うすらいの一筋
森を抜けるまで、縄は何度も張った。
私が足を止めれば、腰の辺りへ僅かな重さが返ってくる。急ぎすぎれば短く引かれ、雪へ深く沈めば、前を行くカイの歩みも止まった。
助けられているのは分かる。
けれど、縄に引かれるたび、自分だけが雪に躾けられているようで少し悔しかった。
「もう少し信用してくれてもいいと思います」
「さっき川へ落ちかけたやつが言うことじゃない」
「落ちてはいません」
「俺が引いたからだ」
「では、助けてくれたことには感謝します」
「礼より足元を見ろ」
カイは振り返らない。
それでも、私が杖を刺すまで次の一歩を出さなかった。
森は進むほど白くなった。
低い枝が雪の重みで垂れ下がり、通れる隙間を狭くしている。頭上から雪が落ちるたび、帽子や肩へ冷たさが入り込んだ。
カイはほとんど気にしない。
「冷たくないんですか」
「冷たい」
「平気そうです」
「騒いでも温かくならない」
「少しくらい驚いてもいいと思います」
「雪に?」
「雪に」
「毎回驚いてたら北へ行けない」
もっともだった。
けれど、帽子の中へ入った雪は、北へ行くかどうかに関係なく冷たい。
私は首を縮め、また杖を刺した。
硬く締まった雪は、表面が僅かに青い。
新しく積もった雪は、光を柔らかく返す。
下に隙間がある場所は、周囲よりほんの少し沈み、影の縁が曖昧になる。
言われて見れば違う。
けれど、見つけた違いが次の場所でも同じとは限らなかった。
白い地面は、覚えた端から別の顔を出す。
「少し、分かってきた気がします」
「その言葉を言うやつが一番危ない」
「褒めるということを知らないんですか」
「雪は褒めても助けてくれない」
「カイは助けてくれます」
「毎回間に合うと思うな」
「でも、縄は外していません」
「余計なことを言うな」
返事はそっけない。
けれど、縄の長さは私が歩きやすいよう、いつの間にか少しだけ直されていた。
やがて、木々の向こうに白い明るさが見えた。
雪原へ出るのだと思った。
けれど、近づくほど光の返り方が違う。地面より平らで、雪より硬く、薄い空をそのまま下へ敷いたような色をしている。
森が途切れた。
その先に、大きな湖が広がっていた。
湖は端から端まで凍っていた。
風に払われた場所では、氷の奥まで透けて見える。深い水の青が閉じ込められ、その中へ無数の泡が浮かんでいた。
小さな泡。
丸い泡。
細く連なり、水面へ昇ろうとしている泡。
どれも空へ届く前に止められ、透明な時間の中へ並べられている。
「すごい……」
声が小さく漏れた。
湖には動くものがない。
それでも泡を見ていると、凍る前には水が揺れ、底から何かが昇っていたのだと分かる。
言い終える前の言葉を、湖ごと硝子へ閉じ込めたようだった。
「近づきすぎるな」
「はい」
返事をしながら、私はもう一歩出ていた。
縄が張る。
「返事の意味を知ってるか」
「知っています」
「なら止まれ」
私は足を戻した。
「今回は止まりました」
「止められただけだ」
「細かいですね」
「落ちるよりいい」
カイは湖の縁へ近づき、手袋を外した。
氷へ指を置き、次にナイフの柄で軽く叩く。
こん、と乾いた音が返った。
少し場所を変えると、今度は低く濁った音がする。
「渡るんですか」
「端を回る」
「中央の方が厚そうです」
「中央へ行くまでに薄い場所を通る」
「きれいなのに」
「きれいなものが安全とは限らない」
カイは氷の中を指した。
「縁は薄い。雪が積もった場所は穴が隠れる。泡の多いところも脆い」
「泡があるからですか」
「中に空気が多い。見た目ほど詰まってない」
私はもう一度、氷の中の泡を見る。
さっきまで美しいだけだったものが、今度は無数の小さな欠け目にも見えた。
危ないから醜いわけではない。
きれいだから安全なわけでもない。
湖はどちらの説明も受け入れず、青いまま沈黙していた。
私たちは森と湖の境を進んだ。
右には低い木々。
左には凍った水面。
その間へ、細い雪道が続いている。
時折、氷の下から音がした。
ぴしり、と細い線を引く音。
もっと深い場所で、大きな板が身じろぎするような低い音。
聞こえるたびに肩が跳ねた。
「割れませんか」
「この音なら大丈夫だ」
「大丈夫じゃない音もあるんですか」
「ある」
「聞き分けられるんですか」
「慣れればな」
「私は?」
「まだ無理だ」
少しくらい考えてから答えてもよかった。
けれど、不安を消すための嘘を言わないところは、カイらしかった。
氷の上に、古い棒が何本か立っていた。
色の抜けた布が結ばれ、風に裂かれながら揺れている。少し離れた場所には、雪へ半分埋もれた木箱も見えた。
「目印ですか」
「昔の渡り道だろう」
「なら、あそこを通れば」
「今は通らない」
「どうしてですか」
「氷の形が変わってる」
カイは古い印を見たまま答えた。
「作った時は正しくても、今も正しいとは限らない」
「残っているのに」
「残ってるから危ない」
誰かが後から来る者のために残した印。
けれど、今では従った者を薄い氷へ連れていく。
道を示すものが、いつまでも道を示すとは限らないらしい。
色を失った布は、それでも仕事を続けているつもりなのか、風の中で懸命に揺れていた。
雲の切れ間から薄い光が差した。
氷の中の泡が、一斉に白く光る。
湖の底へ沈んでいた星が、昼を間違えて浮かび上がったようだった。
私はまた足を止めそうになり、今度は自分で踏みとどまった。
「止まらないんだな」
「止まったら怒られそうなので」
「怒ってない」
「そうですか」
「落ちるなと言ってるだけだ」
「似ています」
「違う」
カイは前を向いたまま言った。
「怒るだけなら、縄まで結ばない」
私は返す言葉を失った。
カイも余計なことを言ったと思ったのか、少しだけ歩調を速めた。
縄が引かれ、私は慌てて追う。
「では、まだ置いていかれないんですね」
「勝手についてきてるだけだ」
「はい」
「勘違いするな」
「少ししかしていません」
「するな」
私は小さく笑った。
その時、足元で細い音がした。
ぴしり。
左足のすぐ横へ、糸のような亀裂が走った。
大きな割れ目ではない。
けれど、それがどこまで続いているのかは分からなかった。
「動くな」
カイの声が飛ぶ。
私はその場で固まった。
カイはゆっくり戻ってきた。足を置く場所を一つずつ選び、私の前で膝をつく。氷の表面を見たあと、縄を軽く引いた。
「右足を後ろへ」
「はい」
「大きすぎる。少しだ」
私は足を僅かに動かした。
氷がまた鳴る。
背中へ冷たい汗が流れた。
「左を抜け」
「はい」
「急ぐな」
「はい」
「こっちへ」
最後に腕を掴まれ、強く引かれた。
私は雪の上へ倒れ込むように転がった。
亀裂は、それ以上広がらなかった。
助かったと分かってから、膝が震え始めた。
息を吐こうとしても、うまく続かない。
「……すみません」
「謝るな」
「でも」
「今のは俺が道を間違えた」
意外な言葉だった。
私は顔を上げた。
カイは亀裂を見ている。
「風で雪の積もり方が変わってた。もっと森側を通るべきだった」
「カイでも間違えるんですか」
「当たり前だ」
「当たり前なんですか」
「雪道に絶対はない」
カイは私を立たせた。
「だから、気づいたら止まる。違うと思ったら戻る」
「進めるかもしれなくても?」
「進めるかもしれない、で落ちるやつが多い」
カイは亀裂を避け、森側へ進路を変えた。
「間違えたと分かったあとまで進むのは、勇気じゃない。ただの意地だ」
その言葉は、氷の音より長く耳へ残った。
「カイも戻るんですか」
思わず訊いた。
足が僅かに止まる。
けれど、カイは振り返らなかった。
「道を間違えたならな」
それだけ答え、再び歩き出した。
神の国へ向かうことは、カイにとって間違った道ではない。
少なくとも、今はそう信じているのだろう。
湖を回りきる頃には、光が傾き始めていた。
氷の中の泡は、見る角度によって青にも、白にも、灰色にも変わる。
きれいだった。
怖かった。
どちらか一つに決める必要はないのだと思った。
湖の反対側には、低い丘が続いている。
森はそこで途切れ、雪へ埋もれた石の道らしきものが斜面へ伸びていた。ところどころに平たい石が覗くだけで、雪が増えればすぐに消えてしまいそうだった。
丘を上り始めると、湖の上を渡ってきた風が横から身体を揺らした。
足元の石は雪に隠れ、硬い場所と崩れる場所が交互に現れる。
「足を上げすぎるな。疲れる」
「はい」
「膝を固めるな。滑る」
「はい」
「返事だけよくても意味がない」
「はい」
「分かってるのか」
「少し」
「少しか」
「昨日よりは」
カイは呆れたように息を吐いた。
それでも、歩く速さは私に合わせていた。
丘の途中で振り返ると、先ほどの湖が見えた。
森に囲まれた青い氷。
中へ閉じ込められた泡。
色を失った布の印。
細く入った亀裂。
すべてが遠ざかり、小さな一枚の硝子へ変わっていく。
私は前を向いた。
カイの背中は、すぐそこにあった。
丘の上へ辿り着くと、その先にはまた違う景色が広がっていた。
白い斜面の向こうへ黒い岩と低い木々が点々と続き、その奥で、凍った川が細く光っている。さらに遠くには、雲へ半分隠された山の影があった。
北は、まだ遠い。
けれど、町を出た時よりは確かに近い。
「行くぞ」
カイが言った。
私は頷き、腰の縄を確かめた。
雪の色も、氷の音も、まだすべてを見分けられるわけではない。
それでも、何も知らずに白い地面を歩いていた時とは違う。
止まること。
戻ること。
足元を見直すこと。
前へ進むために必要なのは、進むことだけではなかった。
私は杖を先へ刺し、自分で選んだ場所へ次の一歩を置いた。




