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進むために戻れ

 岩小屋を離れて古い道へ戻ると、氷瀑の音が背後へ遠ざかっていった。

 青い氷の柱は岩の向こうへ隠れた。それでも、氷の奥を流れる水の響きだけは、しばらく地面を伝って足元へ残っていた。

 カイは道の端へ並ぶ石を確かめながら進む。

 私は少し後ろで、雪から覗く黒い角を探した。

「そこ」

 杖の先で示す。

 風に削られた雪の中へ、平たい石が半分だけ埋もれていた。

 カイが戻り、周囲を払う。

 同じ形の石が、その先にも二つ続いていた。

「道だな」

「合っていましたか」

「ああ」

「今のは、私が先に見つけました」

「見れば分かる」

「もう少し何かありませんか」

「歩け」

 私は杖を握り直した。

 返事は短い。それでも、雪の中から自分で道を拾えたことが、足元へ小さな熱を残した。

 古い道は次第に低い方へ曲がり、岩の間へ細く入り込んだ。

 左右の壁が高くなり、空が狭くなる。

 岩陰を抜けた先で、景色の色が変わった。

 谷の底へ、巨大な氷の塊が幾重にも折り重なっている。

 青く透けたもの。

 白く濁ったもの。

 土や小石を抱き込み、灰色へ沈んだもの。

 山の上から押し出された氷が割れ、積み重なり、そのまま動きを止めたようだった。

「流氷みたいです」

「ここは海じゃない」

「見た目の話です」

「山の氷が動いた跡だ」

「こんな大きなものが?」

「少しずつな」

 カイは谷を見下ろした。

「動いて、割れて、また積もる」

 止まっているように見えた氷が、今も僅かずつ形を変えている。

 そう思うと、谷全体が眠っているのではなく、ゆっくり息をしているように見えた。

「下を通る」

「谷底へ?」

「ああ。上は風が悪い」

 見上げると、山の上は白く霞んでいる。

 谷底は暗い。

 けれど、氷の間の形は見える。

「下へ行きます」

「理由は」

「風より、見える危険の方が選びやすいからです」

「見えてるものも、そのまま信じるな」

「はい」

 カイは一度だけ頷き、谷へ下り始めた。

 斜面は急だった。

 雪の下に小石が転がり、足を置くたび靴底が僅かにずれる。

 カイが先に下り、使える足場だけを示した。

「右」

「はい」

「真ん中は浮いてる。縁へ置け」

 段差が大きい場所では、カイが腕を伸ばす。

 私は必要な時だけ掴み、下りたらすぐに離した。

 礼を言うより先に、次の足場を見る。

 受け取った助けを無駄にしない方が、この場所では大切だった。

 谷底へ着くと、周囲が青く沈んだ。

 氷の壁には気泡や黒い土、小石まで閉じ込められている。

 山の一部を透明な中へ噛み込み、そのまま運んできたようだった。

 足元には細い雪の筋が続いている。

 誰かが踏み固めた道なのか、風で削られただけなのかは分からない。

 カイは杖で先を確かめながら進んだ。

「触るな」

「まだ触っていません」

「手が動いてた」

 私は伸ばしかけていた指を外套の中へ戻した。

 氷の奥へ青い線が走っている。

 近くで見れば、光が閉じ込められているようだった。

 けれど、表面には鋭い欠け目がある。

 きれいなものほど足を止めさせる。

 前に言われた言葉を思い出し、視線をカイの背中へ戻した。

 谷には多くの音があった。

 風が氷の隙間を抜ける音。

 表面から雪が落ちる音。

 遠くで何かが割れる乾いた音。

 もっと深い場所から響く、重い軋み。

 どの氷が鳴ったのか探しても、音は壁へ跳ね返り、前から背後へ回った。

「ここでは、耳だけでも分かりません」

「ああ」

「何を見ればいいですか」

「雪が落ちる場所。氷の割れ目。風の向き」

「一つだけでは駄目なんですね」

「重ねて見ろ」

 聞くだけでは足りない。

 見るだけでも足りない。

 一つずつでは頼りなくても、重ねれば危険の形が少し見える。

 カイはそうやって歩いているのだろう。

 谷の半ばで、道が途切れた。

 崩れた氷が幾つも重なり、正面を塞いでいる。

 右は立った氷。

 左には、雪へ半分埋もれた暗い隙間があった。

 カイは足を止め、周囲を調べ始めた。

 杖で雪を突く。

 氷の割れ目へ耳を寄せる。

 少し離れ、上から崩れた形を見る。

「戻りますか」

「まだ決めない」

 私は邪魔にならない位置へ下がった。

 ただ待つのではなく、自分でも周囲を見る。

 正面は高すぎる。

 右側は張り出した氷で、足を置く場所がない。

 左の隙間は狭い。

 カイには通れない。

 けれど、その奥から僅かに白い光が見えた。

「カイ」

「動くな」

「動いていません」

「何だ」

「あそこ、向こうへ続いていませんか」

 カイが隙間を覗く。

「狭い」

「私なら通れます」

「駄目だ」

 返事は早かった。

「まだ確かめていません」

「上が崩れた場所だ」

「でも、光が見えます。風も来ています」

 カイは隙間へ手を近づけた。

 奥から細い冷気が流れている。

「通り抜けるまで行きません」

「同じだ」

「中の様子だけ見ます。少しでも雪が落ちたら戻ります。縄を引かれたら、何が見えても戻ります」

「……」

「勝手には進みません」

 カイはしばらく私を見た。

 次に隙間の上へ目を向け、氷へ手を当て、音を聞いた。

「今すぐ崩れる音はしない」

「では」

「安全だとは言ってない」

「はい」

「声が届くところまでだ。縄を引いたら戻れ。音が変わったら、自分でも戻れ」

「戻ります」

 カイは縄を取り出した。

 私は自分で腰へ回し、前に教わった順番で輪を作る。

 端を通す。

 形を整える。

 最後に引く。

 結び目は少し歪んだ。

 それでもカイが引いても崩れなかった。

「使えますか」

「今はな」

 カイは結び目の横へ留めを一つ加えた。

「戻ったら、もう一度やれ」

「はい」

 星形ポーチを身体の前へ回し、マフラーの端を外套へ押し込む。

「怖くなったら戻れ」

「はい」

「意地を張るな」

「戻る時は戻ります」

 カイが僅かに頷いた。

 私は隙間へ入った。

 思っていたより狭い。

 膝をつき、身体を低くする。

 氷が左右から迫り、肩へ触れそうになる。

 息を吐くたび、白い靄が目の前へ溜まった。

 後ろから伸びる縄だけが、外と繋がっている。

「聞こえるか」

「聞こえます」

「進めるか」

「少しだけ」

「無理はするな」

「はい」

 手を置く。

 膝を進める。

 身体を引き寄せる。

 同じ動きを、ゆっくり繰り返す。

 奥は少しずつ明るくなっていた。

 向こう側へ抜けられる。

 そう思った時、膝の下の雪が沈んだ。

 私はすぐに止まる。

「止まりました」

「何があった」

「下が沈みます」

「戻れるか」

 雪の表面を手で押す。

 左側は柔らかい。

 右側には硬い氷がある。

「右なら硬いです」

「寄れるか」

「はい」

「少しずつだ」

 身体を右へ寄せ、硬い場所だけを使って進む。

 膝が痛い。

 手袋の指先から冷たさが入ってくる。

 それでも、前の光は近づいていた。

 あと少し。

 その時、頭の上で小さな音がした。

 ぱら、と雪が落ちる。

「戻れ」

 カイの声が飛んだ。

 私は考えなかった。

 すぐに手を引き、来た道を下がる。

 狭くて向きを変えられない。

 後ろ向きのまま、膝と手を一つずつ戻す。

 縄が軽く張った。

 カイが外から引いている。

 ぱら、ぱら、と雪が続けて落ちた。

 怖い。

 早く外へ出たい。

 けれど、急げば身体が氷へ当たり、上の雪を揺らす。

 右手。

 左膝。

 次に左手。

 一つずつ戻る。

 最後に腕を掴まれ、隙間の外へ引き出された。

 冷たい空気が一気に顔へ当たる。

 私は雪の上へ座り込んだ。

「怪我は」

「ありません」

「奥は見えたか」

「向こうへ続いています。あと少しで出られそうでした」

「そうか」

「戻りました」

「見れば分かる」

「正しかったですか」

「正しい」

 返事は迷わなかった。

 カイは隙間の上をしばらく見たあと、右側の氷へ視線を移した。

「上を回る」

「道がありますか」

「ない。作る」

「どちらへ出れば」

「お前が見た光の方へ行く」

 私は顔を上げた。

「役に立ちましたか」

「少しはな」

 いつもの言葉だった。

 けれど、その少しは今までで一番重かった。

 カイは氷の右側へ足場を作り始めた。

 雪を薄く削り、硬い面を露出させる。

 滑りそうな場所へ杖の先で溝をつけ、小石を詰める。

 私は震えの残る足を立たせ、周囲の軽い雪を退けた。

「これは動かしていいですか」

「いい。足場の下へ入れろ」

「こちらは?」

「触るな。支えになってる」

 何を動かし、何を残すのか。

 同じ氷と石に見えても、役割が違う。

 時間をかけ、塞がった道の横へ細い足場ができた。

「お前が先だ」

「またですか」

「軽い方からだ」

「今度は狭くありませんね」

「落ちる場所はある」

「言わなくても分かります」

「なら行け」

 腰の縄を確かめ、足場へ靴を置いた。

 氷へ刻んだ溝へ外側から触れ、ゆっくり重さを移す。

 手は張り出した岩へ近づけすぎない。

 杖は短く持つ。

 前を見る。

 一歩。

 もう一歩。

 怖さは消えない。

 けれど、どこへ足を置けばよいかは見えている。

 最後の段差を越えると、道の続きへ下りられた。

「通れます」

「そこから離れろ」

 私は安全な場所まで進んだ。

 カイも後から足場を越える。

 こちら側へ下りた直後、使った場所の一部が小さく崩れた。

 氷の欠片が暗い隙間へ落ち、遅れて音が返る。

「次は使えないな」

「後から来る者は」

「別の道を探す」

「危ないと分かる印を残しませんか」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 以前なら、抜けられたことだけで精いっぱいだった。

 今は、顔も知らない誰かが同じ場所へ来ることを考えている。

「残す」

 カイは短く答えた。

 私たちは崩れた道の手前へ石を三つ積み、古い棒を斜めに差した。

 進むための印ではなく、ここから先へ入るなと知らせる形だった。

「これでいいですか」

「ああ」

 氷の谷を抜ける頃には、空の白さが薄くなり始めていた。

 谷の出口から振り返る。

 折り重なった氷は青い影へ沈み、さっき通った隙間も、作った足場も見えない。

 それでも腰には、自分で作った結び目が残っている。

 形は不格好だった。

 けれど、戻る時も、足場を渡る時も、ほどけなかった。

 谷を出た先の石壁へ荷物を下ろすと、私はすぐに縄をほどいた。

 カイが受け取り、強く引いた。

「使える」

「今度は?」

「ああ」

 私は縄を丁寧に畳んだ。

 暗くなると、氷の谷から低い音が届いた。

 風なのか、どこかで氷が動いたのかは分からない。

 その響きを聞くたび、隙間の中へ落ちてきた雪を思い出した。

「カイ」

「何だ」

「もう少し進めば、向こうへ抜けられたかもしれません」

「ああ」

「それでも、戻って正しかったんですよね」

「正しい」

「なぜ、すぐに言えるんですか」

「戻ったから、別の道を作れた」

 カイは火へ木片を一本だけ足した。

「進むために戻ることもある」

 火が僅かに持ち上がり、石へ橙色を映す。

 進むために戻る。

 諦めるためではない。

 生きたまま、次の道を選ぶために退く。

「覚えておきます」

「忘れるな」

「はい」

 私は畳んだ縄を荷物の上へ置いた。

 明日また必要になれば、自分で結ぶ。

 今度は教えられる前に。

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