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やめる理由、行く理由

 丘を下り始めると、風の向きが変わった。

 背中を押していた風が、今度は横から頬を叩いてくる。細かな雪が針のように当たり、私はマフラーを鼻の近くまで引き上げた。

 上りより下りの方が楽だと思っていたけれど、それは雪を知らない者の勝手な期待だった。

 足を置いた先から雪が滑る。

 身体が思ったより早く斜面へ運ばれ、踏みとどまろうと膝へ力を入れれば、今度は脚が固まり、板のようになったまま持っていかれそうになる。

「力を入れすぎるな」

 前を歩くカイが言った。

「入れないと滑ります」

「入れすぎても滑る」

「では、どのくらいですか」

「転ばないくらいだ」

「一番知りたいところが抜けています」

「歩けば分かる」

 教える気があるのか、雪へ任せる気なのか分からない。

 それでも、腰を繋ぐ縄は丘を上った時より少し緩んでいた。私が滑っても急に引かれないよう、カイが歩幅を細かく変えているらしい。

 私が止まれば、縄も止まる。

 一歩を出せば、少し先で黒い外套が動く。

 本人に言えば、風のせいだと答えそうだった。

 だから何も言わず、その僅かな重さに助けられた。

 斜面には、平たい石がところどころ顔を出していた。

 昔は道だったのだろう。石は半分ほど雪へ埋まり、縁には透き通った氷が張っている。踏めば硬い音が返り、その隣へ足を落とせば、今度は深く沈んだ。

 硬い場所も危ない。

 柔らかな場所も危ない。

 雪はどちらを選んでも、別の文句を用意しているらしい。

「石の上を歩いた方がいいですか」

「凍ってなければな」

「凍っていたら」

「滑る」

「雪の上は」

「沈む」

「結局、どちらも危ないじゃないですか」

「だから見ろと言ってる」

 やはり、そこへ戻る。

 私は息を吐き、足元を見た。

 風に削られた場所。

 新しく積もった場所。

 昨日なら同じ景色にしか見えなかったものが、今日は少しずつ違う顔を見せている。

 見分けられたからといって、上手に歩けるわけではない。

 それでも、何も読まずに足を出すよりはましだった。

 斜面の途中で、右足が石の縁を滑った。

 身体が横へ流れる。

 私は咄嗟に杖を斜面へ突き、膝を曲げた。

 靴底が雪を削り、少し下で止まる。

 縄は張らなかった。

「今のは」

 私が顔を上げると、カイは立ち止まっていた。

「悪くない」

「悪くない、ですか」

「転ばなかった」

「もう少し褒めても」

「次に転ぶ」

「言わなければよかったです」

 カイは前を向いた。

 けれど、私は少しだけ杖を握りやすくなった。

 丘を下りきる頃には、手袋の中の指が冷えていた。

 何度か握り、開く。

 痛みはない。

 けれど、温かいとも言えない。

 カイは一度だけこちらを見た。

「指」

「動きます」

「動かなくなる前に言え」

「はい」

「我慢しても温まらない」

「分かっています」

「本当か」

「今のところは」

「今のところ、か」

 疑うような声だった。

 けれど、私が指を動かしているのを確かめると、それ以上は言わなかった。

 丘の下には、細い川があった。

 水面はほとんど見えない。

 雪と氷に覆われ、その下で黒い流れが細く光っている。完全に凍った場所もあれば、氷の端が裂け、水が僅かに覗いている場所もあった。

 耳を澄ますと、雪の下で水が石へ当たる低い音が聞こえる。

「この川に沿って進む」

 カイが言った。

「川の近くは危なくないんですか」

「危ない」

「ですよね」

「だが、道を失いにくい」

「危なくても、分かりやすい方を行くんですね」

「迷って凍えるよりいい」

 私は川を見た。

 昨日の湖は、泡まで閉じ込めて黙っていた。

 この川は、白い蓋を載せられても、その下で流れ続けている。姿を隠しながら、冬の言うことだけは聞かずに進んでいた。

 川沿いには、道らしいものが残っていた。

 等しい間隔で置かれた石。

 雪から頭だけを出した低い柱。

 傾いたまま凍りついた木の柵。

 昔は荷を運ぶ者が行き来したのかもしれない。

 今では川の音だけが、道の続く方角を教えていた。

 私は何度か立ち止まり、雪へ埋もれた石を確かめた。

「これは道の印ですか」

「たぶんな」

「湖にあった印とは違いますか」

「同じだ。残ってるから正しいとは限らない」

「では、使わないんですか」

「使えるところだけ使う」

 カイは柱の傾きと川の曲がりを見比べ、進む向きを僅かに変えた。

 信じるか、捨てるか。

 その二つだけではないらしい。

 残されたものを見ながら、今の雪と合わせて選び直す。

 誰かの歩いた跡は答えではなく、考えるための材料として道端に残っていた。

 しばらく進むと、遠くに低い屋根が見えた。

 雪と岩の間から、黒い角だけが突き出している。

「あれですか」

「たぶんな」

「今度は立っています」

「近づくまで分からない」

 カイの言う通りだった。

 石造りの建物は、立っているというより、まだ倒れきっていないだけに見えた。

 壁の大半は残っている。けれど、屋根の片側が雪の重みで沈み、内側へ崩れていた。扉も蝶番から半分外れ、隙間から吹き込んだ雪が床へ斜めに積もっている。

「使えますか」

「使える場所だけ使う」

 カイは荷物を下ろし、建物の周囲を一度回った。

 壁を叩き、沈んだ屋根を見上げ、川との距離を確かめる。

 私は縄を外してもらい、屋根から離れた場所で待った。

 手伝いたい。

 けれど、何も確かめず近づけば、またカイの仕事を増やすだけになる。

「何かできますか」

「入口の雪をどけろ」

「屋根の下には入りません」

「ああ。上から崩すな。端からだ」

「分かりました」

 短い板を受け取り、扉の前へ積もった雪を削った。

 柔らかな表面を払い、その下の硬い層へ板の先を差し込む。

 一度に割ろうとせず、薄く剥がす。

 前に教わった通りに動かすと、雪は大きな塊のまま抵抗せず、手の中で少しずつ形を失っていった。

 もちろん、カイほど速くはない。

 それでも、言われるたびに直されていた時よりは進めた。

「そこは残せ」

 建物の反対側を見ていたカイが言った。

「風除けですか」

「そうだ」

 私は削りかけていた雪を押し固め、扉の横へ低く残した。

 カイは一度見ただけで、直さなかった。

 入口が通れるようになると、カイが先に中へ入った。

 沈んだ屋根の下へ棒を差し込み、床を踏み、崩れた木材を端へ寄せる。

「奥だけ使う」

「全部落ちてくることは?」

「今のところはない」

「今のところ」

「嫌なら外で寝ろ」

「奥を使います」

 建物の中は、雪に半分食べられていた。

 片側の床には折れた梁が横たわり、その上へ細かな雪が積もっている。反対側には屋根が残り、壁際へ古い炉と木箱が寄せられていた。

 冷えた石と、濡れた木の匂いがする。

 長い間、誰にも使われず、それでも完全には崩れずにいた場所の匂いだった。

 私は床を杖で確かめながら、使える側へ布と荷物を運んだ。

 炉の近くへ木箱を動かそうとすると、その裏から細長い板が落ちた。

 黒ずんだ表面に、浅い文字が刻まれている。

 私は拾う前にカイを呼んだ。

「これは触っても大丈夫ですか」

 カイが近づき、板を見下ろした。

「取れ」

「何か書いてあります」

 雪と埃を払い、火の入っていない炉の近くへ運ぶ。

 文字はところどころ削れ、私には傷と区別がつかなかった。

「読めますか」

 カイは板を傾け、残った線を目で追った。

「天候が変わる前に、川を離れろ」

 私は入口の向こうを見た。

 白い川は、何も変わっていないように流れている。

「さっきまで川沿いを歩いていましたよね」

「まだ変わってない」

「何が変わるんですか」

「風だ。川沿いは雪が溜まりやすい。増水すれば氷も割れる」

「そうなる前に、丘へ上がる」

「ああ」

 カイは板を炉の脇へ立てかけた。

「燃やさないんですか」

「道しるべは燃やさない」

「古くても?」

「古いから燃やしていいとは限らない」

「今の道と違っていても?」

「使えないことと、要らないことは別だ」

 湖の上で揺れていた、色の抜けた布を思い出した。

 昔は正しかった印。

 今は従えない印。

 それでも、そこまで歩いた者がいたことまで間違いになるわけではない。

 カイは残された道をそのまま信じない。

 けれど、残した者を笑うこともしなかった。

 入口の外で、風の音が変わった。

 さっきまで川に沿って流れていた音が、建物の角へぶつかり、低く唸り始める。

 カイはすぐに外へ出た。

 私も扉の近くまで行き、屋根の下から空を見る。

 雪の粒が、先ほどより横へ長く流れていた。

「変わりましたか」

「ああ」

「川を離れますか」

「今日はここで止まる」

「まだ進めそうです」

「進めるうちに止まる」

 その言葉には覚えがあった。

 限界まで歩くのではなく、まだ動ける間に休む。

 危険が見えてから逃げるのではなく、見える前に場所を選ぶ。

 カイは入口の外へ目印になる石を二つ置き、扉の隙間へ布を挟んだ。

 私は指示を待たず、炉の灰を掻き出した。

 底へ残っていた煤を払い、乾いた木の皮と細い枝を並べる。

 火打ち石はカイが使った。

 けれど、移った小さな火を消さずに育てることは、今度は私がやった。

 息を吹きかけすぎない。

 木片を急に重ねない。

 橙色が枝の内側へ移るまで待つ。

 火が一本の形を持つと、カイが横から見た。

「悪くない」

「今日、二回目です」

「数えてるのか」

「少ないので」

「増やす気はない」

「では、大事にします」

 火は低く、静かに燃えた。

 雪へ食べられていた建物の奥が、少しずつ夜を越す場所へ戻っていく。

 崩れた屋根も、外れた扉もそのままだった。

 それでも、橙色の光が石へ触れるだけで、ここに留まってよいと許されたように見えた。

 食事は、湯へ麦パンを入れ、豆と根菜を加えただけのものだった。

 鍋から上がる湯気が、崩れた屋根の近くで揺れている。

 私は器を両手で持ち、指先を温めた。

「この場所を使った者も、同じ川を歩いたんでしょうか」

「たぶんな」

「北へ向かったんですか」

「南へ戻る途中かもしれない」

「戻る途中」

「道は片方にだけ続いてるわけじゃない」

 私は炉の脇に立てられた板を見た。

 川を離れろと刻んだ者は、北へ向かう誰かへ残したのか。

 南へ帰る誰かへ残したのか。

 あるいは、自分がもう一度通るためだったのか。

「その者は、戻れたと思いますか」

「見てないものは分からない」

「考えもしませんか」

「考えることはある」

 カイは器の中へ視線を落とした。

「だが、考えたことを事実にはしない」

 冷たい言い方ではなかった。

 分からないものを、都合のよい形へ変えないための言葉だった。

「カイは、北へ行くのをやめようと思ったことがありますか」

 訊くと、カイの手が止まった。

 外では風が石の角を擦り、細い笛のような音を立てている。

「ある」

 思っていたより早い返事だった。

「あるんですか」

「何度もな」

「それでも行くんですね」

「ああ」

「どうしてですか」

 カイは火を見た。

 金色の瞳へ橙色が映り、その奥だけが夜のように暗い。

「やめる理由より、行く理由が残った」

 それ以上は言わなかった。

 私は器を抱えたまま、板の文字を見た。

 天候が変わる前に、川を離れろ。

 危険なら道を変える。

 違うと思えば戻る。

 それでも、目指す場所まで捨てるわけではない。

 カイが北へ向かう理由は、まだ私には見えなかった。

 けれど、見えないものほど簡単には消えないのかもしれない。

 白い川の下で、水が止まらず流れているように。

 外の風が強くなる。

 崩れた屋根の隙間から入り込んだ雪が、火へ届く前に溶け、石の上へ小さな跡を残した。

 私は木片を一本だけ足した。

 炎が僅かに持ち上がり、炉の脇の板を照らす。

 削れかけた文字は、遠い旅人がここへ置いていった声のように、夜の中へ残っていた。


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