私はまた夢の中へ
夜明け前、風除けの外で雪が小さく崩れた。
私は目を開けた。
空はまだ暗い。
けれど、完全な夜ではなかった。雲の向こうから朝が近づいているのか、雪の表面だけがぼんやり白く浮かんでいる。
掘った囲いは、夜の間に半分ほど埋まっていた。張った布の端には細かな氷がつき、吐いた息が顔の前で白くほどける。
火はほとんど消え、灰の奥に赤い点が僅かに残っていた。
私は布から腕を出し、細い木片を一本だけ足した。
赤い点が木の縁へ移り、頼りない炎になる。
「入れすぎてないな」
すぐ近くから声がした。
カイは岩へ背を預けたまま、目だけを開けていた。
「覚えました」
「一晩で三回、多く入れようとした」
「途中からは一本ずつにしました」
「途中からな」
「最後にできればいいんです」
「最初からできた方がいい」
眠っていても、見ていたらしい。
私は炎へ手をかざした。
指先へ熱が届くまでには少し時間がかかった。
「火も、雪道と似ていますね」
「またその話か」
「強くしすぎても駄目で、弱すぎても消えるところです」
「分かってるなら、そうしろ」
「少しは褒めてもいいと思います」
「消さなかった」
「それは褒めていますか」
「事実だ」
それでも、昨夜よりは認められた気がした。
火が木片を半分ほど食べた頃、カイは立ち上がった。
布へ積もった雪を払い、荷物を確かめる。私も身体を起こし、手袋の中で指を曲げた。
痛みはない。
足首には重さが残っている。けれど、それは列車から落ちた時の痛みとは違った。
あの時は、身体のあちこちを勝手に壊されたようだった。
今の重さは、自分の足で雪を踏み、ここまで来た跡だった。
「指は」
「動きます」
「足は」
「痛いですけど、歩けます」
「痛くない方がおかしい」
「そうなんですか」
「昨日あれだけ歩いた」
カイはそれだけ確認すると、火へ雪を掛けた。
橙色が短く鳴り、灰の下へ消えていく。
私は布を畳み、昨日使った板を雪から抜いた。指示を待たず、雪を払い、荷物の横へ置く。
カイは何も言わなかった。
注意されないということは、たぶん間違っていない。
この旅では、それが褒め言葉の代わりらしい。
空が明るくなる前に、私たちは尾根を下り始めた。
山の影は、昨日より大きく見えた。
遠くから眺めていた時には、雲の下へ沈む一枚の壁だった。けれど近づくにつれ、白い斜面と黒い岩が分かれ、その間へ細い谷が何本も刻まれている。
山は一つの大きなものではなかった。
無数の坂と裂け目を重ね、遠くから一つに見せているだけだった。
尾根の雪には、夜の風が細い筋を残していた。
私は町で借りた杖を先へ刺し、一歩ずつ下りる。
「遅いですか」
「遅くていい」
「本当に?」
「急いで落ちるよりましだ」
「カイがそう言うなら、そうします」
「俺が言わなくても、そうしろ」
やはり、最後に一言多い。
けれど、今日は腰へ縄を結ばれていなかった。
カイは数歩先を歩き、危ない場所だけを短く示す。
「右」
「はい」
「そこは薄い」
「はい」
「岩の横へ置け」
「分かりました」
手を引かれているわけではない。
縄で支えられているわけでもない。
それでも、私が自分の足で進めるだけの道を、カイが白の中から少しずつ拾ってくれていた。
斜面の途中で、杖の先が硬いものへ当たった。
自然の岩とは違う。
平らで、端が揃っている。
私は周りの雪を杖で払い、半分埋もれた石を見つけた。
「カイ」
「何だ」
「石があります」
カイが戻ってくる。
私の示した場所を見たあと、少し先の雪へ自分の杖を刺した。
そこにも、似た石があった。
「道の端だ」
「これが古い道ですか」
「ああ」
「私が先に見つけました」
「そうだな」
「それだけですか」
「よく見つけた」
短い言葉だった。
それでも、冷たい空気を一度深く吸い込みたくなるくらいには嬉しかった。
「少しは見えるようになりました」
「少しはな」
「増やしてはくれないんですね」
「増やすと足元を見なくなる」
「では、少しのままでいいです」
私は杖を握り直した。
古い道は、山へ真っ直ぐ向かってはいなかった。
急な斜面を避け、岩場の隙間を縫い、時には山から離れるように曲がっている。
近づくための道なのに、遠ざかっているように見える場所さえあった。
「随分、回り道をするんですね」
「歩けないところを避ければ、こうなる」
「真っ直ぐ行った方が早そうです」
「早く落ちるな」
「それは嫌です」
「なら道を使え」
昔ここを歩いた者たちも、同じように真っ直ぐ進もうとしたのだろうか。
そのたびに雪や岩へ拒まれ、歩ける場所だけを繋いだ。
古い道は、目的地までの最短ではない。
辿り着ける者を残すための形だった。
石の並びは、何度も雪の下へ消えた。
途切れるたび、カイは立ち止まる。
岩の向き。
雪の盛り上がり。
斜面を削った風の跡。
それらを見比べ、すぐには進まない。
「迷っていますか」
「探してる」
「同じでは?」
「迷ったまま進むのと、止まって探すのは違う」
カイは少し戻り、低い岩へ積もった雪を払った。
その下から、平らに削られた面が現れる。
「続きだ」
「本当に残っていましたね」
「見えなかっただけだ」
道は消えたわけではない。
ただ、雪の下へ隠れていただけだった。
先へ進むうち、手袋の上へ雪が落ちた。
すぐには溶けない。
六本の細い枝を伸ばしたもの。
先端だけ丸く膨らんだもの。
星を薄い硝子から切り出したようなもの。
どれも同じ白なのに、一つずつ形が違う。
「雪の形が違います」
「気温が低い」
「山へ近づいたからですか」
「それもある。風と、落ちてくる間の空気でも変わる」
「空からここへ着くまでに?」
「ああ」
私は手袋を傾けた。
一つの雪が風にさらわれ、形を崩さないまま斜面へ消えていく。
「もう少し見てもいいですか」
「ここは止まる場所じゃない」
「きれいなのに」
「きれいなものほど足を止めさせる」
「止まるのは悪いことですか」
「場所による」
カイは少し先の岩陰を指した。
「あそこなら止まっていい」
私は手袋を下ろした。
見るな、ではない。
見られる場所まで進め、ということらしい。
岩陰へ入ると、風が弱まった。
カイは何も言わず足を止めた。
私は手袋へ落ちてくる雪を眺めた。
同じ形は一つもなかった。
同じ空から落ちてきても、通ってきた風や冷たさが違えば、残る形も変わるらしい。
「もういいか」
「はい」
「なら行くぞ」
古い道へ戻ると、雪の中に小さな石の箱が現れた。
膝ほどの高さで、正面だけが開いている。上には厚く雪が積もり、角は風に削られて丸くなっていた。
「これは何ですか」
「祈り場だろう」
「祈り場」
中には何も置かれていない。
けれど奥の石だけが黒ずみ、薄い煤が残っていた。
カイは手袋を外さず、その上の雪を少し払う。
「昔の旅人が、山へ入る前に火を置いた」
「祈るためですか」
「それもある。後から来たやつへ、自分が先にいると知らせるためでもある」
私は石の箱を覗き込んだ。
火を灯した者の姿はない。
願った言葉も、向かった先も分からない。
ただ、ここに橙色があったという跡だけが、黒く残っている。
「今も灯しますか」
「燃料が惜しい」
「現実的ですね」
「火は生きるために使う」
「昔の者は、祈りにも使ったんですよね」
「その時は、それが生きるために必要だったんだろ」
カイは頭を下げなかった。
何かを唱えることもしない。
ただ、煤が完全に埋もれないよう、もう少し雪を払った。
祈ることと、痕跡を残すこと。
昔の旅人にとって、それは別のものではなかったのかもしれない。
私は箱の端に落ちていた平たい石を拾い、崩れた部分へ戻した。
「向きが逆だ」
「え」
カイは私の置いた石を外し、広い面を下にして積み直した。
「細い方を下にすると倒れる」
「祈り場の直し方まで知っているんですね」
「石の積み方だ」
「同じでは?」
「違う」
それ以上は言わず、カイは歩き出した。
祈ることと、崩れないように直すこと。
カイにとっては別なのだろう。
けれど私には、少しだけ似て見えた。
午後になると、道は岩壁に沿う細い場所へ入った。
右には黒い岩。
左には白い谷。
石の上へ薄い氷が張り、その表面を雪が隠している。
私は杖を手前へ刺した。
靴底の外側を石へ触れさせ、滑らない場所を探す。
それから、ゆっくり全体へ重さを移す。
足は流れなかった。
次も同じように進む。
カイは少し先で振り返ったが、何も言わなかった。
注意されない。
今はそれだけで、足の置き方が間違っていなかったと分かる。
道が曲がった先に、三方を石で囲まれた窪地があった。
山側には大きな岩が張り出し、谷から吹き上げる風を遮っている。
屋根はない。
けれど、周囲より雪が浅く、足元も硬かった。
カイは石の継ぎ目と岩の上を確かめた。
「今日はここだ」
「使えますか」
「使える」
私は風の向きを見た。
囲いの奥には硬い雪が残り、入口に近い側へ柔らかな雪が溜まっている。
「奥を残して、こちらを掘った方がいいですか」
「どうしてだ」
「奥の雪は硬いので、風除けになります。こちらは柔らかくて、風も入りにくいです」
カイは二か所へ杖を刺した。
「それでいい」
自分で選んだ場所を直されなかった。
私は短い板を取り出し、柔らかな雪を外へ出した。
硬い層は残す。
布を敷く場所だけを平らにする。
崩れかけた石には触れず、隙間へ小さな雪を詰める。
カイは反対側で石を積み直していた。
二人とも、次に何をするのかを一つずつ言わなくなっていた。
火は岩の近くへ小さく作った。
屋根がないので、煙はすぐに空へ消える。代わりに熱も逃げやすく、炎は低く保つしかなかった。
私は木片を一本だけ足した。
「入れすぎてないな」
「一晩見張られましたから」
「見張ってない」
「全部気づいていました」
「音で分かる」
「やはり見張っていたのと同じです」
カイは答えず、荷物から古い地図を取り出した。
薄い布へ山と川の線が描かれている。何度も折られた跡があり、角は擦れて色が薄くなっていた。
私は隣から覗き込む。
「今いるのは、どこですか」
「この辺りだ」
カイは地図の一点へ爪を置いた。
「さっきの祈り場は?」
「これだろう」
近くに小さな印がある。
けれど、今日歩いた道と地図の線は完全には重ならない。
崩れたのか。
雪へ隠れたのか。
描かれた頃から地形が変わったのか。
「地図が違っています」
「古いからな」
「それでも使えるんですか」
「全部を信じなければ使える」
「道しるべと同じですね」
「ああ」
カイは布の上へ指を滑らせた。
線は山の裾を回り、何度も折れ曲がりながら北へ延びている。
真っ直ぐではない。
離れ、戻り、避けながら、それでも同じ方角へ近づいていく。
「神の国は、どこですか」
「この外だ」
カイは地図の上端を指した。
その先には、何も描かれていない。
「地図の外」
「ああ」
「道もないんですか」
「あるかは、行けば分かる」
「またそれです」
「まだ行ってないからな」
私は布の白い端を見た。
山も、川も、休み場もない空白。
カイは、その何も描かれていない場所へ向かっている。
「この地図は、どこで手に入れたんですか」
カイの指が止まった。
ほんの一瞬だった。
「昔だ」
「誰かから?」
「今は関係ない」
声は普段と変わらない。
けれど、これ以上は訊くなという境だけが、布の上へ新しい線のように引かれた。
私は地図から目を離した。
雪の下には道がある。
氷の下には水がある。
古い石の奥には火の跡がある。
カイの短い言葉の下にも、私には見えないものがある。
見えないからといって、杖も使わず踏み込んではいけない。
食事を終える頃には、雲が少し切れていた。
石の囲いの上へ、細い夜空が開いている。
淡い星がいくつか見えた。
雪明かりに消されそうなほど弱い。それでも、一度見つければ見失わない光だった。
「星が見えます」
「見れば分かる」
「少しくらい一緒に見てもいいじゃないですか」
「寒い」
「夢がないですね」
「夢で温まるなら見てる」
カイは燃料の残りを数えながら答えた。
私は布へくるまり、空を見上げる。
雲が流れるたび、星は隠れ、また同じ場所へ現れた。
「消えたみたいに見えます」
「見えないだけだ」
「あるんですね」
「ああ」
当たり前の答えだった。
けれど、今日はその当たり前が少し違って聞こえた。
雪の下に道があった。
祈り場には火の跡があった。
地図の外にも、カイが目指す場所がある。
見えないものは、ないものではない。
ただ、あると信じるだけで足を置いてよいわけでもない。
止まり、探し、確かめながら近づかなければならない。
「寝ろ」
カイが言った。
「もう少しだけ」
「もう少しと言うやつは、だいたい冷える」
「星は明日もありますか」
「ある」
「見えなくても?」
「見えないだけで、ある」
私は布の中へ身体を沈めた。
風は石の外側を流れ、小さな火が消えない程度に揺れている。
雲が星を隠した。
それでも、さっきまで光っていた場所は分かった。
私はその暗い一点を見たまま、ゆっくり目を閉じた。




