アリスの意思
足の裏に触れたのは、紙だった。
床のように固い。けれど、踏みしめるたびに、薄い紙が何枚も重なっているような感触がした。白い地面がどこまでも続いている。空も白い。壁もない。天井もない。ただ、ところどころに黒い文字が浮かんでいて、それが風に乗る落ち葉みたいに、ゆっくり流れていた。
ここは図書塔ではない。
けれど、外でもなかった。
白い日記の中。
そう思った瞬間、足元の紙に文字が浮かんだ。
ひかりは白い場所へ来た。
ロージリアも来た。
マダム・ペンシルベニアも来た。
私は思わず足を引いた。
「今のも、書かれているんですか」
「ええ」
マダムは落ち着いた声で答えた。
「この本は、中に入った者の動きも記録します。書かれることを恐れすぎないで。恐れるほど、余白は狭くなります」
「余白が」
「この本の中では、余白が道です」
マダムが杖を掲げると、白い地面に水色の線が一本引かれた。線はまっすぐではなく、少し迷うように曲がりながら、遠くへ伸びていく。
「アリスがいる場所へ向かいます」
ローゼは頷いた。
その横顔は固い。けれど足は止まらなかった。
私たちは水色の線をたどって歩き出した。
白い世界のあちこちには、アリスが描いたものがいた。
最初に現れたのは、お菓子の家だった。壁は焼き菓子でできていて、窓枠には砂糖が積もっている。屋根からは白いマシュマロがいくつも垂れ下がり、扉の前では小さなクッキーたちが手をつないで踊っていた。
「アリスらしいですね」
ローゼが小さく言った。
声は呆れているのに、少しだけほっとしたようにも聞こえた。
クッキーの一つが私たちに気づき、手を振る。私は思わず振り返しそうになったけれど、ここが本の中だと思い出して手を止めた。
「触れてもいいものと、いけないものがあります」
マダムが言った。
「見分け方はありますか」
「今のあなたたちにはありません。だから、むやみに触れないこと」
ローゼがすぐにアリスのいない方を見た。
そこにアリスがいたなら、絶対に触っていただろうと思ったのかもしれない。
先へ進むと、白い犬が走ってきた。
犬は雪のような毛をしていて、耳だけが青かった。口に大きなリボンをくわえている。私たちの周りをくるくる回り、遊んでほしそうに跳ねる。
その後ろから、空を飛ぶ魚が何匹も泳いできた。魚のひれは薄い紙でできていて、動くたびにさらさらと音を立てる。笑う帽子が三つ、地面を転がりながら追いかけていった。歩く砂糖菓子は、途中で疲れたのか、道の端へ座り込んで自分の足をかじっている。
どれもおかしくて、可愛くて、怖かった。
この世界では、アリスが描いたものが本物になる。
それは楽しいことのようにも見える。
けれど、どこまでも白い余白の中で、それらは本の外へ出ることを知らないまま動いていた。
ローゼはそれらを見ながら、何度も唇を結んだ。
「アリスが、これを」
「そうです」
マダムが答える。
「ただし、本の力を借りています。今のアリスが、外で同じことをできるとは限りません」
「でも、可能性はある」
ローゼの声は低かった。
マダムは答えなかった。
水色の線は、白い丘のような場所へ続いていた。
丘といっても、土ではない。紙の束が盛り上がってできた丘だった。その上に、たくさんの絵が浮かんでいる。空に吊るされた紙片のように、風もないのに揺れていた。
そこに、アリスがいた。
丘の上に座り、膝の上に紙を広げている。片手には短い鉛筆。もう片方の手には、いつものようにマシュマロが握られていた。髪には白い紙の切れ端がいくつも絡んでいる。制服は少ししわになっていたけれど、怪我をしているようには見えなかった。
「アリス!」
ローゼが叫んだ。
アリスは顔を上げた。
蜂蜜色の瞳が、まずローゼを見つけ、それから私を見つける。最後にマダムを見て、少しだけ肩をすくめた。
「あ」
「あ、ではありません」
ローゼの声が震えていた。
「あなた、自分が何をしたか分かっているのですか」
「えっと」
アリスは持っていた鉛筆を見下ろす。
「本に入った」
「そういうことを訊いているのではありません」
「勝手に入った」
「それもです」
「図書塔の上に行こうとはしてないよ」
「この本に取り込まれていた時点で、十分すぎるほど問題です」
ローゼは一気に言った。
言い終えてから、ようやく息を吸う。
アリスは少し困ったように笑った。
「ごめんね、ローゼ」
「謝ればよいというものではありません」
「うん」
「あなたは、いつもそうです。分かっているような顔をして、すぐ一人でどこかへ行ってしまう」
ローゼの言葉に、アリスの笑顔が少しだけ薄くなった。
私は二人を見ていた。
ローゼは怒っている。
けれど、その怒りは、ただ規則を破ったからではなかった。アリスがいなくなった朝、彼女の顔がどれほど硬かったかを思い出す。
置いていかれること。
見失うこと。
ローゼは、それをひどく怖がっているように見えた。
「だって」
アリスは紙を胸に抱えた。
「ひかりが困ってたから」
「だからといって」
「私、何もできないでしょう」
その言葉に、ローゼが止まった。
アリスは膝の上の紙を見つめる。そこには、小さなお菓子と、犬と、空を飛ぶ魚が描かれていた。どれも線は少し歪んでいる。けれど、その線から生まれたものたちは、いまも白い世界の中で動いている。
「魔法の授業だと、失敗するだけだし。石も光らないし。水も落ちるし。火も出ないし。ローゼみたいにはできない」
「アリス」
「でも、ここでは描けたんだよ」
アリスは顔を上げた。
その表情は、嬉しそうで、少しだけ泣きそうでもあった。
「お菓子も、犬も、魚も、帽子も、全部出てきた。私が描いた線から、本当に出てきたの。だから、もしかしたら、ひかりの探してるものも描けるかもしれないって思った」
「夢から覚める方法を?」
私が訊くと、アリスは頷いた。
「うん。出口とか、扉とか、線路とか。何か描けるかもしれないって」
胸の奥が詰まった。
昨日、私は謎の手紙には従わないと決めた。
けれど、アリスは違った。
私のために、何かできるかもしれないと思ってしまった。自分ができるかもしれないことを、初めて見つけてしまった。
その気持ちを、責めることはできなかった。
でも、それでアリスがここに閉じ込められていたのなら、やっぱりいいことではない。
「アリス」
私が呼ぶと、アリスは少し驚いたように私を見た。
「ありがとうございます。でも、私のために一人で危ないところへ行かないでください」
「ひかり」
「探してくれたのは、嬉しいです。でも、アリスがいなくなるのは嫌です」
アリスは瞬きをした。
それから、少しだけ視線を下げる。
「そっか」
小さな声だった。
「嫌なんだ」
「はい」
「ローゼも?」
アリスが訊く。
ローゼは一瞬、言葉に詰まった。
それから、いつもよりずっと静かな声で答える。
「当たり前です」
短い言葉だった。
でも、それだけで十分だった。
アリスの顔が、ふにゃりとほどける。
「そっか」
彼女は紙束を抱きしめた。
「じゃあ、帰りたい」
その言葉が落ちた瞬間、白い世界が少しだけ震えた。
空に浮かんでいた文字がざわざわと揺れる。お菓子の家の壁がひび割れ、空を飛ぶ魚たちが散る。笑う帽子が笑うのをやめ、白い犬が耳を伏せた。
地面に新しい文字が浮かぶ。
アリスは帰りたいと思った。
アリスは本の外へ戻りたいと思った。
アリスは――。
文字はそこで一度止まり、黒い滲みを帯びた。
帰ってはいけない。
ここなら何でも描ける。
失敗しない。
誰も笑わない。
その文字を見た瞬間、ローゼが杖を構えた。
「本が引き止めている」
「いいえ」
マダムの声が鋭く響いた。
「本だけではありません」
白い地面の奥から、黒い滲みが糸の形を取って伸びていた。
それは紙の繊維に紛れるように細く、けれど確かに黒かった。アリスの足元へ絡み、彼女の描いた紙束へ伸びている。滲みが触れた線は、少しずつ黒く濁っていった。
アリスは自分の足元を見て、目を丸くした。
「なに、これ」
「アリス、動かないで」
ローゼが一歩踏み出す。
糸の形をした黒い滲みが、ぴんと張った。
その瞬間、白い世界に描かれていたものたちが、ばらばらに動き出した。お菓子の家から砂糖菓子が飛び出し、空を飛ぶ魚が紙のひれを尖らせ、笑う帽子が大きな口を開ける。可愛かったものたちの形が、少しずつ崩れていく。
さっきまで楽しかったものたちが、帰り道を塞ごうとしていた。
私は星型ポーチに手を添えた。
何かできるわけではない。
魔力らしいものも、うまく扱えない。
けれど、さっき先生が言っていた。
強い想いが、時として魔力に近い働きをすることがある。
「アリス」
私は声を張った。
「こっちを見てください」
アリスがこちらを見る。
黒い滲みが彼女の足元で震えている。
「帰りたいんですよね」
「うん」
「なら、帰りたいって、もう一度言ってください」
「でも」
「ここで何でも描けるとしても、アリスが本当に見たいものは、ここにはないと思います」
アリスは紙束を抱えたまま、ローゼを見た。
ローゼは杖を構えている。青い髪が白い世界の中でまっすぐ揺れた。
「アリス」
ローゼが言った。
「あなたが何かを描けたことは、消えません。ここから出ても、それは消えません。だから、ここに残る必要はありません」
「でも、外だとまた、失敗するかも」
「するでしょうね」
ローゼは即答した。
アリスが一瞬だけ固まる。
「ローゼ」
「けれど、失敗しても、あなたは笑って戻ってきます。私はまた叱ります。それだけです」
その言葉は、慰めではなかった。
甘くもなかった。
けれど、アリスには何より届いたようだった。
アリスは小さく笑った。
「そっか」
それから、足元の黒い滲みを見下ろす。
「帰る」
白い世界が震える。
「私は、帰る」
アリスは紙束を胸に抱いたまま、はっきりと言った。
「ローゼと、ひかりのところに帰る」
その瞬間、糸の形をした黒い滲みが、ぶつりと音を立てた。
消えたわけではない。
けれど、緩んだ。
「今です」
マダムが杖を振る。
水色の線が大きく広がり、私たちの足元に円を描いた。円の内側から風が吹き上がる。紙の地面がめくれ、文字が飛び、白い犬も、空飛ぶ魚も、歩く砂糖菓子も、みんな線へ戻っていく。
ローゼがアリスへ駆け寄った。
黒い滲みがもう一度、糸の形を取って伸びる。
ローゼの杖の先から青い光が走り、その滲みを弾いた。強く、美しく、迷いのない青だった。滲みは煙のようにほどけ、白い余白へ散る。
ローゼはアリスの手をつかんだ。
「離しません」
「うん」
アリスも握り返す。
私は二人へ手を伸ばした。
アリスのもう片方の手が、私の手を取る。
マシュマロの甘い匂いと、インクの匂いがした。
次の瞬間、白い世界が折り畳まれる。
空も地面も、文字も絵も、全部が一枚の紙みたいにたたまれていく。目の前が白で埋まり、何も見えなくなった。
そして、足元に硬い床の感触が戻った。
図書塔だった。
私は机のそばに立っていた。ローゼはアリスの手を握ったまま、床に膝をついている。アリスは目をぱちぱちさせ、それから自分の身体を確かめるように両手を見た。
「戻ってきた」
「戻しました」
ローゼの声は少しだけ震えていた。
「ごめんね」
「本当に、あとでたくさん叱ります」
「うん」
「分かっているのですか」
「分かってる。たくさん叱られる」
「そうです」
ローゼはそこで一度言葉を止め、アリスの手をさらに強く握った。
「でも、今は戻ってきたので、それでいいです」
アリスは少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
マダムは白い本の前に立っていた。
本は開いたまま、もう文字を増やしていない。表紙の白は少しくすみ、そこに残っていた黒い滲みも消えていた。
「校長先生」
ローゼが顔を上げる。
「アリスの身体は」
「身体に大きな異常はありません。しばらく休めばよいでしょう」
「よかった」
私は思わず息を吐いた。
アリスは照れたように笑って、けれどすぐにマダムの方を見て小さくなる。
「えっと」
「アリス」
「はい」
「夜の図書塔へ勝手に入り、危険な本に触れ、自分と周囲を危険にさらしました」
「はい」
「しばらく図書塔への立ち入りは禁止です」
「はい」
「加えて、三日間、食後のお菓子を抜きます」
アリスの顔から血の気が引いた。
「三日」
「不服ですか」
「いえ」
「では決まりです」
アリスはこの世の終わりみたいな顔をした。
ローゼはそれを見て、ようやく少しだけいつもの顔に戻る。
「当然です」
「ローゼ、三日は長いよ」
「短いくらいです」
「ひかり」
アリスが助けを求めるように私を見た。
「えっと……無事でよかったです」
「それはそう」
アリスはしょんぼりした。
その時だった。
彼女の指先に、細い光が浮かんだ。
青ではない。
白でもない。
紙の上を走る鉛筆の線のような、淡く、かすかな光だった。
アリス自身もそれに気づき、目を丸くする。
「今の」
ローゼが息を呑んだ。
アリスがそっと指を動かす。
空中に、小さな点が生まれた。
点は震えながら伸び、細い線になる。線はすぐに消えた。けれど、確かにそこにあった。
火でも、水でも、花でもない。
杖の魔法でもない。
空中に描かれた、一本の線。
マダム・ペンシルベニアの目が、静かに細められた。
「なるほど」
その声は、いつもの穏やかさの奥に、ほんの少しだけ驚きを含んでいた。
「アリス・オリエンス」
「はい」
「あなた、厄介なものを持って帰ってきたようね」
アリスは自分の指先を見つめたまま、困ったように笑った。
「お菓子抜きより?」
「お菓子抜きより、ずっと」
マダムはそう言った。
ローゼは、消えた線のあたりを見つめていた。
その横顔は、ただ驚いているだけではない。
何かが始まってしまったことを、ローゼだけはもう感じ取っているように見えた。




