あなたの旅の無事を
入口へ立てかけられていた板を元の位置へ戻すと、すぐそばを流れる水路の音が耳へ入った。
昨夜より、少しだけ大きい。
石の建物の中にいた時には細く聞こえていた流れが、外へ出ると黒い溝を伝い、雪の下へ潜っていく様子まで見えた。
少し先ではまた地上へ現れ、濡れた石を撫でながら谷の奥へ続いている。
私は振り返った。
薄暗い建物の奥には、山と川と木々を縫い取った古い布が、昨夜と同じ場所へ掛かっている。
火の明かりを失った模様は静かで、今にも雪の白へ溶けてしまいそうだった。
「行くぞ」
カイの声に、私は入口から離れた。
しばらくは、昨日までと変わらない白い道が続いた。
空は低い雲に覆われ、遠くの山は輪郭だけを灰色に浮かべている。
風は岩場にいた時より弱かった。
時折、山の上から細く吹き下ろし、石壁へ積もった雪をさらっていく程度だった。
道の片側には、古い石壁が途切れながら残っている。
崩れた場所では雪が道へ流れ込み、まだ形を保っている場所では風が壁の上を越えていく。
昨夜見た祈りの布が、歩いている間も何度か浮かんだ。
「昔は、この辺りにも木があったんでしょうか」
「そう聞いたことはある」
「誰にですか」
「旅の途中でだ」
短い返事だった。
それ以上は話さないというほど冷たくはない。
けれど、誰から聞いたのかまで差し出すつもりもないらしい。
私は追いかけて訊かず、杖を雪へ刺した。
雪の下には硬い石があった。
一歩先では、杖が少し深く入った。
その次の場所では、先端へ柔らかなものがまとわりつくような感触が返ってきた。
私は杖を抜く。
先についた雪が、僅かに灰色へ濁っている。
「カイ」
「何だ」
「雪が汚れています」
カイが足を止め、杖の先を見る。
「土だ」
「土?」
「下が近い」
足元を見る。
白い雪の間に、黒い点が幾つか混じっている。
初めは岩の欠片に見えた。
けれど進むにつれ、その黒は一つずつ繋がり、雪の薄い場所から湿った地面が覗き始めた。
空気にも、別の匂いが混じっていた。
冷えた石でも、乾いた雪でもない。
長く閉じ込められていた土が、狭い隙間から息を吐くような匂いだった。
「少し、匂いが違います」
「水が近い」
「川ですか」
「流れまでは分からない」
カイは石壁の根元へ目を向けた。
雪の表面が、そこだけ細く沈んでいる。
周囲より色が暗く、薄い氷の下へ何かが動いているように見えた。
水の音はしない。
それでも近づくにつれ、石の隙間へ濡れた光が見え始めた。
私は踏み出しかけた足を止め、先に杖を刺した。
表面を抜けると、先端が柔らかな土へ沈む。
「ここは踏まない方がいいですか」
「ああ。壁側を歩け」
硬い石へ足を移す。
そこから少し進んだ先で、石壁が一か所だけ低く崩れていた。
黒く濡れた石の間から、細い水が流れ出している。
「凍っていません」
「下から湧いてる」
「この寒さでも?」
「冷たいものが全部凍るわけじゃない」
水は石の間を流れ、雪の下へ消えていく。
湖の中で止まった泡。
氷瀑の奥で鳴っていた水。
そして今、目の前を走る細い流れ。
冬の中にある水は、同じ姿を一度も見せなかった。
「この先にもありますか」
「増えるだろうな」
「水が?」
「水も、土も」
「雪の国なのに」
「雪しかない場所なんてない」
カイはそう言って歩き出した。
古い石壁は山裾に沿い、緩やかに低い方へ続いていた。
山を前にしながら、道は谷へ下っていく。
「北は向こうですよね」
「ああ」
「離れているように見えます」
「正面は崖だ」
「回り道ですか」
「歩ける道だ」
近づくために離れる。
進むために戻る。
雪の中では、前へ向かうことと、真っ直ぐ進むことは別のものらしい。
石壁の内側では、雪の様子も少しずつ変わった。
白い地面の間から黒い土が覗く。
石の縁には薄い水が溜まり、その周りだけ雪が丸く溶けていた。
さらに進むと、雪を割るように細いものが何本か突き出している。
「これは草ですか」
「草だな」
色は緑ではない。
灰色に近く、細く硬い。
花も葉もなく、枯れた枝のように見える。
「生きていますか」
「たぶんな」
「抜いて確かめるとは言わないでください」
「言う前に分かったな」
「少しは」
私は草を避けて足を置いた。
カイも同じように、その横を通る。
「踏まないんですね」
「避けられるからな」
「踏んだら怒りますか」
「怒らない」
「でも避ける」
「わざわざ潰す理由がない」
小さな草は、私たちが通り過ぎてもほとんど揺れなかった。
大きくもない。
鮮やかでもない。
それでも白い地面から僅かに頭を出し、氷ではないものがここにあると示していた。
谷へ近づくにつれ、土と水の匂いが濃くなった。
石を並べて作られた古い水路が、雪の下から幾つも現れる。
ほとんどは土へ埋もれている。
それでも一部には水が流れ、縁へ黒い苔のようなものがついていた。
「ここに誰か住んでいたんでしょうか」
「分からない」
「水路があります」
「旅人のためかもしれない」
「旅人のために、ここまで作ったんですか」
「昔は通るやつが多かったんだろ」
水路のそばには、崩れた階段や、屋根を失った石の囲いが残っていた。
町と呼べるほど広くはない。
けれど、ただの道でもなかった。
誰かが石を運び、水の流れを変え、休める場所を作った。
その者たちがいなくなったあとも、水だけが同じ溝を使い続けている。
「どうして使われなくなったんでしょう」
「道が変わったのかもしれない」
「寒くなったから?」
「それもあるだろうな」
「神の国へ向かう者が減ったとか」
カイはすぐには答えなかった。
「そうかもしれない」
使う者がいなくなっても、水路はすぐには消えない。
石がずれ、土へ埋まり、それでも僅かな流れだけを残す。
何も手を加えなければ、道はある日突然なくなるのではない。
少しずつ見えなくなり、最後には、初めからなかったもののようになる。
谷の奥で、低い屋根の建物が見えた。
入口の上には、小さな彫刻がある。
高い山。
その間を流れる川。
川の両側へ並ぶ木々。
前夜の布と同じ形だった。
「同じ模様です」
「ああ」
「この山と川と木には、名前があるんですか」
「知らない」
「地図ではないんですよね」
「願いだろうな」
「何を願うんですか」
カイは入口の上を見た。
「山に水があり、木が立つ場所へ着けるように」
「それが神の国ですか」
返事はなかった。
風が谷を抜け、水路の表面を揺らす。
「そう呼ぶやつもいる」
「カイは?」
「着いてから決める」
「何をですか」
「そこが何だったのか」
カイは建物の横を通り過ぎた。
神の姿はない。
特別な光も描かれていない。
山と、川と、木々。
当たり前の景色にも見えるものを、誰かは石へ刻み、願いとして残した。
道はさらに低い谷へ入った。
雪の量が減り、黒い土の帯が増えていく。
土の間には硬い草が生え、水路の縁へ小さな葉まで覗いていた。
風はまだ冷たい。
けれど、その中へ湿った匂いが混じっている。
「春みたいな匂いがします」
何気なく口にした。
カイの足が僅かに止まった。
「カイ?」
「何だ」
「今、止まりました」
「足元を見てた」
カイはすぐに歩き出した。
前と同じ速さだった。
けれど、返事だけが少し遅れて残った。
春と呼ぶには、まだ白すぎる場所だった。
花はない。
木々もない。
水は指が痛むほど冷たく、草も色を失っている。
それでも、土が見え、水が流れ、雪の下から小さな葉が出ている。
冬ではないものが、冬の隙間へ僅かずつ入り込んでいた。
「カイは、春を見たことがありますか」
「ああ」
「どんなものでしたか」
「今訊くのか」
「思い出したので」
「歩け」
「歩きながら聞きます」
カイはしばらく黙っていた。
「暖かい」
「それは分かります」
「花の匂いがする」
「花」
「土が柔らかい。水も、今ほど冷たくない」
カイは足を止めずに話した。
「木の下に影ができる。雪がないから、歩いても足が沈まない」
「歩きやすそうです」
「ああ」
「好きでしたか」
今度は答えがなかった。
黒い外套だけが、水路に沿って前へ進んでいく。
訊きすぎたのだろうか。
そう思い、口を閉じた。
「嫌いじゃなかった」
少し経ってから、カイが言った。
短い言葉だった。
けれど、それ以上に短くできないものを、ようやく外へ出したような声だった。
谷の端に、屋根の残った石の建物があった。
周囲を水路が通っているためか、入口の雪は浅い。
中の床も乾いた場所が多く、石の炉には古い灰が残っていた。
「使える」
カイが言った。
私は入口の雪を払い、布を広げる場所を確かめた。
鍋へ入れる雪を探しかけ、外の水路を見る。
「水を使ってもいいですか」
「煮ればな」
「雪より早いですね」
「ああ」
器を持ち、水路へ向かった。
足元の湿った場所は避け、硬い石へ膝をつく。
水は器へ触れると、小さな音を立てて中へ流れ込んだ。
雪を掬う時とは違う。
地面の奥から、動いているものを分けてもらっているようだった。
鍋を火へ掛けると、水はすぐに湯気を上げた。
残っている豆と根菜は少ない。
乾燥きのこを細かく割り、鍋へ散らす。
「細かくしても増えませんね」
「昨日も言ってたな」
「増えたようには見えます」
「腹は騙せない」
「見た目だけでも多い方がいいです」
「食えば同じだ」
煮えたものを匙で掬い、味を見る。
水のせいなのか、いつもより石に近い匂いがした。
「味が違います」
「分かるのか」
「町の水とも、溶かした雪とも違います」
カイも一口飲む。
「よく分かったな」
私は匙を持ったままカイを見る。
「今のは褒めましたか」
「違いが分かったと言った」
「それを褒めたと言います」
「調子に乗るな」
「はい」
外の光が薄くなっても、水路は止まらなかった。
白い雪と黒い土の間を抜け、建物の横を通り、さらに谷の奥へ流れていく。
その先に何があるのかは見えない。
それでも水だけは、行き先を知っているように、細い音を絶やさず北へ続いていた。




