↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
67/82

重ねていくものは

 夜の間、風は休むことなく小屋を叩いていた。

 眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、自分でも分からない。壊れた屋根の向こうで雪が擦れ、壁の隙間から細い冷気が入り込む。炉の火が弱るたび、私は起き上がって木片を足した。

 橙色が消えれば、この小屋まで外の白へ戻されてしまいそうだった。

 カイも、ほとんど眠っていなかった。

 目を閉じている時間はある。けれど、風が低く唸れば耳が動き、屋根から雪が滑り落ちる音がすれば、すぐに瞼が上がった。

  二つ目の木片を炉へ入れたところで、カイの目が開いた。

「入れすぎるな」

「消えそうだったので」

「消さなければいい。大きくする必要はない」

 私は炉の中を見た。

 細い炎が、木片の縁をゆっくり舐めている。勢いよく燃えている方が頼もしく見えるけれど、頼もしさで燃料が増えるわけではない。

 入れたばかりの一本を火鋏で取り出すと、炎は少し縮み、また一定の高さへ戻った。

「雪の上を歩くのと似ていますね」

「何がだ」

「強すぎても駄目で、弱すぎても駄目なところです」

「分かってるなら、そうしろ」

「褒めてはいませんよね」

「褒めるところか?」

「少しくらいは」

 カイは答えず、また目を閉じた。

 眠っていたわけではないらしい。

 風が石の角で唸るたび、耳だけが僅かに動く。崩れた屋根から雪が滑り落ちれば、瞼がすぐに上がった。

 私も横にはなったけれど、深く眠れなかった。

 炉の火が細くなるたびに起き、一本だけ木片を足した。橙色が消えれば、ここまで外の白へ呑み戻されてしまいそうだった。

 どれほど繰り返した頃だろう。

 風の音が変わった。

 壁へぶつかっていた音が遠のき、代わりに地面の上を何かが走るような低い音が続き始める。

 入口の布を少し持ち上げると、外では雪が横へ流れていた。

 空から降っているのではない。

 積もっていた雪が風に削り取られ、白い煙のように川の上を走っている。

 カイが立ち上がった。

「出るぞ」

「今からですか」

「川沿いはまずい」

 外はまだ薄暗い。

 空と雪の境も、ようやく分かる程度だった。

「風が強いから?」

「川の上に雪が溜まる。岸との境が消える」

 カイは炉へ雪を落とした。

 火が短く鳴り、黒い煙を一つ吐いて消える。

「昨日の板に書いてあった通りですね」

「ああ」

 壁際には、古い道しるべが立てかけられている。

 天候が変わる前に、川を離れろ。

 削れかけた文字は、遠い昔の警告ではなく、今まさに扉の外で起きていることを示していた。

「持っていかないんですか」

「ここに残す」

「また読めないほど削れたら?」

「その前に来るやつがいるかもしれない」

 カイは板の傾きを直し、炉の灰が完全に冷えていることを確かめた。

 私も布を畳み、器と鍋を荷物へ戻す。

 休み場を出る前に振り返ると、火の消えた奥はもう暗かった。

 私たちが夜を越した跡は、踏み固めた雪と、壁際の板だけになっていた。

 外へ出ると、白い流れが足首へまとわりついた。

 昨日までの足跡はない。

 川へ続いていた石の列も半分以上が埋まり、どこから水が始まり、どこまでが岸なのか分からなくなっている。

 カイは川と反対側の斜面を見上げた。

「上へ逃げる」

「高い場所の方が風は強いですよね」

「強い。だが、足元はまだ見える」

「どちらも嫌です」

「道が選ばせてくれるとは限らない」

 カイが縄を取り出した。

 私は言われる前に外套を開き、腰へ回す。

「結び方を教えてください」

「今か」

「今だからです」

「覚えてる間に落ちるなよ」

「縁起の悪い教え方ですね」

 カイは私の手から縄を取り、端を折り返した。

「ここで輪を作る」

「はい」

「端を下から通す。まだ引くな」

 手袋をした指でも見えるよう、いつもより遅く動かしている。

 輪の形を整え、二本の縄を別々に引くと、結び目が腰の前で固まった。

「最後に必ず引け。形が合っていても、締まってなければ使えない」

「もう一度お願いします」

「一度で覚えろ」

「さすがに無理です」

 カイは面倒そうに息を吐いた。

 それでも結び目をほどき、同じ手順をもう一度見せた。

 今度は、自分の指でも動きをなぞる。

 輪を作る。

 端を通す。

 形を整える。

 最後に引く。

「次は自分でやれ」

「次もあるんですね」

「今日中に何度かほどく」

「練習のためですか」

「邪魔になる場所では外す」

 練習させるためではないらしい。

 けれど、見える速さで二度も結び直したことについては、何も言わなかった。

 反対側をカイが自分の腰へ結び、先に斜面へ入る。

 私は町で借りた杖を雪へ刺した。

 昨日より深く入る。

 表面を流れる雪の下では、古い層と新しい層が重なり、場所によって硬さが違っていた。

 斜面は登り始めてすぐに険しくなった。

 雪の下には石があり、石と石の間には深い隙間がある。風は横から吹きつけ、帽子の端を何度も持ち上げた。

 私は片手を離しかけた。

「帽子より杖を持て」

「飛びそうです」

「帽子は拾える」

「私は?」

「拾うのが面倒だ」

「拾ってはくれるんですね」

「落ちるな」

 私は帽子を諦め、両手で杖を扱った。

 足を置く前に雪へ刺せば、深さが分かる。硬く跳ね返る場所では氷を疑い、急に深く入る場所は避ける。

 昨日まで杖は、身体を支えるための棒でしかなかった。

 今は、自分の足より先に雪へ触れ、隠れた形を教えてくれる。

 それでも、すべてを読めるわけではない。

 安全そうな場所へ踏み出すたび、腰の縄が僅かに引かれた。

 カイが止めているのではない。

 そこにいると伝える程度の重さだった。

 斜面の途中で、風が突然弱まった。

 雪の流れる音も、枝の軋みも遠ざかる。

 透明な布を一枚、周囲へ掛けられたような静けさだった。

 私は息を整えながら振り返った。

 下には、昨日歩いた川が見える。

 白い地面の中へ細い暗がりが沈み、そのそばに休み場が小さく残っていた。川沿いの道はすでに消え、岸と水の境も見えない。

 あのまま進んでいれば、何を踏んでいるのか分からなかっただろう。

「戻りたいか」

 カイが訊いた。

「いいえ」

「怖くないのか」

「怖いです。でも、戻った方が危ないです」

「そうだな」

「川のそばは、何が隠れているのか分かりませんでした。ここは風が強いけれど、少なくとも地面の形は見えます」

 カイは斜面の先へ目を向けた。

「少しは読めるようになったな」

 それだけ言い、また登り始める。

 少し。

 大きな言葉ではない。

 それでも、今まで何度も雪へ足を取られた分だけ、胸の奥へ長く残った。

 高くなるほど木は減り、黒い岩が増えていった。

 岩の表面には薄い氷が張り、風に磨かれた場所だけが鈍く光っている。

 カイは風の正面へ出ず、岩陰から次の岩陰へ渡るように進んだ。

 細い道を糸で繋いでいくような歩き方だった。

 やがて、雪の中から腰ほどの石積みが現れた。

 石は円を描くように並び、その奥に一本の柱が立っている。柱の上には浅い窪みがあり、雪が白い皿のように溜まっていた。

「これは何ですか」

「昔の目印だろう」

「それだけですか」

 私は柱へ近づいた。

 窪みの縁だけが黒ずんでいる。雪を少し払うと、その下から古い煤が現れた。

「火を置いた跡があります」

「夜に道を知らせたのかもしれない」

「祈る場所では?」

「そうだったかもしれない」

 カイは否定しなかった。

「分からないんですね」

「見てないものは分からない」

「でも、火があったことは分かります」

「ああ」

 誰かがここまで石を運び、柱を立て、窪みへ火を置いた。

 何を願ったのかは残っていない。

 ただ、火を置ける形と、煤だけが雪の下へ残っている。

 願いは消えても、誰かが立ち止まった跡までは消えないらしい。

「行くぞ」

「はい」

 私は柱の雪を元へ戻さず、黒い煤が少し見えるようにしておいた。

 後から来る誰かが、ただの石ではないと気づくかもしれない。

 斜面を登りきると、細い尾根へ出た。

 右には緩やかな雪面。

 左には、岩と雪が段々に落ちていく白い谷。

 風は強い。

 その代わり、雲の切れ間から遠くまで見渡せた。

 正面に、大きな山が立っていた。

 白い斜面がいくつも重なり、その奥から黒い岩肌が覗いている。頂は雲に呑まれ、どこまで続いているのか分からない。

 空へ突き立てられ、そのまま抜けなくなった巨大な刃のようだった。

「あれが北ですか」

「北の方だ」

「神の国は、あの山に?」

「向こうだ」

「さらに向こう……」

 山だけでも遠い。

 町も、森も、湖も、川沿いの休み場も後ろへ置いてきた。それでも目的地は、雲へ隠れた山の向こうにある。

「遠いですね」

「近ければ、もっと人が行く」

「誰でも行ける場所ではないんですね」

「行こうとするやつが少ないだけだ」

「カイは、その少ない方なんですね」

「そうだな」

 カイは山を見ていた。

 憧れているようには見えない。

 恐れているようにも見えない。

 もっと古く、固いものが、金色の奥へ沈んでいた。

 言葉にすれば、風に削られて形を失いそうなものだった。

 尾根を進むと、足元が見える代わりに、風が身体ごと谷へ押し始めた。

 カイは開けた場所へ出る前に必ず止まり、私が追いつくと短く指示を出す。

「姿勢を低く」

「はい」

「岩の陰を通れ」

「はい」

「風が止まってから動くな。弱くなった時に動け」

「止まるのを待たないんですか」

「ここでは止まらない」

 風にも、それぞれ違いがある。

 完全に消えるもの。

 弱くなるだけのもの。

 待てば変わるもの。

 待っても変わらないもの。

 それを知らずに都合のよい瞬間を待っていれば、立ったまま身体が冷えていく。

 杖を雪へ深く刺し、膝を曲げる。

 風が少し緩んだ時にだけ、一歩を出す。

 歩いているというより、見えない川の流れを横切っているようだった。

 尾根道は途中で裂けていた。

 雪の下へ細い溝が走り、向こう側までは一歩では届かない。底には雪が詰まっているけれど、どれほど深いのか分からなかった。

「飛びますか」

「飛ばない」

「よかったです」

「お前はな」

「カイは飛ぶんですか」

「俺も飛ばない」

 カイは少し戻り、岩の間へ凍りついていた長い板を引き出した。

 昔の道に使われていたものだろう。片側が欠け、表面には薄い氷が張っている。

 雪から剥がし、溝の上へ渡す。

「折れませんか」

「端は傷んでる。真ん中を踏むな」

「どこを踏めば?」

「縁だ」

「細い方を?」

「板は縁の方が残ってる」

 見た目では、真ん中の方が広くて安全そうだった。

 けれど、板の裏には細かな割れ目が走り、中央だけが薄く沈んでいる。

 広いから丈夫とは限らない。

 また一つ、見た目と中身が違うものが増えた。

 カイは自分の腰から縄を外し、私の側だけを手に取った。

「先に行け」

「私が?」

「軽い方からだ」

「落ちたら」

「引く」

「信じますよ」

「言わなくていい。行け」

 板へ右足を乗せる。

 ぎし、と小さな音がした。

 すぐに戻りたくなる。

 けれど、腰の縄はカイが握っている。

 杖を向こう側へ刺し、板の縁へ左足を置いた。

 一歩。

 もう一歩。

 風が横から吹く。

 身体が揺れ、板が僅かに軋んだ。

「止まるな」

「でも」

「板の上で迷うな。渡ると決めたなら、次の足だけ見ろ」

 溝の深さを見ない。

 板の割れ目も見ない。

 風が押す先も見ない。

 次に靴を置く場所だけを見る。

 最後の一歩で向こう側へ足を下ろした。

 雪は深く沈んだ。

 けれど、その下には硬い地面があった。

「渡れました」

「岩陰まで行け」

 板から離れ、言われた場所へ移る。

 カイは後から渡ってきた。

 私より重いはずなのに、板はほとんど鳴らなかった。足を置く位置も、重さを移す速さも違うのだろう。

 渡り終えると、カイは板を放置しなかった。

 溝の両側へしっかり掛かるよう位置を直し、端へ雪を寄せて動かないよう固める。

「後から誰かが来るんですか」

「来るかもしれない」

「そのために?」

「危ない置き方を残せば、次のやつが落ちる」

「誰が来るかも分からないのに」

「分かる必要があるか?」

 カイは、誰かが残したものを使う。

 そして自分が使った後も、次の誰かが使える形へ戻す。

「カイは、通った後のことまで見るんですね」

「次に自分が通るかもしれない」

「別の者かもしれません」

「同じだ」

 自分でも、顔も知らない者でも、同じ。

 短い言葉だった。

 けれど、尾根を渡る風より遠くへ続いているように聞こえた。

 尾根道は、光が傾くまで続いた。

 途中から私は、言われる前に杖を刺した。風の流れを見て岩陰を選び、開けた場所では姿勢を低くする。

 上手にできているかは分からない。

 ただ一度、カイが何も言わず先へ進んだ。

 注意されないことが、今は一番分かりやすい評価だった。

 やがて尾根の先に、岩で囲まれた窪地が現れた。

 屋根も、木もない。

 けれど、風は周囲より弱く、雪を削れば二人が横になれる広さがある。

 カイは荷物を下ろした。

「今日はここだ」

「外ですね」

「見れば分かる」

「寒いですよね」

「それも分かるだろ」

「分かりたくありませんでした」

「掘れ」

 短い板を受け取り、風下の雪を削る。

 今度は、何をすればよいのか訊かなくても分かった。

 硬い層は残して風除けにする。

 柔らかな雪だけを外へ出す。

 寝る場所を深くしすぎず、風が流れ込む隙間を作らない。

「そこは残せ」

「こちらから風が来るので」

「ああ」

「こっちは掘っていいですか」

「いい」

 言葉はそれだけだった。

 けれど、私の手は止まらなかった。

 二人で雪を削り、布を低く張る。

 火は持ってきた燃料で小さく作った。食事は湯で柔らかくした麦パンと、少しの豆だけだった。

 豪華ではない。

 けれど、風の外側へ橙色が一つあるだけで、冷えた指は少しずつ動きを取り戻した。

「今日は、役に立ちましたか」

 器を両手で包みながら訊いた。

 カイは山の方を見たまま答えた。

「少しはな」

「また少し」

「十分だろ」

「カイが言うと、大きく聞こえません」

「大きく言ってない」

「知っています」

 私は湯気の向こうで笑った。

 空には雲が残っている。

 それでも切れ間から淡い光が覗き、遠い山の輪郭だけを白く縁取っていた。

 北はまだ遠い。

 けれど、昨日よりは近い。

 そして私の足も、ただカイの跡へ重ねるだけではなくなっていた。

 杖で雪を確かめる。

 風の弱まる瞬間を選ぶ。

 危険だと思えば止まる。

 分からなければ訊く。

 できることは、まだ少ない。

 それでも、何もできないまま白い世界へ落ちた時とは違う。

 火の向こうで、カイが燃料の残りを数えていた。

 私はその手元を見ながら、腰へ結ばれた縄の形をもう一度思い出す。

 次に結ぶ時は、自分の手でやる。

 風除けの外で雪が細く鳴り、遠い山は夜の中へ少しずつ沈んでいった。


同時に2話続けて投稿します。

次は18:00です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。