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待合室

「……っ」

 息を吸おうとして、喉の奥が小さく鳴った。

 空気が冷たい。

 吸い込むたびに、細かな氷を喉へ流し込まれているようだった。

 何が起きたのだろう。

 身体が、うまく動かない。

 たしか、私は列車に乗っていた。

 窓の外が白くなって、車輪とは違う揺れが足元から突き上げてきた。それから、列車と私を繋いでいた何かが、急に切れてしまった。

 身体が宙へ放り出された。

 風の音。

 白い景色。

 上下も分からないまま落ちていく感覚。

 その中で、ハートが手を伸ばしていた。

 大きな手だった。

 私はそれを掴もうとした。

 掴めたのか。

 掴めなかったのか。

 思い出そうとすると、記憶の端が雪のように崩れていく。

 指先には、冷たさだけが残っていた。

 なんとか瞼を持ち上げると、そこは知らない色をしていた。

 白ではない。

 灰色でもない。

 橙色の光が、ぼやけた視界の中でゆらゆらと揺れている。近づいては遠ざかり、遠ざかったと思えば、また目の前へ戻ってくる。

 まるで、小さな太陽が息をしているみたいだった。

 耳を澄ます。

 パチ。

 パチ。

 何かが弾ける音がする。

 時々、細い枝が折れるような音も混じった。それから少しだけ静かになり、また火が小さく喋り始める。

 燃えている。

 たぶん、これは火だ。

 火を見ているだけなのに、身体が自分のものへ戻ってくるような気がした。

「起きたのか」

 意識を向けていなかった場所から低い声がして、私は息を呑んだ。

 振り向こうとした。

 けれど、身体は私の頼みを聞かなかった。

 腕も足も、厚い布の中へ沈んだまま、自分のものではないみたいに重い。息をするだけで胸の奥が痛み、指を少し動かしただけで、全身へ冷たさが戻ってくる。

 眠っている間に、私の身体だけ別の場所へ置いてこられたのかもしれない。

 そんな馬鹿なことを考えた。

 でも、知らない小屋で、知らない火を見て、知らない声を聞いているのだから、身体の一つくらい置き忘れていても不思議ではなかった。

「まだ寝ていろ」

 低い声が言った。

「あの吹雪の中で、よく生きてた」

 足音が近づいてくる。

 炎の向こうに、大きな影があった。

 光が揺れるたび、輪郭も形を変えた。立っているのか、火の中から現れたのか、それさえ分からない。

 ただ、外套から雪が溶け落ちる音だけは聞こえた。

 一滴。

 また一滴。

 床へ落ちるたび、外の冬がこの小屋の中で少しずつ水へ戻っていく。

 影が火を回り込んだ。

 狼だった。

 大きい。

 私が知っている犬よりもずっと大きく、立っているだけで小屋の狭さが増したように見えた。狼は私のそばへ膝をつき、しばらく顔を覗き込んだ。

 逃げなければ。

 そう思った。

 けれど、身体は相変わらず私の言うことを聞かない。

 こういう時だけ従順なのだから、ずいぶん役に立たない身体だった。

「頑張ったな」

 狼はそう言った。

 それから、私の頭へ手を置いた。

 撫でるというより、そこに私がいることを確かめるような触れ方だった。

 大きくて、温かい。

 指は少し硬く、動かし方も不器用だった。

 それでも、その手が触れた場所から、ばらばらになっていた私が一つずつ戻ってくるような気がした。

 雪の中へ落としてきたものを、その手が拾い集め、もう一度布の中へ並べてくれている。

 その瞬間、身体の奥で張りつめていたものが、ぷつりと切れた。

 火の音が遠くなる。

 橙色の光が、瞼の裏で水に溶ける。

 身体の重さも、寒さも、知らない狼への怖さも、少しずつ眠りの底へ沈んでいく。

「おやすみ」

 低い声が、最後にそう言った。

 私は返事をしようとした。

 けれど、声は出なかった。

 代わりに、頭の上の手へほんの少しだけ身体を寄せた。

 どこかで、同じように私へ触れた手があった気がした。

 顔は見えない。

 声も思い出せない。

 それでも、その温度だけは知っていた。

 途切れていく意識の中で、私は狼の手に、兄の手を重ねていた。

 

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