森の旅人
森は、町の青とは違う色をしていた。
温室の扉から覗いた時は、ただ青い壁の外に暗く広がる木々にしか見えなかった。けれど、実際に足を踏み入れると、そこには湿った土の匂いと、葉の裏に溜まった夜の気配があった。青い町のように、あらゆるものが人に向かって微笑んでいるわけではない。ここでは草も木も、こちらを見ているのか、見ていないのか分からなかった。
足元には細い道があった。
獣道よりは整っているけれど、町の石畳のようにはっきりしていない。踏まれた草が少しだけ寝ていて、その先へ進めると教えてくれている。マダム・ペンシルベニアが杖を掲げると、先端のペン先から水色の光がこぼれ、道の上に淡い線を引いた。
「この森は、国の外れにあります」
マダムは歩きながら言った。
「魔女の国の中ではありません。でも、まったく外でもありません。境目に近い場所です」
「境目」
アリスが繰り返す。
彼女は温室で拾った青い札を胸に抱くように持っていた。いつものように先へ飛び出しそうな足取りではない。走りたいのを、必死に抑えているようだった。
「こういう場所には、いろいろなものが迷い込みます。魔女も、魔女ではない者も。だから、私のそばを離れないように」
「はい」
アリスは素直に頷いた。
その返事があまりにも素直だったので、マダムは一瞬だけ彼女を見た。
「本当に分かっていますか」
「分かってる」
「返事が早いわね」
「でも、今は本当に分かってる」
アリスは札を握りしめた。
「ローゼを見つけるまで、勝手に走らない」
マダムは小さく息を吐いた。
「なら、よろしい」
森は深すぎるわけではなかった。
少なくとも、樹海という言葉から想像するような、終わりのない暗闇ではない。木々の間からは時々、青い国の塔の先がちらりと見えた。遠くにある灯りも、完全には消えていない。
それなのに、不安だった。
国が近いからこそ、戻れそうなのに戻れない感じがある。家のすぐ裏で迷子になるような、誰かの声が届きそうなのに届かないような、そんな頼りなさがあった。
「ローゼ」
アリスが小さく呼んだ。
返事はない。
代わりに、どこかで鳥が羽ばたいた。
その音にアリスの肩が跳ねる。
「落ち着きなさい」
マダムが言う。
「この森は、あなたを怖がらせようとしているわけではありません」
「じゃあ、何をしてるの」
「見ているだけです」
それも少し怖い。
私は星型ポーチに手を添えながら、マダムの水色の線を追った。
やがて、道の横に小さな布切れが落ちているのを見つけた。
青い布だった。
ローゼのリボンと同じ色に見えた。
「ローゼさんの?」
アリスが駆け寄りそうになったので、マダムが手を上げて止めた。
マダムは杖の先で布切れに触れた。布は燃えもせず、消えもせず、ただ少しだけ青く光った。
「ロージリアのものですね」
「怪我したの?」
アリスの声が震える。
「引っかかっただけでしょう。血はありません」
マダムの言葉に、アリスは少しだけ息を吐いた。
けれど、不安は消えない。
その布切れを辿るようにして進むと、木々の間が少し開けた場所に出た。
森の中の小さな空き地だった。
中央には古い石の台がある。何かを祀っていたものなのか、それともただの道標なのか分からない。苔に覆われ、半分ほど土に沈んでいる。その周りには白い花が咲いていた。花びらは小さく、夜の中でほのかに光っている。
その花のそばに、ローゼがいた。
背中を向けて立っている。
青い髪が、森の暗がりの中で静かに垂れていた。制服の裾には草の種がついている。リボンの端が少しだけほつれていた。
「ローゼ!」
アリスが叫んだ。
今度は、マダムも止めなかった。
ローゼはゆっくり振り返った。
顔はいつも通りだった。
いや、いつも通りにしようとしている顔だった。
「来たのですね」
「当たり前だよ」
アリスは一歩前へ出た。
「だって、ローゼが帰ってこないから」
「帰るつもりでした」
「本当に?」
「ええ」
ローゼは静かに頷く。
「少し、道を間違えただけです」
「ローゼは道を間違えたりしないよ」
アリスの声は小さかった。
ローゼの瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「私も間違えます」
「じゃあ、一緒に戻ろう」
アリスは青い札を差し出した。
「これ、落ちてた」
ローゼは札を見る。
手を伸ばさなかった。
「必要ありません」
「必要だよ。ローゼのだよ」
「私のものかどうか、まだ分かりません」
「ローゼ」
「樹海の魔女」
ローゼはその言葉を、自分で確かめるように言った。
「私には、まだその名前が分かりません」
アリスは何か言おうとして、言葉を失った。
樹海。
それはここではない。
この森とは違う、もっと遠い場所にあるもの。
けれど、称号だけが先にローゼへ届き、彼女自身はまだそこへ追いついていないのだと思った。
マダムが静かに前へ出る。
「ロージリア。称号は、すぐに理解できるものばかりではありません。今は分からなくてもよいのです」
「校長先生」
ローゼはマダムを見る。
「分からなくてもよいなら、なぜ授けたのですか」
その声は、責めているようではなかった。
ただ、本当に分からないようだった。
「私は、天の魔女を目指していました」
「知っています」
「皆も、そう思っていました」
「ええ」
「アリスも」
その名前が出た瞬間、アリスの肩が震えた。
ローゼは彼女を見ない。
「アリスも、私が天の魔女になるところを見たいと言っていました」
「ローゼ、ごめん」
「謝らないで」
ローゼの声が少しだけ鋭くなる。
アリスは口を閉じた。
「あなたが謝ると、私が傷ついたことになる」
「でも」
「あなたが謝ると、私があなたを責めていることになる」
ローゼはそこで一度息を吸った。
白い花が足元で揺れる。
「私は、そんなことをしたいわけではありません」
その言葉は本当だと思った。
ローゼはアリスを責めたいわけではない。
でも、責めたいわけではないことと、苦しくないことは同じではない。
森の奥で、何かが小さく鳴った。
金属を引きずるような音だった。
マダムの目が鋭くなる。
「静かに」
私たちは息を止めた。
木々の向こうに、灯りが見えた。
青ではない。
魔女の国の灯りではない。
煤けた黄色い灯りが、ひとつ、ふたつ、ゆっくり揺れている。
続いて、人の声がした。
「この辺りだ」
「灯りを低くしろ」
「魔女の国の近くだ。見つかるな」
アリスの顔から血の気が引いた。
「誰」
マダムは杖を低く構えた。
「魔女狩りです」
その言葉は、夜の森の空気よりも冷たかった。
長い外套を着た者たちが、木々の間から姿を現した。顔は帽子と布で隠されている。手には鉄の道具。鎖、杭、刃のついた棒。煤けた灯りを掲げたその姿は、人というより、祈りを盾にした影のように見えた。
彼らは私たちを見ると、足を止めた。
「魔女だ」
一人が低く言った。
「四人いる」
「若いのが二人」
「逃がすな」
マダムが私たちの前に立つ。
「下がりなさい」
杖の先から水色の線が走り、私たちの前に薄い壁を作った。壁の向こうで、煤けた灯りが鈍くにじむ。
「ここは魔女の国の近くです」
マダムの声は静かだった。
「それ以上近づけば、ただでは済みません」
「魔女が脅すぞ」
魔女狩りの一人が笑った。
「やはり祈りを知らぬ者どもだ」
「魔女は子どもを惑わす」
「魔女は祈りを汚す」
誰かが唱え始める。
それに合わせて、他の者たちも同じような言葉を口にした。祈りのようで、祈りではない。祈っているふりをしながら、誰かを縛るための言葉だった。
私はその声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
なぜか、雨の匂いがした気がした。
けれど、空は晴れている。
森の葉の隙間には、夜の色が沈んでいるだけだった。
魔女狩りの一人が鎖を投げた。
鎖はマダムの壁に触れ、白い煙を上げる。水色の線が少し歪んだ。
「祈りを縫い込んだ鎖ね」
マダムが呟く。
「厄介なものを」
マダムの額に、初めて細い皺が寄った。
「マダム」
アリスが震える声で呼ぶ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫にします」
マダムはそう答えた。
その時、別の魔女狩りがローゼの方へ回り込んだ。
ローゼはマダムの壁の外側にいた。私たちと少し距離がある。森の空き地の端、白い花のそばに立ったままだ。
「青い髪の魔女がいる」
「そいつから押さえろ」
「強そうだ」
数人がローゼへ向かう。
「ローゼ!」
アリスが叫んだ。
「来ないで」
ローゼは言った。
「私は、自分でできます」
杖が青く光る。
地面の草が起き上がり、木の根が動いた。根は魔女狩りたちの足元へ走り、鉄の道具を持つ腕や足首に絡みつく。ひとりが転び、もうひとりが灯りを落とした。
ローゼの魔法は、こんな場所でも美しかった。
青い国の中で見た時より荒く、森の匂いを帯びている。けれど、草も根も、彼女の魔法に従って確かに動いていた。この森は樹海ではない。ローゼを選び、迎える場所ではない。それでも、彼女の魔法は、草や根の形を借りてそこへ届いていた。
彼女が樹海の魔女と呼ばれた理由が、少しだけ分かった気がした。
「すごい」
アリスが呟いた。
その声は、こんな時でさえ純粋だった。
ローゼの横顔が、ほんの少しだけ動いた。
次の瞬間、別の鎖が頭上から投げられた。
枝を越えるように弧を描き、こちらへ落ちてくる。狙いは、アリスだった。彼女が天の魔女だからではない。新しい魔法を知っているからでもない。ただ、若くて、怯えていて、捕らえやすいように見えたからだ。
「アリス!」
私は彼女を押そうとした。
けれど、アリスの指が先に動いた。
空中に点が生まれる。そこから線が伸びる。鎖を止めようとしたのだろう。けれど、恐怖で震えた線は途中でほどけ、白い火花のように散った。
「あ」
アリスの声が漏れる。
鎖が迫る。
その瞬間、青い光が横から走った。
ローゼの根が、鎖を叩き落とした。
鉄の鎖は地面に落ち、湿った土をえぐる。アリスはその場に座り込みそうになり、私が慌てて支えた。
「今のは何だ」
魔女狩りの一人が、アリスの指先を見た。
「妙な術を使うぞ」
「若い方も押さえろ」
「両方だ」
その声に、ローゼの杖先が揺れた。
「黙りなさい」
草が一斉に立ち上がる。
青い光を帯びた根が、魔女狩りたちを押し返した。マダムの水色の壁も広がり、私とアリスを包み込む。
けれど、相手は退かなかった。
煤けたランタンが、地面へ叩きつけられる。
割れた灯りの中から、黄色い煙が広がった。煙はただの煙ではなかった。祈りの言葉のようなものが、細かい虫の群れみたいに空中へ散る。
「目を閉じないで」
マダムが鋭く言う。
「この煙は、見えないものを大きく見せます」
見えないもの。
私は息を止めた。
煙の向こうで、ローゼが立っている。
彼女の周りの影が、少しだけ濃く見えた。
黒い滲みは見えない。
けれど、何かがそこにいるような気がした。
「ローゼ、こっちに来て!」
アリスが叫ぶ。
ローゼは振り返った。
黄色い煙の中で、その顔は青白く見えた。
「なぜ」
ローゼが言った。
アリスが動きを止める。
「なぜ、あなたはいつも私を呼ぶの」
「え」
「呼べば、私が行くと思っている」
「ローゼ」
「私が助けると思っている。私が叱ると思っている。私が正しい道へ戻すと思っている」
「そんなつもりじゃ」
「知っています」
ローゼの声が、ひび割れるように揺れた。
「あなたに、そんなつもりがないことくらい」
黄色い煙が、ローゼの影を揺らす。
彼女自身の言葉なのか、煙が大きく見せているだけなのか、分からなかった。
「ロージリア!」
マダムが呼ぶ。
ローゼは答えない。
魔女狩りたちは、その隙を見逃さなかった。
ひとりがアリスへ向かって走る。もうひとりがマダムの壁へ鉄の杭を打ち込もうとする。三人目が、私たちの横へ回り込んだ。
私はアリスの手を引いた。
けれど、足元に鎖が飛んできた。先端の鉤が土に引っかかり、草を裂く。アリスの袖が少し破れた。
「ひかり!」
アリスが私を押し返す。
その指先に、線が生まれた。
さっきより細い。
けれど、今度は逃げるための線だった。
彼女は空中に短い橋のようなものを描き、魔女狩りの足元をずらす。男はつまずき、地面に倒れた。
「描いたわね」
マダムが言う。
「ごめんなさい」
「今のは許します」
アリスは泣きそうな顔で頷いた。
けれど、息が上がっている。
長くは使えない。
マダムの杖が大きく振られた。
水色の線が広がり、黄色い煙を切り裂く。煙の向こうで、魔女狩りたちの姿があらわになる。マダムはそのまま、地面へ大きな文字のようなものを描いた。
読めない。
けれど、その文字が完成した瞬間、空き地を囲むように水色の輪が生まれた。輪は一気に広がり、魔女狩りたちを後ろへ押し返す。
「退きなさい」
マダムの声が響く。
「ここは、あなたたちの祈りを振りかざす場所ではありません」
魔女狩りの一人が舌打ちする。
「老いた魔女め」
鉄の刃が投げられた。
マダムの壁へ向かって飛ぶ。
でも、その刃は途中で青い根に絡め取られた。
ローゼだった。
彼女はまだ、私たちを守っている。
守っているのに、戻ってこない。
青い根は刃を砕き、そのまま地面へ叩き落とした。魔女狩りたちが一歩下がる。
「ロージリア」
マダムが静かに言う。
「よくやりました。こちらへ」
ローゼは動かなかった。
「私は」
ローゼが呟く。
「何を、よくやったのでしょう」
「ローゼ」
アリスの声が震える。
「助けてくれたじゃない」
「ええ」
ローゼはアリスを見る。
「私は、またあなたを助けました」
その言葉は、冷たくはなかった。
むしろ、泣きそうなほど静かだった。
「そしてあなたは、また私を呼んだ」
「だって」
「だって?」
ローゼの瞳が揺れる。
森の薄い光が、その中で細く割れているように見えた。
「だって、ローゼは私の親友だもの」
アリスは言った。
迷いのない声だった。
こんな時でさえ、彼女はそう言う。
ローゼの顔が、ひどく苦しそうに歪んだ。
「親友」
ローゼは繰り返した。
「親友なら、何でも許せると思っているの」
「違う」
「親友なら、何でも祝えると思っているの」
「違うよ」
「親友なら」
ローゼの声が途切れた。
その先を言ってはいけないと、自分で分かっているようだった。
その時、森の奥からまた別の灯りが近づいてきた。
魔女狩りの数が増えている。
マダムの結界が彼らを押し返しているが、長くはもたないのかもしれない。煤けた灯りが木々の間にいくつも揺れ、鉄の音が少しずつ近づいてくる。
私は足元を見た。
濡れた土。
倒れた白い花。
アリスの破れた袖。
ローゼの青い髪。
そして、その全部の下から、かすかに音が聞こえた。
ガタ。
ゴト。
私は息を止めた。
聞き間違いではない。
森の奥からではない。
地面の下から。
それとも、私の胸の奥から。
ガタ、ゴト。
列車の音。
「マダム」
私は小さく言った。
「何か、来ます」
マダムの目が私を見る。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「ひかりさん」
「列車の音が」
アリスがこちらを見る。
「列車?」
ローゼも、ほんの少しだけ目を上げた。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
空き地の中央に、細い光が走った。
それは線路だった。
青でも、水色でもない。どこか古びた鉄の色をした線路が、湿った土の上にゆっくり浮かび上がっていく。
魔女狩りたちがざわめく。
「何だ」
「魔女の乗り物か」
マダムは杖を下ろさないまま、静かに呟いた。
「これは、私の魔法ではありません」
線路の先に、白い霧が生まれる。
霧の向こうから、灯りが見えた。
霧の向こうで丸い前照灯が揺れ、黒い車体の影が、夜の森の奥から少しずつ形を持ちはじめる。
列車が来る。
こんな森の中へ。
ローゼはその灯りを見つめたまま動かなかった。逃げ出したいようにも見えたし、その光に手を伸ばしたいようにも見えた。どちらとも決められない顔のまま、彼女はただ、近づいてくる列車を見ていた。
やがて汽笛が、夜の森に長く響いた。
その音を聞いた瞬間、ローゼの瞳から、ほんの少しだけ色が抜けた。




