すれ違い、かけ違い
ローゼを追いかけようとした私の袖を、アリスの手が引き止めていた。
強くつかまれたわけではない。むしろ、今にも離れてしまいそうな弱い力だった。けれど、その手が震えていることに気づくと、私はすぐには動けなかった。
「アリス・オリエンス」
先生の声がした。
天の魔女になったばかりのアリスを、何人もの大人の魔女たちが呼んでいる。これから称号を受けた者として、短い挨拶と、記録への署名をしなければならないらしい。アリスは返事をしようとして、声を出せずにいた。
「アリス」
私が呼ぶと、アリスはようやくこちらを見た。
「ローゼ、行っちゃった」
「はい」
「追いかけなきゃ」
「でも、呼ばれています」
「でも」
アリスの視線は、ローゼが消えた扉へ向いている。
その顔には、天の魔女に選ばれた喜びよりも、置いていかれた子どものような不安が浮かんでいた。
さっきまで、彼女はたくさんの拍手の中にいた。
けれど、その拍手の真ん中で、アリスはローゼの背中ばかり見ていた。
「私が見てきます」
そう言うと、アリスははっとしたように私の袖をつかみ直した。
「ひかりが?」
「はい」
「でも、ローゼは」
「話せるかは分かりません。でも、行ってみます」
アリスは少しだけ迷った。
大人の魔女たちがもう一度、彼女の名前を呼ぶ。アリスは唇を噛み、それから小さく頷いた。
「お願い」
「はい」
「ローゼに、私、あとでちゃんと話したいって」
「伝えます」
「あと、おめでとうって言ってくれて嬉しかったって」
「はい」
「それから」
アリスはそこで言葉を詰まらせた。
何を言えばいいのか、分からないのだろう。
謝りたい。嬉しい。怖い。ローゼに見ていてほしい。ローゼを傷つけたくなかった。
たぶん、その全部が一度に胸の奥へ押し寄せている。
「そのまま伝えます」
私は言った。
「アリスが、何を言えばいいか分からないくらい、ローゼさんのことを考えているって」
アリスの蜂蜜色の瞳が揺れた。
「うん」
彼女は頷く。
「お願い、ひかり」
私はアリスの手をそっと外し、広間の扉へ向かった。
扉を出ると、廊下は静かだった。
広間の中にはまだ拍手の名残みたいなざわめきがあるのに、一枚扉を挟んだだけで、別の場所に来たようだった。青い窓から夕方の光が差し込み、床に長い線を作っている。その線の上を、小さな埃が光りながら漂っていた。
ローゼの姿はない。
「ローゼさん」
小さく呼んでみる。
返事はなかった。
私は廊下を進んだ。
昨日まで歩いた校舎とは違う気がした。壁の白も、腰の高さから下に塗られた青も、扉の上に描かれた小さな絵も同じなのに、今日はどこか冷たく見える。
階段の下で、青いリボンの見習いが二人、ひそひそ話していた。
「ロージリア様、見た?」
「樹海の魔女だって」
「でも、天じゃないんだね」
「アリスが天なんて、びっくり」
「すごかったけど、でも」
でも。
その先は、私が近づくと途切れた。
二人は私を見て、気まずそうに頭を下げる。私は何も言えず、そのまま通り過ぎた。
悪意ではない。
きっと、驚いているだけなのだ。
けれど、悪意がなくても言葉は刺さる。アリスの純粋な「ローゼが天の魔女になるところを見たい」という言葉と同じように、誰かを傷つけるつもりがない声ほど、避けようがないことがある。
私は廊下の角を曲がった。
窓の外には中庭が見えた。
噴水の水球が、夕方の光を受けて淡く光っている。光の魚がその中を泳いでいた。芝生の上には誰もいない。昨日、アリスが寝転んでいた場所も、もう草が起き上がっている。
ローゼがいるなら、図書塔かもしれない。
そう思った。
それとも、寮へ戻ったのだろうか。
私は少し迷い、まず図書塔へ向かうことにした。
校舎の奥へ進むほど、人の声は遠くなる。卒業試験の後だから、ほとんどの見習いたちは広間や食堂の方にいるのだろう。廊下は静かで、私の足音だけが青い石の床に響いた。
図書塔の扉は閉まっていた。
けれど、その前にローゼはいなかった。
扉に手を伸ばしかけて、私は止める。知らない魔女の道具に触れないこと。門番の魔女の言葉が、今になってまた浮かぶ。
ここではない。
そう思った時、廊下の奥からかすかな音が聞こえた。
足音ではない。
布がこすれるような、風が紙の端を撫でるような音。
私はそちらへ歩いた。
廊下の突き当たりに、細い階段があった。昨日は気づかなかった場所だ。階段は上ではなく、少しだけ下へ続いている。窓はなく、壁に埋め込まれた青い石だけがぼんやり光っていた。
「ローゼさん」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
それでも、私は階段を下りた。
下りた先は、小さな温室のような場所だった。
校舎の裏手に隠れるように作られているらしい。硝子の屋根から夕方の光が斜めに入り、鉢植えの葉に青い影を落としている。花は少なかった。代わりに、細い蔓や、葉の裏に文字のような模様を持つ植物が並んでいる。
その奥に、ローゼがいた。
背中を向けて立っている。
青い髪が、夕方の光の中で静かに垂れていた。手には、称号を授けられた時にもらった小さな青い札がある。そこには、私には読めない文字が浮かんでいた。けれど、それが「樹海の魔女」と書かれているのだろうことは分かった。
「ローゼさん」
今度は、ちゃんと聞こえたはずだった。
ローゼはゆっくり振り返った。
顔はいつも通りだった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、あまりにも整っていた。
「ひかりさん」
「探しました」
「申し訳ありません。少し、風に当たりたくて」
温室に風はほとんどなかった。
でも私は、それを指摘しなかった。
「アリスが、あとでちゃんと話したいって言っていました」
「そうですか」
「おめでとうって言ってくれて、嬉しかったとも」
「そうですか」
ローゼは同じ調子で答えた。
静かで、丁寧で、遠い。
「ローゼさん」
「何でしょう」
「大丈夫ですか」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し違うと思った。
大丈夫かと訊かれて、大丈夫ではないと言える人ではない。
ローゼは小さく微笑む。
「大丈夫です」
やっぱり、そう答えた。
「称号は、魔女にとって大切なものなのでしょう」
「ええ」
「本当に、大丈夫ですか」
ローゼの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「ひかりさんは、優しいのですね」
「分かりません」
「優しいです。けれど、優しさで変えられないこともあります」
ローゼは手の中の青い札を見た。
「私は、樹海の魔女になりました」
「はい」
「アリスは、天の魔女になりました」
「はい」
「それだけです」
それだけ。
言葉はそこで閉じられた。
私は何も言えなかった。
温室の中で、葉の裏にある文字のような模様が、夕方の光を受けて少しだけ揺れている。どこかで水が一滴落ちた。ぽたり、という音が、やけに大きく聞こえた。
「アリスは、ローゼさんと話したがっています」
「あとで話します」
「今は」
「今は、少しだけ一人にしてください」
はっきりした声だった。
拒絶ではない。
でも、それ以上近づけない線がそこにあった。
「分かりました」
私は頷いた。
「アリスには、そう伝えます」
「お願いします」
ローゼは丁寧に頭を下げた。
その動きがあまりにも綺麗で、私はまた、硝子のことを思い出した。
私は温室を出ようとした。
その時、背後でローゼが小さく息を吐いた。
ほんのわずかな音だった。
けれど、振り向いてはいけない気がした。
私はそのまま階段へ向かう。
最後に一度だけ、温室の入口からローゼを見た。
彼女はまだ青い札を見つめていた。
その足元の影が、少しだけ濃く見えた。
夕方の光のせいかもしれない。
硝子の屋根が作った影かもしれない。
けれど、私はその影から目を離せなかった。
「ローゼさん」
呼びかけようとした瞬間、ローゼが顔を上げる。
「まだ何か?」
「いえ」
言えなかった。
何かが見えた気がした、と。
それがあなたへ近づいている気がした、と。
言えば、何かが変わったかもしれない。けれど、その時の私は、どう言えばいいのか分からなかった。
「失礼します」
私は温室を出た。
階段を上がる間、背中に冷たいものが残っていた。
広間へ戻ると、アリスはまだ大人の魔女たちに囲まれていた。
記録への署名を終え、天の魔女としての説明を受けているらしい。けれど、顔はずっと不安そうだった。私を見つけると、すぐにこちらへ来ようとする。
「アリス」
先生に止められ、アリスは足を止めた。
私は近づき、小さな声で言った。
「ローゼさんは、少し一人でいたいそうです。あとで話すと」
「怒ってた?」
「怒っているようには見えませんでした」
「じゃあ」
アリスは言葉を探した。
「悲しそうだった?」
私はすぐには答えられなかった。
悲しそう、という言葉では足りない気がした。
でも、他の言葉も見つからない。
「分かりません」
私は正直に言った。
「でも、一人にしてほしいと言っていました」
「そっか」
アリスは下を向いた。
天の魔女の称号を受けたばかりなのに、その肩は少しも誇らしげではなかった。
「私、あとでちゃんと話す」
「はい」
「ローゼ、きっと分かってくれるよね」
その言葉に、私は頷けなかった。
アリスはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、両手をぎゅっと握る。
「分かってくれるよね」
もう一度、自分に言い聞かせるように言った。
その後のことを、私は見ていない。
だから、ローゼが温室で何を見て、何を聞いたのか、本当には知らない。
ただ、あとから思えば、あの影がまだそこにあったのなら――。
黒い滲みはきっと、ローゼの足元から、もう一度ゆっくり伸びたのだろう。
青い札を握る指へ。
樹海の魔女という新しい名前へ。
アリスが泣きながら謝った記憶へ。
おめでとうと告げた、自分の声へ。
そして、誰にも言えなかった言葉へ。
どうして。
たぶん、その言葉は最初、声にならなかった。
どうして、私ではなかったの。
ローゼは、そんなことを言う人ではない。
だからこそ、その言葉は口から出ず、胸の奥へ沈んだ。
沈んだところに、何かが触れた。
あなたは、ずっと正しかった。
そんな声がしたかもしれない。
あなたは、ずっと努力した。
あなたは、ずっと支えた。
あなたは、ずっと待っていた。
それなのに。
それなのに、天はあの子を選んだ。
ローゼは耳を塞がなかっただろう。
聞こえていないふりをしたかもしれない。
これは自分の声ではない。
こんな醜いことを考えるはずがない。
そう思ったかもしれない。
けれど、その声は優しかった。
優しい声で、言ってはいけないことだけを拾い上げる。
あなたは悪くない。
そう言われたら、どれほど楽だろう。
あなたが傷ついたのは、奪われたからだ。
そう言われたら、どれほど簡単だろう。
あなたが怒るのは、当然だ。
そう言われたら、どれほど息ができるだろう。
温室の硝子屋根の向こうで、夕方の青が深くなる。
ローゼは青い札を握ったまま、立っている。
誰にも見られず。
誰にも止められず。
やがて、彼女は一歩だけ動いた。
温室の出口ではなく、奥へ。
植物の影が濃い方へ。
そこには、古い扉があった。
普段は使われていないような、小さな扉だった。木の表面には蔓が這い、青い金具は少し錆びている。けれど、扉の隙間からは、夜の匂いがした。
魔女の国の外れにある、ただの森へ続く扉。
樹海ではない。
魔女を選び、迎え入れるような場所ではない。
ただ、青い壁の外に広がる、古くて暗い森だった。
ローゼがその扉を知っていたのか、誰かに呼ばれたのかは分からない。
ただ、その夜、ローゼは食堂に来なかった。
アリスはずっと扉の方を見ていた。
何度も立ち上がりかけては、先生に呼ばれ、天の魔女としての説明を受け、また席へ戻った。
「まだかな」
アリスが小さく言った。
「ローゼ、遅いね」
私は何も答えられなかった。
青い食堂には、称号を受けた見習いたちの笑い声が満ちている。お祝いの料理が並び、星の形をしたパンには、いつもより甘い香りがした。
でも、ローゼの席だけが空いていた。
その空席が、どの料理よりもはっきりとそこにあった。
夜が深くなっても、ローゼは戻らなかった。
最初に異変に気づいたのは、アリスだった。
「探しに行く」
彼女は椅子を蹴るように立ち上がった。
先生が止めるより早く、アリスは食堂を飛び出していた。
「アリス!」
私もあとを追った。
廊下には青い灯りが並んでいる。
アリスの杏色の髪が、その光の中を揺らしながら遠ざかっていく。彼女は迷わず温室の方へ向かっていた。きっと、ローゼが一人になりそうな場所を、誰よりも知っているのだろう。
温室へ入ると、そこには誰もいなかった。
ただ、床に小さな青い札が落ちていた。
樹海の魔女。
私は読めないはずの文字を、なぜかそう読んだ気がした。
アリスがそれを拾い上げる。
手が震えていた。
「ローゼ」
その声は、今にもほどけてしまいそうだった。
温室の奥では、古い扉が少しだけ開いている。
その隙間から、森の匂いがした。
青い町の涼しい風ではない。
湿った土と、深い葉と、夜の草の匂い。
「行こう」
アリスが言った。
声は震えていた。
けれど、足はもう扉へ向いている。
私は頷いた。
その時、背後から静かな声がした。
「待ちなさい」
振り向くと、マダム・ペンシルベニアが立っていた。
白髪なのか水色なのか分からない髪が、夜の青い灯りを受けて淡く光っている。その顔には、いつもの穏やかさがあった。けれど、目だけは少しも笑っていなかった。
「森へ行くなら、覚悟が必要です」
「マダム」
アリスが青い札を握りしめる。
「ローゼが」
「ええ」
マダムは古い扉を見る。
「行ってしまいましたね」
「連れ戻さなきゃ」
「連れ戻すだけでは足りません」
マダムの声は低かった。
「ロージリアが自分で戻ると決めなければ、どこへ連れ帰っても同じです」
アリスの顔が白くなる。
「じゃあ、どうすれば」
「行きます」
私は言った。
アリスとマダムがこちらを見る。
「ローゼさんを探しに行きます」
「ひかりさん」
マダムの目が、静かに私を見た。
「森は、迷う場所です。道だけではなく、自分の中でも」
「それでも行きます」
ハルクの時も、シドの時も、誰かの奥へ向かう道には、いつも怖さがあった。
今回も、たぶん同じだ。
ローゼは一人で行ってしまった。
でも、まだ間に合うかもしれない。
「私も行く」
アリスが言った。
「当然です。ローゼは私の親友だもの」
マダムはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「分かりました。私は道を閉じないために同行します。けれど、ロージリアを戻すのは、あなたたちです」
「はい」
「勝手に走らないこと。森で聞こえる声を、すべて信じないこと。見えたものを、すぐ本物だと決めつけないこと」
「はい」
「はい」
私とアリスの声が重なった。
マダムが杖を掲げる。
古い扉の青い金具が、ぎい、と鳴った。
扉の向こうには、夜の森が広がっていた。
青ではない、黒に近い緑。
葉の重なる匂いと湿った土。
そして、どこか遠くで、ローゼの青い髪が一瞬だけ揺れた気がした。
「行きましょう」
マダムの声を合図に、私たちは魔女の国の外れにある森へ足を踏み入れた。




