↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/82

エピローグ

 私は列車に揺られている。

 頭の中は、カイのことでいっぱいだった。

 窓の外には、何も見えない。

 春の山も、川も、桜も、すでに遠くへ消えていた。今は暗い景色の中を、白い靄だけが流れている。

 ガタ、ゴト。

 ガタ、ゴト。

 列車が揺れるたびに、身体のあちこちが痛んだ。

 肩には、カイの重さがまだ残っている。

 縄が食い込んだ場所も、橇を引いた腕も、雪を踏み続けた足も痛い。手袋を外してみると、指には赤い跡が残っていた。

 けれど、その痛みを嫌だとは思わなかった。

 痛みがあるから、分かる。

 私は本当にカイを連れていった。

 吹雪の中を歩き、橇を引き、壊れた後は自分の肩で支えた。

 カイは神の国へ辿り着いた。

 春を見た。

 桜の下で、友たちの名前を呼んだ。

 アンリ。

 フーダ。

 ユウガ。

 私は座席の上で膝を抱えた。

 最後に呼ばれた名前だけが、妙に耳へ残っている。

 ユウガ。

 兄さんと同じ名前。

 私がずっと探している人。

 カイがその名を呼んだ時、胸の奥が小さく震えた。

 カイは最後に、私の目を見た。

 よく似ている、と言った。

 誰に似ているのか、答えてはくれなかった。

 アンリなのか。

 フーダなのか。

 ユウガなのか。

 それとも、私の知らない別の誰かなのか。

 カイは、兄さんを知っていたのだろうか。

 そんな考えが浮かんだ。

 けれど、すぐに違う気もした。

 兄さんとカイがどこかで出会っていたのなら、どうしてカイは何も言わなかったのだろう。

 私が兄さんを探していると、何度も話した。

 名前だって伝えた。

 それでも、カイは何も言わなかった。

 知らなかったのかもしれない。

 ただ、同じ名前の誰かを知っていただけなのかもしれない。

 それとも、言えない理由があったのだろうか。

「カイ……」

 名前を呼んでも、返事はない。

 当たり前だった。

 カイは、もう列車には乗っていない。

 桜の下にいる。

 あの春の中で、眠っている。

 私は俯いた。

 もう一度会いたいと思った。

 もっと話せばよかった。

 星の名前を聞けばよかった。

 狼星が誰なのか。

 羊星が誰なのか。

 狐星が誰なのか。

 熊星が誰なのか。

 友たちはどんな人だったのか。

 どうして一人になったのか。

 何十年もの間、どんな場所を歩いてきたのか。

 訊きたいことは、いくらでもあった。

 けれど、カイは自分の過去をほとんど話さなかった。

 最後の夜に、ほんの少しだけ教えてくれた。

 友と呼べる相手は、そう何度もできるものではないこと。

 離れていても、同じ星を見ようとしたこと。

 命がなくなれば、同じ場所にはいられないこと。

 神の国へ行くことが、友たちとの最後の約束だったこと。

 カイは、あの場所へ行きたかった。

 死ぬためではない。

 見たかったから。

 確かめたかったから。

 友たちと探したものが、本当にあったのか。

 何もなかったのか。

 その答えを、自分の目で見るために歩いた。

 そして、見つけた。

 ちゃんとあった、とカイは言った。

 神はいた、と。

 あれが神だったのかは、私には分からない。

 アリスが見せたのは、春だった。

 雪が溶け、土が現れ、花が咲き、水が流れる。

 それだけのことだと、アリスは言った。

 けれど、長い冬を歩いてきたカイにとって、それは神と呼ぶほどのものだったのかもしれない。

 神がいたから辿り着けたのではない。

 カイが歩いたから、そこへ辿り着いた。

 私はカイに助けられた。

 雪原で倒れていた私を拾い、小屋へ運び、食べ物をくれた。

 歩き方を教えてくれた。

 戻ることを教えてくれた。

 印を残すことを教えてくれた。

 火を消さないことを教えてくれた。

 怖い時ほど、見て、考えることを教えてくれた。

 そして最後には、私がカイを連れていった。

 ずっと助けられていた私が、カイを支えた。

 それで何かを返せたとは思わない。

 命を助けることもできなかった。

 けれど、カイを置いてはいかなかった。

 それだけは、できた。

 私は窓へ額を寄せた。

 冷たい。

 硝子の向こうには、まだ白い靄が流れている。

 列車がどこを走っているのか、分からない。

 次にどこへ着くのかも分からない。

 兄さんへ近づいているのか。

 遠ざかっているのか。

 それさえ分からなかった。

 けれど、カイなら言うだろう。

 分からないなら見ろ。

 見えないなら止まれ。

 間違えたなら戻れ。

 それでも行くなら、歩け。

「分かっています」

 私は小さく呟いた。

 返事はない。

 それでも、言った。

「怖いままでも、歩きます」

 列車が大きく揺れた。

 座席の下で、何か硬いものが転がる音がした。

 私は顔を上げた。

 ごとり、と音を立てて、黒いものが足元へ滑ってくる。

 細長い革の鞘だった。

「これ……」

 見覚えがあった。

 カイが腰に下げていたナイフだ。

 雪原で何度も使っていた。

 枝を削り、縄を切り、火を起こすための木片を作っていた。

 いつもカイのそばにあったものだった。

 どうして、ここにあるのだろう。

 私は鞘を拾い上げた。

 革は古く、何度も使われた跡がある。表面には細かな傷が入り、端の糸も少しだけ解れていた。

 カイが私に渡した記憶はない。

 小屋へ入る時も、桜の下でも、私はこのナイフに触れていなかった。

 それでも、今は私の手の中にある。

 列車が運んできたのだろうか。

 それとも、カイがどこかで荷物へ入れていたのだろうか。

 分からない。

 私は鞘を膝の上へ置いた。

 抜いてもいいのか、少し迷った。

 けれど、もうカイに訊くことはできない。

 私は柄を握り、ゆっくりと刃を引き抜いた。

 鈍い銀色の刃が、車内の灯りを受けて光る。

 使い込まれている。

 細かな傷がいくつもあり、刃先には何度も研がれた跡が残っていた。

 カイが長い旅の間、ずっと持っていたもの。

 友たちと旅をしていた頃から持っていたものかもしれない。

 私は刃を傾けた。

 根元の近くに、何かが刻まれている。

 傷ではない。

 細い線を重ね、文字の形に彫ったものだった。

 それは、この世界の文字ではなかった。

 魔女の国で見た文字でも、雪原の道しるべに刻まれていた文字でもない。

 私の知る文字だった。

 ひらがなでも、漢字でもない。

 けれど、私がいつも読んできた文字だった。

 そこには銘が彫ってあった。

 エニシ ユウガ

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。