 乾燥きのこと布が入った軽い袋だけを渡された。

 以前なら不満だったかもしれない。

 今は、自分が最後まで運べる重さを持たされているのだと分かった。

 宿へ戻る途中、狭い路地の奥に小さな薬屋があった。

 入口には乾いた草の束と、輪に編まれた根が下がっている。

 戸の横には、白い毛へ灰色の混じった老犬が座っていた。

 身体は痩せている。

 けれど背筋は伸び、細い目には曇りがなかった。

 老犬は私たちを見ると、真っ先にカイへ目を向けた。

 カイも一度だけ、そちらを見る。

 言葉はなかった。

 それでも、老犬の視線はすぐには離れなかった。

 カイの顔ではなく、耳の付け根、前脚、荷物を持つ指先へ順番に動く。

 見ているというより、何かを確かめているようだった。

「薬屋ですか」

「そうだろうな」

「寄らなくていいんですか」

「必要ない」

「怪我をしているわけではないですしね」

「ああ」

 カイは歩き出した。

 私は後を追いながら、一度だけ振り返った。

 老犬はまだこちらを見ていた。

 昼を過ぎると、谷の奥から霧が下り始めた。

 最初は水路の上へ薄く溜まり、次に石壁の隙間へ入り込む。

 やがて家々の向こうにあった道が、少しずつ白へ消えていった。

 雪とは違う。

 雲の一部が地面へ降り、集落の形を端から食べているようだった。

「本当に道が消えます」

「ああ」

「止まってよかったんですね」

「そうだな」

「カイでも進まない」

「何度も言わせるな。道は選ぶ」

「目的は変えない」

 私が続けると、カイがこちらを見た。

「覚えたな」

「はい」

 集落の中央には、小さな広場があった。

 真ん中には石の台があり、その上へ火を灯すための浅い皿が置かれている。

 皿の周りには、山と川と木々の模様が彫られていた。

「ここでも祈るんですか」

 近くで水を運んでいた山羊の女が振り返った。

「祈る? ああ、南の者はそう呼ぶね」

「違うんですか」

「ここでは、霧が濃い夜に火を入れる台さ。旅人が多い時にも使う」

「神様に見せるためではなく?」

「迷った者に見せるためだよ」

 私は石の皿を見た。

 神の国に近い場所にある火なのに、神へ向けたものではない。

「神の国に近いのに」

 山羊の女は少し困ったように笑った。

「近いからさ」

「近いから?」

「遠くのものは、きれいな名前だけで呼べる。近くまで来れば、寒い日も、霧の日も、壊れた水路も一緒に見える」

 私は返す言葉を失った。

 山羊の女は水桶を抱え直す。

「それでも行く者は行く。止めてもね」

 そう言って、水路の方へ戻っていった。

 石の台には火がない。

 それでも、濃い霧の中で迷う者がいれば、誰かがここへ橙色を置くのだろう。

 神のためではなく、道を失った者のために。

 宿の食堂で出されたのは、根菜と豆の煮込み、硬い麦パン、温かい根の茶だった。

「この水、おいしいです」

 私が言うと、女将が笑う。

「山から来る水だからね。神の国の水だと言う旅人もいるよ」

「違うんですか」

「水は水さ」

 女将はあっさり答えた。

「冷たい日は冷たい。雨が続けば濁る。ありがたがっても、煮なきゃ腹を壊す」

 私はカイを見る。

 カイは何も言わず、煮込みを食べていた。

 匙を持つ手が僅かに止まる。

 次の瞬間、匙が器の縁へ当たった。

 かち、と乾いた音がする。

 カイはすぐに持ち直した。

 女将も、周囲の者も気づいていない。

 けれど、私はその音を聞いていた。

 濡れた石の上で流れた足。

 荷物を持ち直した手。

 薬屋の前でカイを見ていた老犬。

 どれも小さなことだった。

 それだけを並べても、何かが分かるわけではない。

 けれど、見えたものを見えなかったことにはできなかった。

 神の国という名前も、ここへ近づくほど形を変えている。

 遠くでは、願いが叶う場所のように聞こえた。

 山へ入ると、山と川と木々の模様になった。

 この集落では、水はただの水で、火は迷った者へ道を知らせるためにある。

 近づいたから価値がなくなったわけではない。

 きれいな名前の外側に、濡れた土や壊れた水路まで見えるようになっただけだった。

 食事を終え、宿の入口へ出ると、集落は霧へ包まれていた。

 近くの水路の音は聞こえる。

 けれど、流れは白へ隠れて見えない。

 家々の灯りも輪郭を失い、滲んだ橙色だけが宙へ浮かんでいる。

 カイが私の少し後ろへ立った。

「寒いぞ」

「はい」

「部屋へ戻れ」

「もう少しだけ」

「冷える」

 私は霧の向こうを見た。

「カイ」

「何だ」

「神の国は、遠くから見るほど神の国なんでしょうか」

 返事はなかった。

 自分でも、何を訊きたいのか分からなくなる。

「近づいたら、違うものに見えるんでしょうか」

 霧が水路の上を流れている。

 白いものが、静かに道を隠していく。

「違っても、俺は行く」

 やがて、カイが言った。

「……はい」

「違うなら、違うものを見ればいい」

 私は振り返った。

 カイの横顔は、霧の白へ半分沈んでいる。

 神の国でなくても。

 願いの場所でなくても。

 そこに何かがあるなら、自分の目で確かめる。

 霧の向こうには何も見えない。

 それでも道がなくなったわけではない。

 今は、進めないだけだ。

 私は白の奥へ続く水音をもう一度聞き、カイと一緒に宿の中へ戻った。

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