揺籠の獣
列車は、いつもより静かだった。
がたん、ごとん、と車輪の音だけが通路の奥へ流れていく。座席の布は少し硬く、窓硝子には薄い曇りが張りついていた。私は袖口でそれを拭い、外を覗いた。
窓の向こうには、灰色の草原が広がっている。
草は低く、風に押されるたび、示し合わせたように同じ向きへ倒れた。遠くの空には重たい雲が垂れ下がり、地平線のあたりだけが白く滲んでいる。
乾いているのに、濡れて見える。
冷たいのに、まだ雪はない。
冬が姿を見せる前に、その影だけを大地へ置いていったようだった。
私は窓へ額を近づけた。
硝子越しなのに、外の冷たさが皮膚へ移ってくる気がする。
今までの列車は、不思議なくらい快適だった。どんな場所へ向かっていても、車内だけは暑すぎず、寒すぎず、旅人を少しくらい甘やかしても罰は当たらないと考えているようだった。
今日は違う。
足元から薄い冷気が這い上がり、膝の上に置いた指が勝手に縮こまっていく。列車が冬を運んでいるのか、それとも冬の方から列車へ乗り込んできたのか。どちらにしても、きっぷは見せていないと思う。
「寒いのかい?」
声に振り向くと、通路の向こうにハートが立っていた。
相変わらず大きな熊の紳士だった。帽子を少し斜めに被り、片手には小さな紙袋を持っている。彼が歩くたび、床板がほんの少し軋んだ。列車まで遠慮しているようで、少しだけ可笑しい。
「少しだけ」
「そろそろ雪が降るよ」
「雪ですか」
私はもう一度、窓の外を見た。
灰色の草原の先で、空が低く垂れ込めている。まだ雪は見えない。けれど、雲の腹には、雨よりも白く、雨よりも軽い何かが詰まっているようだった。
「次は寒い場所なのかもしれないね」
ハートは私の向かいへ腰を下ろした。
「ハートさんは、どこへ向かっているのか分かるんですか」
「いいや」
「分からないんですか」
「分かったら、もう少し格好よく案内してあげられるんだけどね」
ハートは困ったように笑った。
「この列車は、僕たちに親切そうな顔をして、大事なことはあまり教えてくれない」
「せめて降りる前に、寒いかどうかくらい教えてほしいです」
「驚く楽しみが減ると思っているのかもしれない」
「迷惑な親切ですね」
「まったくだ」
ハートは紙袋を開いた。
中には、小さなマシュマロが入っていた。
白くて、丸くて、何も知らない顔をしている。
それを見ると、アリスを思い出した。
「食べるかい?」
「ありがとうございます」
一つ受け取ると、指先にかすかな温度が残った。口へ入れれば、やさしい甘さが舌の上でほどけていく。
けれど、車内の冷たさは少しずつ濃くなっていた。甘いものを一つ食べたくらいで、冬が気を利かせて帰ってくれるはずもない。
「早着替えコンパクトに頼んでみるといい」
ハートが窓の外を眺めながら言った。
「あれは、こういう時に役立つ」
「あ、そうでした」
私は星型ポーチからコンパクトを取り出した。
蓋を開くと、小さな鏡の中に今の私が映る。水色のパーカーにショートパンツ。列車の中では困らないけれど、雪の中へ出れば、寒さへ身を差し出すための服装にしか見えない。
「暖かい服に、なれますように」
そう呟くと、鏡の奥で光が弾けた。
白い光が身体のまわりを一周し、次の瞬間には、厚手の白いコートが肩を包んでいた。首元には淡い青のマフラー。手には手袋。頭には耳まで覆う帽子。足元も、雪へ沈んでも簡単には脱げそうにない靴へ変わっている。
「よく似合っているよ」
「ありがとうございます。少し、丸くなっていませんか」
「雪の中では、そのくらいがちょうどいい」
「ハートさんに言われると、妙な説得力があります」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ハートは満足そうに頷いた。
その時だった。
窓の外で、白いものが一つ落ちた。
最初は見間違いかと思った。
けれど、また一つ。
その次に、二つ。
灰色の景色へ、小さな白が増えていく。
「本当に降ってきました」
「言っただろう」
「でも、急に」
「この世界は、急に変わることの方が多い」
ハートの声は穏やかだった。
私は窓の外を見つめた。
雪はまだ細い。けれど、草原も、低い丘も、空との境目も、少しずつ白の向こうへ溶けていく。
きれいだった。
きれいだからこそ、嫌な予感がした。
美しいものは、こちらが油断した頃に牙を見せる。少なくとも、この列車で見てきた景色は、だいたいそうだった。
「マダム、怒ってたかい?」
そう切り出したのはハートだった。
以前会った時、ハートは魔女の国について知らないような顔をしていた。
あまり上手な嘘ではなかった。
熊の顔は人間より表情が読みにくいはずなのに、あれでは毛皮の方が気の毒だ。
けれど、彼なりに言えない理由があるのだろうと思い、それ以上は訊かなかった。
「すっっっごく怒っています、と伝えてほしいと言われました」
「やっぱり」
ハートは帽子のつばを少し下げた。
「だから帰りたくないんだ」
その呟きは、紳士というより、叱られる前の子供に近かった。
「でも、すごく寂しそうでした」
「……そうかい」
「会いたいんだと思いますよ」
「だけどなぁ」
珍しく、ハートが言葉を濁した。
私はマフラーの端を整えながら言った。
「会えなくなってからじゃ、遅いんですよ」
ハートの肩が、わずかに止まった。
彼はゆっくりこちらを向いた。
大きな黒い瞳に、ほんの一瞬だけ、深い色が浮かんだ。
悲しみに似ていた。
けれど、それだけではない気もした。
もう戻せない時間を、誰かに急に見せられたような顔だった。
「そうだね」
ハートは小さく息を吐いた。
「うん。そうだ」
それから、困ったように笑った。
「まいったな、ひかり。ありがとう。近いうちに、会いに行くことにするよ」
「そうしてください。きっと喜びます」
「あまり怒られないといいけどね」
「それは無理だと思います」
「やっぱり?」
「すっっっごく怒っていますから」
ハートは肩を落とした。
でも、その顔はさっきより少しだけ軽く見えた。
私は窓の外へ視線を戻した。
雪はいつの間にか数を増やし、白い幕になりかけている。
その視界の端に、黒いものが見えた。
最初は、窓へ髪でも貼りついたのかと思った。
私は袖で硝子を拭った。
消えない。
もう一度、強く拭う。
それでも残っている。
黒い線は、硝子の向こうではなかった。
車内にある。
細い糸だった。
座席の脚のそばから伸び、床を這い、通路の奥へ続いている。
黒く、細く、けれど妙にはっきりしていた。灯りを受けても光らない。影が自分の形を忘れ、糸のふりをして寝そべっているようだった。
「ハートさん」
「どうしたんだい」
「あそこに、糸があります」
私が指すと、ハートは床へ視線を落とした。
少しの間、何も言わない。
やがて、眉を寄せた。
「糸?」
「見えませんか」
「私には、何も見えない」
私は黒い糸を見る。
確かにある。
座席の下から通路へ。
通路から、車両を繋ぐ扉へ。
その先へ。
まるで誰かが、私にだけ道を引いているようだった。
今までの旅でも、似たものはあった。
目の端へ引っかかり、気づいてしまえば無視できなくなるもの。
そういうものは、いつも私をどこかへ連れていった。
良い場所とは限らない。
むしろ、良い場所だったことの方が少ない気もする。
それでも、その先には誰かがいた。
「見に行くのかい」
ハートが訊いた。
私はすぐには答えなかった。
黒い糸は、通路の奥へ続いている。
その先にあるのは、洋館のような車両だった。
古い調度品。
赤茶色の壁紙。
音を吸い込む絨毯。
誰もいないはずなのに、視線だけが残っているような場所。
好んで入りたいとは思わない。
けれど、黒い糸は迷わずそこへ向かっていた。
「あそこには、入らない方がいい」
ハートの声が低くなる。
「どうしてですか」
「この列車には、入っていい場所と、そうでない場所がある」
「誰が決めたんですか」
「列車かもしれないし、もっと別の何かかもしれない」
「曖昧ですね」
「曖昧だから危ないんだよ」
ハートは黒い糸があるはずの床を見つめた。
見えていないのに、何かを探しているようだった。
「あの車両は、少なくとも今の君が一人で入る場所じゃない」
「一人じゃなければ」
「そういう問題でもない」
いつもの柔らかさが、声から消えていた。
それなのに、私は糸から目を離せなかった。
危ない。
戻るべきだ。
ハートの言うことが正しい。
分かっている。
それでも、座席へ戻り、何も見なかったことにする方が難しかった。
黒い糸は床にあるだけなのに、こちらを引いていた。
指にも、足にも触れていない。
それなのに、身体の奥へ細い針を通され、向こう側からゆっくり引かれているようだった。
「ひかり」
ハートが私の名を呼んだ。
その声で、少しだけ息が戻った。
「すみません。でも、あれが」
「誘っているのかもしれない」
「誘っている?」
「君を」
ハートは立ち上がった。
紙袋を座席へ置き、帽子を被り直す。
「なら、なおさら一人で行かせるわけにはいかない」
「一緒に来てくれるんですか」
「止めても行く顔をしているからね」
「そんな顔をしていますか」
「かなり」
「自分では分かりません」
「自分で分かるなら、もう少し止めやすかった」
返す言葉がなかった。
私たちは通路へ出た。
列車は雪の中を走っている。
窓の外はもう白く霞み、景色はほとんど残っていなかった。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
規則正しかった音が、今日は妙に遠く聞こえる。
黒い糸は通路の中央を真っ直ぐ伸び、車両と車両を繋ぐ扉の隙間へ吸い込まれていた。
その糸を追うほど、車内の温度が下がっていく。
息が白くなる。
足元の床が、少しずつ硬さを変える。
木の板だったはずなのに、薄い氷の上を歩いているような感触がした。
「寒いね」
ハートが呟いた。
「さっきより」
「ああ」
彼は片手を扉へ伸ばした。
けれど、途中で止まった。
指先が、わずかに震えている。
「ハートさん?」
「いや」
ハートは一度、目を閉じた。
「何でもない」
何でもない顔ではなかった。
黒い糸は、彼には見えない。
けれど、その影はいつの間にかハートの靴の下を通り、外套の裾へ細く触れていた。
触れた場所から、彼の輪郭がほんの少しだけ滲んで見える。
見間違いだと思った。
思いたかった。
「開けるよ」
ハートが言った。
私は頷いた。
けれど、彼が取っ手へ触れるより先に、扉はひとりでに開いた。
向こうには、洋館の廊下が続いていた。
赤茶色の壁紙。
古びた絨毯。
真鍮の燭台。
窓のない長い廊下の奥で、灯りだけがゆらゆら揺れている。列車の中とは思えないほど広く、静かだった。扉一枚の向こうへ、建物を丸ごと畳んで押し込んだようだった。
黒い糸は絨毯の中央を這い、その奥へ続いている。
「戻ろう」
ハートが言った。
声は、さっきより低かった。
私は頷こうとした。
けれど、足が動かなかった。
廊下の奥に、何かがいる。
姿は見えない。
けれど、いる。
空気が重くなり、喉の奥が急に狭くなる。胸の奥で、冷たいものがゆっくり広がった。
逃げなければならない。
そう分かっているのに、身体は黒い糸と同じ方向へ傾いていく。
「ひかり」
ハートが私の肩へ手を置いた。
その手は大きかった。
けれど、力が弱い。
いつもの彼なら、私一人くらい簡単に引き戻せるはずだった。
「戻るよ」
「はい」
私は答えた。
それなのに、足は廊下へ一歩入った。
「ひかり?」
自分でも、どうして動いたのか分からなかった。
絨毯は柔らかく、足音を呑み込んだ。
二歩目。
三歩目。
黒い糸が靴の先で、かすかに震える。
ハートも私を追って廊下へ入った。
止めるためだったはずだ。
けれど、彼の歩みも妙に遅い。私の腕へ伸ばした手が、何度も途中で迷うように止まった。
「ハートさん」
「分かっている」
「何がですか」
「ここは、よくない」
「なら、戻らないと」
「ああ」
口ではそう言いながら、私たちは進んでいた。
この廊下では、言葉だけが後ろへ歩き、身体だけが前へ連れていかれるらしい。
燭台の炎が一つ消えた。
次に、その隣。
灯りは奥からではなく、私たちの後ろから消えていく。
戻る道を、一つずつ夜へ変えている。
「走って」
ハートが言った。
けれど、声に力がなかった。
瞼が少し下がり、別の景色を見ているようだった。
「ハートさん、私を見てください」
「見ているよ」
「見ていません」
私は彼の袖を掴んだ。
布の下にある腕が、ひどく冷たい。
黒い糸がハートの足元から這い上がり、外套の裾へ絡みついていた。
それでも、彼には見えていない。
「糸が、ハートさんに」
「糸?」
また同じ言葉だった。
最初に聞いた時よりも、返事が遅い。
黒い糸が一度、脈を打つように震えた。
その瞬間、廊下の奥から声がした。
言葉にはならない。
誰かが遠くで私の名を呼んだようにも、何人もの声が一度に息を吐いたようにも聞こえた。
耳へ届いたはずなのに、どんな声だったのか思い出せない。
廊下の奥で、黒いものが動いた。
床へ落ちていた影が集まり、立ち上がろうとしている。
腕らしきものが増え、消え、また別の場所から伸びる。顔のあるはずの場所だけが深く窪み、その内側で白い点がいくつも瞬いていた。
生き物の形をしているようで、どこにも正しい形がない。
目を逸らすたびに輪郭が変わり、見直すたびに少しだけ近づいている。
その一部に、なぜか懐かしさを感じるのは気のせいなのか。
「戻って」
私は言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
黒いものが、音もなく一歩進んだ。
絨毯の上へ、黒い滴が落ちる。
滴はすぐ糸へ変わり、四方へ走った。
「ひかり!」
ハートの声が響いた。
今度は、はっきりしていた。
彼が私の腕を掴む。
強い力だった。
一瞬だけ、黒い糸が彼の外套から剥がれた。
「戻るんだ!」
私は引かれた。
足が絨毯の上を滑る。
黒いものがこちらへ腕を伸ばした。
廊下の壁が大きく歪む。
赤茶色の壁紙が裂け、その下から黒い糸が無数に溢れ出した。燭台が落ち、炎が絨毯へ散る。床が波のように持ち上がり、列車全体が横倒しになったような衝撃が走った。
ハートの手が、私の腕からずれた。
彼はもう一度、私を掴もうとした。
けれど、黒い糸が床から跳ね上がり、ハートの腕へ巻きついた。
彼の動きが止まる。
ほんの一瞬だった。
その一瞬で、床が消えた。
洋館の廊下と列車の通路が重なり、扉も壁も、どちらが内側でどちらが外側なのか分からなくなる。白い吹雪が、裂けた空間から一気に流れ込んできた。
風が顔を叩く。
息ができない。
足元が浮く。
私は何かを掴もうと、必死に手を伸ばした。
ハートが、こちらへ腕を伸ばしている。
大きな手だった。
「掴め!」
私は指を伸ばした。
触れた。
指先が、彼の毛へ沈んだ。
あと少し。
あと少しで、掴める。
けれど、黒い糸が彼の肩を後ろへ引いた。
ハートの身体が僅かに揺れる。
私の指が滑った。
「ひかり!」
彼の声が、吹雪の中で裂けた。
触れていた温度が消える。
列車の灯りが遠ざかる。
ハートの顔も、伸ばされた手も、洋館の廊下も、形の定まらない黒い影も、すべてが白の中へ呑み込まれていく。
落ちる。
そう思った時には、もう上下がなかった。
風が身体を回し、雪が頬を切る。
白い世界の中で、列車だけが遠くへ走っていく。がたん、ごとん、という音が、空の上なのか地面の下なのか分からない場所から聞こえた。
私は腕を伸ばした。
もう何もない。
掴めるものは、雪だけだった。
身体が何かへぶつかった。
硬くはない。
深い雪が、私を丸ごと呑み込んだ。
冷たさが服の隙間から入り、息を奪う。口の中へ雪が入り、吐き出そうとしても身体が動かなかった。
起き上がらなければ。
列車を探さなければ。
ハートのところへ戻らなければ。
考えだけが浮かび、身体は何一つ従わない。
遠くで、列車の音がした。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
それも少しずつ薄れ、吹雪の音へ溶けていく。
白い景色の向こうに、大きな影が見えた。
雪を掻き分け、こちらへ近づいてくる。
熊ではない。
もっと細く、もっと鋭い輪郭だった。
誰かが、雪の中へ沈んだ私を見下ろした。
低い声がした気がする。
けれど、言葉になる前に、私の意識は白の底へ沈んだ。




