それぞれの道へ
それから数日、私は図書塔へ通った。
アリスとローゼも、できるだけ時間を作って付き合ってくれた。マダム・ペンシルベニアは下の三層だけでなく、いくつかの上層の本も許可してくれた。もちろん、危険な本はマダムが直接選び、私たちは机に置かれたものを読むだけだった。
眠りの国についての本や、夢に迷い込んだ旅人の記録、夜にだけ開く扉の伝承。目覚めを拒む獣の話から、夢と記憶、心と魔法の境目について書かれた難しい本まで、私は何冊も開き、何度も文字を追った。
けれど、夢から覚める方法というものは、どこにも見つからなかった。
「ごめんね」
アリスは何度もそう言った。
「私、天の魔女になったのに、ひかりの出口を見つけられない」
「天の魔女になったばかりですから」
ローゼがすぐに言う。
「それに、称号を得たからといって、世界のすべてを知るわけではありません」
「でも」
「でも、ではありません」
ローゼは本を閉じ、アリスの方を見た。
「知らないことを、知らないと認めるのも魔女の務めです」
「ローゼ、先生みたい」
「これから本当に先生の弟子になるのですから、少しはそれらしくします」
「じゃあ、私は?」
「あなたは、まず本を逆さまに読まないところからです」
「逆さまでも絵は見えるよ」
「文字を読みなさい」
二人のやり取りは、以前と少しだけ変わった。
アリスはローゼへ遠慮なく話しかける。ローゼもそれを叱る。けれど、叱る声の奥に、前より柔らかいものがあった。アリスも、ローゼが黙った時には少し待つようになった。すぐに笑いで埋めようとせず、ローゼが言葉を探す時間を、ちゃんと見ている。
親友になったから、何もかも簡単になったわけではない。
それでも、二人はもう、相手のためだと言いながら一人で決めることをしなかった。
私も、二人の隣で本を読んだ。
読めない文字はローゼが教えてくれた。絵の多い本はアリスが横から覗き込み、これは鳥に似ているとか、この魔法陣はお菓子みたいだとか、よく分からない感想を言った。ローゼはそのたびに訂正し、私はその横で少し笑った。
夢から覚める方法は見つからなかった。
けれど、それを知った時、私は思っていたほど落ち込まなかった。
夢は、いつか覚めるものだ。
それはたぶん、本に書いていなくても、私のどこかが知っている。
それに、この世界はただ夢から覚めるためだけの場所ではない。ここには、兄さんの痕跡があるかもしれない。兄さんがこの世界にいたとして、今もどこかにいるのか、それとももうこの世界でも死んでしまっているのか。どんな獣の姿になり、記憶をどれだけ残しているのかも分からない。
でも、分からないまま目覚めてしまったら。
きっと私は、目覚めたあともずっと、この世界に置いてきたものを探し続けてしまう。
私はまだ、探したかった。
兄さんのことを。
この世界に残る、私と繋がっているかもしれない何かを。
ある日の夕方、私はマダム・ペンシルベニアの校長室へ呼ばれた。
部屋の窓からは、青い町の屋根が見えた。夕方の光を受けて、屋根の縁も、塔の先も、どこか淡い紫に近い色へ変わっている。机の上には、相変わらず本と紙束が積まれていた。その中に、古い帳面もいくつか置かれている。
「申し訳ないけれど」
マダムは眼鏡を外し、ゆっくり言った。
「あなたのお兄様について、はっきりしたことは分かりませんでした」
「そうですか」
「この世界に来た者が、必ず記録に残るわけではありません。まして、あなたのお兄様がこの世界の外から来た方なら、ここの理だけでは測れません。人としての記憶を持っているかもしれない。ほとんど失っているかもしれない。どの姿で、どの場所にいるか。あるいは、すでにいないのか。それをここから探るのは難しいのです」
分かっていた。
簡単に見つかるとは思っていなかった。
それでも、言葉にされると胸の奥が少しだけ沈んだ。
「でも」
マダムはそこで、声を少し柔らかくした。
「強く願い続けることは、魔法の初歩です」
「願い続けること」
「ええ。魔法は、何も杖や呪文からだけ始まるわけではありません。何かへ向けた願い。失いたくないという想い。もう一度会いたいという声。そういうものは、世界へ細い線を伸ばします」
マダムは私を見る。
その目は、私の奥にあるものまで見ているようだった。
「あなたが願い続けるのなら、きっと二人は出会うでしょう」
「本当に、ですか」
「魔女は、絶対という言葉をあまり信用しません」
マダムは少しだけ笑った。
「けれど、私はそう思います」
私は膝の上で手を握った。
兄さん。
その名前はまだ、私の中で遠い。
姿も、声も、はっきりしないところがたくさんある。けれど、探したいという気持ちは消えなかった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「え?」
「あなたは、私の生徒を二人も連れ戻してくれました。感謝するのはこちらです」
マダムは机の上の紙束を整えながら言った。
「あの森で起きたことは、私と、あなたと、アリスと、ロージリアの四人だけの秘密にしておきましょう。称号授与の日に新しい天の魔女と樹海の魔女が森へ飛び出し、魔女狩りと交戦したなどと知られたら、卒業式の前に説教で一週間が終わります」
「それは」
「嫌でしょう?」
「はい」
私は素直に頷いた。
マダムは満足そうに笑った。
「では、秘密です」
そうして、ローゼが飛び出したことも、アリスがそれを追ったことも、私たちが森で魔女狩りと出会ったことも、学校の誰にも知られないままになった。
もちろん、全く何もなかったことにはならない。
アリスは三日ほど、食後のお菓子を半分にされた。
ローゼは図書塔の整理を手伝わされた。
私はマダムの部屋で、知らない本の埃を払う係になった。
アリスは「これ、秘密にしてるわりに罰がある」と言ったけれど、ローゼが「秘密と反省は両立します」と返し、マダムも「その通り」と頷いた。
それからの日々は、穏やかに過ぎた。
卒業式の準備が始まり、魔法学校の廊下には青い花飾りが増えていった。見習いたちは慌ただしく動き、先生たちは最後の確認に追われていた。アリスは次代の天の魔女として、これから先代のもとで学ぶことになった。ローゼは、遠い樹海へ向かい、そこで樹海の魔女について学ぶのだという。
その話を聞いた時、私は少しだけ不思議な気持ちになった。
樹海の魔女。
それは、私が前に出会った魔女と同じ称号だった。
でも、目の前のローゼと、あの樹海の魔女は結びつかなかった。時間も、姿も、雰囲気も、私の中ではうまく重ならない。ただ、ローゼがその場所へ向かうのだと聞いて、私はあの森の家と、マシュマロと、少し不思議な優しさを思い出した。
「樹海の魔女に会ったことがあるのですか」
ローゼが訊いた。
「はい。前に、少しだけ」
「私がこれから向かう場所にいる方ですね」
「たぶん」
「どんな方でしたか」
「優しい人でした」
私は少し考えてから答えた。
「怖いところもあるけれど、ちゃんと見てくれる人です。あと、マシュマロに詳しいです」
「マシュマロ」
アリスがすぐに反応した。
「樹海にはマシュマロがあるの?」
「あると思います」
「ローゼ、いいなあ」
「あなたは天の魔女の弟子になるのでしょう」
「天にもマシュマロあるかな」
「知りません」
「なかったら送ってね」
「樹海が食料品店のような場所かどうかは、行ってみなければ分かりません」
「じゃあ、あったら送って」
「考えておきます」
ローゼはそう言った。
前なら、すぐに「送りません」と言っていたかもしれない。アリスもそれに気づいたのか、嬉しそうに笑った。
卒業式の日は、よく晴れていた。
空は青く、町も、屋根も、階段も、窓枠も、全部がいつもより澄んで見えた。魔法学校の中庭には椅子が並べられ、噴水の水球には小さな光の魚が泳いでいる。見習いたちはそれぞれの服を整え、胸元には授かった称号の小さな印をつけていた。
アリスは天の魔女の印をつけていた。
少し照れくさそうに、でも誇らしそうに。
ローゼは樹海の魔女の印をつけていた。
まだ完全に馴染んでいるわけではないのかもしれない。けれど、もうそれを拒むような顔はしていなかった。
式は静かに進んだ。
マダム・ペンシルベニアは、卒業する見習いたちへ言葉を贈った。魔女とは、知る者であり、知らないことを恐れない者であり、自分の力を誰かのために使うことを忘れない者であると。その声は広い中庭に響き、青い空へ溶けていった。
私は後ろの席でそれを聞いていた。
正式な生徒ではない私も、特別留学生として式に参加していいと言われた。アリスが「ひかりも卒業でいいんじゃない?」と言ったけれど、ローゼが「ひかりさんは入学したばかりです」と返した。マダムは「短期留学修了ですね」と言って、後で小さな紙をくれた。
そこには、私には読めない文字で何かが書かれていた。
「何て書いてあるんですか」
私が訊くと、アリスが覗き込み、ローゼも横から見た。
「魔法学校、短期留学修了」
ローゼが読み上げる。
「魔力反応は希薄。ただし、縁を結ぶ不思議な素質を認む」
「縁を結ぶ」
私は思わず紙を見た。
マダムらしいような、そうでないような言葉だった。
「いいじゃない」
アリスは笑った。
「ひかりっぽい」
「褒め言葉でしょうか」
「褒め言葉だよ」
「ええ」
ローゼも頷いた。
「かなり」
卒業式が終わると、旅立ちの時間が近づいた。
アリスは天の魔女のもとへ向かう馬車に乗る。
ローゼは樹海へ向かうため、別の魔女に迎えられる。
私は、駅へ戻る。
私たちは同じ日に、それぞれ違う道へ進むことになっていた。
魔法学校の門の前には、青い花が揺れている。
門番の魔女たちもいて、初めてこの国へ来た時のことを思い出した。あの時は、この国のことも、アリスのことも、ローゼのことも、何も知らなかった。ひまわり畑を通り、青い門をくぐり、魔法学校へ迷い込んだ。
それが今では、別れを惜しむ場所になっている。
「ひかり」
アリスが私の前に立った。
今日は頬にマシュマロの粉はついていない。けれど、どこか物足りないような気がして、私は少しだけ笑ってしまった。
「何?」
「いえ。今日は粉がないなと思って」
「あ」
アリスは慌てて頬を触る。
「ちゃんと拭いたよ。卒業式だから」
「えらいです」
「でしょ」
「それくらいで得意にならない」
ローゼが横から言う。
アリスは口を尖らせた。
「今日くらい褒めてくれてもいいのに」
「卒業式だからこそ、身だしなみは当然です」
「ローゼは最後までローゼだね」
「あなたも最後までアリスです」
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
アリスは少し驚いたように目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
私は二人を見ていた。
もうすぐ離れる。
アリスは空へ向かう道へ。
ローゼは森へ向かう道へ。
私は列車へ。
でも、前の生の別れとは違う。
誰かが勝手に相手の幸せを決めるのではなく、言えないまま背を向けるのでもなく、三人でちゃんと別れるのだ。
「ローゼ」
私は彼女へ向き直った。
「樹海の魔女に会ったら、よろしく伝えてください」
ローゼは少し首を傾げた。
「どのように伝えれば?」
「ひかりが、お世話になりましたって」
「分かりました」
ローゼは丁寧に頷いた。
「必ず伝えます」
アリスが私の手を握る。
「ひかり」
「はい」
「また会えるよね」
その問いには、すぐに答えられなかった。
この世界での別れは、いつも少し怖い。
ハルクとも、シドとも、私は別れた。もう一度会えるのかは分からない。それでも、その出会いが消えたわけではない。
「会えると思います」
私は答えた。
「願い続けることが、魔法の初歩だと教わりましたから」
アリスの顔が明るくなる。
「じゃあ、願う」
「私も」
ローゼが静かに言った。
「私も、願います」
三人で手を繋いだ。
アリスの手は温かく、ローゼの手は少し冷たくて、でもしっかりしていた。私の手は、その間にあった。
「離れていても」
アリスが言う。
「私たちは一緒」
「物理的には離れます」
ローゼが言う。
「そういうことじゃないの」
「分かっています」
ローゼは小さく笑った。
「離れていても、私たちはいつも一緒です」
私は二人の手を握り返した。
「はい。心は繋がっています」
その言葉を口にした時、胸の奥がほんの少し熱くなった。
心。
この世界で出会った人たちは、それぞれ違う形でそれを抱えていた。傷つき、閉じ、迷い、それでも誰かへ伸びていくもの。ハルクが月へ向かうために必要だったものも、シドが地上へ戻るために必要だったものも、アリスとローゼがもう一度互いを見つけるために必要だったものも、きっとそこにあった。
私は、少しずつ分かり始めているのかもしれない。
夢から覚める方法ではなく。
夢の中で、私が何を見つけなければならないのかを。
遠くで、踏切の音がした。
カン、カン、カン。
青い国の空気の中に、その音だけが懐かしく響いた。
アリスが目を丸くする。
「何の音?」
「列車が来る音です」
私は答えた。
門の向こう、ひまわり畑へ続く白い道の先に、駅へ向かう小さな道が見えた。そこからは列車の姿は見えない。けれど、音だけははっきり近づいてくる。
カン、カン、カン。
別れの時間だ。
アリスが私に抱きついた。
勢いが強くて、少しよろける。
「ひかり、絶対また来てね」
「はい」
「手紙、書くよ」
「列車に届くでしょうか」
「描けば届くかもしれない」
「危ない絵は描かないこと」
ローゼが言う。
「ローゼも一緒に書いて」
「樹海から届くかは分かりません」
「願えば届くよ」
「そういう時だけ、校長先生の言葉を都合よく使わない」
ローゼはそう言いながら、私の前へ来た。
そして、少し迷ったあと、静かに私を抱き締めた。
アリスの抱き締め方とは違う。
控えめで、丁寧で、でも確かに温かかった。
「ひかり」
「はい」
「あなたに会えてよかった」
「私もです」
「あなたが私たちの親友になってくれて、よかった」
胸の奥が詰まる。
私はローゼの背中に手を回した。
「私も、二人の親友になれてよかったです」
アリスが横から二人まとめて抱きついてきた。
「三人だよ」
「苦しいです、アリス」
「今だけ」
「今だけでも苦しいものは苦しいです」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ローゼはため息をついた。
けれど、その腕は私とアリスを離そうとはしなかった。
カン、カン、カン。
踏切の音が近づく。
私は二人から離れた。
アリスは泣きそうだった。
ローゼも、泣いてはいないけれど、目元が少しだけ赤かった。
「行きます」
私が言うと、二人は頷いた。
「行ってらっしゃい、ひかり」
アリスが言った。
「またね」
ローゼは少しだけ背筋を伸ばす。
「よい旅を、ひかりさん」
「ローゼ」
アリスが小さく肘でつつく。
ローゼは一瞬だけ困った顔をした。
それから、静かに言い直した。
「よい旅を、ひかり」
私は笑った。
「はい。行ってきます」
白い道へ一歩踏み出す。
ひまわり畑の方から、夏の風が吹いた。以前通った時と同じように、ひまわりたちがこちらを見ている気がした。何本かが、代わる代わる頭を下げる。アリスがそれを見て「花が挨拶してる」と言い、ローゼが「この国では珍しくありません」と返す声が後ろから聞こえた。
私は振り返った。
青い門の前に、アリスとローゼが立っている。
杏色の髪と青い髪が、青い門の前で並んでいる。天へ向かう魔女と、森へ向かう魔女。二人はもう、私の親友だった。
二人は手を振っていた。
私も手を振り返した。
カン、カン、カン。
踏切の音が大きくなる。
空の青が少し滲んだ。
白い道の先が、駅のホームへ繋がっていく。
私は歩く。
歩きながら、胸の奥で二人の手の温度を思い出していた。
離れていても、私たちはいつも一緒。
さっき口にしたその言葉は、慰めではなく、私の中で静かな確信になっていた。
次の瞬間、踏切の音が耳のすぐそばで鳴った。
カン、カン、カン。
世界が少し傾く。
青い国の門も、ひまわり畑も、アリスとローゼの姿も、遠くへ溶けていく。
私は二人の名前を呼ぼうとした。
けれど、声になる前に、意識がふっと途切れた。




