プロローグ
まどろみの底から浮かび上がると、目の前には陽の光が溜まっていた。
俺は庭に面した硝子戸のそばで寝転んでいる。家の中で一番よく陽が集まる場所だった。別に俺のために用意されたわけではないらしいが、先に取った者のものだ。人間というものは何にでも決まりを作りたがるくせに、陽だまりの順番までは決めていなかった。
朝はまだ床が冷たい。
昼を少し過ぎる頃になると、木の板がゆっくりと熱を含み、腹の下から眠気が染み込んでくる。だから俺はいつも、誰より先にここへ来た。
あいつは俺を見つけるたび、またそこにいるのか、と笑った。
また、ということは、昨日もいたのだろう。
たぶん明日もいる。
わざわざ訊くほどのことではない。
庭から花の香りが流れ込んでくる。
俺は、あの匂いがあまり好きではなかった。甘すぎる。鼻の奥にいつまでも居座るし、風向きによってはくしゃみまで出る。花というものは、咲いているだけのくせに、ずいぶんと自己主張が激しい。
それをあいつに訴えると、春の匂いなんだから我慢しろ、と言われた。
春だから花が咲く。
春だから庭が明るくなる。
春だから、外を走る子供たちの声も少し高くなる。
何でも春のせいにすれば許されるらしい。
ずいぶん便利な季節だった。
それでも、嫌いだと言い切ることはできなかった。
硝子戸の向こうで、桜の花びらが一枚落ちた。
風に押され、庭先を転がり、陽の光を薄く透かしている。白とも桃色とも言えない色だった。空から落ちてきた小さな硝子の欠片が、壊れないまま地面を滑っているようにも見えた。
その向こうを、子供たちが走っていく。
何かを追いかけているのか。
何かから逃げているのか。
俺には分からない。
子供というものは、理由がなくても走る。疲れれば止まるくせに、止まるまでは永遠に走れるような顔をしている。
声が遠ざかるたび、家の中へ静けさが戻ってきた。
戻ってきた静けさは、さっきまでと少し違っていた。子供たちの声が消えたぶんだけ広くなり、花びらが落ちたぶんだけ春が深くなっている。
あいつの手が、俺の頭をゆっくり撫でた。
大きくも、小さくもない手だった。
けれど、俺にはその手が一番よく馴染んでいた。
少し乾いていて、指先には紙の匂いが残っている。時々、菓子の甘い匂いが混じっていることもあった。隠して食べたつもりなのだろうが、鼻まで誤魔化せると思っているあたり、人間は妙なところで自信家だった。
俺が顔を上げると、あいつは何かを言った。
言葉のすべては覚えていない。
けれど、声だけは覚えている。
春の午後に似た、やわらかな声だった。
暖かく、明るく、いつまでも続くように思えて、けれど本当は少しずつ暮れていく。そんな声だった。
こんな日が、いつまでも続けばいい。
そう思った。
たぶん、あいつも同じことを考えていたのだろう。
俺の頭に置かれた手は、しばらくそこを離れなかった。
庭では桜が散り続けている。
咲いたばかりの花も、散る時には何の相談もしない。風に呼ばれれば、惜しむ素振りもなく枝を離れる。
それでも木は立っている。
春も終わらない。
花が一枚減ったくらいでは、世界は何も失っていないような顔をしていた。
硝子戸の内側には、静かな陽だまりだけが残っていた。
俺はもう一度、そこへ身体を預けた。
花の匂いも、遠ざかる子供たちの声も、背中を撫でる手のぬくもりも、眠気の中でゆっくりとほどけていく。
どれから先に消えたのかは分からない。
最後まで残っていたのは、あいつの声だった。
俺の名を呼んでいた気がする。
俺は返事の代わりに、ほんの少しだけ身じろぎをした。
それで十分だと思っていた。
名前を呼ばれれば、いつでも目を開けられる。
あいつの手は、明日もここにある。
春も、また同じ場所へ戻ってくる。
あの頃の俺は、そう信じていた。
そして、陽の底へ沈むように目を閉じた。




