祈りの絵
火の跡を雪でならし、昨夜掘った窪地の端へ石を三つ積んだ。
その一番上へ、太陽の旅団からもらった黄色い布を低く結ぶ。
夜の間に積もった雪が、囲いも布を張った跡も半分ほど覆っていた。何も残さず立ち去れば、あと少し風が吹いただけで、ここに誰かがいたことさえ分からなくなるだろう。
黄色い布は小さい。
けれど、黒い岩と白い雪しかない場所では、指先ほどの色でもよく目立った。
「派手だな」
荷物を背負ったカイが言った。
「太陽の目印です」
「ここに太陽はない」
「見えていないだけだそうです」
「昨日の連中か」
「はい」
布が風を受け、小さく揺れる。
カイは石の積み方を一度確かめた。
「その位置なら、すぐには飛ばない」
「褒めていますか」
「布の話だ」
「それでもいいです」
私は星形ポーチを閉じ、杖を取った。
誰かが次にこの窪地を使うかは分からない。
それでも、雪へ埋もれる前に黄色が見えれば、風を避けられる場所があると気づくかもしれない。
自分が進むだけで精いっぱいだった頃には、考えもしなかったことだった。
「行くぞ」
「はい」
窪地を離れると、道はすぐに黒い岩の間へ入った。
初めのうちは、風も弱かった。
斜面に積もった雪が時々細く舞い、岩の縁から白い粉が落ちる程度だった。
けれど進むにつれ、風の向きが定まらなくなった。
正面から吹いたと思えば、次には岩へ跳ね返り、横から身体を押す。背後で巻いた風が外套の中へ入り、首元から冷たさを差し込むこともあった。
音も一つではない。
遠くで低く唸る音。
岩の隙間を抜ける細い音。
雪の表面を削る、乾いた音。
いくつもの風が、別々の道を走っているようだった。
カイは最初の大きな岩陰で右手を上げた。
私はその場で止まる。
声は使わないらしい。
カイは一人で岩陰を出ると、次の黒い岩まで歩いた。
外套の裾が大きく持ち上がる。
雪が脚へ巻きつき、横へ流れていく。
それでも身体はほとんど動かなかった。
風の中へ立っているというより、黒い岩が一つ増えたように見えた。
カイが振り返り、上げていた手を下ろす。
来い、という合図だった。
私は杖を雪へ深く刺し、姿勢を低くした。
一歩。
左から風が来る。
右足の外側へ重さを置く。
もう一歩。
今度は正面から雪が吹きつけた。
顔だけを少し伏せ、目は閉じない。
止まれば長く風を受ける。
急げば、杖も足も追いつかない。
風が僅かに緩む瞬間だけ、身体を先へ運んだ。
岩陰へ入った時には、短い距離しか歩いていないのに息が上がっていた。
「できました」
「まだ一つ目だ」
「最初の一つです」
「息を整えろ」
「はい」
私は岩へ背を預けかけ、途中でやめた。
岩の裏から風が回れば、背中を押される。
横向きに立ち、杖を手元へ引き寄せた。
カイはその動きを見たが、何も言わなかった。
注意されないなら、間違ってはいない。
次の岩陰までは少し遠かった。
途中に、風で雪が吹き溜まった浅い溝がある。
表面だけを見れば平らだった。
けれど、何度か歩いた今なら、平らに見える場所ほど深いことがあると分かる。
カイは杖を溝へ刺した。
半分近くまで沈む。
そのまま何かを探るように、先端を左右へ動かした。
それから私へ向き直り、片手を低く下げる。
低く。
二本の指を前へ動かす。
止まらず進め。
私は頷き、岩陰を出た。
溝へ入れた足は、膝の下まで沈んだ。
予想していたより少し深い。
けれど底には硬い地面があった。
杖を前へ刺し、腕だけで引こうとせず、沈んだ足を真上へ抜く。
風が岩へ当たり、正面から跳ね返ってきた。
白い粒が顔へぶつかる。
息が詰まりそうになる。
私は足元を見た。
杖を刺す。
足を抜く。
次の場所へ重さを移す。
一つずつ行えば、風の音が大きくても、やることまでは消えなかった。
岩陰へ入る直前、右足が浅く滑った。
身体が傾く。
カイの手が腕を掴み、岩へ当たる前に引き戻した。
「今のは」
「転んだ」
「膝はついていません」
「半分転んだ」
「半分なら」
「転んだ」
「はい」
カイはすぐに手を離した。
次に、私の靴へ視線を落とす。
「雪は入ったか」
「たぶん大丈夫です」
「たぶんで終わらせるな。足を動かせ」
足首を回す。
濡れた感触はない。
靴紐も緩んでいなかった。
「大丈夫です」
「なら行ける」
「はい」
風の岩場では、会話まで短くなった。
言葉を重ねる間に、次の風が来る。
必要なものだけを残せば、それで足りた。
三つ目の岩陰に、小さな石標が立っていた。
太陽の旅団が直していた柱より、ずっと低い。
石を五つほど積み、その上へ黒い平石を載せただけのものだった。
黒い石の下には、色を失った布が凍りついている。
標全体が風下へ傾き、上の石は今にも滑り落ちそうだった。
「ここにも印があります」
「古いな」
「倒れそうです」
「次の強い風では持たないかもしれない」
「直しますか」
カイは周囲の雪へ杖を刺し、斜面の上を見た。
風の唸りは一度遠ざかっている。
「今ならできる。次が来るまでだ」
「はい」
私は標の根元へしゃがんだ。
雪を払い、積まれた石の形を見る。
一番下の二つは地面へ沈み、ほとんど動かない。
その上の石だけが風下へずれ、黒い平石まで一緒に傾けていた。
私は近くから小さな石を拾い、空いた隙間へ入れようとした。
「そこじゃない」
「こちらですか」
「風上へ入れろ。反対から押し返す」
言われた場所へ石を差し込む。
ずれていた石が僅かに戻った。
「もう一つ要ります」
「薄くて広いものを探せ」
雪を払うと、掌ほどの平たい石が出てきた。
先ほどの石の下へ寝かせるように差し込む。
標を軽く押してみる。
さっきより動かない。
「これでいいですか」
「ああ」
古い布は外さなかった。
氷へ貼りつき、石との境も分からなくなっている。
無理に剥がせば、布だけでなく標まで崩れるだろう。
私は星形ポーチから黄色い布を出した。
「全部使うな」
「少しだけにします」
端を細く裂く。
高い位置へ結べば、遠くから見つけやすい。
けれど、風を受ける面も広くなる。
私は標の低い位置へ布を回し、石の間へ端を挟んだ。
黄色い欠片は大きく広がらず、黒い石へ沿うように揺れた。
「どうですか」
「悪くない」
「よかった」
「見るのは後だ。風が来る」
遠くで、低い音が膨らみ始めていた。
私は立ち上がり、カイと一緒に岩陰へ入る。
直後、白い煙のような雪が標の周りを走った。
黄色い布は強く引かれた。
けれど、高く翻ることはない。
石へ沿って細かく震えながら、それでも白の中から色を失わずに残っていた。
「残りました」
「今はな」
「すぐ台無しにしないでください」
「次の風までは分からない」
「でも、今はあります」
「ああ」
それで十分だった。
岩場の奥へ進むにつれ、カイの合図を見る時間が長くなった。
手が上がれば止まる。
下がれば進む。
掌がこちらを向けば、その場で低くなる。
指先が岩を示せば、その陰まで移動する。
声がなくても、次に何をすればよいか分かった。
自分で決める場所と、カイへ従う場所も、少しずつ分かれてきた。
風は見えない。
けれど、風が触れたものは見える。
岩の上から白い粉が舞えば、間もなく吹き下ろしが来る。
斜面の雪が細く一方向へ伸びれば、その先は風の通り道だ。
遠くの雪煙が急に低くなれば、強い風が地面へ落ちてくる。
カイの背中だけを見ていた頃より、目へ入れるものが増えていた。
岩場の出口が近づいた時、斜面の上で雪が大きく舞い上がった。
カイが腰を落とす。
同時に、私へ掌を向けた。
低くなれ。
私は杖を深く刺し、膝を曲げた。
まだ音は聞こえない。
次の瞬間、風が身体へぶつかった。
帽子の端が持ち上がる。
マフラーが首元で強く引かれる。
杖を握る指へ力が入りかけ、少し緩めた。
固く握れば、風に押された時に腕ごと持っていかれる。
低く。
身体を固めすぎない。
足の外側へ重さを置く。
風に勝とうとせず、通り過ぎるまで自分の形を小さくする。
白い粒が視界を埋めた。
杖が僅かに軋む。
それでも、足は動かなかった。
風が抜ける。
地面を流れていた雪が静まり、前にいるカイの姿が戻った。
「今のはよかった」
私は杖へ体重を預けたまま顔を上げた。
「本当ですか」
「ああ」
「今、きちんと褒めました?」
「うるさい」
「否定しませんでした」
「歩け」
私は口元をマフラーへ隠し、岩陰から出た。
岩場を抜けた先には、腰ほどの高さの石壁が続いていた。
壁は山裾へ沿って曲がり、ところどころで崩れ、雪の中へ途切れている。
何かを囲うためのものではない。
旅人が風を避けながら歩けるよう、道の片側へ積まれたものらしかった。
壁の内側へ入ると、風が一段弱くなる。
完全には消えない。
それでも、身体へ直接ぶつかっていた力が石へ分けられ、細い流れとなって頭上を抜けていった。
「これも昔の旅人が作ったんですか」
「一人では無理だろうな」
「何人も?」
「何年もかけたのかもしれない」
壁は長かった。
最初の者が石を置き、次の者が続きを積み、崩れた場所を別の者が直した。
誰が始めたのか分からなくなっても、風を避けられる形だけが残っている。
私は壁へ積もった雪を、手袋で少し払った。
「触るなと言われると思いました」
「崩さなければいい」
「崩しません」
「崩れそうなら言う」
「お願いします」
壁沿いを進むうち、冷たい空気へ別の匂いが混じり始めた。
雪でも、氷でもない。
濡れた石と、深い土を合わせたような匂いだった。
「何か匂います」
「何の」
「土みたいです」
カイも足を止め、鼻先を少し上げた。
「岩の下に水がある」
「川ですか」
「流れまでは分からない。雪が下から溶けてる」
「この寒さでも?」
「地面の下まで、外と同じ冷たさじゃない」
壁の根元を見る。
雪の一部だけが僅かに沈み、黒い石が濡れている。
杖を刺すと、硬い表面を抜けた先へ柔らかな感触があった。
「踏まない方がいいですか」
「壁から離れるな。色の沈んだ雪は避けろ」
「はい」
乾いた白。
氷を含んだ青。
下から湿り、僅かに灰色へ沈んだ雪。
同じ場所へ重なりながら、それぞれ違うものを隠している。
知るほど、雪は単純ではなくなっていった。
それでも、何も知らなかった頃より怖くはない。
危険が増えたのではなく、今まで見えていなかったものへ名前をつけられるようになっただけだった。
石壁の終わりに、低い建物があった。
大きな石箱へ屋根を載せたような形で、入口には古い木の板が立てかけられている。
屋根へ積もった雪は厚い。
けれど、大きく沈んでいる場所はなかった。
「今日は、あそこですか」
「中を見てからだ」
「使えなければ」
「掘る」
「それも聞き慣れました」
「慣れるな」
カイが板を退ける。
中から、長く閉じ込められていた冷気が流れ出した。
床へ入り込んだ雪は少ない。
奥には石の炉があり、壁には小さな棚が作られている。
正面の壁へ、色を失った布が一枚掛けられていた。
端はほつれ、触れなくても脆いことが分かる。
表面には、高く連なる山と、その間を曲がる川、川のそばへ並ぶ木々が縫い取られていた。
「地図ですか」
「違う」
カイは布を見上げた。
「旅の無事を願う絵だろう」
「祈りの絵」
「ああ」
今の山には、これほど多くの木は見当たらない。
雪に覆われ、黒い岩と低い枝が少し残っているだけだ。
「昔は、ここにも森があったんでしょうか」
「そうだろうな」
「今は、なくなったんですね」
「ああ」
「寒くなったから?」
「それだけじゃないかもしれない」
珍しく、カイは短く決めつけなかった。
布の上に残る木々を見ている。
失われた景色なのか。
それとも、描いた者がまだ見たことのない場所を願って縫ったものなのか。
今となっては、どちらなのか確かめる者もいないのだろう。
私は一歩だけ近づいた。
「触るな」
「触りません」
「糸が崩れる」
「分かっています」
火を入れると、石箱の中へ橙色が広がった。
風の音は壁の向こうへ遠ざかり、屋根を擦る雪だけが細く聞こえる。
私は鍋へ雪を少しずつ入れた。
一度に詰め込まず、底へ水ができるのを待ってから、沈んだぶんだけ足す。
カイは入口の隙間へ布を詰め、風が入らないよう整えていた。
豆と根菜、乾燥きのこを鍋へ加える。
食料は少しずつ減っている。
乾燥きのこを細かく割ると、鍋の中では量が増えたように見えた。
「細かくしても増えませんね」
「見た目は増える」
「腹は騙せません」
「分かってるならいい」
煮えたものを匙で掬い、味を見る。
塩を僅かに足し、カイへ差し出した。
「これくらいですか」
「もう少し」
指先で少しだけ加える。
「今度は」
カイがもう一度味を見る。
「悪くない」
「よかった」
「まだ喜ぶほどじゃない」
「焦がしていないだけでも進歩です」
カイは答えず、器へ煮込みをよそった。
食べ終える頃には、外の光が薄れていた。
火の揺れに合わせ、壁の布へ縫われた山と川と木々が僅かに動いて見える。
「カイ」
「何だ」
「神の国にも、山や川や木があるんでしょうか」
すぐに返事はなかった。
火の中で、木片が小さく割れる。
カイは祈りの布を見たまま、しばらく黙っていた。
「あるといいな」
やがて、そう答えた。
着けば分かる。
知らない。
いつものように、そう言うと思っていた。
けれど今の言葉は、分からないものを遠ざけるためのものではなかった。
まだ見えない景色へ、細い糸を一本だけ伸ばすような声だった。
私はそれ以上訊かなかった。
布へ縫われた木々は、火の光の中で色を取り戻したように揺れている。
カイが求めているものが、その景色なのか、それとはまったく別の何かなのかは分からない。
分からない場所へ、分かったつもりで踏み込まない。
雪の上で教わったことは、言葉の間にも使える気がした。
夜が深まるにつれ、外の風はまた強くなった。
石箱の中までは届かない。
壁の向こうで雪が流れ、屋根の上を細く擦っている。
祈りの絵は、火が小さくなるにつれて暗がりへ沈んだ。
それでも、山と川と木々がそこへ縫われていることは分かっている。
色を失った糸の中で、まだ見えない景色だけが、消えずに残っていた。




