重ねていくものは
夜の間、風は休むことなく小屋を叩いていた。
眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、自分でも分からない。壊れた屋根の向こうで雪が擦れ、壁の隙間から細い冷気が入り込む。炉の火が弱るたび、私は起き上がって木片を足した。
橙色が消えれば、この小屋まで外の白へ戻されてしまいそうだった。
カイも、ほとんど眠っていなかった。
目を閉じている時間はある。けれど、風が低く唸れば耳が動き、屋根から雪が滑り落ちる音がすれば、すぐに瞼が上がった。
二つ目の木片を炉へ入れたところで、カイの目が開いた。
「入れすぎるな」
「消えそうだったので」
「消さなければいい。大きくする必要はない」
私は炉の中を見た。
細い炎が、木片の縁をゆっくり舐めている。勢いよく燃えている方が頼もしく見えるけれど、頼もしさで燃料が増えるわけではない。
入れたばかりの一本を火鋏で取り出すと、炎は少し縮み、また一定の高さへ戻った。
「雪の上を歩くのと似ていますね」
「何がだ」
「強すぎても駄目で、弱すぎても駄目なところです」
「分かってるなら、そうしろ」
「褒めてはいませんよね」
「褒めるところか?」
「少しくらいは」
カイは答えず、また目を閉じた。
眠っていたわけではないらしい。
風が石の角で唸るたび、耳だけが僅かに動く。崩れた屋根から雪が滑り落ちれば、瞼がすぐに上がった。
私も横にはなったけれど、深く眠れなかった。
炉の火が細くなるたびに起き、一本だけ木片を足した。橙色が消えれば、ここまで外の白へ呑み戻されてしまいそうだった。
どれほど繰り返した頃だろう。
風の音が変わった。
壁へぶつかっていた音が遠のき、代わりに地面の上を何かが走るような低い音が続き始める。
入口の布を少し持ち上げると、外では雪が横へ流れていた。
空から降っているのではない。
積もっていた雪が風に削り取られ、白い煙のように川の上を走っている。
カイが立ち上がった。
「出るぞ」
「今からですか」
「川沿いはまずい」
外はまだ薄暗い。
空と雪の境も、ようやく分かる程度だった。
「風が強いから?」
「川の上に雪が溜まる。岸との境が消える」
カイは炉へ雪を落とした。
火が短く鳴り、黒い煙を一つ吐いて消える。
「昨日の板に書いてあった通りですね」
「ああ」
壁際には、古い道しるべが立てかけられている。
天候が変わる前に、川を離れろ。
削れかけた文字は、遠い昔の警告ではなく、今まさに扉の外で起きていることを示していた。
「持っていかないんですか」
「ここに残す」
「また読めないほど削れたら?」
「その前に来るやつがいるかもしれない」
カイは板の傾きを直し、炉の灰が完全に冷えていることを確かめた。
私も布を畳み、器と鍋を荷物へ戻す。
休み場を出る前に振り返ると、火の消えた奥はもう暗かった。
私たちが夜を越した跡は、踏み固めた雪と、壁際の板だけになっていた。
外へ出ると、白い流れが足首へまとわりついた。
昨日までの足跡はない。
川へ続いていた石の列も半分以上が埋まり、どこから水が始まり、どこまでが岸なのか分からなくなっている。
カイは川と反対側の斜面を見上げた。
「上へ逃げる」
「高い場所の方が風は強いですよね」
「強い。だが、足元はまだ見える」
「どちらも嫌です」
「道が選ばせてくれるとは限らない」
カイが縄を取り出した。
私は言われる前に外套を開き、腰へ回す。
「結び方を教えてください」
「今か」
「今だからです」
「覚えてる間に落ちるなよ」
「縁起の悪い教え方ですね」
カイは私の手から縄を取り、端を折り返した。
「ここで輪を作る」
「はい」
「端を下から通す。まだ引くな」
手袋をした指でも見えるよう、いつもより遅く動かしている。
輪の形を整え、二本の縄を別々に引くと、結び目が腰の前で固まった。
「最後に必ず引け。形が合っていても、締まってなければ使えない」
「もう一度お願いします」
「一度で覚えろ」
「さすがに無理です」
カイは面倒そうに息を吐いた。
それでも結び目をほどき、同じ手順をもう一度見せた。
今度は、自分の指でも動きをなぞる。
輪を作る。
端を通す。
形を整える。
最後に引く。
「次は自分でやれ」
「次もあるんですね」
「今日中に何度かほどく」
「練習のためですか」
「邪魔になる場所では外す」
練習させるためではないらしい。
けれど、見える速さで二度も結び直したことについては、何も言わなかった。
反対側をカイが自分の腰へ結び、先に斜面へ入る。
私は町で借りた杖を雪へ刺した。
昨日より深く入る。
表面を流れる雪の下では、古い層と新しい層が重なり、場所によって硬さが違っていた。
斜面は登り始めてすぐに険しくなった。
雪の下には石があり、石と石の間には深い隙間がある。風は横から吹きつけ、帽子の端を何度も持ち上げた。
私は片手を離しかけた。
「帽子より杖を持て」
「飛びそうです」
「帽子は拾える」
「私は?」
「拾うのが面倒だ」
「拾ってはくれるんですね」
「落ちるな」
私は帽子を諦め、両手で杖を扱った。
足を置く前に雪へ刺せば、深さが分かる。硬く跳ね返る場所では氷を疑い、急に深く入る場所は避ける。
昨日まで杖は、身体を支えるための棒でしかなかった。
今は、自分の足より先に雪へ触れ、隠れた形を教えてくれる。
それでも、すべてを読めるわけではない。
安全そうな場所へ踏み出すたび、腰の縄が僅かに引かれた。
カイが止めているのではない。
そこにいると伝える程度の重さだった。
斜面の途中で、風が突然弱まった。
雪の流れる音も、枝の軋みも遠ざかる。
透明な布を一枚、周囲へ掛けられたような静けさだった。
私は息を整えながら振り返った。
下には、昨日歩いた川が見える。
白い地面の中へ細い暗がりが沈み、そのそばに休み場が小さく残っていた。川沿いの道はすでに消え、岸と水の境も見えない。
あのまま進んでいれば、何を踏んでいるのか分からなかっただろう。
「戻りたいか」
カイが訊いた。
「いいえ」
「怖くないのか」
「怖いです。でも、戻った方が危ないです」
「そうだな」
「川のそばは、何が隠れているのか分かりませんでした。ここは風が強いけれど、少なくとも地面の形は見えます」
カイは斜面の先へ目を向けた。
「少しは読めるようになったな」
それだけ言い、また登り始める。
少し。
大きな言葉ではない。
それでも、今まで何度も雪へ足を取られた分だけ、胸の奥へ長く残った。
高くなるほど木は減り、黒い岩が増えていった。
岩の表面には薄い氷が張り、風に磨かれた場所だけが鈍く光っている。
カイは風の正面へ出ず、岩陰から次の岩陰へ渡るように進んだ。
細い道を糸で繋いでいくような歩き方だった。
やがて、雪の中から腰ほどの石積みが現れた。
石は円を描くように並び、その奥に一本の柱が立っている。柱の上には浅い窪みがあり、雪が白い皿のように溜まっていた。
「これは何ですか」
「昔の目印だろう」
「それだけですか」
私は柱へ近づいた。
窪みの縁だけが黒ずんでいる。雪を少し払うと、その下から古い煤が現れた。
「火を置いた跡があります」
「夜に道を知らせたのかもしれない」
「祈る場所では?」
「そうだったかもしれない」
カイは否定しなかった。
「分からないんですね」
「見てないものは分からない」
「でも、火があったことは分かります」
「ああ」
誰かがここまで石を運び、柱を立て、窪みへ火を置いた。
何を願ったのかは残っていない。
ただ、火を置ける形と、煤だけが雪の下へ残っている。
願いは消えても、誰かが立ち止まった跡までは消えないらしい。
「行くぞ」
「はい」
私は柱の雪を元へ戻さず、黒い煤が少し見えるようにしておいた。
後から来る誰かが、ただの石ではないと気づくかもしれない。
斜面を登りきると、細い尾根へ出た。
右には緩やかな雪面。
左には、岩と雪が段々に落ちていく白い谷。
風は強い。
その代わり、雲の切れ間から遠くまで見渡せた。
正面に、大きな山が立っていた。
白い斜面がいくつも重なり、その奥から黒い岩肌が覗いている。頂は雲に呑まれ、どこまで続いているのか分からない。
空へ突き立てられ、そのまま抜けなくなった巨大な刃のようだった。
「あれが北ですか」
「北の方だ」
「神の国は、あの山に?」
「向こうだ」
「さらに向こう……」
山だけでも遠い。
町も、森も、湖も、川沿いの休み場も後ろへ置いてきた。それでも目的地は、雲へ隠れた山の向こうにある。
「遠いですね」
「近ければ、もっと人が行く」
「誰でも行ける場所ではないんですね」
「行こうとするやつが少ないだけだ」
「カイは、その少ない方なんですね」
「そうだな」
カイは山を見ていた。
憧れているようには見えない。
恐れているようにも見えない。
もっと古く、固いものが、金色の奥へ沈んでいた。
言葉にすれば、風に削られて形を失いそうなものだった。
尾根を進むと、足元が見える代わりに、風が身体ごと谷へ押し始めた。
カイは開けた場所へ出る前に必ず止まり、私が追いつくと短く指示を出す。
「姿勢を低く」
「はい」
「岩の陰を通れ」
「はい」
「風が止まってから動くな。弱くなった時に動け」
「止まるのを待たないんですか」
「ここでは止まらない」
風にも、それぞれ違いがある。
完全に消えるもの。
弱くなるだけのもの。
待てば変わるもの。
待っても変わらないもの。
それを知らずに都合のよい瞬間を待っていれば、立ったまま身体が冷えていく。
杖を雪へ深く刺し、膝を曲げる。
風が少し緩んだ時にだけ、一歩を出す。
歩いているというより、見えない川の流れを横切っているようだった。
尾根道は途中で裂けていた。
雪の下へ細い溝が走り、向こう側までは一歩では届かない。底には雪が詰まっているけれど、どれほど深いのか分からなかった。
「飛びますか」
「飛ばない」
「よかったです」
「お前はな」
「カイは飛ぶんですか」
「俺も飛ばない」
カイは少し戻り、岩の間へ凍りついていた長い板を引き出した。
昔の道に使われていたものだろう。片側が欠け、表面には薄い氷が張っている。
雪から剥がし、溝の上へ渡す。
「折れませんか」
「端は傷んでる。真ん中を踏むな」
「どこを踏めば?」
「縁だ」
「細い方を?」
「板は縁の方が残ってる」
見た目では、真ん中の方が広くて安全そうだった。
けれど、板の裏には細かな割れ目が走り、中央だけが薄く沈んでいる。
広いから丈夫とは限らない。
また一つ、見た目と中身が違うものが増えた。
カイは自分の腰から縄を外し、私の側だけを手に取った。
「先に行け」
「私が?」
「軽い方からだ」
「落ちたら」
「引く」
「信じますよ」
「言わなくていい。行け」
板へ右足を乗せる。
ぎし、と小さな音がした。
すぐに戻りたくなる。
けれど、腰の縄はカイが握っている。
杖を向こう側へ刺し、板の縁へ左足を置いた。
一歩。
もう一歩。
風が横から吹く。
身体が揺れ、板が僅かに軋んだ。
「止まるな」
「でも」
「板の上で迷うな。渡ると決めたなら、次の足だけ見ろ」
溝の深さを見ない。
板の割れ目も見ない。
風が押す先も見ない。
次に靴を置く場所だけを見る。
最後の一歩で向こう側へ足を下ろした。
雪は深く沈んだ。
けれど、その下には硬い地面があった。
「渡れました」
「岩陰まで行け」
板から離れ、言われた場所へ移る。
カイは後から渡ってきた。
私より重いはずなのに、板はほとんど鳴らなかった。足を置く位置も、重さを移す速さも違うのだろう。
渡り終えると、カイは板を放置しなかった。
溝の両側へしっかり掛かるよう位置を直し、端へ雪を寄せて動かないよう固める。
「後から誰かが来るんですか」
「来るかもしれない」
「そのために?」
「危ない置き方を残せば、次のやつが落ちる」
「誰が来るかも分からないのに」
「分かる必要があるか?」
カイは、誰かが残したものを使う。
そして自分が使った後も、次の誰かが使える形へ戻す。
「カイは、通った後のことまで見るんですね」
「次に自分が通るかもしれない」
「別の者かもしれません」
「同じだ」
自分でも、顔も知らない者でも、同じ。
短い言葉だった。
けれど、尾根を渡る風より遠くへ続いているように聞こえた。
尾根道は、光が傾くまで続いた。
途中から私は、言われる前に杖を刺した。風の流れを見て岩陰を選び、開けた場所では姿勢を低くする。
上手にできているかは分からない。
ただ一度、カイが何も言わず先へ進んだ。
注意されないことが、今は一番分かりやすい評価だった。
やがて尾根の先に、岩で囲まれた窪地が現れた。
屋根も、木もない。
けれど、風は周囲より弱く、雪を削れば二人が横になれる広さがある。
カイは荷物を下ろした。
「今日はここだ」
「外ですね」
「見れば分かる」
「寒いですよね」
「それも分かるだろ」
「分かりたくありませんでした」
「掘れ」
短い板を受け取り、風下の雪を削る。
今度は、何をすればよいのか訊かなくても分かった。
硬い層は残して風除けにする。
柔らかな雪だけを外へ出す。
寝る場所を深くしすぎず、風が流れ込む隙間を作らない。
「そこは残せ」
「こちらから風が来るので」
「ああ」
「こっちは掘っていいですか」
「いい」
言葉はそれだけだった。
けれど、私の手は止まらなかった。
二人で雪を削り、布を低く張る。
火は持ってきた燃料で小さく作った。食事は湯で柔らかくした麦パンと、少しの豆だけだった。
豪華ではない。
けれど、風の外側へ橙色が一つあるだけで、冷えた指は少しずつ動きを取り戻した。
「今日は、役に立ちましたか」
器を両手で包みながら訊いた。
カイは山の方を見たまま答えた。
「少しはな」
「また少し」
「十分だろ」
「カイが言うと、大きく聞こえません」
「大きく言ってない」
「知っています」
私は湯気の向こうで笑った。
空には雲が残っている。
それでも切れ間から淡い光が覗き、遠い山の輪郭だけを白く縁取っていた。
北はまだ遠い。
けれど、昨日よりは近い。
そして私の足も、ただカイの跡へ重ねるだけではなくなっていた。
杖で雪を確かめる。
風の弱まる瞬間を選ぶ。
危険だと思えば止まる。
分からなければ訊く。
できることは、まだ少ない。
それでも、何もできないまま白い世界へ落ちた時とは違う。
火の向こうで、カイが燃料の残りを数えていた。
私はその手元を見ながら、腰へ結ばれた縄の形をもう一度思い出す。
次に結ぶ時は、自分の手でやる。
風除けの外で雪が細く鳴り、遠い山は夜の中へ少しずつ沈んでいった。
同時に2話続けて投稿します。
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