目覚めた先も夢の中
目を覚ますと、空が白くなっていた。
昨夜、石の囲いの上に浮かんでいた星は、一つも見えない。雲に隠れたのか、朝の光へ溶けたのか。見上げても、薄い灰色がどこまでも続いているだけだった。
火はほとんど消え、灰の奥へ赤い点を残している。
風は夜より弱い。
そのぶん冷えた空気が逃げず、囲いの底へ水のように溜まっていた。
私は布にくるまったまま、しばらく動けなかった。
眠ったはずなのに、身体が重い。
どこか遠くへ置いてきた自分が、今になって遅れて戻ってきたような感覚だった。
何かを見ていた気がする。
誰かの声を聞いたような気もする。
けれど、思い出そうとすると、そこだけが白く曇る。
目を閉じる前に見ていた星も、火の音も、カイの声も覚えている。それなのに、眠っていた間のことだけが、降ったばかりの雪へ埋もれていた。
掘り返そうとしても、触れられるのは冷たい表面だけだった。
「起きたか」
声の方へ顔を向ける。
カイはすでに荷物をまとめていた。昨夜広げていた地図も、鍋も、余った燃料も、元の場所へ収まっている。
私だけが、まだ夜の端へ引っかかっているようだった。
「はい」
「顔色が悪い」
「朝だからでは」
「昨日までは、もう少しましだった」
誤魔化せなかった。
「気分は」
「少し変です。でも、歩けます」
「歩けるかだけで決めるな」
カイは湯気の立つ器を私の前へ置いた。
麦パンを湯で柔らかくし、乾燥きのこを細かく砕いて入れたものだった。味は薄い。それでも、一口飲むたび、ぼやけていた身体の輪郭が内側から戻ってくる。
「何か見たのか」
匙を持つ手が止まった。
「見た気はします」
「気がする?」
「夢だったと思います。でも、何も覚えていません」
「そうか」
「何かを忘れた感じだけが残っています」
カイはそれ以上訊かなかった。
灰の奥へ残る赤い点を見ながら、荷物の紐を締め直す。
「無理なら、今日は進まない」
思っていなかった言葉だった。
「進まないんですか」
「倒れるやつを連れて歩くほど暇じゃない」
「大丈夫です」
「決めるのは俺だ」
「でも、カイには行く理由があるんですよね」
「ある」
「なら行きます」
「お前の理由は」
「ついていくと決めたからです」
カイがこちらを見る。
少しの間、何も言わなかった。
「変なところだけ覚えが早い」
「褒めていますか」
「違う」
「そうですか」
残りを口へ運ぶ。
重さは消えない。
けれど、湯気と食べ物の熱が、動ける形へ少しずつ戻してくれた。
夢を追うのはやめた。
見えないものを探し続けて、今ある足元まで見失う方が危ない。
火を消し、荷物をまとめる。
私は布を畳み、鍋を拭き、使った場所へ雪を戻した。カイは何も言わない。
間違ってはいないらしい。
囲いを出ると、空が昨日より低く見えた。
山の影は近い。裾を覆う雪は灰色へ沈み、風は弱いのに空気だけが鋭かった。息を吸うたび、鼻の奥へ細かな氷を押し込まれるように痛む。
「今日は山の裾を回るんですよね」
「ああ」
「道はありますか」
「残っていればな」
「残っていなかったら」
「探す」
「探してもなければ」
「作る」
カイは当然のように答えた。
道がなければ戻る時もある。
なければ作る時もある。
その違いを、カイは何で見分けているのだろう。
私は杖を握り直し、その後を追った。
雪は昨日より硬かった。
靴を置くと、表面が薄い硝子のように割れる。深く沈む場所は少ない。代わりに、僅かな傾きでも靴底が流れた。
足の外側から触れ、ゆっくり重さを移す。
昨日教わった歩き方だ。
「悪くない」
前を行くカイが言った。
「何がですか」
「歩き方」
思わず足を止めそうになる。
「本当ですか」
「止まるな」
「はい」
「少しは見て歩いてる」
「少し」
「少しでいい。増やせ」
褒め言葉としては、やはり小さい。
それでも、杖を握る手が少し軽くなった。
山の裾へ近づくと、雪の中から平たい石が顔を出し始めた。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
自然に転がった岩とは違い、ほぼ同じ間隔で並べられている。近くには、風に削られた石柱も立っていた。上は欠け、表面の文字もほとんど残っていない。
それでも、誰かがここを通るために石を運び、地面へ埋めたことだけは分かった。
「これが古い道ですか」
「たぶんな」
「また、たぶん」
「雪の下に確実なものは少ない」
「それも覚えました」
「ならいい」
古い道は、山へ真っ直ぐ向かってはいなかった。
急な斜面を避けるように曲がり、岩場の隙間を抜け、時には目的地から離れるように続いている。
近づくために遠ざかる。
歩ける者を残すために、真っ直ぐ進むことを諦めた道だった。
石の並びが雪へ消えるたび、カイは止まった。
岩の向きを見る。
雪の盛り上がりを確かめる。
杖で地面を探る。
少し戻り、別の角度から見直すこともあった。
分からなければ止まる。
違うと思えば戻る。
私へ繰り返したことを、カイ自身も同じように守っている。
道の脇に、膝ほどの高さの石箱があった。
蓋も扉もない。奥へ黒い窪みが残り、その上へ雪が丸く積もっている。
「これも道しるべですか」
「祈り場だろう」
「祈り場」
「昔の旅人が、山へ入る前に火を灯した」
「祈るために?」
「それもある。後から来たやつへ、自分が先にいると知らせるためでもある」
私は中を覗いた。
奥の石へ、薄い煤が残っている。
誰かがここで立ち止まり、冷えた指で火を作り、これから入る山を見上げた。
その姿も、願った言葉も残っていない。
ただ、橙色があった跡だけが石へ貼りついている。
「今も灯しますか」
「燃料が惜しい」
「現実的ですね」
「火は生きるために使う」
「昔の者には、灯すことが必要だったんですよね」
「そうだろうな」
カイは頭を下げなかった。
何かを唱えることもしない。
ただ、通り過ぎる前に積もった雪を少し払った。
黒い窪みが、先ほどよりはっきり見える。
火は灯さない。
けれど、完全には埋もれさせない。
その仕草が、誰もいない場所へ向けた挨拶のように見えた。
「行くぞ」
「はい」
昼を過ぎる頃、道は高い岩壁へ沿うようになった。
右には黒い岩。
左には雪の谷。
遠くで水に似た音がする。けれど岩へ何度も跳ね返り、前から聞こえたと思えば、次の瞬間には背後へ回る。
「音が変です」
「岩に返ってる」
「耳だけでは分かりません」
「ここでは耳だけを信じるな」
「足元も、音も、そのまま信じてはいけないんですね」
「そうだ」
「疑うことばかり増えます」
「信じて落ちるよりましだ」
道はしばらく穏やかに続いた。
昨日までより歩きやすい。
だからこそ、何度も足が速くなりかけた。
「速い」
「すみません」
「謝るな。戻せ」
「はい」
「慣れた時ほど見る場所が減る」
「分かりました」
「分かった顔だけするな」
「顔に出ていますか」
「出てる」
私は口元を引き締めた。
カイは見なかったことにした。
やがて、岩壁の向こうから低い響きが届き始めた。
最初は風だと思った。
近づくほど音は重くなり、山の奥から地面を伝ってくるような震えへ変わっていく。
水に似ている。
氷の軋みにも似ている。
けれど、どちらか一つではなかった。
「何の音ですか」
「滝だ」
「滝?」
「凍ってるがな」
カイは古い道を外れ、岩の隙間へ入った。
私も続く。
岩を回り込んだ瞬間、視界が開けた。
山から落ちる水が、空中で止められていた。
巨大な氷の柱が崖を覆っている。
上は白く曇り、下へ向かうほど青が深い。何本もの氷柱が重なり、薄い布を幾重にも垂らしたように広がっていた。
滝壺の周囲には砕けた氷が散り、透明な花びらのように雪へ刺さっている。
私は言葉を忘れた。
凍っている。
それなのに、音がする。
低く、深く、途切れない。
氷の奥で、水がまだ流れている。
表面を冬へ渡しながら、その内側だけは先へ進むことをやめていない。
「近づくな」
「はい」
今度は、返事をした場所から動かなかった。
杖を雪へ刺し、その場で見上げる。
流れ落ちたい水と、それを止める寒さが、長い間押し合っている。
どちらも負けていない。
だから滝は止まった形を保ちながら、音だけを流し続けているのだろう。
「まだ流れているんですね」
「ああ」
「全部は凍っていないんですか」
「表だけだ」
「表だけ」
「全部止まってるなら、音はしない」
カイは滝ではなく、足元を見ていた。
視線を追う。
雪の表面へ細い割れ目が走っている。氷の下で水が動き、足場まで僅かずつ形を変えているらしい。
遠くから見れば、一枚の美しい景色だった。
近づけば、その美しさを支えるものが今も動いていると分かる。
「ここを通るんですか」
「横を抜ける」
「危ないですよね」
「危ない」
「また」
「だが、早い」
「早い方を選ぶんですね」
「天気が崩れる前にな」
カイは岩壁に沿う細い道を示した。
滝からは離れている。
それでも飛び散った氷と雪が積もり、足場は悪い。左側は氷の斜面へ続き、滑れば滝壺の方へ流されるかもしれなかった。
「怖いなら戻る」
「戻ると?」
「半日かかる」
「天気は」
「崩れる前に次の休み場へ着けなくなる」
「では、行きます」
「無理はするな」
「無理かどうか、カイが見てください」
眉が僅かに寄る。
「面倒な任せ方をするな」
「自分では、まだ見分けられません」
「分からないのを分かってるなら、まだましだ」
カイは縄を取り出した。
私は言われる前に腰へ回す。
結び目はまだ作れない。
けれど、縄を置く位置と、緩ませてはいけない場所は覚えていた。
カイは近づき、手早く結ぶ。
「あとで教える」
「結び方を?」
「ああ」
「本当に?」
「必要になるかもしれないと言っただろ」
聞き流しているようで、必要だと判断したものは残している。
「ありがとうございます」
「礼は結べるようになってからにしろ」
「はい」
私たちは氷瀑の横へ入った。
最初の一歩で、足場の悪さが分かった。
雪の下には砕けた氷があり、踏むたび靴底が違う方へ傾く。杖を刺せば硬い氷へ当たり、手元まで跳ね返る。次の場所では、逆に深く沈んだ。
一歩進むたび、雪と氷が別の答えを返す。
私は呼吸を整え、カイの足跡を追った。
滝の奥で、水が鳴っている。
低く、絶えず鳴っている。
止まって見えるものの中にも、進み続けているものがある。
前を行くカイを見る。
何を訊いても短く答える。
必要なことだけを行い、北へ進む。
外から見れば氷の表面のように硬く、何も動いていないようにも見える。
それでも内側へ流れがあるから、歩き続けているのかもしれない。
「止まるな」
声に引かれ、足元へ視線を戻した。
「すみません」
「考えるのは後にしろ」
「顔に出ていましたか」
「足に出てた」
縄が僅かに張っている。
私は杖を刺し直した。
半ばまで来た時、山の上で乾いた音がした。
ぱきり。
枝が折れたような音。
けれど、見上げても木はない。
カイの動きが止まった。
「走れるか」
「え?」
「聞くな。来い」
次の瞬間、上から雪が崩れた。
大きな雪崩ではない。
それでも岩壁へ積もっていた雪と砕けた氷が、白い塊になって落ちてくる。
視界の端で雪が弾け、細かな氷が頬へ当たった。
縄が強く引かれる。
私は足をもつれさせながらカイを追った。
「岩陰へ!」
近くに黒い岩が突き出している。
カイは私の腕を掴み、その陰へ引き込んだ。
直後、さっきまで歩いていた場所へ雪と氷が流れ落ちた。
重たい音。
舞い上がる白い粉。
何も見えなくなる。
私は岩へ背をつけ、息を止めていた。
目の前には、カイの腕がある。
落ちてくるものを遮るように、身体を少し前へ出している。
私は彼の外套を掴んでいた。
いつ掴んだのか分からない。
手袋の指が黒い布へ固く食い込んでいる。
やがて音が止み、白い粉がゆっくり沈んだ。
道は半分ほど埋まっていた。
通れないほどではない。
けれど、少し遅れていれば、あの白へ巻き込まれていた。
「怪我は」
「ありません」
「手」
言われて、自分の手を見る。
外套を掴んだまま、指が震えていた。
「すみません」
「謝るな」
「でも」
「離せとは言ってない」
カイは指を一本ずつ外した。
乱暴ではなかった。
うまく動かないのを見ると、手袋の上から握らせ、また開かせる。
「動くか」
「はい」
「冷えただけだ」
何度か曲げると、少しずつ感覚が戻った。
「今のも分かっていたんですか」
「音がした」
「私は、言われるまで分かりませんでした」
「分かった時に動ければいい」
「分からない時は」
「言われた通りに動け」
「はい」
「何でも自分で決めようとするな。分からない時に従うのも、生きるための判断だ」
厳しい言葉だった。
けれど、さっきまで私の前にあった腕の感触が残っていて、冷たくは聞こえなかった。
私たちは埋まった道を越えた。
カイが先に深さを確かめ、私が踏める場所を作る。氷の欠片を避け、岩壁へ近づきすぎないよう進む。
私は足元だけを見る。
滝の青も、奥で鳴る水も、今は追わない。
落ちないこと。
止まらないこと。
カイの声を聞くこと。
それだけに絞った。
やがて、氷瀑の横道を抜けた。
背後では、滝がまだ低く鳴っている。
振り返ると、青い氷の柱が白い雪の中へ立っていた。
美しい。
恐ろしい。
少し前まで私たちを呑み込みかけていた場所とは思えないほど、静かな顔をしている。
「きれいなままですね」
「何がだ」
「危なかったのに、何も変わっていません」
「景色は謝らない」
「そうですね」
「怒りもしない」
「はい」
「だから、こっちが覚えるしかない」
カイは先へ進んだ。
私はもう一度だけ氷瀑を見る。
止まって見える氷の奥で、水は流れ続けている。
何かを閉じ込めたまま、それでも音だけは消えない。
その響きを奥へ残し、カイの後を追った。
光が傾く前に、山肌の窪みへ石を積んだ休み場へ着いた。
入口は低く、入るには少しかがまなければならない。中は狭いが、屋根は崩れておらず、風もほとんど入らなかった。
「今日はここで止まる」
「まだ早いですね」
「さっき雪が落ちた。これ以上は危ない」
「カイでも、危ない時は止まるんですね」
「当たり前だ」
「北へ行くのは止めないのに」
口にしてから、踏み込みすぎたと思った。
けれど、カイは荷物を下ろす手を止めなかった。
「道と目的は違う」
「違うんですか」
「道は選ぶ」
黒い鞘を腰から外し、奥へ置く。
「目的は変えない」
それだけだった。
戻る。
止まる。
別の道を探す。
それでも、向かう場所までは変えない。
今まで聞いた中で、一番カイらしい言葉だった。
私は布を敷き、鍋へ雪を入れた。
もう、早く水にしようと詰め込みすぎることはない。少し溶けるのを待ち、沈んだぶんだけ静かに足す。
「覚えたな」
「少しは」
「そうだ」
それだけで、疲れているのに笑ってしまった。
湯気が低い天井へ上がる。
外では風が山肌を撫でていた。
遠くから、氷瀑の音がまだ僅かに届いている。
低く、途切れない。
眠っている山の奥で、大きな水が息をしているような音だった。
私は器を抱え、その響きを聞いた。
目を覚ました時に残っていた重さは、いつの間にか薄れている。
忘れた夢の白い跡へ、今日見たものが少しずつ重なっていた。
氷瀑の音。
カイの声。
雪へ置いた、自分の足跡。
思い出せないものへ手を伸ばさなくても、今いる場所で拾えるものはある。
私は温かい汁を口へ運びながら、遠くで鳴り続ける水の音を聞いていた。




