線と糸
それから数日、アリスの線は少しずつ形を覚えていった。
最初は、点を作るだけで指先が震えていた。一本の線を空中に留めるだけで、アリスは額に汗を浮かべ、終わると椅子にもたれて大きく息を吐いた。けれど、次の日には線が少し長くなった。その次の日には、線が途中で切れずに丸を作った。さらに次の日には、その丸が小さな輪になって、机の上をころころ転がった。
「見て、ひかり」
アリスは授業の後、私の前で得意そうに指を動かした。
空中に小さな点が生まれ、そこから線が伸びる。線は少し歪みながらも、星の形になった。星はほんの一瞬だけ光り、それからぷつんと切れるように消えた。
「今の、星に見えた?」
「見えました」
「ほんと?」
「はい。少し、足の長い星でした」
「足の長い星」
アリスは楽しそうに笑った。
「じゃあ、歩けるかもしれないね」
「歩かせない」
ローゼがすぐに言った。
彼女は隣の机で本を開いていた。けれど、こちらを見ていないのに、アリスが余計なことをしようとしているのは分かるらしい。
「まだマダムの許可した形以外を試してはいけません」
「でも、星だよ」
「星でもです」
「足が長いのに」
「なおさらです」
アリスは口を尖らせた。
けれど、指先はすぐに下ろした。前よりは少しだけ、ローゼの言うことを聞くようになった気がする。
マダム・ペンシルベニアは、アリスの線を新しい魔法だと簡単には決めなかった。
毎日少しずつ試し、記録し、危険がないかを確かめた。紙の上に点を打つ。空中に線を引く。線を曲げる。丸める。ほどく。消す。アリスはそのたびに真剣な顔をして、いつもの授業では見せない集中を見せた。
ただし、普通の魔法の授業では相変わらずだった。
石はほとんど光らない。
水は落ちる。
火は出ない。
杖の先からは、ぽふん、と白い煙が出る。
けれど、今はその煙を見て笑う声が、前より少しだけ違っていた。
「また煙だ」
「でも、線ならできるんでしょ」
「アリスの魔法、普通じゃないんだって」
「いいなあ」
いいなあ。
その言葉が教室に落ちた時、アリスはきょとんとしていた。
きっと、言われ慣れていないのだろう。
今まで彼女に向けられていたのは、失敗への笑いと、困った子を見る目だった。ローゼがいないと危なっかしい。そんな声も、何度か聞いたことがある。
それが少しずつ変わっていく。
アリスはまだ失敗する。
でも、ただの失敗する子ではなくなった。
何か分からないものを持っている子。
まだ誰も知らない場所へ、先に指を伸ばした子。
そういう目で見られるようになっていった。
「変な感じ」
昼休み、アリスは食堂のパンをちぎりながら言った。
「何がですか」
「みんなが、私に訊くの」
「線のことを?」
「うん。どうやるのって。でも、私にもよく分からないんだよね。絵を描く時みたいに、ここに線がほしいなって思うと、少しだけ出る」
アリスは自分の指先を見つめる。
「でも、うまく出ない時もあるし。出てもすぐ消えるし。ローゼみたいに、綺麗にはできない」
「私は線を出せません」
ローゼが言った。
「でも、ローゼの魔法は綺麗だよ」
アリスは迷いなく返す。
「青くて、まっすぐで、何をしても崩れない。私はね、ローゼの魔法が一番好き」
その言葉に、ローゼは少しだけ瞬きをした。
アリスはパンを口に入れ、もぐもぐしながら続ける。
「だから私も、ローゼみたいにできたらいいなって思ってたんだよ。でも違う入口なら、ローゼの隣に違う扉があるみたいでしょ。隣に扉があったら、一緒に出られるかもしれない」
「食べながら話さない」
ローゼはそう言った。
いつも通りの注意だった。
でも、それ以上は何も言わなかった。
私は二人の間に流れたほんの短い沈黙を、なぜか長く感じた。
午後の授業では、魔法陣の基礎を学んだ。
床に描かれた円や線を読み、どの線がどの力を運ぶのかを考える授業だった。私にはほとんど分からない。けれどローゼは、先生が説明するより少し早く答えを見つけていた。
「この線が水を呼び、この角が形を留めています。こちらの短い線は、たぶん暴走を防ぐための止め具です」
「その通りです、ロージリアさん」
先生が満足そうに頷く。
周りの見習いたちが小さく息を吐いた。
「やっぱりローゼはすごい」
「試験、もう決まりじゃない?」
「次の天の魔女は、ロージリアでしょ」
「あの青だもの」
その声は、以前と同じようにローゼへ向けられていた。
ローゼは顔色を変えず、静かに礼をした。
そのあと、先生は壊れた魔法陣を黒板に描いた。
「では、この陣の欠けている部分はどこでしょう」
見習いたちは一斉に黒板を見た。
ローゼの指が少しだけ動く。きっと、もう答えが分かったのだろう。
けれどその時、アリスが小さく「あ」と言った。
「ここ」
アリスは黒板へ近づき、指先を宙に動かした。
「アリス、許可なく」
ローゼが止めようとした瞬間、先生が手を上げた。
「待ちなさい」
教室が静かになる。
アリスの指先から、細い線が出ていた。線は黒板に触れず、その少し手前の空中をなぞる。欠けた魔法陣の上に、もう一本の線が重なる。正しい答えを描いているのではない。壊れた線の気持ちを探すように、迷い、戻り、最後にふっとつながった。
黒板の魔法陣が、淡く光った。
「……正解です」
先生が言った。
教室がざわめく。
アリスは自分でも驚いたように振り返った。
「今の、合ってた?」
「合っていました」
先生は黒板へ近づき、アリスの線を見つめた。
「ただし、答えの出し方が違います。普通は陣の構造から読むのですが、あなたは欠けた線を補うようにたどった」
「よく分からないけど、ここが寂しそうだったから」
教室の誰かが笑いかけて、途中でやめた。
先生も笑わなかった。
「寂しそう、ですか」
「はい。ここで切れてるから、向こうへ行けなくて困ってる感じがしました」
アリスの言葉は、授業の答えとしてはあまりにも曖昧だった。
でも、黒板の魔法陣は確かに光っている。
ローゼはそれを見ていた。
彼女の答えは、きっと正しかった。
けれどアリスは、正しさとは別の場所から同じところへ来てしまった。
「面白いですね」
先生が呟いた。
その声は、ただの感想ではなかった。
何か新しいものを見つけた時の声だった。
授業が終わると、アリスは真っ先にローゼのところへ来た。
「ローゼ、見てた?」
「見ていました」
「合ってたんだって」
「聞いていました」
「でも、ローゼならもっと綺麗に直せるよね」
「私は、あなたと同じ直し方はできません」
「じゃあ、ローゼの直し方も見たい」
「今は授業が終わりました」
「あとで教えて」
「……ええ」
ローゼは頷いた。
アリスは満足そうに笑った。
その笑顔には、競う気配が少しもなかった。
アリスはただ、ローゼと同じものを見て、ローゼの隣に立ちたいのだ。
だからこそ、その無邪気さは、見ているこちらが不安になるほどまっすぐだった。
放課後、校舎の掲示板に一枚の告知が貼られた。
卒業試験の日取りだった。
魔女見習いたちが、その前に集まっている。まだ卒業まで少し時間はあるけれど、試験はこの国の見習いたちにとって大きな節目らしい。誰がどの称号を受けるのか。誰がどの魔女の道へ進むのか。掲示板の前では、そんな話がひそひそと交わされていた。
「もうそんな時期ですか」
ローゼが静かに言った。
「ローゼ、試験だね」
アリスが隣で顔を上げる。
「あなたも受けるのですよ」
「うん。でも、ローゼの方が大事」
「自分の試験も大事にしなさい」
「だって、ローゼが天の魔女になるところ、見たいもの」
その言葉に、周りの見習いたちが頷いた。
「ロージリアならきっと選ばれるよ」
「今年は他にいないよね」
「あの青だもの」
ローゼはいつものように、少しだけ頭を下げた。
「まだ決まったわけではありません」
「でも、ローゼならなるよ」
アリスは胸を張った。
まるで自分のことみたいに誇らしげだった。
「ローゼが天の魔女になったら、私、一番にお祝いするね」
ローゼは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
短く、丁寧な返事だった。
アリスは嬉しそうに笑い、掲示板の文字を見上げる。
「私も何かになれるかな」
「そのための試験です」
「じゃあ、私は何がいいかな」
「まずは試験課題をこなすことを考えなさい」
「ローゼは真面目だね」
「あなたが真面目でなさすぎるのです」
二人のやり取りに、周りの子たちが笑った。
その笑いは明るい。
誰も悪意を持っていない。
アリスもローゼも、きっといつもの二人に見えていた。
けれど、掲示板の下で一瞬だけ、ローゼの影が伸びた気がした。
夕方の光のせいかもしれない。
青い窓から差し込む光が、床の色を変えただけかもしれない。
けれどその影の端で、黒い滲みが糸のように細く伸びていた。
私は目を凝らした。
滲みはすぐに消えた。
ローゼは何事もなかったように、アリスの袖についた糸くずを払っている。
「制服を乱さない」
「今のは勝手についたんだよ」
「あなたはいつも、勝手に何かをつけています」
「今日は何も食べ歩きしてないのに」
「それが当たり前です」
アリスは笑った。
ローゼも、少しだけ笑った。
その笑顔はやっぱり綺麗だった。
試験の日取りが決まってから、学校の空気は少しずつ変わっていった。
廊下を走る声は少し減り、自習室の灯りは遅くまで消えなくなった。見習いたちは杖を磨き、古い本を読み、魔法陣を何度も書き直した。失敗して焦る声も、成功してはしゃぐ声も、いつもより硬い。
ローゼは変わらなかった。
朝は決まった時間に起き、授業の前に予習をし、課題を完璧にこなし、放課後にはアリスの練習にも付き合った。
アリスは線の練習を続けた。
まだ普通の魔法はうまくいかない。けれど、線は少しずつ長くなり、時々、小さな形を持つようになった。紙の上に描いた花が一瞬だけ揺れ、空中に引いた線が小さな橋のように留まり、壊れた魔法陣の欠けた部分をなぞると、ほんの少しだけ光が戻る。
そのたびに、周りの目がアリスへ向いた。
アリスは照れながら笑う。
そして必ず、ローゼを見る。
「ローゼ、今の見た?」
「見ていました」
「変だった?」
「危なっかしかったです」
「でも、少しできたよね」
「少しは」
「やった」
アリスはそれだけで嬉しそうだった。
ローゼは、いつも通りだった。
少なくとも、そう見えた。
試験の前日、空はいつもより遠くまで澄んでいた。
魔女の国の青い屋根も、石畳も、水路も、すべてが静かに息をひそめているようだった。見習いたちは早めに授業を終え、各自で最後の準備をすることになった。
アリスは中庭の噴水のそばで、指先に小さな点を作っていた。
点は震えながら、線になる。
線は輪になろうとして途中でほどけた。
「あー」
アリスは芝生に座り込む。
「またほどけた」
「集中が切れるのが早いのです」
ローゼが隣で本を閉じる。
「明日、ほどけたらどうしよう」
「ほどけたら、もう一度結びなさい」
「ローゼならそう言うと思った」
「では訊かないでください」
「訊きたいんだよ」
アリスは膝を抱え、ローゼを見上げた。
「ねえ、ローゼ」
「何ですか」
「明日、ローゼが天の魔女になったら、私、ちゃんとおめでとうって言うね」
「その話は、もう聞きました」
「何回でも言うよ。だって、ずっと楽しみにしてたんだもの」
「まずは自分の試験のことを考えなさい」
「してるよ」
アリスは笑った。
「でも、ローゼのことも楽しみ」
ローゼは本の表紙に手を置いたまま、少しだけ黙った。
風が吹く。
噴水の水球がふるりと揺れ、光の魚がその中を横切った。
「アリス」
ローゼが言う。
「はい」
「明日は、勝手なことをしないように」
「うん」
「危ない線を描かないように」
「うん」
「分からないことを、その場の気分で試さないように」
「うん」
「返事が軽いです」
「ちゃんと聞いてる」
アリスは胸を張った。
「ローゼも、明日頑張ってね」
「私はいつも通りやります」
「それが一番すごいんだよ」
アリスはそう言って笑った。
「ローゼのいつも通りは、私のすごいだから」
ローゼの指が、本の表紙を少しだけ押した。
けれど、その表情は変わらなかった。
「……ありがとうございます」
いつも通りの丁寧な声。
いつも通りの微笑み。
でも、その足元の影は、夕方の青の中で少しだけ濃く見えた。
私は噴水の縁に座りながら、二人を見ていた。
アリスの言葉には、棘なんてない。
なのに、時々、その優しさがどこかへ刺さっているように見える。
それがどこなのか、まだ私には分からなかった。
ただ、黒い滲みだけが、祝福の下で少しずつ細く伸びていた。
次の日、卒業試験が始まった。




