雪道指南書
雪の上を歩くのは、思っていたよりずっと難しかった。
足を踏み出すたび、靴底が沈む。硬そうに見える場所はあっさり崩れ、柔らかそうな場所ほど凍って滑る。右足を抜こうとすれば左足が沈み、左足を持ち上げれば、今度は身体ごと前へ倒れそうになる。
小屋の前では歩けると思っていた。
雪原は、そんな私の自信を数歩で埋めた。
前を行くカイは、ほとんど沈まない。
いや、同じ雪の上を歩いているのだから、少しは沈んでいるはずだ。けれど、足を置く場所も、抜く速さも、私とはまるで違う。白い地面の固さを見分け、風の向きに合わせて肩を傾け、雪の表面に残る僅かな凹凸を選んで進んでいく。
黒い外套の背中は、遠くならない。
けれど、近づきもしなかった。
「待ってください」
私が言うと、カイは振り返らずに答えた。
「待ってない」
「でも、さっきより歩くのが遅いです」
「気のせいだ」
「そうですか」
「そうだ」
あまりにも短い返事だった。
笑う余裕があるなら歩け、と言われそうなので、口元だけで笑っておいた。
吹雪は止んでいた。
そのせいで、周囲は怖いほどよく見えた。白い地面がどこまでも続き、その上へ黒い岩が背骨のように並んでいる。遠くの低い丘は雪を被り、半分だけ眠った大きな生き物の背中に見えた。
空は薄い鉛色だった。
雲の切れ間から零れた光が、雪原の表面を青白く照らしている。昼なのに、朝がまだ終わっていないような色だった。
風は冷たい。
けれど、ただ冷たいだけではなかった。時折、塩に似た匂いが混じる。雪の下から覗く草は低く、地面へしがみつくように伸びていた。高い木は見当たらない。代わりに、細く硬い草が風に撫でられ、雪の隙間で銀色に震えている。
「木が少ないんですね」
私が言うと、カイは前を向いたまま答えた。
「風が強い。根を張る前に折れる」
「海が近いんですか」
「近い場所もある」
「見えませんね」
「見えないから遠いとは限らない」
カイの言葉は、いつも少しだけ説明が足りない。
足りない分は、こちらで考えろということらしい。
私はその背中を追いながら、足元の雪を見た。白い層の下に、ところどころ青い氷が覗いている。深く踏み込むと、氷の奥へ小さな泡がいくつも閉じ込められていた。
誰かが水の中で吐いた息だけを、冬が拾い集めて硝子へ閉じ込めたようだった。
もう少し近くで見ようとした瞬間、足が滑った。
「わっ」
転ぶと思った時には、腕を掴まれていた。
カイだった。
いつの間に戻ってきたのか分からない。大きな手が私の腕を支え、雪へ倒れる寸前で引き戻してくれる。
「下を見るなら、止まれ」
「すみません」
「謝る前に、足元を見ろ」
「見ていました」
「見方が悪い」
言い返せなかった。
カイは手を離した。
けれど、私が次の一歩を踏み出すまで、すぐ横に立っていた。助けたつもりはない、という顔をしている。
余計なことを言えば、今度こそ置いていかれそうだったので黙っておいた。
それからしばらく、私たちは言葉を交わさずに歩いた。
雪原は、進むほど形を変えた。
遠くに見えていた黒い岩は、近づくと氷へ半分埋もれた柱のようだった。その向こうには、折り重なった流氷が丘のように盛り上がっている。
波がそのまま凍ったのか。
氷同士が押し合い、逃げ場をなくして積み上がったのか。
青と白と灰色が幾層にも重なり、砕けた硝子を空へ向けて積んだように光っていた。
さらに進むと、凍った滝が現れた。
崖の上から流れ落ちる途中で、時間だけを止められたように氷が張り出している。細い柱が何本も連なり、下の方では透き通った花のように広がっていた。
水の音はしない。
それでも、そこに激しく流れていたものがあったことだけは分かる。
白い氷の奥へ薄い青が沈み、見つめていると、自分までその色へ吸い込まれそうだった。
「きれいですね」
私は言った。
カイは一度だけそちらを見た。
「近づくな。落ちる」
「見ているだけです」
「見てるだけで落ちるやつもいる」
「それ、私のことですか」
「自覚があるならいい」
やはり言い返せなかった。
カイはまた前を向いた。
けれど、足場の悪い場所へ来ると、ほんの少し歩幅を狭めた。私が氷に足を取られそうになると、何も言わず外套の端を差し出す。
掴めとは言わない。
けれど、掴まなければ転ぶ場所にだけ、その端はあった。
私は何度か、その外套に助けられた。
そのたびに礼を言おうとすると、カイは決まって、
「歩け」
とだけ言った。
昼を少し過ぎた頃、遠くに町が見えた。
最初は、雪の上へ黒い点が散っているようにしか見えなかった。近づくにつれ、それが低い屋根だと分かる。
家々はみな背が低く、風へ頭を下げるように建っていた。屋根には厚い雪が積もり、煙突から細い煙が上がっている。町の周囲には粗い木の柵が巡らされ、その外側へ、雪除けの石積みが続いていた。
入口には、小さな標識が立っていた。
文字は読めなかった。
雪と風に削られているせいもあるけれど、そもそも私の知る文字ではない。
カイは一度見ただけで、そのまま通り過ぎた。
「読まないんですか」
「知ってる」
「何て書いてあるんですか」
「町の名だ」
「それは見れば分かります」
「なら訊くな」
説明する気は、やはりないらしい。
門の近くにいた山羊の老人が、カイを見るなり片手を上げた。
「また北へ行くのか」
「ああ」
「懲りないな」
「用がある」
「用があると言って帰ってきたやつを、わしはあまり見たことがない」
カイは返事をしなかった。
老人は私を見る。
「そっちの子は」
「拾った」
「拾った?」
「雪に埋まってた」
「雪原で子供を拾うな。春の山菜じゃあるまいし」
私はどう挨拶すればいいのか分からず、少しだけ頭を下げた。
「助けてもらいました」
「そうかい。なら、生きててよかったな」
「はい」
老人はそれ以上、詳しく訊かなかった。
町の中へ入ると、雪原とは違う冷たさがあった。
風は弱い。
その代わり、家々の影へ冷気が溜まっている。道は踏み固められた雪で白く、ところどころに灰が撒かれていた。
犬の子供たちが木箱を橇にして滑り、狐の親子が布を掛けた籠を抱えて歩いている。店先には硬そうな麦パン、凍った木の実、乾燥きのこ、塩漬けの根菜、厚手の靴下が並んでいた。
雪原では白しかなかったぶん、どれも少しだけ鮮やかに見えた。
「宿を取る」
カイが言った。
「泊まるんですか」
「お前の歩き方じゃ、今日はここまでだ」
「まだ歩けます」
「歩けるのと、進めるのは違う」
それは、この数時間で十分に思い知らされていた。
宿は町の中央にあった。
低い屋根の大きな建物で、入口には乾いた草の束が吊るされている。中へ入ると、暖炉の熱と厚手の布、それから古い木の匂いがした。
宿の女将らしい丸い羊が、カイを見るなり目を細めた。
「あんた、また北かい」
「ああ」
「好き好んで寒い方へ行くなんて、まともな者のすることじゃないよ」
「部屋は」
「あるよ。話を逸らすんじゃない」
「二つ」
「一つでいいだろう。空いてる部屋は冷えきってるよ」
カイは僅かに眉を寄せた。
「二つだ」
「はいはい。相変わらず面倒な狼だね」
女将は鍵を二つ出しながら、私へ視線を向けた。
「この子も北へ?」
「南へ行かせるつもりだった」
「つもりだった、って顔じゃないね」
「勝手についてきた」
「なら、勝手に温かいものを食べさせてやるよ」
私は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は食べてからでいい。細い子は寒さに負けるからね」
食堂には、町の者たちが何人か集まっていた。
皆、厚手の服を着て、湯気の立つ器を抱えている。私たちが入ると、いくつかの視線がこちらへ向いた。
その中の一人、鼻先の黒い狐がカイを見て笑った。
「あんたも飽きないな」
「何がだ」
「北だよ。あの天気で山の方へ行くなんて、まともな者のすることじゃない」
「用がある」
「用があるって顔は、止めても聞かない顔なんだよ」
狐は肩をすくめた。
「行くなら、せめて明後日にしな。明日は風が荒れる」
カイは返事をしなかった。
ただ、運ばれてきた温かい汁を私の前へ押し出した。
「食え」
「カイの分は」
「ある」
「でも」
「冷める」
私は器を受け取った。
中には白い根菜と豆、それから細かく刻まれた乾燥きのこが入っている。口をつけると、塩気と熱が広がり、冷えた身体が少しずつほどけていった。
カイは食べ終えると、すぐに立ち上がった。
「買い出しに行く」
「私も」
「宿で休め」
「歩けます」
「町の中で転ぶな」
「転びません」
「信用できない」
そう言いながらも、カイは扉へ向かう足を止めた。
私は慌てて器を置き、手袋をはめる。
女将が後ろから声を飛ばした。
「雪道に慣れてない子を連れ歩くんじゃないよ。店先で滑って、商品棚へ突っ込むから」
カイが私を見る。
「そんなことしません」
「信用できない」
「二回目です」
「何度でも言う」
結局、私は宿へ残されることになった。
窓の外を見ると、カイが道具屋へ入っていくのが見えた。黒い外套の大きな背中は、町の中でもよく目立つ。
町の者たちは、カイを知っているようだった。
声を掛ける者もいれば、黙って見送る者もいる。誰も追い返しはしない。けれど、北へ向かおうとする背中を見る目には、何度止めても無駄だった者だけが浮かべる諦めがあった。
私は窓硝子に映る自分を見た。
帽子の下の髪は乱れ、頬は冷たさで赤くなっている。雪道を少し歩いただけで息を切らし、何度もカイに助けられた。
こんな調子で、本当に北まで行けるのだろうか。
不安はあった。
それでも、行かないという考えは浮かばなかった。
しばらくして、カイが戻ってきた。
袋の中には、硬い麦パン、乾燥きのこ、豆の小袋、火打ち石、包帯、それから厚手の靴紐が入っていた。
「靴を見せろ」
「靴ですか」
「紐が緩い。雪の中で脱げる」
私は椅子へ座り、片足を出した。
カイは膝をつき、手袋を外して靴紐を結び直す。
強く締められているのに、痛くない。
結び目は私が作ったものよりずっと小さく、雪の中でも簡単にはほどけそうになかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「でも、今のは助かりました」
「転ばれると面倒なだけだ」
「はい」
「納得するな」
私は少しだけ笑った。
カイは見なかったことにしたように、もう片方の靴紐も結び直した。
夜になると、町の外で風が強くなった。
宿の壁が低く鳴り、窓の向こうで雪が斜めに流れていく。
食堂では、町の者たちが火のそばで話していた。
明日の天気。
壊れた柵。
使えなくなった古い橇。
誰も神の国については話さなかった。
誰も、カイがなぜ北へ行くのか訊かなかった。
訊いても答えないと、皆もう知っているのかもしれない。
カイは壁際の席で、黙って地図を見ていた。
指先が、一つの道をゆっくり北へ辿っている。
何がカイをそこまで歩かせているのか。
私はまだ、何も知らない。
それでも明日になれば、また雪原へ出る。
カイは振り返らずに歩くだろう。
私はきっと、その後ろを追う。
窓の外では、白い雪が音もなく降り続いていた。
空から落ちてくるものというより、夜が少しずつ白へ変わっているように見えた。




