↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
74/82

あなたの旅の無事を

 入口へ立てかけられていた板を元の位置へ戻すと、すぐそばを流れる水路の音が耳へ入った。

 昨夜より、少しだけ大きい。

 石の建物の中にいた時には細く聞こえていた流れが、外へ出ると黒い溝を伝い、雪の下へ潜っていく様子まで見えた。

 少し先ではまた地上へ現れ、濡れた石を撫でながら谷の奥へ続いている。

 私は振り返った。

 薄暗い建物の奥には、山と川と木々を縫い取った古い布が、昨夜と同じ場所へ掛かっている。

 火の明かりを失った模様は静かで、今にも雪の白へ溶けてしまいそうだった。

「行くぞ」

 カイの声に、私は入口から離れた。

 しばらくは、昨日までと変わらない白い道が続いた。

 空は低い雲に覆われ、遠くの山は輪郭だけを灰色に浮かべている。

 風は岩場にいた時より弱かった。

 時折、山の上から細く吹き下ろし、石壁へ積もった雪をさらっていく程度だった。

 道の片側には、古い石壁が途切れながら残っている。

 崩れた場所では雪が道へ流れ込み、まだ形を保っている場所では風が壁の上を越えていく。

 昨夜見た祈りの布が、歩いている間も何度か浮かんだ。

「昔は、この辺りにも木があったんでしょうか」

「そう聞いたことはある」

「誰にですか」

「旅の途中でだ」

 短い返事だった。

 それ以上は話さないというほど冷たくはない。

 けれど、誰から聞いたのかまで差し出すつもりもないらしい。

 私は追いかけて訊かず、杖を雪へ刺した。

 雪の下には硬い石があった。

 一歩先では、杖が少し深く入った。

 その次の場所では、先端へ柔らかなものがまとわりつくような感触が返ってきた。

 私は杖を抜く。

 先についた雪が、僅かに灰色へ濁っている。

「カイ」

「何だ」

「雪が汚れています」

 カイが足を止め、杖の先を見る。

「土だ」

「土?」

「下が近い」

 足元を見る。

 白い雪の間に、黒い点が幾つか混じっている。

 初めは岩の欠片に見えた。

 けれど進むにつれ、その黒は一つずつ繋がり、雪の薄い場所から湿った地面が覗き始めた。

 空気にも、別の匂いが混じっていた。

 冷えた石でも、乾いた雪でもない。

 長く閉じ込められていた土が、狭い隙間から息を吐くような匂いだった。

「少し、匂いが違います」

「水が近い」

「川ですか」

「流れまでは分からない」

 カイは石壁の根元へ目を向けた。

 雪の表面が、そこだけ細く沈んでいる。

 周囲より色が暗く、薄い氷の下へ何かが動いているように見えた。

 水の音はしない。

 それでも近づくにつれ、石の隙間へ濡れた光が見え始めた。

 私は踏み出しかけた足を止め、先に杖を刺した。

 表面を抜けると、先端が柔らかな土へ沈む。

「ここは踏まない方がいいですか」

「ああ。壁側を歩け」

 硬い石へ足を移す。

 そこから少し進んだ先で、石壁が一か所だけ低く崩れていた。

 黒く濡れた石の間から、細い水が流れ出している。

「凍っていません」

「下から湧いてる」

「この寒さでも?」

「冷たいものが全部凍るわけじゃない」

 水は石の間を流れ、雪の下へ消えていく。

 湖の中で止まった泡。

 氷瀑の奥で鳴っていた水。

 そして今、目の前を走る細い流れ。

 冬の中にある水は、同じ姿を一度も見せなかった。

「この先にもありますか」

「増えるだろうな」

「水が?」

「水も、土も」

「雪の国なのに」

「雪しかない場所なんてない」

 カイはそう言って歩き出した。

 古い石壁は山裾に沿い、緩やかに低い方へ続いていた。

 山を前にしながら、道は谷へ下っていく。

「北は向こうですよね」

「ああ」

「離れているように見えます」

「正面は崖だ」

「回り道ですか」

「歩ける道だ」

 近づくために離れる。

 進むために戻る。

 雪の中では、前へ向かうことと、真っ直ぐ進むことは別のものらしい。

 石壁の内側では、雪の様子も少しずつ変わった。

 白い地面の間から黒い土が覗く。

 石の縁には薄い水が溜まり、その周りだけ雪が丸く溶けていた。

 さらに進むと、雪を割るように細いものが何本か突き出している。

「これは草ですか」

「草だな」

 色は緑ではない。

 灰色に近く、細く硬い。

 花も葉もなく、枯れた枝のように見える。

「生きていますか」

「たぶんな」

「抜いて確かめるとは言わないでください」

「言う前に分かったな」

「少しは」

 私は草を避けて足を置いた。

 カイも同じように、その横を通る。

「踏まないんですね」

「避けられるからな」

「踏んだら怒りますか」

「怒らない」

「でも避ける」

「わざわざ潰す理由がない」

 小さな草は、私たちが通り過ぎてもほとんど揺れなかった。

 大きくもない。

 鮮やかでもない。

 それでも白い地面から僅かに頭を出し、氷ではないものがここにあると示していた。

 谷へ近づくにつれ、土と水の匂いが濃くなった。

 石を並べて作られた古い水路が、雪の下から幾つも現れる。

 ほとんどは土へ埋もれている。

 それでも一部には水が流れ、縁へ黒い苔のようなものがついていた。

「ここに誰か住んでいたんでしょうか」

「分からない」

「水路があります」

「旅人のためかもしれない」

「旅人のために、ここまで作ったんですか」

「昔は通るやつが多かったんだろ」

 水路のそばには、崩れた階段や、屋根を失った石の囲いが残っていた。

 町と呼べるほど広くはない。

 けれど、ただの道でもなかった。

 誰かが石を運び、水の流れを変え、休める場所を作った。

 その者たちがいなくなったあとも、水だけが同じ溝を使い続けている。

「どうして使われなくなったんでしょう」

「道が変わったのかもしれない」

「寒くなったから?」

「それもあるだろうな」

「神の国へ向かう者が減ったとか」

 カイはすぐには答えなかった。

「そうかもしれない」

 使う者がいなくなっても、水路はすぐには消えない。

 石がずれ、土へ埋まり、それでも僅かな流れだけを残す。

 何も手を加えなければ、道はある日突然なくなるのではない。

 少しずつ見えなくなり、最後には、初めからなかったもののようになる。

 谷の奥で、低い屋根の建物が見えた。

 入口の上には、小さな彫刻がある。

 高い山。

 その間を流れる川。

 川の両側へ並ぶ木々。

 前夜の布と同じ形だった。

「同じ模様です」

「ああ」

「この山と川と木には、名前があるんですか」

「知らない」

「地図ではないんですよね」

「願いだろうな」

「何を願うんですか」

 カイは入口の上を見た。

「山に水があり、木が立つ場所へ着けるように」

「それが神の国ですか」

 返事はなかった。

 風が谷を抜け、水路の表面を揺らす。

「そう呼ぶやつもいる」

「カイは?」

「着いてから決める」

「何をですか」

「そこが何だったのか」

 カイは建物の横を通り過ぎた。

 神の姿はない。

 特別な光も描かれていない。

 山と、川と、木々。

 当たり前の景色にも見えるものを、誰かは石へ刻み、願いとして残した。

 道はさらに低い谷へ入った。

 雪の量が減り、黒い土の帯が増えていく。

 土の間には硬い草が生え、水路の縁へ小さな葉まで覗いていた。

 風はまだ冷たい。

 けれど、その中へ湿った匂いが混じっている。

「春みたいな匂いがします」

 何気なく口にした。

 カイの足が僅かに止まった。

「カイ?」

「何だ」

「今、止まりました」

「足元を見てた」

 カイはすぐに歩き出した。

 前と同じ速さだった。

 けれど、返事だけが少し遅れて残った。

 春と呼ぶには、まだ白すぎる場所だった。

 花はない。

 木々もない。

 水は指が痛むほど冷たく、草も色を失っている。

 それでも、土が見え、水が流れ、雪の下から小さな葉が出ている。

 冬ではないものが、冬の隙間へ僅かずつ入り込んでいた。

「カイは、春を見たことがありますか」

「ああ」

「どんなものでしたか」

「今訊くのか」

「思い出したので」

「歩け」

「歩きながら聞きます」

 カイはしばらく黙っていた。

「暖かい」

「それは分かります」

「花の匂いがする」

「花」

「土が柔らかい。水も、今ほど冷たくない」

 カイは足を止めずに話した。

「木の下に影ができる。雪がないから、歩いても足が沈まない」

「歩きやすそうです」

「ああ」

「好きでしたか」

 今度は答えがなかった。

 黒い外套だけが、水路に沿って前へ進んでいく。

 訊きすぎたのだろうか。

 そう思い、口を閉じた。

「嫌いじゃなかった」

 少し経ってから、カイが言った。

 短い言葉だった。

 けれど、それ以上に短くできないものを、ようやく外へ出したような声だった。

 谷の端に、屋根の残った石の建物があった。

 周囲を水路が通っているためか、入口の雪は浅い。

 中の床も乾いた場所が多く、石の炉には古い灰が残っていた。

「使える」

 カイが言った。

 私は入口の雪を払い、布を広げる場所を確かめた。

 鍋へ入れる雪を探しかけ、外の水路を見る。

「水を使ってもいいですか」

「煮ればな」

「雪より早いですね」

「ああ」

 器を持ち、水路へ向かった。

 足元の湿った場所は避け、硬い石へ膝をつく。

 水は器へ触れると、小さな音を立てて中へ流れ込んだ。

 雪を掬う時とは違う。

 地面の奥から、動いているものを分けてもらっているようだった。

 鍋を火へ掛けると、水はすぐに湯気を上げた。

 残っている豆と根菜は少ない。

 乾燥きのこを細かく割り、鍋へ散らす。

「細かくしても増えませんね」

「昨日も言ってたな」

「増えたようには見えます」

「腹は騙せない」

「見た目だけでも多い方がいいです」

「食えば同じだ」

 煮えたものを匙で掬い、味を見る。

 水のせいなのか、いつもより石に近い匂いがした。

「味が違います」

「分かるのか」

「町の水とも、溶かした雪とも違います」

 カイも一口飲む。

「よく分かったな」

 私は匙を持ったままカイを見る。

「今のは褒めましたか」

「違いが分かったと言った」

「それを褒めたと言います」

「調子に乗るな」

「はい」

 外の光が薄くなっても、水路は止まらなかった。

 白い雪と黒い土の間を抜け、建物の横を通り、さらに谷の奥へ流れていく。

 その先に何があるのかは見えない。

 それでも水だけは、行き先を知っているように、細い音を絶やさず北へ続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。