太陽へ祈りを捧げる者たち
石壁を離れてからしばらくは、白い景色が続いた。
氷の谷から吹き上がる風が、足跡の縁を少しずつ崩している。振り返るたび、私たちが通った場所は輪郭を薄くし、やがて何もなかった雪原へ戻っていった。
昨日までなら、前を行くカイの背中だけを追っていた。
今は時々、後ろも見る。
どの石の横を曲がり、どの斜面から下りてきたのか。白へ埋もれる前に、道の形を確かめる。
「前ばかり見るな」
「はい」
「後ろばかり見るな」
「難しいです」
「だからやれ」
その言い方にも、だいぶ慣れてきた。
薄い雪煙の向こうで、黄色い布が一度だけ大きくはためいた。
雪でも、岩でもない色だった。
私は杖を止め、目を凝らす。
「あそこに何かあります」
山肌を覆う白の奥で、黄色がもう一度揺れた。
その下を小さな影が横切る。
続いて、木を叩く乾いた音と、いくつもの声が風に運ばれてきた。
「誰かいます」
「ああ」
「旅人ですか」
「足跡が多い。しばらく留まってる」
雪の上には、小さな足跡が何本も交差していた。同じ場所を往復し、少し先の石柱へ集まっている。
近づくにつれ、人影の形が分かった。
岩の間へ布を張り、小さな者たちが忙しなく動いている。
厚い外套。
丸い帽子。
雪の上へ伸びる細い尾。
ミーアキャットたちだった。
一匹が私たちに気づき、抱えていた石を雪へ置いた。
「旅人だ!」
声が上がると、周囲の者たちが一斉にこちらを向いた。
「南から?」
「北からじゃないだろ」
「狼もいるぞ」
「見れば分かる」
言葉が重なり、静かだった山道が急に狭くなったように感じる。
先頭の一匹が雪を蹴りながら近づいてきた。黄色い帽子には長い布が結ばれ、風を受けるたび背後へ伸びている。
「よく来たね。いや、通りかかっただけかな。どちらでもいいけど、この先へ行くなら少し待った方がいい」
「何があった」
カイが訊いた。
「あれが倒れた」
ミーアキャットが後ろを指す。
雪の中に、太い石柱が横たわっていた。
根元の石が崩れ、柱は道を塞ぐように斜めへ倒れている。表面には削れかけた文字があり、先端には裂けた黄色い布が巻きついていた。
「昨日の白風でやられたらしい。柱が倒れるだけならいいんだけど、ここの道は分かれ方が悪い。印がないと、谷へ下りる者が出る」
「谷は」
「氷が割れてる。今は通れない」
カイは倒れた柱と、その先の斜面を見比べた。
「直すのか」
「そのために来た。俺たちは太陽の旅団だからね」
ミーアキャットは黄色い帽子の端を摘まみ、得意げに持ち上げた。
「太陽の旅団?」
私が訊くと、彼は待っていたように胸を張った。
「白い場所へ黄色い印を残す旅団。倒れた柱を立てる。古い道を掘り出す。祈り場の雪を払う。裂けた布を替える。道を作るんじゃない。道があったことを、次に来る者へ残す」
「説明が長いぞ」
柱のそばから声が飛んできた。
「大事なところだ」
「石を運べ」
「今行く!」
答えたあと、彼は私へ顔を寄せた。
「俺たちは身体が小さいから、石にはよく負ける」
「負ける前提なんですか」
「勝てる石だけ選んでる」
「それは賢いですね」
「だろう?」
雪と氷ばかりの道で、その声だけが軽かった。
黄色い布も、丸い帽子も、忙しなく動く手足も、ここだけ別の季節から運ばれてきたように見える。
私は倒れた柱へ目を向けた。
周囲の雪は掘り返され、石が形ごとに分けられている。
土台に使う平たいもの。
隙間へ詰める小さなもの。
上へ載せる目立つもの。
氷の谷へ残した危険の印を思い出す。
私たちが置いた石と棒も、次に来る誰かへ向けたものだった。
「手伝います」
口にすると、カイがこちらを見た。
「この先へ急ぐんですよね」
「急ぐ」
「でも、倒れたままだと後から来る者が困ります」
自分で言いながら、それがカイから教わった考え方だと気づいた。
カイは倒れた柱をもう一度見た。
「半刻だ」
「はい」
「疲れを残すな」
黄色い帽子のミーアキャットが両手を上げた。
「助かる! そっちの大きいのも?」
「柱を見る」
「十分だ。俺たちだけだと、全員で押して全員で転ぶことがある」
「やる前から分かるだろ」
「分かってても押したくなる時がある」
カイは答えず、柱の根元へ向かった。
私に任されたのは、雪の下から使える石を選ぶことだった。
平たいもの。
欠けが少ないもの。
風を受けても転がりにくいもの。
「これは使えますか」
掌ほどの石を見せると、黄色い帽子の彼が頷いた。
「使える。ただし下だね」
「上ではなく?」
「支える石だから。目立つ石が下へ入ることもあるし、地味な石が一番大事なこともある」
「石にも役目があるんですね」
「置く者が決めるけどね」
彼は石を受け取り、崩れた根元へ差し込んだ。
「こっちは?」
「薄すぎる。割れる」
「では、これは」
「いい。風上へ入れよう」
石を選ぶたび、これまで教わったことが使えた。
大きければよいわけではない。
平らなら、どこへ置いてもよいわけでもない。
風の向き。
雪へ沈む深さ。
上から掛かる重さ。
拾った石を運ぶ前に、一度雪へ置いて確かめる。
「覚えるのが早いね」
別のミーアキャットが言った。
「何度も直されたので」
「誰に?」
私は柱の向こうにいるカイを見た。
彼は倒れた柱へ縄を回し、根元の割れ方を調べている。
「あの狼、教えるの?」
「必要なことだけです」
「一番忘れにくいやつだ」
「どうしてですか」
「余計な言葉がないから」
私は少し考えた。
確かに、カイの言葉は短い。
短いぶん、雪の上へ置かれた石のように、どこへ残ったのか分かりやすかった。
柱を起こす時には、ミーアキャットたちが縄を持った。
カイは根元へ残り、柱の位置と土台の石を見ている。
「いくぞ。せーの」
縄が張る。
石柱が雪を削り、僅かに持ち上がった。
私は直接引かず、土台の脇で石が動かないか見ていた。
一つの石が外へずれる。
「止めてください」
声を上げると、縄の動きが止まった。
「ここが動きました」
カイが根元を覗く。
「その石を抜け」
「抜いたら倒れませんか」
「今なら支えてる。代わりを入れる」
私はずれた石を外し、先ほど選んだ厚い石を差し込んだ。
カイが杖の柄で奥まで押す。
「もういい」
再び縄が引かれた。
柱はゆっくり立ち上がり、土台の中央へ収まった。
完全に真っ直ぐではない。
欠けも残っている。
それでも、倒れたまま雪へ沈んでいた時より、遠くから見つけやすくなった。
ミーアキャットたちは根元へ石と雪を詰め、最後に新しい黄色い布を柱の先へ結んだ。
風を受けた布が大きく広がる。
白い山道へ、小さな光が灯ったようだった。
「これで、しばらくは持つ」
黄色い帽子の彼が腰へ手を当てた。
「ずっとではないんですか」
「ずっと立ってる柱なんてないよ」
「また倒れたら?」
「また誰かが直す」
彼は当たり前のように答えた。
「雪が積もる。風が削る。石がずれる。布が裂ける。一度直したから終わり、なんて道しるべはない」
「大変ですね」
「大変だから、俺たちが旅をしてる」
黄色い布が風へ引かれ、何度も形を変える。
柱も布も、いつかまた倒れる。
それでも、今ここを通る者には届く。
残すというのは、消えないものを作ることではないのかもしれない。
消えるたび、別の誰かが手を加えられる形へしておくことなのだろう。
「休め」
カイが言った。
私は手にしていた石を置いた。
「まだ半刻は」
「もう過ぎてる」
「本当ですか」
「足を見ろ」
言われて気づく。
膝へ重さが戻り、立ち上がる時に少し力が要る。
「まだ歩けます」
「歩けるうちに休む」
「はい」
少し前なら、もう少しできると言い張っていた。
今は素直に石へ腰を下ろす。
手伝うことと、残りの力を使い切ることは違う。
黄色い帽子の彼が、小さな杯を差し出した。
「温かい根の茶。苦いよ」
「先に言うんですね」
「甘いと思って飲むと、もっと苦いから」
杯からは、土と木の皮を混ぜたような香りがした。
一口飲む。
舌の上へ強い苦さが広がった。
「苦いです」
「正しい感想だ」
彼は満足そうに頷く。
「でも、温かいです」
「そっちが大事」
苦さは残った。
けれど、喉を通った熱が腹の奥へゆっくり広がっていく。
雪の中では、美味しいかどうかより先に、身体へ届くかどうかで価値が決まるものもあるらしい。
休んでいる間に、カイは先の道を訊いていた。
「岩場の先は?」
「山から落ちる風が強い。音が聞こえてから伏せても遅い時がある」
「目印は」
「黄色い布を二つ置いた。ただし、安全という意味じゃない。誰かが通ったというだけだ」
「雪は」
「午後から増えるかもしれない。早めに風裏を探した方がいい」
「分かった」
印があるから安全なのではない。
印を見つけ、そこから先を自分で確かめる。
太陽の旅団も、カイと同じことを言っている。
道を残す者も、歩く者の代わりに決めることまではできないのだろう。
カイは荷物を背負った。
私も杯を返し、杖を取る。
「ありがとうございました」
「こっちの台詞だよ」
黄色い帽子の彼は、立ち直った柱を見上げた。
「君があの石に気づかなかったら、また最初からだった」
「役に立てましたか」
「十分」
私はカイを見る。
「何だ」
「今のは十分だそうです」
「聞こえてた」
「カイより大きな褒め方でした」
「比べるな」
ミーアキャットたちが笑った。
別れ際、黄色い帽子の彼が布の切れ端を渡してくれた。
「持っていって。目印に使える」
「いいんですか」
「そのための布だ。ただし、置いたから正しい道になるわけじゃない。自分で確かめてから使って」
「はい」
布は薄く、手袋越しでも柔らかさが分かった。
白い場所へ置けば、きっと遠くから見える。
「良い旅を」
彼は手を振った。
「太陽が見えなくても、進む方角まで消えたわけじゃないから」
私は黄色い布を星形ポーチへしまった。
雲の上に太陽があることは分かっている。
けれど、見えないものがあると知るだけで歩けるわけではない。
方角を確かめ、足元を見て、一歩ずつ置く必要がある。
それでも、白しかない場所へ黄色が一つあるだけで、顔を上げる理由にはなった。
「行くぞ」
カイの声に頷き、私は再び山道へ戻った。
背後では、立て直した柱の黄色が風の中へ揺れていた。
何度か振り返りたくなった。
けれど、足元から目を離さず、杖を先へ刺す。
太陽の旅団の声が聞こえなくなる頃、風が少しずつ強くなってきた。
斜面の上で雪が細く舞い、遠くの黒い岩が時々白へ隠れる。
「今日は早めに止まる」
カイが言った。
「まだ歩けます」
「石柱を直した分が残ってる」
足へ意識を向ける。
確かに、膝の奥へ重さが溜まっていた。
「歩けるうちに止まる」
「覚えていましたか」
「お前に言ったのは俺だ」
「そうでした」
道の横に、黒い岩で囲まれた浅い窪地があった。
風を避けるには十分な深さがあり、雪も周囲より薄い。
私は柔らかな雪だけを掘り、硬い層を壁として残した。
カイが布を張る間に、鍋へ使う雪を選ぶ。
土の混じったものは避け、白く乾いた場所から集めた。
火を作る頃には、黄色い柱はもう見えなくなっていた。
それでも、白の向こうで今も揺れているのだと思うと、何もない景色には見えなかった。
腹の奥には、苦い茶の熱がまだ残っていた。




