救いのない世界
とある日のことだった。
貴族の使いが教会までやってきたのだ。
ただ祈りに来るだけなら珍しくもないのだが、その日は違った。
次の青色の日、貴族が視察に来るそうだ。
そう告げられた時、私は何のことか分からなかった。
青色の日は、祈りのための日だった。祭壇の布を替え、窓を磨き、古い聖句を読み上げ、裏庭に咲く小さな花を聖母像の足元へ並べる。私にとっては、いつもより少しだけ手間のかかる一日という程度の意味しかなかった。
貴族が来る。
それは大変なことなのだろうとは思った。
シスターたちは急に慌ただしくなり、神父様は古い上着を出し、私たち子どもにも、いつもより丁寧に床を磨くよう言った。食堂の長椅子のささくれを布で覆い、割れかけた皿は奥へしまわれた。祈りの言葉を間違えないように、声をそろえて何度も練習した。
私は言われた通りに床を磨き、聖句を覚え直し、小さい子たちの髪を結んでから、祭壇へ供える花を選んだ。
そうしている間も、理由は知らなかった。
「ローゼ」
裏庭で洗濯物を干していた時、アリスが私の名前を呼んだ。
その頃のアリスは、まだアリスという名ではなかったのかもしれない。けれど、私の記憶の中では、彼女はいつだってアリスだった。杏色ではない、前の生の柔らかな髪。蜂蜜色ではない、けれど笑うと同じように光る目。手には洗い終わった白い布を抱えていて、頬には粉ではなく、洗濯石鹸の泡が少しついていた。
「ねえ、貴族の人、どうして来るか知ってる?」
「祈りに来るのでしょう」
「違うよ」
アリスは少し声を潜めた。
「養女を探しているんだって」
「養女?」
「うん。教会の子の中から、よくできた子を連れていくかもしれないって。使いの人が、神父様たちと話してた」
私は手に持っていた布を落としかけた。
養女。
その言葉は、私たちにとって遠いところにあるものだった。教会で暮らす子どもたちは、親のない子、親に捨てられた子、戦や貧しさでここへ来た子たちだった。大人になれば、どこかの家の手伝いに出るか、修道女になるか、職を探すか。貴族の家へ入るなど、物語の中にしかない話だと思っていた。
「誰を?」
「分からない。でも、たぶん」
アリスは私を見た。
その目が、妙にまっすぐだった。
「ローゼか、私」
「どうして」
「神父様たちが、私たちの話をしてたから。字が読めることとか、祈りを覚えるのが早いこととか、小さい子の面倒を見られることとか」
「聞いていたの?」
「ちょっとだけ」
「盗み聞きはよくありません」
「そう言うと思った」
アリスは困ったように笑った。
けれど、その笑い方がいつもより少し静かだったので、私はそれ以上叱れなかった。
「本当に、そんなことがあるのですか」
「分からない。でも、使いの人はそう言ってた。教会から一人、迎えてもいいって。お屋敷で教育を受けて、ちゃんとした娘として育てるって」
ちゃんとした娘。
その言葉が胸の奥に引っかかった。
私たちはちゃんとしていないのだろうか。
教会で祈り、働き、神父様やシスターに従って暮らしていても、貴族から見れば、まだ何かが足りない子どもなのだろうか。
私はそう思ったけれど、口にはしなかった。
アリスは洗濯物をぎゅっと抱きしめた。
「ローゼが行けたらいいね」
「なぜ、私なのです」
「だって、ローゼはきっと似合うもの」
「似合う?」
「綺麗な服とか、広い部屋とか、本がたくさんあるところとか。ローゼはそういう場所でも、ちゃんと背筋を伸ばして歩けるでしょう」
「あなたも歩けるでしょう」
「私は転ぶよ」
「転ばないようにしなさい」
「ほら、そういうところ」
アリスは笑った。
「ローゼは、ちゃんとしてる」
私は返事をしなかった。
ちゃんとしている。
その言葉は褒め言葉のはずだった。けれど、その時の私は、なぜか素直に受け取れなかった。
次の青色の日、貴族は本当にやってきた。
黒い馬車だった。
銀色の紋章がついた扉が開き、上等な服を着た夫婦と、その後ろに使いの者たちが降りてくる。シスターたちは深く頭を下げ、神父様はいつもより低い声で挨拶をした。
私たちは礼拝堂に並ばされた。
小さい子たちは緊張でそわそわし、年長の子たちはいつもより静かだった。私は祈りの言葉を間違えないように、指先を組んだ。
アリスは私の少し後ろにいた。
いつもなら、彼女は何でもそつなくこなした。聖句を覚えるのも、歌を合わせるのも、本当は上手かった。小さい子を笑わせることにも慣れていて、針仕事だけは少し雑だったけれど、それでも手は早かった。シスターが困っていればすぐに気づき、誰かが泣いていれば、いつの間にか隣にいる。彼女は自分のことをできないと言うことが多かったけれど、本当は要領のいい子だった。
けれど、その日のアリスは違った。
祈りの言葉を一節だけ遅らせ、歌ではほんの少し音を外し、花瓶を運ぶ時には落とさない程度に水をこぼした。貴族の奥方に訊かれた簡単な質問にも、少し迷ったふりをした。
私は最初、緊張しているのだと思った。
でも、すぐに違うと分かった。
彼女はわざとだった。
アリスは、できない子を演じていた。
私には分かった。
彼女は失敗するのが下手ではなかった。失敗するふりも、上手かった。あまりにも自然に、けれど私の目にはごまかしきれないくらいに。
私は礼拝堂の奥で、彼女を見ていた。
なぜ。
どうして。
貴族の視線は、だんだん私へ向くようになった。
聖句を間違えず、挨拶をし、シスターに言われた通りに小さい子の手を引いた私へ。奥方は私の髪を撫で、旦那様は神父様へ何かを訊ねた。使いの者が私の名前を控える。
青色の日の終わり、養女は私に決まった。
シスターたちは泣いて喜んだ。
神父様は、神のお導きだと言った。
小さい子たちは、私がどこか遠くへ行ってしまうことが分からないまま、馬車に乗るのかと訊いた。
私は何も言えなかった。
嬉しいのか、怖いのか、分からなかった。
ただ一つだけ、胸の中でどんどん大きくなるものがあった。
アリスへの怒りだった。
出発の日、教会の前には白い花が並べられていた。
貴族の馬車は美しく、扉には磨かれた銀の飾りがついている。私には新しい服が用意されていた。教会で着ていたものよりずっと柔らかく、袖口には小さな刺繍があった。
皆が別れを惜しんでくれた。
シスターは私を抱きしめ、神父様は祝福の言葉をくれた。小さい子たちは私の服を引っ張り、また帰ってくるのかと訊いた。
最後に、アリスが来た。
彼女はいつものように笑っていた。
少しだけ泣きそうな顔で、それでも笑っていた。
「ローゼ、幸せになってね」
その言葉を聞いた瞬間、私は耐えられなくなった。
「どうして」
私は言った。
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「どうして、あんなことをしたの」
アリスの笑顔が止まる。
「何のこと?」
「とぼけないで。わざと間違えたでしょう。祈りも、歌も、質問も」
「そんなこと」
「したでしょう」
アリスは黙った。
その沈黙が、答えだった。
私は胸の奥が熱くなった。
「どうして本気にならなかったの」
「ローゼ」
「あなたならできたでしょう。いつもはできるのに。どうして、あの日だけできないふりをしたの」
アリスは視線を下げた。
「だって、ローゼに行ってほしかったから」
その言葉が、許せなかった。
彼女は私のためだと思っていた。
私が幸せになると思っていた。
きっと、本当にそう思っていた。
でも、私にはそれが、勝手に置いていかれることのように思えた。
「あなたが決めないで」
私の声は震えていた。
「私の幸せを、あなたが勝手に決めないで」
アリスの目が大きく開く。
「ローゼ、私は」
「私は、あなたと競いたかった」
言ってから、自分でも初めて気づいた。
そうだったのだ。
私は、選ばれたかったのではない。
アリスが本気でいて、その上で選ばれたかった。
あるいは、選ばれなくてもよかった。
ただ、彼女と同じ場所に立っていたかった。
「あなたが本気でいてくれなければ、私が選ばれた意味がない」
「そんなことないよ」
「あります」
「ローゼはすごいもの」
「あなたが譲っただけでしょう」
「違う」
「違いません」
アリスの目に涙が浮かんだ。
私はそれを見ても、言葉を止められなかった。
「あなたはいつもそう。笑って、平気な顔をして、勝手に決める。私が怒ることも、悲しむことも考えない」
「ローゼに、いい場所へ行ってほしかっただけだよ」
「だから、それをあなたが決めないでと言っているのです」
馬車の前で、空気が凍った。
シスターが私たちを見ている。
神父様が何か言いかける。
けれど、私はもう馬車へ向かっていた。
アリスが後ろで私の名前を呼んだ。
私は振り返らなかった。
振り返れば、泣いてしまうと思った。
泣いたら、馬車に乗れなくなると思った。
だから私は、振り返らなかった。
それが、前の生で最後に見たアリスの姿になった。
貴族の家での暮らしは、教会とはまるで違っていた。
部屋は広く、食事は温かく、本はたくさんあった。家庭教師がつき、礼儀作法を教えられ、読み書きだけでなく、歴史や音楽や政治の話まで学んだ。服はいつも清潔で、冬でも毛布は十分にあった。
私は、よくできた娘であろうとした。
養女として迎えられたからには、恥になってはいけない。教会から来た子だからと侮られてはいけない。私を選んだことを後悔させてはいけない。
背筋を伸ばし、言葉を選び、間違えないように生きた。
褒められることは増えた。
けれど、夜になると時々、教会の庭を思い出した。
白い洗濯物。
泡を頬につけたアリス。
幸せになってね、と言った声。
私は何度も手紙を書こうとした。
けれど、書けなかった。
最初の一行で手が止まる。
何と書けばよかったのだろう。
あの日は言いすぎました。
あなたの気持ちは分かっていました。
それでも怒ってしまいました。
会いたいです。
どの言葉も違う気がした。
違う言葉を探しているうちに、季節が過ぎた。
数年が経った。
その頃、国は戦に巻き込まれていた。
神の名を掲げる者たちが、別の神の名を掲げる者たちを焼いた。祈りは人を救うためではなく、誰かを正しく殺すための旗になった。町も、丘も、畑も燃えた。鐘は祈りの時間ではなく、逃げろという合図になった。
私は貴族の娘として、安全な領地にいた。
厚い壁に守られ、兵に囲まれ、燃える町の煙を遠くに見ていた。
そこで、教会の名を聞いた。
大人たちの会話だった。
私は隣の部屋で刺繍をしていた。扉は少しだけ開いていた。
「南の教会も巻き込まれたらしい」
「孤児を多く抱えていたところか」
「ああ。逃げ遅れも多いと聞く」
「焼けたか」
「ほとんど」
針が指に刺さった。
痛みは遅れて来た。
南の教会、孤児、逃げ遅れ、焼けたという言葉が、ばらばらのまま頭の中へ落ちてきた。
私は椅子から立ち上がっていた。
誰かが私の名を呼んだ。養父だったか、侍女だったか、覚えていない。
私は馬車を出すように言った。
止められた。
危険だと。
道は荒れていると。
今行っても何もできないと。
それでも私は行った。
馬車は夜を走った。
車輪が石を弾き、馬が荒く息を吐き、従者が何度も戻るべきだと言った。私は答えなかった。答えれば、叫んでしまいそうだった。
道の途中で、馬が疲れて動けなくなった。
私は馬車を降りた。
従者が止める腕を振り払い、走った。
貴族の娘として履かされていた靴は、走るためのものではなかった。足首を締め、爪先を痛め、泥を踏むたびに重くなる。私は靴を脱ぎ捨てた。
裸足で走るうち、石が足の裏を切り、枝が裾を裂き、呼吸は焼けるように痛んだ。
それでも走った。
教会までの道を、私は覚えていた。
数年経っても、身体が覚えていた。丘を越え、古い井戸の横を通り、白い花の咲く細い道へ入る。その先に、教会の尖塔が見えるはずだった。
けれど、そこにあったのは煙だった。
尖塔は折れていた。
礼拝堂の屋根は崩れ、壁は黒く焼け、祭壇のあった場所には灰が積もっていた。裏庭の洗濯場も、子どもたちが遊んでいた小さな木も、形を失っていた。
私は立ち尽くした。
足の痛みも、息の苦しさも、全部消えた。
何も聞こえなかった。
ただ、焼けた匂いだけがあった。
近くの道端に、人が何人か集まっていた。
逃げ切れた者たちだった。近隣に住んでいた信徒や、少し離れた家の者たち。私はその中の老人に詰め寄った。
「教会の子どもたちは」
老人は私を見た。
私が誰か分からなかったのだと思う。
それでも、私の声に何かを感じたのか、目を伏せた。
「何人かは逃げた」
「全員ですか」
「いや」
「アリスは」
その名を出した時、老人の顔が変わった。
私はそれだけで分かってしまった。
「アリスは」
「小さい子たちを逃がしていた」
老人は言った。
「奥の部屋にいた子らを、裏口から出してな。煙が回って、梁が落ちた。最後に戻った時、礼拝堂の横壁が崩れた」
「嘘」
私の声は、自分のものではないみたいだった。
「嘘です」
「見た者がいる」
「嘘」
「何人も、あの子に助けられた」
助けられた。
その言葉が、ひどく遠かった。
アリスらしいと思ってしまった。
小さい子が泣いていれば、彼女はきっと戻る。煙があっても、火があっても、誰かがまだ中にいると知れば、きっと戻る。怒られると分かっていても戻る。自分のことを後回しにして、笑いながら、大丈夫だよと言って。
そして戻らなかった。
私は焼け跡へ走ろうとした。
誰かに止められた。
危ないと。
まだ崩れると。
もういないと。
もう。
その言葉が分からなかった。
もう、とは何だろう。
アリスはいつも、どこかから戻ってきた。授業を抜けても、庭で転んでも、叱られても、笑いながら戻ってきた。
だから、今回も戻ってくるはずだった。
私は待った。
黒く焼けた教会の前で、日が暮れるまで待った。
夜になっても待った。
朝になっても、アリスは戻らなかった。
私の中に残ったのは、後悔だけだった。
どうして、あの日、振り返らなかったのだろう。
どうして、手紙を書かなかったのだろう。
どうして、怒ったままにしたのだろう。
どうして、あなたが譲ったことを、優しさだと受け取れなかったのだろう。
いいえ。
違う。
どうして、私はあなたと一緒にいられなかったのだろう。
もし、貴族の家へ行ったのが私だけでなければ。
無理にでも、あなたも一緒にと願っていたなら。
あの日、馬車に乗る前に、もう一度あなたの手を取っていたなら。
そんな、もう届かないもしもがいくつも降ってきて、息ができなくなった。
私は貴族の家へ戻った。
皆が私を慰めた。
神の御心だと言った。
救われた子どもたちがいるのだから、あの子の行いは尊いと言った。
祈りましょうと言った。
私は祈れなかった。
祈れば何が戻るというのだろう。
神の御心なら、なぜアリスは死んだのだろう。
尊い行いなら、なぜ彼女はもう笑わないのだろう。
救われた子どもたちがいる。
それは分かっていた。
アリスはきっと、それをよかったと思う。
でも、私の胸の奥に残った穴は、誰の命が助かったという事実でも塞がらなかった。
夜、私は一人で部屋にいた。
机の上には、書きかけの手紙が何枚もあった。
アリスへ。
最初の一行だけが、何度も書かれている。
アリスへ。
アリスへ。
アリスへ。
もう届かない名前を、私は何度も書いた。
その横に、小さな瓶があった。
薬棚から持ち出したものだった。眠るための薬ではない。侍医が、決して勝手に触れてはいけないと言っていた薬だった。
私は瓶を手に取った。
手は震えていなかった。
不思議なほど静かだった。
あの日、馬車に乗る前に振り返らなかった私。
手紙を書けなかった私。
安全な領地で守られていた私。
走っても、走っても、間に合わなかった私。
アリスを一人で死なせた私。
それらが全部、私の中で同じ顔をしていた。
私は、もうその顔を見ていられなかった。
「ごめんなさい」
誰に言ったのか分からない。
アリスに。
神に。
私を迎えてくれた家に。
教会に。
あの日、幸せになってねと笑った彼女に。
そして。
そして私は、小瓶の中身を口にした。
苦かった。
それから、少し熱かった。
身体の奥がゆっくり遠くなっていく。
机の上の手紙が滲んだ。
アリスへ。
アリスへ。
アリスへ。
最後まで、続きは書けなかった。
私の前の生は、そこで終わった。
祈りでは救われなかった。
正しくあろうとしても、間に合わなかった。
選ばれても、残されても、幸せには届かなかった。
そして私は、きっと次の生でも、同じものを探し続けていた。アリスの隣に立つ方法と、あの日言えなかった言葉と、振り返れなかった自分を許す方法を。




