同じような速さで
町を離れる頃になっても、空には細かな雪が残っていた。
通りでは、店先へ積もった雪を掻く音や、薪を積み直す音が続いている。昨日と変わらない町の朝だった。けれど、私たちが門へ近づくにつれて、すれ違う者たちの視線が少しずつカイへ集まっていった。
「また行くのか」
「気をつけろよ」
「今度は、あまり無茶をするな」
薪を抱えた犬も、軒下の布を畳んでいた狐も、仕事の手を止めずに声だけを投げる。
カイは「ああ」と短く返すだけだった。
誰も、どこへ行くのかとは訊かなかった。
いつ戻るのかも、なぜ北へ向かうのかも訊かない。何度も同じ背中を見送ってきた者たちの声だった。引き止めるには慣れすぎていて、諦めるには少しだけ近すぎる。そんな距離が、短い言葉の中へ滲んでいた。
門の前では、昨日の山羊の老人が雪を掻いていた。
私たちに気づくと、木の道具を柵へ立てかけ、足元に置いてあった細い杖を拾い上げる。
「嬢ちゃん、これを持っていけ」
「私にですか」
差し出された杖は、先端に黒い金具がついていた。持ち手の辺りだけ色が薄くなり、長い間、誰かの手の中へ収まっていたことが分かる。
「雪の上を歩くのに、手ぶらじゃ頼りない」
「借りてもいいんですか」
「返しに来るならな」
「返しに来ます」
「なら貸してやる」
受け取ると、見た目より少し重かった。
ただの細い木ではない。何度も雪へ突かれ、何度も倒れかけた身体を支え、それでも折れずに町へ戻ってきた重さだった。
「ありがとうございます」
「礼は戻ってからでいい」
老人はそう言い、今度はカイへ目を向けた。
「お前も、今度こそ帰ってこいよ」
「努力はする」
「前にも聞いたな、それ」
「なら覚えてるだろ」
「そういう返しだけは達者だ」
老人は呆れたように白い息を吐いた。
それから、私とカイを交互に見る。
「嬢ちゃん。そいつと同じように歩こうとするなよ」
「どうしてですか」
「同じように歩けると思ったやつから転ぶ」
隣でカイが小さく頷いた。
「どうして頷くんですか」
「正しい」
「まだ転んでいません」
「町を出てから言え」
私は杖を握り直し、門の外へ足を踏み出した。
十歩ほど進んだところで、右足が深く沈んだ。
慌てて杖を雪へ突き、どうにか身体を支える。
転んではいない。
振り返ると、老人が門の前で笑っていた。
カイは振り返りもしなかった。
「今のは転んでいません」
「何も言ってない」
「言わないだけです」
「歩け」
町は、少し離れただけで雪の向こうへ薄れていった。
屋根も、煙突も、門の横に立つ老人も、白い空気の中へ順番に溶けていく。何度か振り返るうちに、町は初めから雪の下に隠れていたもののようになり、最後には煙だけが細く残った。
前には、カイの黒い外套だけがある。
私はその足跡へ靴を重ねた。
カイの歩幅は大きい。次の跡へ届かせようとすると、自然に一歩が長くなる。そのたび、雪へ足を取られた。
「真似するな」
前から声が飛んできた。
「あのお爺さんにも言われました」
「なら聞け」
「同じ場所を踏んだ方が安全では」
「場所は同じでいい。歩幅まで合わせるな」
カイは少しだけ速さを落とした。
私が追いつくと、杖の使い方を指で示す。
「足より先に刺せ」
「こうですか」
「遠い。そこでは身体を支えられない」
私は杖を手前へ刺し直した。
先端が雪へ入り、途中で硬いものへ当たる。
「石があります」
「その横へ足を置け」
「石の上ではなく?」
「凍ってるかもしれない」
「雪も危なくて、石も危ないんですね」
「危なくない場所を探すな」
「では、何を探すんですか」
「どう危ないか分かる場所だ」
カイはそう言って、また先へ進んだ。
私は足元を見る。
雪の白。
風に削られた薄い青。
ところどころ覗く黒い石。
昨日までは、どれも雪の中にある景色でしかなかった。
今は、一歩を置く前に読まなければならない文字のように見え始めていた。意味はまだ分からない。それでも、白紙ではないことだけは分かる。
雪原を抜ける頃、針葉樹の森が近づいてきた。
背の低い木々が斜面へ集まり、枝には雪が厚く積もっている。風が吹くたび、白い粉が枝から舞い落ちた。
森へ入ると、横から吹いていた風が急に弱くなった。
代わりに、音が増えた。
枝が擦れる音。
積もった雪が落ちる音。
どこか深い場所で、氷が軋む音。
雪原では、何もない場所から風だけが来た。
森では、見えないものがすぐそばで動いている。静けさの中へ足を踏み入れたというより、音を隠すことの上手な場所へ入ったようだった。
私は杖を握り直した。
「怖いか」
カイが訊いた。
「少し」
「戻るか」
「戻りません」
「なら、怖いまま歩け」
「消えるまで待たないんですか」
「待って消えるならな」
カイは木の根元を避け、雪の僅かな窪みを踏まずに進む。
私はなるべく同じ場所へ足を置いた。
「そこを踏むな」
上げた右足を止める。
「どこですか」
「そのまま下を見ろ」
雪の表面が、周囲より少しだけ低かった。
風でできた窪みにも見える。けれど、縁の影が妙に柔らかい。
「穴ですか」
「下に枝が重なってる。雪が載ってるだけだ」
「どうして分かるんですか」
「色と影」
「全部白いです」
「白にも違いがある」
カイは杖の先で、窪みの縁を軽く崩した。
表面の雪が落ち、その下に黒い隙間が現れる。
「硬い雪は光を細かく返す。薄い場所は影が深い。風が抜けてる場所は表面が揺れる」
私は隙間を覗いた。
下には折れた枝が何本も重なっている。踏めば、膝より深く沈んでいただろう。
「言われなければ分かりません」
「最初はな」
「カイにも分からない時はありますか」
「ある」
意外だった。
「あるんですか」
「雪道に絶対はない」
カイは私を見る。
「だから、分からない時は止まる。分かったふりをして足を出すな」
「分かったふりはしません」
「さっき俺の歩幅に合わせてた」
「それは」
「同じだ」
言い返そうとして、やめた。
たぶん、少しだけ同じだった。
森の奥へ進むにつれ、地面の形は分かりにくくなった。
木の根が雪を持ち上げ、倒れた枝が浅い丘を作る。何もないように見える場所へ足を置くと、雪だけが深く沈んだ。
杖を先に刺す。
硬さを確かめる。
足を置く。
ゆっくり重さを移す。
同じ動きを繰り返しているのに、雪は一度も同じ返事をしなかった。浅く止まる時もあれば、腕ごと引かれるほど深く入る時もある。白い地面は広い一枚ではなく、薄い蓋を何枚も重ねたものなのだと、足の裏から教えられているようだった。
歩く速さは、少しずつ遅くなった。
カイは急かさなかった。
少し先で立ち止まり、私が追いつくまで周囲を見ている。
「遅くないですか」
「遅い」
「やっぱり」
「だが、急ぐよりましだ」
「それなら最初から、遅くていいと言ってください」
「自分で訊いただろ」
言葉は相変わらず不親切だった。
けれど、黒い外套はいつも杖が届く距離にあった。
森を半分ほど進んだ頃、足元から水の音が聞こえた。
細い流れだった。
右から聞こえたと思えば、次の瞬間には左へ移る。木々へ反射しているのか、雪の下で曲がっているのか、場所が掴めない。
「川ですか」
「ああ」
「見えません」
「雪の下だ」
「どこを流れているんですか」
「聞こえた。
細い流れだった。
右から聞こえたと思えば、次の瞬間には左へ移る。探してる」
カイは足を止め、杖で雪を突いた。
一度。
二度。
三度目で、硬い音が返る。
「こっちは凍ってる」
少し位置を変える。
今度は杖が深く入った。
「そこから離れろ」
私は言われた通り、左へ一歩動いた。
「川の上ですか」
「たぶんな」
「また、たぶん」
「確かめるために落ちる気か」
「ありません」
カイは木の根が連なる方へ進路を変えた。
私はその後を追う。
杖を刺す。
硬い。
足を置く。
沈まない。
次の一歩も、同じように確かめた。
それで、少し分かったつもりになったのだと思う。
右足を置いた雪が、音もなく崩れた。
膝まで沈むと思った。
けれど、その下に支えはなかった。
身体が右へ傾く。
手から杖が抜けた。
雪の表面が割れ、黒い隙間が足元へ開く。冷たい水の音が、急に近くなった。
「ひかり」
腕を掴まれた。
強い力で後ろへ引かれ、私は雪の上へ転がった。
肩へ鈍い痛みが走る。
息が詰まる。
目の前へ白い粉が舞う。
それでも、落ちなかった。
崩れた場所の下では、黒い水が流れていた。
雪に覆われた細い川だった。
「……見えませんでした」
「見えないから、ないとは限らない」
カイは私の腕を掴んだまま、足で雪の縁を踏み固めた。
さらに崩れないことを確かめてから、少し離れた木の根元まで私を引く。
「怪我は」
「肩が少し痛いです」
「腕は動くか」
私は腕を回した。
痛いけれど、動く。
「大丈夫です」
「大丈夫かは後で見る」
カイは落ちた杖を拾い、雪を払って私へ返した。
「すみません」
「謝るな」
「でも、言われた通りに歩いていたのに」
「全部同じにできるとは言ってない」
「では、どうすれば」
「今のを覚えろ」
カイは崩れた場所を指した。
「表面が周りより滑らかだった。雪が新しい。水の上へ積もったばかりだ」
私は目を凝らす。
言われてみれば、周囲の雪より白い。風に削られた跡もない。何も隠していないような顔をしているからこそ、下にあるものが分からなかった。
「少し分かった気がしていました」
「その時が一番危ない」
「前にも言いましたね」
「お前が前にもやったからだ」
言い返せなかった。
指先がまだ震えている。
落ちていたら、雪の下へ身体ごと入っていた。
流れは細い。
けれど、暗く、冷たく、上には白い蓋がある。
自分で這い上がれたかは分からない。
カイは荷物から縄を取り出した。
「腰を出せ」
「そこまで信用がなくなりましたか」
「最初からない」
「少しは増えたと思っていました」
「今ので減った」
「減る余地があったんですね」
「黙って立て」
縄が腰へ回される。
結び目は手早く作られ、強く引かれた。反対側をカイが自分の腰へ結ぶ。
近すぎず、離れすぎない長さだった。
「これなら、また落ちても」
「落ちる前に止まれ」
「はい」
「縄は落ちるためにつけるんじゃない」
「分かっています」
「本当か」
「今は」
カイは僅かに息を吐いた。
「歩くぞ」
私は立ち上がり、縄の重さを確かめた。
一歩進めば、少し遅れて腰へ引きが伝わる。
カイが進んでいる。
私が止まれば、その重さも止まる。
誰かと繋がれているというより、白い地面の中へ一本だけ確かな線が引かれたようだった。
森の向こうはまだ見えない。
水の音も消えてはいない。
私は杖を雪へ刺した。
今度は硬さだけではなく、表面の色を見る。
風の跡を見る。
影の深さを見る。
それから、自分の足を置く。
カイは振り返らなかった。
けれど、私が次の一歩を出すまで、腰の縄は静かに待っていた。




