止まり木のようなテンポで
次に目を開けた時、木の天井が見えた。
太い梁が一本、私の真上を横切っている。乾いた木の色をしていて、ところどころに古い傷があった。長い間、雪と風に耐えてきた建物なのだろう。黙っているだけなのに、私よりずっと多くの冬を知っているように見えた。
視線を少し動かすと、丸太を組んだ壁と、小さな窓があった。
分厚い窓硝子の向こうを、白いものが絶えず流れている。
吹雪だ。
そう気づいた途端、身体の内側へ冷たさが戻ってきた。
息を吸うと、胸のあたりが鈍く痛む。肩も背中も重い。指先を動かしてみると、厚い毛布の下で、ほんの少しだけ感覚が返ってきた。
自分の身体なのに、ずいぶん他人行儀だった。
こちらが困っている時くらい、もう少し協力してくれてもいいと思う。
ここは、どこだろう。
列車に乗っていた。
窓の外に雪が降り、車内へ黒い糸が伸びていた。
糸を追って、洋館のような車両へ入った。
長い廊下。
消えていく灯り。
形の定まらない黒いもの。
そこから先は、雪を上から何度も重ねたように白く途切れている。
ただ、ハートが手を伸ばしていたことだけは覚えていた。
私はそれを掴もうとした。
指先は触れた。
けれど、掴めなかった。
「……ハート、さん」
呼んだつもりだった。
喉から出たのは、乾いた息だけだった。
ぱち、と小さな音がした。
顔を横へ向けると、石で囲まれた暖炉が見えた。薪が燃え、橙色の光が壁の上をゆっくり揺れている。
火のそばには古い鍋が吊るされ、床には雪で濡れた靴と、厚手の外套が置かれていた。
誰かがいる。
そう思った時、扉の向こうで低い音がした。
木が軋み、外から白い風が流れ込んでくる。暖炉の火が一度だけ大きく傾き、壁に映った影が慌てたように伸びた。
私は身体を起こそうとした。
胸と背中に痛みが走り、すぐに寝台へ沈む。
「動くな」
低い声がした。
扉のそばに、大きな影が立っている。
影は外套についた雪を払い、ゆっくり小屋の中へ入ってきた。
狼だった。
灰色の毛並みに、まだ細かな雪が残っている。背が高く、肩幅も広い。金色に近い目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
私は息を呑んだ。
「身体を打ってる」
狼は扉を閉めながら言った。
「無理に起きれば、余計に痛める」
怖い声ではなかった。
けれど、私の意見を聞くつもりはなさそうだった。
私は大人しく寝台へ戻った。
こういう時、言うことを聞かない身体より、知らない狼の方が頼りになるのは少し複雑だった。
狼は暖炉のそばへ荷物を置き、濡れた外套を壁へ掛けた。
雪が溶け、床へ雫が落ちる。
一滴。
また一滴。
外から持ち込まれた冬が、小屋の中で少しずつ水へ戻っていく。
「ここは……」
「俺の小屋じゃない」
訊き終える前に答えが返ってきた。
「ただの休み場だ」
「休み場?」
「吹雪をやり過ごすために作られてる。道を知ってるやつなら使う」
狼は鍋の蓋を開け、木の匙で中をゆっくりかき混ぜた。
白い湯気が上がる。
根菜と豆、それから乾いたきのこの香りが、小屋の中へ広がった。
それまで眠っていた腹が、小さく鳴った。
できれば今だけは黙っていてほしかった。
けれど、身体の中で一番元気なのが腹なのだから仕方がない。
狼の耳が、わずかにこちらへ向いた。
私は毛布を鼻の近くまで引き上げた。
狼は何も言わず、棚から器を取った。
「食えるか」
「たぶん」
「たぶんじゃ分からない」
「食べます」
「ならいい」
鍋から煮込みをよそい、寝台のそばまで持ってくる。
私はもう一度起き上がろうとした。
胸が痛み、顔が勝手に歪む。
狼は短く息を吐いた。
「だから動くなと言った」
「すみません」
「謝るより、手を出せ」
私は毛布の中から片手を出した。
けれど、狼は器を渡さなかった。
匙ですくった煮込みへ息を吹きかけ、少しずつ冷ましてくれる。
見た目より、ずいぶん細かなことをする狼だった。
白い根菜と豆、それから細かく刻まれたきのこが入っていた。
口に入れると、熱と塩気が舌の上へ広がる。根菜はやわらかく、豆には少しだけ甘さがあった。
華やかな味ではない。
けれど、冷えた身体へ小さな灯りを一つずつ置いていくような温かさだった。
「おいしいです」
「そうか」
「あなたが作ったんですか」
「他に誰が作る」
「この小屋に、料理だけして帰る親切な誰かがいるのかと」
「いたら俺も会いたい」
私は少し笑った。
頬はまだうまく動かなかったけれど、さっきより息がしやすくなった。
「あなたが、助けてくれたんですか」
「他に誰がいる」
「ありがとうございます」
「礼は起き上がれるようになってからでいい」
そっけない。
それでも、器が空になるまで、狼は寝台のそばを離れなかった。
食べ終えると、器を持って暖炉の前へ戻っていく。
そこでようやく、寝台の脇に星型ポーチが置かれていることへ気づいた。
「あ……」
「それなら乾かした」
狼は振り返らずに言った。
「中は見てない」
「ありがとうございます」
「礼は後でいいと言った」
「では、後でまとめて言います」
「いらない」
星型ポーチがある。
列車から落ちたのに、これだけは一緒に来ていた。持ち主より丈夫なのは、喜ぶべきなのか、少し悩む。
私はポーチへ手を伸ばそうとした。
届かない。
狼はそれに気づくと、無言で寝台の上へ置いてくれた。
私は両手で抱える。
これがあるだけで、列車にいた時間まで夢ではなかったと思えた。
ハートはどうしているだろう。
黒い糸は。
洋館の車両は。
列車は、私が落ちた後も走り続けたのだろうか。
「なんで、あんな場所にいた」
狼が訊いた。
「あんな場所?」
「吹雪の中だ。道もない雪原で、雪に埋まりかけてた」
私はポーチを抱いたまま、言葉を探した。
「列車に乗っていました」
「列車?」
狼の目が、わずかに細くなる。
「この辺りに線路はない」
「でも、本当に乗っていたんです。窓の外に雪が降って、車内に黒い糸が見えて、それを追いかけたら……」
長い廊下。
消えていく灯り。
こちらを見る白い点。
黒い糸に動きを止められたハート。
そこまで思い出した瞬間、喉の奥が冷たくなった。
私は言葉を止めた。
「その後は、あまり覚えていません」
狼は私を見ていた。
疑っているようにも、信じているようにも見えない。
しばらくして、暖炉へ薪を一本足した。
「今は思い出さなくていい」
「でも」
「身体を打ってる。頭も冷えすぎていた」
新しい薪へ火が移り、細い橙色が伸びていく。
「無理に引っ張り出しても、分からないものは分からない」
乱暴な言い方だった。
けれど、無理に話さなくていいと言われているのだと分かった。
「あなたの名前を訊いてもいいですか」
狼はすぐには答えなかった。
火が薪を噛む音だけが、小屋の中へ響く。
窓の外では、吹雪が何度も硝子を叩いている。
「カイ」
やがて、狼は言った。
「カイさん」
「さんはいらない」
「でも、助けてもらいましたし」
「いらない」
「……カイ」
呼び捨てにすると、裸足で他人の家へ上がったような落ち着かなさがあった。
カイはそれ以上何も言わなかった。
許されたのか、訂正するのが面倒になったのかは分からない。
「私は、ひかりです」
「そうか」
カイは短く答えた。
名前を伝えただけなのに、ずいぶん簡単に会話が終わってしまった。
少しくらい、どんな字を書くのか訊かれるかと思っていた。
もっとも、今は紙も筆もないので、訊かれても困る。
「ここは、何という場所なんですか」
「名前はない」
「ないんですか」
「少なくとも俺は知らない」
カイは暖炉の前へ腰を下ろした。
「町でも村でもない。神の国へ続く道の途中にある、ただの休み場だ」
「神の国?」
初めて聞く言葉だった。
けれど、カイはそれ以上説明しなかった。
黒い鞘からナイフを抜き、布を刃へ滑らせ始める。
「神様がいるんですか」
「知らない」
「国なのに?」
「国と呼ばれてるだけだ」
「誰が呼んでいるんですか」
「知らない」
「何も分からないんですね」
カイの手が止まった。
金色の目が、こちらを向く。
「お前もだろ」
「そうでした」
言い返せなかった。
私は列車がどこへ向かっていたのかも、ここがどこなのかも、ハートがどこにいるのかも分からない。
分からない者同士なら、少しくらい仲良くできてもよさそうなのに、カイにはその気がなさそうだった。
「この近くに、駅はありますか」
「知らない」
「線路は」
「見たことがない」
「町は?」
「南にある」
「近いですか」
「今のお前には遠い」
南に町がある。
駅や線路がなくても、誰かが暮らしている場所はあるらしい。
私は窓の外を見た。
白い吹雪の向こうには、道どころか、地面と空の境目さえ見えない。
あの中から南を見つけられるのは、鳥か、風か、何度も迷ったことがある者くらいだろう。
「寝ろ」
カイが言った。
「まだ訊きたいことがあります」
「起きていられる顔じゃない」
「でも」
「寝ろ」
短い言葉に押され、私は黙った。
確かに、瞼は重い。
火の音も、吹雪の音も、遠くなったり近くなったりしている。身体はまだ痛いのに、毛布の中は温かい。
起きていようとするほど、眠りが足首を掴み、深い場所へ引いていく。
「カイさん」
「さんはいらない」
「カイ」
「何だ」
「助けてくれて、ありがとうございました」
返事はすぐにはなかった。
もう眠りかけていたから、聞こえなかったのかもしれない。
けれど、火の向こうから低い声が落ちた。
「生きていたのなら、それでいい」
その声は、薪が弾ける音より小さかった。
それでも、妙にはっきり聞こえた。
私は星型ポーチを抱いたまま目を閉じた。
外では、吹雪がまだ小屋を白の中へ埋めようとしている。
けれど、暖炉のそばだけは、冬が入ってこられない小さな島のように明るかった。




