↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/82

うすらいの一筋

 森を抜けるまで、縄は何度も張った。

 私が足を止めれば、腰の辺りへ僅かな重さが返ってくる。急ぎすぎれば短く引かれ、雪へ深く沈めば、前を行くカイの歩みも止まった。

 助けられているのは分かる。

 けれど、縄に引かれるたび、自分だけが雪に躾けられているようで少し悔しかった。

「もう少し信用してくれてもいいと思います」

「さっき川へ落ちかけたやつが言うことじゃない」

「落ちてはいません」

「俺が引いたからだ」

「では、助けてくれたことには感謝します」

「礼より足元を見ろ」

 カイは振り返らない。

 それでも、私が杖を刺すまで次の一歩を出さなかった。

 森は進むほど白くなった。

 低い枝が雪の重みで垂れ下がり、通れる隙間を狭くしている。頭上から雪が落ちるたび、帽子や肩へ冷たさが入り込んだ。

 カイはほとんど気にしない。

「冷たくないんですか」

「冷たい」

「平気そうです」

「騒いでも温かくならない」

「少しくらい驚いてもいいと思います」

「雪に?」

「雪に」

「毎回驚いてたら北へ行けない」

 もっともだった。

 けれど、帽子の中へ入った雪は、北へ行くかどうかに関係なく冷たい。

 私は首を縮め、また杖を刺した。

 硬く締まった雪は、表面が僅かに青い。

 新しく積もった雪は、光を柔らかく返す。

 下に隙間がある場所は、周囲よりほんの少し沈み、影の縁が曖昧になる。

 言われて見れば違う。

 けれど、見つけた違いが次の場所でも同じとは限らなかった。

 白い地面は、覚えた端から別の顔を出す。

「少し、分かってきた気がします」

「その言葉を言うやつが一番危ない」

「褒めるということを知らないんですか」

「雪は褒めても助けてくれない」

「カイは助けてくれます」

「毎回間に合うと思うな」

「でも、縄は外していません」

「余計なことを言うな」

 返事はそっけない。

 けれど、縄の長さは私が歩きやすいよう、いつの間にか少しだけ直されていた。

 やがて、木々の向こうに白い明るさが見えた。

 雪原へ出るのだと思った。

 けれど、近づくほど光の返り方が違う。地面より平らで、雪より硬く、薄い空をそのまま下へ敷いたような色をしている。

 森が途切れた。

 その先に、大きな湖が広がっていた。

 湖は端から端まで凍っていた。

 風に払われた場所では、氷の奥まで透けて見える。深い水の青が閉じ込められ、その中へ無数の泡が浮かんでいた。

 小さな泡。

 丸い泡。

 細く連なり、水面へ昇ろうとしている泡。

 どれも空へ届く前に止められ、透明な時間の中へ並べられている。

「すごい……」

 声が小さく漏れた。

 湖には動くものがない。

 それでも泡を見ていると、凍る前には水が揺れ、底から何かが昇っていたのだと分かる。

 言い終える前の言葉を、湖ごと硝子へ閉じ込めたようだった。

「近づきすぎるな」

「はい」

 返事をしながら、私はもう一歩出ていた。

 縄が張る。

「返事の意味を知ってるか」

「知っています」

「なら止まれ」

 私は足を戻した。

「今回は止まりました」

「止められただけだ」

「細かいですね」

「落ちるよりいい」

 カイは湖の縁へ近づき、手袋を外した。

 氷へ指を置き、次にナイフの柄で軽く叩く。

 こん、と乾いた音が返った。

 少し場所を変えると、今度は低く濁った音がする。

「渡るんですか」

「端を回る」

「中央の方が厚そうです」

「中央へ行くまでに薄い場所を通る」

「きれいなのに」

「きれいなものが安全とは限らない」

 カイは氷の中を指した。

「縁は薄い。雪が積もった場所は穴が隠れる。泡の多いところも脆い」

「泡があるからですか」

「中に空気が多い。見た目ほど詰まってない」

 私はもう一度、氷の中の泡を見る。

 さっきまで美しいだけだったものが、今度は無数の小さな欠け目にも見えた。

 危ないから醜いわけではない。

 きれいだから安全なわけでもない。

 湖はどちらの説明も受け入れず、青いまま沈黙していた。

 私たちは森と湖の境を進んだ。

 右には低い木々。

 左には凍った水面。

 その間へ、細い雪道が続いている。

 時折、氷の下から音がした。

 ぴしり、と細い線を引く音。

 もっと深い場所で、大きな板が身じろぎするような低い音。

 聞こえるたびに肩が跳ねた。

「割れませんか」

「この音なら大丈夫だ」

「大丈夫じゃない音もあるんですか」

「ある」

「聞き分けられるんですか」

「慣れればな」

「私は?」

「まだ無理だ」

 少しくらい考えてから答えてもよかった。

 けれど、不安を消すための嘘を言わないところは、カイらしかった。

 氷の上に、古い棒が何本か立っていた。

 色の抜けた布が結ばれ、風に裂かれながら揺れている。少し離れた場所には、雪へ半分埋もれた木箱も見えた。

「目印ですか」

「昔の渡り道だろう」

「なら、あそこを通れば」

「今は通らない」

「どうしてですか」

「氷の形が変わってる」

 カイは古い印を見たまま答えた。

「作った時は正しくても、今も正しいとは限らない」

「残っているのに」

「残ってるから危ない」

 誰かが後から来る者のために残した印。

 けれど、今では従った者を薄い氷へ連れていく。

 道を示すものが、いつまでも道を示すとは限らないらしい。

 色を失った布は、それでも仕事を続けているつもりなのか、風の中で懸命に揺れていた。

 雲の切れ間から薄い光が差した。

 氷の中の泡が、一斉に白く光る。

 湖の底へ沈んでいた星が、昼を間違えて浮かび上がったようだった。

 私はまた足を止めそうになり、今度は自分で踏みとどまった。

「止まらないんだな」

「止まったら怒られそうなので」

「怒ってない」

「そうですか」

「落ちるなと言ってるだけだ」

「似ています」

「違う」

 カイは前を向いたまま言った。

「怒るだけなら、縄まで結ばない」

 私は返す言葉を失った。

 カイも余計なことを言ったと思ったのか、少しだけ歩調を速めた。

 縄が引かれ、私は慌てて追う。

「では、まだ置いていかれないんですね」

「勝手についてきてるだけだ」

「はい」

「勘違いするな」

「少ししかしていません」

「するな」

 私は小さく笑った。

 その時、足元で細い音がした。

 ぴしり。

 左足のすぐ横へ、糸のような亀裂が走った。

 大きな割れ目ではない。

 けれど、それがどこまで続いているのかは分からなかった。

「動くな」

 カイの声が飛ぶ。

 私はその場で固まった。

 カイはゆっくり戻ってきた。足を置く場所を一つずつ選び、私の前で膝をつく。氷の表面を見たあと、縄を軽く引いた。

「右足を後ろへ」

「はい」

「大きすぎる。少しだ」

 私は足を僅かに動かした。

 氷がまた鳴る。

 背中へ冷たい汗が流れた。

「左を抜け」

「はい」

「急ぐな」

「はい」

「こっちへ」

 最後に腕を掴まれ、強く引かれた。

 私は雪の上へ倒れ込むように転がった。

 亀裂は、それ以上広がらなかった。

 助かったと分かってから、膝が震え始めた。

 息を吐こうとしても、うまく続かない。

「……すみません」

「謝るな」

「でも」

「今のは俺が道を間違えた」

 意外な言葉だった。

 私は顔を上げた。

 カイは亀裂を見ている。

「風で雪の積もり方が変わってた。もっと森側を通るべきだった」

「カイでも間違えるんですか」

「当たり前だ」

「当たり前なんですか」

「雪道に絶対はない」

 カイは私を立たせた。

「だから、気づいたら止まる。違うと思ったら戻る」

「進めるかもしれなくても?」

「進めるかもしれない、で落ちるやつが多い」

 カイは亀裂を避け、森側へ進路を変えた。

「間違えたと分かったあとまで進むのは、勇気じゃない。ただの意地だ」

 その言葉は、氷の音より長く耳へ残った。

「カイも戻るんですか」

 思わず訊いた。

 足が僅かに止まる。

 けれど、カイは振り返らなかった。

「道を間違えたならな」

 それだけ答え、再び歩き出した。

 神の国へ向かうことは、カイにとって間違った道ではない。

 少なくとも、今はそう信じているのだろう。

 湖を回りきる頃には、光が傾き始めていた。

 氷の中の泡は、見る角度によって青にも、白にも、灰色にも変わる。

 きれいだった。

 怖かった。

 どちらか一つに決める必要はないのだと思った。

 湖の反対側には、低い丘が続いている。

 森はそこで途切れ、雪へ埋もれた石の道らしきものが斜面へ伸びていた。ところどころに平たい石が覗くだけで、雪が増えればすぐに消えてしまいそうだった。

 丘を上り始めると、湖の上を渡ってきた風が横から身体を揺らした。

 足元の石は雪に隠れ、硬い場所と崩れる場所が交互に現れる。

「足を上げすぎるな。疲れる」

「はい」

「膝を固めるな。滑る」

「はい」

「返事だけよくても意味がない」

「はい」

「分かってるのか」

「少し」

「少しか」

「昨日よりは」

 カイは呆れたように息を吐いた。

 それでも、歩く速さは私に合わせていた。

 丘の途中で振り返ると、先ほどの湖が見えた。

 森に囲まれた青い氷。

 中へ閉じ込められた泡。

 色を失った布の印。

 細く入った亀裂。

 すべてが遠ざかり、小さな一枚の硝子へ変わっていく。

 私は前を向いた。

 カイの背中は、すぐそこにあった。

 丘の上へ辿り着くと、その先にはまた違う景色が広がっていた。

 白い斜面の向こうへ黒い岩と低い木々が点々と続き、その奥で、凍った川が細く光っている。さらに遠くには、雲へ半分隠された山の影があった。

 北は、まだ遠い。

 けれど、町を出た時よりは確かに近い。

「行くぞ」

 カイが言った。

 私は頷き、腰の縄を確かめた。

 雪の色も、氷の音も、まだすべてを見分けられるわけではない。

 それでも、何も知らずに白い地面を歩いていた時とは違う。

 止まること。

 戻ること。

 足元を見直すこと。

 前へ進むために必要なのは、進むことだけではなかった。

 私は杖を先へ刺し、自分で選んだ場所へ次の一歩を置いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。