エピローグ
私は列車に揺られている。
頭の中は、カイのことでいっぱいだった。
窓の外には、何も見えない。
春の山も、川も、桜も、すでに遠くへ消えていた。今は暗い景色の中を、白い靄だけが流れている。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
列車が揺れるたびに、身体のあちこちが痛んだ。
肩には、カイの重さがまだ残っている。
縄が食い込んだ場所も、橇を引いた腕も、雪を踏み続けた足も痛い。手袋を外してみると、指には赤い跡が残っていた。
けれど、その痛みを嫌だとは思わなかった。
痛みがあるから、分かる。
私は本当にカイを連れていった。
吹雪の中を歩き、橇を引き、壊れた後は自分の肩で支えた。
カイは神の国へ辿り着いた。
春を見た。
桜の下で、友たちの名前を呼んだ。
アンリ。
フーダ。
ユウガ。
私は座席の上で膝を抱えた。
最後に呼ばれた名前だけが、妙に耳へ残っている。
ユウガ。
兄さんと同じ名前。
私がずっと探している人。
カイがその名を呼んだ時、胸の奥が小さく震えた。
カイは最後に、私の目を見た。
よく似ている、と言った。
誰に似ているのか、答えてはくれなかった。
アンリなのか。
フーダなのか。
ユウガなのか。
それとも、私の知らない別の誰かなのか。
カイは、兄さんを知っていたのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
けれど、すぐに違う気もした。
兄さんとカイがどこかで出会っていたのなら、どうしてカイは何も言わなかったのだろう。
私が兄さんを探していると、何度も話した。
名前だって伝えた。
それでも、カイは何も言わなかった。
知らなかったのかもしれない。
ただ、同じ名前の誰かを知っていただけなのかもしれない。
それとも、言えない理由があったのだろうか。
「カイ……」
名前を呼んでも、返事はない。
当たり前だった。
カイは、もう列車には乗っていない。
桜の下にいる。
あの春の中で、眠っている。
私は俯いた。
もう一度会いたいと思った。
もっと話せばよかった。
星の名前を聞けばよかった。
狼星が誰なのか。
羊星が誰なのか。
狐星が誰なのか。
熊星が誰なのか。
友たちはどんな人だったのか。
どうして一人になったのか。
何十年もの間、どんな場所を歩いてきたのか。
訊きたいことは、いくらでもあった。
けれど、カイは自分の過去をほとんど話さなかった。
最後の夜に、ほんの少しだけ教えてくれた。
友と呼べる相手は、そう何度もできるものではないこと。
離れていても、同じ星を見ようとしたこと。
命がなくなれば、同じ場所にはいられないこと。
神の国へ行くことが、友たちとの最後の約束だったこと。
カイは、あの場所へ行きたかった。
死ぬためではない。
見たかったから。
確かめたかったから。
友たちと探したものが、本当にあったのか。
何もなかったのか。
その答えを、自分の目で見るために歩いた。
そして、見つけた。
ちゃんとあった、とカイは言った。
神はいた、と。
あれが神だったのかは、私には分からない。
アリスが見せたのは、春だった。
雪が溶け、土が現れ、花が咲き、水が流れる。
それだけのことだと、アリスは言った。
けれど、長い冬を歩いてきたカイにとって、それは神と呼ぶほどのものだったのかもしれない。
神がいたから辿り着けたのではない。
カイが歩いたから、そこへ辿り着いた。
私はカイに助けられた。
雪原で倒れていた私を拾い、小屋へ運び、食べ物をくれた。
歩き方を教えてくれた。
戻ることを教えてくれた。
印を残すことを教えてくれた。
火を消さないことを教えてくれた。
怖い時ほど、見て、考えることを教えてくれた。
そして最後には、私がカイを連れていった。
ずっと助けられていた私が、カイを支えた。
それで何かを返せたとは思わない。
命を助けることもできなかった。
けれど、カイを置いてはいかなかった。
それだけは、できた。
私は窓へ額を寄せた。
冷たい。
硝子の向こうには、まだ白い靄が流れている。
列車がどこを走っているのか、分からない。
次にどこへ着くのかも分からない。
兄さんへ近づいているのか。
遠ざかっているのか。
それさえ分からなかった。
けれど、カイなら言うだろう。
分からないなら見ろ。
見えないなら止まれ。
間違えたなら戻れ。
それでも行くなら、歩け。
「分かっています」
私は小さく呟いた。
返事はない。
それでも、言った。
「怖いままでも、歩きます」
列車が大きく揺れた。
座席の下で、何か硬いものが転がる音がした。
私は顔を上げた。
ごとり、と音を立てて、黒いものが足元へ滑ってくる。
細長い革の鞘だった。
「これ……」
見覚えがあった。
カイが腰に下げていたナイフだ。
雪原で何度も使っていた。
枝を削り、縄を切り、火を起こすための木片を作っていた。
いつもカイのそばにあったものだった。
どうして、ここにあるのだろう。
私は鞘を拾い上げた。
革は古く、何度も使われた跡がある。表面には細かな傷が入り、端の糸も少しだけ解れていた。
カイが私に渡した記憶はない。
小屋へ入る時も、桜の下でも、私はこのナイフに触れていなかった。
それでも、今は私の手の中にある。
列車が運んできたのだろうか。
それとも、カイがどこかで荷物へ入れていたのだろうか。
分からない。
私は鞘を膝の上へ置いた。
抜いてもいいのか、少し迷った。
けれど、もうカイに訊くことはできない。
私は柄を握り、ゆっくりと刃を引き抜いた。
鈍い銀色の刃が、車内の灯りを受けて光る。
使い込まれている。
細かな傷がいくつもあり、刃先には何度も研がれた跡が残っていた。
カイが長い旅の間、ずっと持っていたもの。
友たちと旅をしていた頃から持っていたものかもしれない。
私は刃を傾けた。
根元の近くに、何かが刻まれている。
傷ではない。
細い線を重ね、文字の形に彫ったものだった。
それは、この世界の文字ではなかった。
魔女の国で見た文字でも、雪原の道しるべに刻まれていた文字でもない。
私の知る文字だった。
ひらがなでも、漢字でもない。
けれど、私がいつも読んできた文字だった。
そこには銘が彫ってあった。
エニシ ユウガ




