ほつれる糸
その日の午後、アリスは医務室ではなく、校長室へ連れていかれた。
大きな怪我もなく、熱もない。少なくとも、目に見える異常はないらしい。マダム・ペンシルベニアはアリスの額に手を当て、指先を確かめ、瞳の奥を覗き込んでから、しばらく黙った。
「具合はどう?」
「お腹がすいた」
「それは具合ではなく要求です」
ローゼがすぐに言う。
「でも、お菓子抜きなんだよね」
「三日間です」
「三日も」
「三日です」
アリスは椅子の上で小さくしぼんだ。
けれど、その指先にはまだ、さっき見えた細い線の気配が残っているようだった。本人もそれが気になるのか、何度も自分の人差し指を見ている。
マダムは机の上へ白い紙を一枚置いた。
「アリス。そこへ線を引いてみなさい」
「普通に?」
「ええ。普通に」
アリスは紙を覗き込み、指を伸ばした。
鉛筆もペンも持っていない。けれど、彼女の指先が紙に触れる直前、淡い光が生まれた。光は紙の上をすべり、少し震えながら、少し曲がりながら、それでも一本の線になった。それは確かに、アリスの指から生まれた線だった。
私は息を止めた。
ローゼも、何も言わなかった。
「もう一本」
マダムが言う。
アリスは頷き、今度は紙ではなく空中へ指を動かした。何もない場所に点が生まれ、ゆっくり伸びて細い線になる。その線はふるふる震えながら宙に留まり、すぐに消えるかと思ったけれど、消えなかった。
「すごい」
私は思わず呟いた。
アリスがぱっとこちらを見る。
「すごい?」
「はい。すごいです」
「ローゼ」
アリスは今度はローゼを見た。
「今の、見た?」
「見ました」
「線、出たよ」
「ええ」
ローゼは短く答えた。
その声はいつも通り静かだった。叱る時のように鋭くもなく、褒める時のように柔らかくもない。けれど、アリスはそれだけで嬉しそうに笑った。
マダムは宙に浮いた線を見つめている。
「これは、火でも水でも風でもありませんね。形に命令を与える魔法とも違う。あなたは、世界へ直接線を引いている」
「世界へ?」
アリスが首を傾げた。
「難しい?」
「難しいわ」
「じゃあ、あとでローゼに教えてもらう」
「私にも、まだ説明できません」
ローゼの返事は早かった。
アリスは少し驚いたように瞬きをする。
「ローゼにも分からないこと、あるの?」
「あります」
「そっか」
アリスは、なぜか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に分かればいいね」
ローゼは返事をしなかった。
マダムは白い紙をもう一枚取り出し、そこへ小さな丸を描いた。
「アリス。この丸の横に、同じ丸を描いて」
「はい」
アリスが指を動かす。
宙に浮かんだ点は、少し歪みながらも丸くつながり、マダムが描いた丸の横にきちんと並んだ。
「次は、鳥」
「鳥?」
「あなたが本の中で描いたように」
アリスは少し迷ったあと、指先で小さな鳥の形をなぞった。線は途中で震え、羽のところで少しだけ途切れた。それでも描き終わった瞬間、線でできた鳥はぱたぱたと羽ばたいた。
「わ」
アリス自身が一番驚いていた。
鳥は机の上を一周し、マダムの羽ペンの先に止まる。羽ペンがくすぐったそうに震えた。
「飛んだ」
アリスが呆然と言う。
「飛びましたね」
私は頷いた。
鳥は本物の鳥ではない。羽も身体も線でできている。けれど、たしかに飛んでいる。マダムの指先が近づくと、鳥は少しだけ首を傾げ、薄い光になって消えた。
「なるほど」
マダムは深く息を吐いた。
「これは、これまで学校で教えてきた魔法とは道筋が違うわ」
「道筋」
アリスは難しい言葉に眉を寄せる。
「あなたは魔法を失敗したのではなく、別の入口を探していたのかもしれない」
「別の入口」
「ええ。まだ誰も名前をつけていない入口よ」
アリスの顔が、少しずつ明るくなる。
その明るさは、朝の食堂でパンを食べていた時とも、マシュマロを見つけた時とも違っていた。もっと深いところから、ふわりと光が上がってくるようだった。
「私、できたの?」
「少なくとも、できたことがあります」
マダムが言う。
「ただし、まだ喜びすぎてはいけません。あなたの線は不安定です。何を描けて、何を描いてはいけないのか、誰にも分かっていない。危険でもあります」
「はい」
アリスは珍しく真面目に頷いた。
「でも、できた」
「ええ」
マダムは少しだけ微笑んだ。
「できました」
その一言で、アリスの目に涙が浮かんだ。
こぼれはしなかった。アリスは慌てて袖で目元をこすり、それから笑った。
「ローゼ、聞いた?」
「聞きました」
「私、できたって」
「聞きました」
ローゼは同じ言葉を繰り返した。
アリスは嬉しそうに笑っている。マダムはまだ慎重に観察している。私は、アリスが初めて自分の道を見つけた瞬間に立ち会っているのだと分かった。
ローゼは、いつも通りそこに立っていた。姿勢も乱れず、誰よりも落ち着いているように見えるほどに。
校長室を出ると、アリスは廊下で何度も自分の指を見た。
「線」
小さく呟いて、人差し指を空中に動かす。
「こら」
ローゼがすぐに止めた。
「校長先生が、勝手に試さないようにと言ったでしょう」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、で本に取り込まれたのは誰ですか」
「私」
「分かっているなら我慢なさい」
アリスは素直に手を下ろした。
けれど、足取りは弾んでいた。廊下の石畳を踏むたびに、彼女の影まで少し跳ねているように見える。
「ローゼ」
「何ですか」
「私も、ローゼと一緒に勉強できるかな」
「……できます」
ローゼは少しだけ間を置いて答えた。
「ただし、今までよりも危ないことをしている自覚は持ちなさい。分からないことを勝手に試さないこと。マダムの許可なく描かないこと」
「うん」
「返事が軽いです」
「でも、ちゃんと聞いてる」
アリスは嬉しそうに笑った。
「ローゼが見ててくれるなら、大丈夫な気がする」
ローゼはその言葉に何か返そうとして、やめた。
代わりに、アリスの袖口についた紙の切れ端を摘まみ、そっと払う。
「気がする、で魔法を扱わない」
「はあい」
その日の夕方には、もう見習いたちの間で噂になっていた。
アリスが本の中から戻り、線を出して鳥まで飛ばしたらしい。今まで誰も見たことのない魔法を使ったらしい。そんな話が食堂へ入る前からあちこちで囁かれていて、いつもならローゼへ向けられる視線の一部が、今日はアリスへ向いていた。
「本当なの?」
「線で鳥を飛ばしたって」
「アリスが?」
「でも、授業ではいつも失敗してるよね」
「だから、別の才能なんじゃない?」
いろいろな声が重なる。
アリスは少し照れながら、でも嬉しさを隠せない様子で笑っていた。
「えへへ。鳥はちょっとだけ飛んだよ」
「見たい」
「今は駄目。勝手にやったらローゼに怒られる」
「ローゼに?」
「うん」
アリスはそう言って、いつものようにローゼの方を見る。
ローゼは食器を手にしたまま、静かに立っていた。
皆の視線がアリスに集まっている。
それは、昨日までとは違う景色だった。昨日まではローゼが皆に見られていて、見習いたちはすごいと言い、先生たちは期待していると言い、天の魔女の名が彼女の後ろに続いていた。
今は違う。
すごいと言われているのはアリスだった。
誰もローゼを忘れたわけではない。けれど、皆の声はアリスの線と、名前のない魔法と、今までにない才能へ向かっている。それは祝福のように食堂を満たしていた。
「ローゼ」
アリスが振り返る。
「こっち座ろう」
「ええ」
ローゼは短く答え、いつもの席へ向かった。
夕食の間、アリスは何度も話しかけられた。本の中はどうだったのか、線はどうやって出すのか、お菓子も描けたのか。アリスは分かることだけを答え、分からないことには分からないと笑った。自分でも驚いたことを、隠さず話した。
私はその横で、アリスの嬉しさに少しだけほっとしていた。
ローゼはいつも通り、アリスの皿に残った野菜を見つけた。
「それも食べなさい」
「今日はすごいことがあったから、野菜は少しだけ減らしてもいいかな」
「すごいことがあっても、栄養は必要です」
「線で野菜を描いたら、食べたことにならない?」
「なりません」
「だよねえ」
アリスはしぶしぶ野菜を口に入れた。
周りの見習いたちが笑う。
ローゼも、少しだけ笑った。
それは綺麗な笑顔だった。いつも通りで、どこにも間違いがない。けれど私は、その笑顔を見た時、なぜか硝子を思い出した。薄くて、透き通っていて、光を受けると美しく見えるのに、強く触れれば音を立ててしまうもの。
「ローゼ、見て」
食後、アリスは指先を机の下に隠しながら、小さな点を作ろうとしていた。
「アリス」
「まだ描いてないよ」
「描こうとしました」
「点だけ」
「点も線の始まりです」
「ローゼはなんでも分かるね」
アリスはそう言って笑った。
「私、ローゼがいてよかった。私ひとりだったら、きっとまた変なところへ行っちゃうもの」
「自覚があるなら、行かないでください」
「だからローゼがいるんだよ」
アリスは何の疑いもなく言った。
その言葉は、あたたかいはずだった。
ローゼは、静かにアリスの指先を押さえた。
「私は、あなたの見張り役ではありません」
「うん。親友だよ」
アリスはすぐに言い直した。
その声は明るく、まっすぐだった。
ローゼは何も言わなかった。ただ、アリスの指先を離し、布巾で机の上に落ちたパンくずを払った。
その夜、寮の廊下でも、まだアリスの話は続いていた。線の魔法や、鳥や、白い本のこと。マダムが驚いたらしいという話に、もしかすると卒業試験でも何かあるかもしれないという声が重なり、扉の向こうや階段の下から小さく聞こえてくる。
アリスは照れながら何度も「まだ分からないよ」と言った。そのたびに、周りの見習いたちはますます目を輝かせた。
ローゼは、その隣で静かに微笑んでいた。
いつものようにアリスの頬についた粉を払い、廊下を走らないよう注意し、早く部屋へ戻るよう促している。その姿だけを見れば、何も変わっていないようだった。
けれど、階段の踊り場でアリスが他の見習いたちに囲まれた時、私は一瞬だけ、ローゼの足元で黒い滲みが糸のように細く伸びた気がした。夜の青とは違う黒は、ローゼの影に紛れてすぐに消えた。
瞬きをすると、もう何もない。
ローゼはまだ微笑んでいる。
その笑顔は綺麗で、少しだけ冷たかった。
「ひかり」
アリスが私へ手を振る。
「明日も一緒に授業だよ」
「はい」
「ローゼもね」
「当然です」
ローゼはいつも通り答えた。
アリスは満足そうに笑い、今度こそ自分の部屋へ戻っていった。
廊下に残った青い灯りが、ゆっくり揺れる。
ローゼは閉じた扉を少しだけ見つめてから、私へ向き直った。
「ひかりさんも、早く休んでください」
「はい。ローゼさんも」
「ええ」
ローゼは丁寧に頷いた。
その仕草は、昨日と何も変わらない。
けれど私は、さっき見えた黒い滲みのことを、気のせいだと言い切れずにいた。
アリスは自分の入口を見つけた。
それはきっと、とてもいいことのはずだった。
けれど、祝福が明るくなるほど、その足元にできる影も、少しずつ濃くなっていく。
私はそれを、まだ誰にも言えずにいた。




