旅は道連れとはよく言ったものだ
それから数日、私はこの小屋で過ごした。
吹雪は、すぐには止まなかった。
小さな窓の向こうでは、白い風が昼も夜も壁を叩いている。時折、屋根の上を何か大きなものが転がっていくような音がした。
雪の塊だろうか。
それとも、この辺りには屋根の上を転がることを日課にしている何かがいるのだろうか。
カイに訊いてみたけれど、
「雪だ」
とだけ返された。
たぶん雪なのだろう。
少しくらい面白い答えを期待した私が悪かった。
窓硝子には雪が張りつき、その向こうで空と地面が同じ白へ溶けている。
朝になっても白い。
昼になっても白い。
夜になれば暗くなるけれど、吹雪の音だけは変わらなかった。
外の世界がすべて消え、小屋だけが白い海へ浮かんでいるようだった。
私は寝台の上で、少しずつ身体を元へ戻していった。
最初の日は、上半身を起こすだけで息が上がった。肩も背中も痛み、膝には青い痕が残っている。冷えきった指先は、暖炉のそばへ出していても、なかなか元の感覚を思い出してくれなかった。
指まで私と一緒に列車から落ちたはずなのに、自分だけがひどい目に遭ったと思っているらしい。
カイは、そんな私に必要なこと以外はあまり話しかけなかった。
けれど、放っておいたわけではない。
朝になると、彼は小屋を出ていった。
外は吹雪いている。それでも厚い外套を羽織り、腰に黒い鞘のナイフを差し、何も言わずに扉を開ける。
冷たい風が部屋へ流れ込み、暖炉の火が身を縮めるように低く揺れた。
「どこへ行くんですか」
「外だ」
最初に訊いた時は、そう答えられた。
外なのは、扉を開けた時点で分かっている。
それでも、それ以上の説明をする気はないらしい。
しばらくすると、カイは雪をまとって戻ってくる。
肩や頭へ積もった雪を入口で払い、抱えていた袋を床へ置く。中から出てくるのは、硬い麦パン、豆の入った小袋、凍った根菜、乾燥きのこの束、それから名前の分からない木の実だった。
「どこにあったんですか」
「外だ」
やはり同じ答えだった。
外という場所は、ずいぶん何でも揃っているらしい。
料理は、見た目から想像していたよりずっと上手だった。
カイは鍋に雪を入れ、火の上で溶かす。そこへ根菜と豆を入れ、少し遅れてきのこを加えた。最後に木の実を砕き、塩と一緒に落としていく。
見た目は華やかではない。
茶色と白と薄い黄色。
料理にも着飾るという考えがあるのなら、ずいぶん質素な服装だった。
けれど、火の上でゆっくり煮込まれたそれは、驚くほどおいしかった。
根菜は匙で押すだけで崩れ、豆の甘さが塩気の奥から出てくる。乾いたきのこは湯を吸い、噛むたびに香りを広げた。
硬いパンを浸すと、最初からそういう食べ物だったように柔らかくなる。
私は何度もおかわりをした。
「食えるなら、治る」
カイはそれだけ言った。
「カイさんは、料理が上手なんですね」
「さんはいらない」
「カイは、料理が上手なんですね」
「生きるのに必要だっただけだ」
「必要なら、誰でもこんなにおいしく作れるものですか」
「作れないやつは、まずいものを食う」
「厳しい世界ですね」
「食えれば死なない」
「でも、おいしい方がうれしいです」
「そうか」
それ以上、カイは何も言わなかった。
けれど、次の日の煮込みには、砕いた木の実が少し多く入っていた。
偶然かもしれない。
カイに訊けば、きっと偶然だと言うだろう。
だから訊かなかった。
カイは無口だった。
怒っているわけではない。
かといって、親切な者を演じる気もないらしい。
ただ、使う言葉の数が少なかった。
暖炉の前でナイフを研ぐ時も、外套から雪を払う時も、古い地図を広げている時も、カイはほとんど喋らない。
目の前にいるのに、ずっと遠くを歩いているように見えることがあった。
火のそばへ座る灰色の狼。
けれど、金色の瞳だけは、私には見えない雪原を見ている。
そこに何があるのか訊いても、きっと答えてはくれない。
そう思わせる静けさがあった。
私は何度か、列車のことを話そうとした。
ハートがどうなったのか、分からなかったからだ。
あの手は届かなかった。
私の指には確かに触れたのに、掴むことはできなかった。
列車は吹雪の向こうへ消えていった。
それでも、ハートが簡単にいなくなるとは思えない。
あの熊は、いつも私より少し先まで知っているような顔をしていた。知らない時まで知っているような顔をするので、どこまで本当に知っているのかは怪しいけれど。
ただ、カイは列車を知らなかった。
この辺りに線路はない。
見たこともない。
そう言ったきり、深くは訊いてこなかった。
私も、洋館のような車両について、うまく説明できなかった。
黒い糸。
消えていく灯り。
形の定まらない黒いもの。
思い出そうとすると、喉の内側が冷たくなる。暗い廊下の奥から、名前のない何かがこちらを見ているような気がした。
そんな時、カイは決まって火へ薪を足した。
何も訊かない。
慰めるような言葉も言わない。
ただ、炎を少しだけ大きくする。
言葉の代わりに、暗い場所を減らしてくれているようだった。
それで十分だった。
数日が過ぎる頃には、身体もだいぶ動くようになっていた。
ある朝、私は寝台から降りた。
床へ足をつける。
痛みはある。
けれど、立てないほどではない。
壁へ手をつき、ゆっくり窓辺まで歩いた。
数歩進んだだけで息は上がった。膝も頼りない。それでも、倒れずに窓まで辿り着いた。
硝子の向こうでは、吹雪が少し弱まっていた。
白い地面の先に、黒い岩と低い丘の影が見える。空は薄い鉛色で、どこまで行っても暖かいものなど一つもなさそうだった。
雪が止みかけているだけなのに、世界が一度壊され、白だけを使って作り直されたように広く見えた。
「動けるようになったな」
背後でカイが言った。
私は振り返った。
カイは扉のそばで荷物をまとめていた。
外套の留め具を確かめ、袋の口を縛り、黒い鞘を腰へ戻す。
出かけるための支度には見えなかった。
この小屋へ、もう戻らない者の動きだった。
「どこかへ行くんですか」
「俺はここに住んでるわけじゃない」
「では」
「南へ行け」
カイは袋を背負った。
「ここから南に町がある。雪が弱い日なら、お前の足でも半日ほどだ。そこまで行けば、食い物も寝る場所もある」
「カイは」
「俺は北へ行く」
「北」
私は窓の外を見た。
南も北も分からない。
白いものは、どちらを向いても同じ白をしている。
けれど、カイの言った北という言葉には、目の前の雪よりも冷たい響きがあった。
「神の国へ行くんですか」
「ああ」
数日前、カイが口にした場所。
神がいるのかも、なぜ国と呼ばれているのかも、本人すら知らない場所だった。
「本当にあるかも分からないんですよね」
「分からない」
「それでも行くんですか」
「分からないから行く」
ずいぶん乱暴な理由だった。
けれど、カイの声には迷いがなかった。
確かめるまでは、あるとも、ないとも決めない。
誰かが引いた線ではなく、自分の足跡だけを信じて歩く者の言い方だった。
カイは扉へ手を掛けた。
「お前は南へ行け。ここに残っても何もない」
「待ってください」
思わず声が出た。
カイの手が止まる。
「何だ」
「私、まだ何も返せていません」
「いらない」
「でも」
「礼をされるために拾ったんじゃない」
「それでも、私が納得できません」
カイが振り返った。
暗い金色の瞳が、真っ直ぐ私を見る。
数日前なら、その目だけで黙っていたかもしれない。
けれど今は、引けなかった。
「私も行きます」
「どこへ」
「カイと一緒に」
「無理だ」
答えは、屋根から雪が落ちるより早かった。
「怪我人を連れていく道じゃない」
「もう歩けます」
「寝台から窓まで歩くのと、雪原を歩くのは違う」
「でも」
「南へ行け」
怒鳴ってはいない。
けれど、雪の下へ埋まった岩のように動かない声だった。
「お前には、お前の行く場所があるんだろ」
私は黙った。
行く場所。
夢から覚める方法。
兄を探すこと。
列車へ戻ること。
私には確かに、自分の旅がある。
「お前も旅をしてるのか」
カイが訊いた。
「はい」
「何のためだ」
すぐには答えられなかった。
夢から覚めたい。
兄さんを探したい。
元いた場所へ戻りたい。
どれも本当だった。
けれど、旅を始めた頃より、どの言葉も簡単ではなくなっている。
今までの旅路で誰かのために歩いた道が、いつの間にか私の道にも重なっていた。
「夢から覚める方法を探しています」
私はゆっくり答えた。
「それから、兄を探しています」
カイは何も言わなかった。
ただ、扉へ掛けていた手を下ろした。
「それを放って、俺についてくるのか」
声は静かだった。
「放っておくつもりはありません」
「なら南へ行け」
「南へ行けば、兄さんがいるんですか」
「知らない」
「列車がありますか」
「知らない」
「夢から覚める方法は」
「知らない」
「では、北へ行っても同じです」
「だから俺についてくるのか」
「はい」
「理由になってない」
「神の国に、何かあるかもしれません」
カイは黙って私を見た。
「夢から覚めるための手がかりかもしれない。兄さんへ近づく何かがあるかもしれない。何もないかもしれません」
「何もない可能性の方が高い」
「それでも、今ここで南へ行ったら、私はずっと考えます」
「何を」
「神の国に何があったのか。カイが何を探していたのか。それから、助けてもらったのに、何も返さず別れたことを」
「知る必要はない」
「知りたいと思ってしまいました」
「迷惑だな」
「私もそう思います」
カイの眉が僅かに動いた。
「それに、カイは私を助けてくれました」
「それは終わった話だ」
「私の中では終わっていません」
「勝手だな」
「はい」
「認めるのか」
「否定しても、勝手なのは変わりませんから」
カイは深く息を吐いた。
呆れている。
たぶん、かなり。
「一人より二人の方がいい時もあります」
「足手まといが増える」
「それは、歩きながら減らします」
「減るものじゃない」
「では、増やさないようにします」
「言い方を変えただけだ」
「気づきましたか」
「馬鹿にしてるのか」
「していません」
少しだけしていた。
でも、それを正直に言えば、南へ向かって投げられそうなので黙っておいた。
カイは私から視線を外した。
暖炉の炎を見る。
その向こうに、もっと遠い何かがあるような顔だった。
「俺は、仲間を作る気はない」
低い声だった。
ただ追い払うための言葉ではなかった。
長い間、雪の下へ埋め、誰にも掘り返させなかったものが、その奥にあるような気がした。
私はすぐには答えなかった。
軽く触れてはいけない言葉だと思ったからだ。
「仲間になってくださいとは言っていません」
やがて、私は言った。
「勝手についていくだけです」
カイの視線が戻る。
「屁理屈だな」
「そうかもしれません」
「雪道で倒れても、戻らない」
「倒れないようにします」
「迷っても探さない」
「迷わないようにします」
「泣いても止まらない」
「泣きながら追います」
「泣かないとは言わないんだな」
「そこまで嘘はつけません」
カイはしばらく私を見ていた。
暖炉の火が、小さく薪を噛む。
窓の外では、白い風が少しずつ弱くなっていた。
「信用できない」
「これから増やします」
「何を」
「信用を」
「荷物みたいに言うな」
「目に見えないので、増えたら教えてください」
「面倒だ」
「よく言われます」
たぶん今、初めて言われた。
でも、これから何度も言われる気がした。
カイは扉を開けた。
冷たい空気が小屋へ流れ込む。
「勝手にしろ」
それだけ言って、外へ出ていった。
一瞬、本当に置いていかれたのかと思った。
けれど、扉は閉められなかった。
開いたまま、白い風だけが細く入り込んでいる。
私は慌てて星型ポーチを肩へ掛けた。帽子を被り、手袋をはめ、コートの留め具を確かめる。
身体には、まだ痛みが残っていた。
けれど、歩ける。
少なくとも、歩き始めることはできる。
小屋の外へ出ると、白い雪原が広がっていた。
空は低く、地面はどこまでも白い。
遠くには黒い岩が並び、その先に、さらに白い丘が重なっている。風は冷たい。けれど、私を列車から奪った吹雪ほどではなかった。
カイは、少し先を歩いていた。
振り返らない。
待っているとも言わない。
けれど、歩く速さは、私が追いつけないほどではなかった。
私は小屋を一度だけ振り返った。
煙突から、細い煙が上がっている。
あの小さな休み場で、私は拾われ、眠り、食べ、もう一度立てるようになった。
今度は、そこを離れる番だった。
「待ってください」
声を掛けても、カイは振り返らない。
「待たない」
そう言いながら、彼の歩幅がほんの少しだけ狭くなった。
待っているではないか。
言えば元へ戻されそうなので、黙って追いかけた。
神の国へ続く道が、どこにあるのかは分からない。
兄さんの手がかりがあるのかも、夢から覚める方法へ近づくのかも分からない。
何もないのかもしれない。
それでも私は、その道を選んだ。
白い雪原の中、黒い外套の背中を追い、最初の一歩を踏み出した。




