迷いの国のアリス
「アリスが、いません」
その言葉は朝の青い廊下に落ちて、すぐには意味を結ばなかった。
私は扉の前に立ったまま、ローゼを見上げる。昨日と同じ制服を着て、青い髪もリボンも綺麗に整えているのに、いつものように背筋を伸ばした姿が、今日はどこか危うく見えた。
「いない、というのは」
「寮の部屋にいません。食堂にも、教室にも、中庭にも」
「寝坊では」
「アリスは寝坊します。でも、寝坊しても部屋にはいます」
ローゼはそこまで言って、唇を結んだ。
アリスなら、どこかでマシュマロを食べているのではないか。授業へ向かう途中で絵に話しかけて、そのまま忘れているのではないか。そう思おうとしたけれど、ローゼの顔がそれを許してくれなかった。
「昨日の紙片は」
「司書の魔女を通して、校長先生へお渡ししました」
「じゃあ、アリスは……」
言いかけた言葉が、喉で止まる。
行ってしまったのだろうか。
夜の図書塔へ。
私のために。
ローゼは小さく息を吸った。
「校長先生のところへ行きます。ひかりさんも来てください」
「はい」
私は星型ポーチを肩にかけた。
廊下を進む間、ローゼはほとんど何も話さなかった。いつもならアリスの乱れた行動を先回りして叱る声がある。寄り道しない、走らない、食べながら歩かない。そんな言葉がないだけで、寮の廊下は昨日より広く、静かに感じられた。
校舎へ向かう道には、朝の光が差していた。青い屋根の影が石畳に落ち、水路の水がきらきらと揺れている。見習いたちが教室へ急いでいく。その中にアリスの杏色の髪はなかった。
校長室の扉は、私たちが叩く前に開いた。
「入りなさい」
中から、マダム・ペンシルベニアの声がした。
部屋へ入ると、マダムは机の前ではなく窓際に立っていた。白髪なのか水色なのか分からない髪が、朝の光を受けて淡く光っている。机の上には、昨日の紙片が置かれていた。黒い糸はもうなく、絡んでいた端だけが、朝の光の中でも黒く沈んで見えた。
「アリスがいません」
ローゼが言った。
いつもの丁寧さは残っている。けれど、声の底が硬い。
「ええ。寮母からも報告を受けています」
マダムは机へ戻り、紙片を指先で押さえた。
「昨夜、図書塔へ入った記録はありません。少なくとも、正規の扉からは」
「正規の扉ではない入り方があるのですか」
「本もまた、入口になることがありますから」
その言葉の意味が分からず、私は机の上の紙片を見た。
黒い糸は消えている。それなのに、端に残った黒ずみだけで、部屋の空気が少しずつ濁っていくように思えた。
「校長先生」
ローゼが一歩前へ出る。
「アリスは、この紙を見たのでしょうか」
「見ています」
マダムは静かに答えた。
「昨日、司書から報告を受けたあと、アリスだけがもう一度私の部屋へ来ました。図書塔の上層に、ひかりさんの探し物があるかもしれないのかと訊きました」
私の胸の奥が冷たくなった。
「それで」
「私は、勝手に入ってはいけないと言いました」
「でも」
「ええ。アリスは、言われたことを理解する子です。ただ、理解したことと、行動が同じ向きを向くとは限りません」
マダムの言葉は叱るようで、どこか苦かった。
ローゼの手が、制服の裾をぎゅっと握る。
「私が、もっと強く止めていれば」
「ロージリア」
マダムの声が少し低くなる。
「今は自分を責める時間ではありません」
「ですが」
「アリスを見つける時間です」
その一言で、ローゼは口を閉じた。
マダムは紙片を青い封筒にしまい、机の横から一本の杖を取った。杖の先には小さなペン先の形をした飾りがついていて、その内側を淡い水色の光が流れていた。
「図書塔へ行きます。二人ともついてきなさい」
「私も、ですか」
思わず訊くと、マダムは私を見た。
「あなたのためにアリスが動いた可能性があります。ならば、あなたにも見届ける理由があります。ただし、私の許可なく本には触れないこと」
「はい」
「ロージリアも」
「はい」
ローゼの返事は、いつもより短かった。
図書塔は、朝の光の中で昨日より静かに見えた。
昨日は自習の見習いたちが行き来していたけれど、今はまだ授業前だからか、人の気配が少ない。白い外壁に埋め込まれた青い硝子だけが、眠っている目のように光っている。
扉の前に立つと、マダムが杖を軽く上げた。扉に描かれた青い線がゆっくり動き、音もなく開く。
中へ入った瞬間、紙とインクと、乾いた薬草の匂いが濃くなった。円形の部屋には昨日と同じように本棚が連なり、上へ上へと続いている。けれど今日は、梯子も栞も動いていなかった。塔全体が息を潜めているようだった。
「アリス」
ローゼが小さく呼んだ。
返事はない。
その声は本棚に吸い込まれ、すぐに消えた。
マダムは目を閉じた。
杖の先にあるペン先が淡く光り、床へ細い線を落とす。線は水のように広がり、本棚の下や机の脚、階段の影をすべっていった。やがてそれは、昨日私たちが座っていた机の近くで止まった。
「こちらです」
私たちはマダムについて歩いた。
机のそばには、何もなかった。昨日使った本も、紙片も、もう片づけられている。けれど、床の上に白いものが浮き上がるように現れた。
一冊の本だった。
落ちていたというより、今、そこへ押し出されてきたみたいに見えた。
「昨夜、司書が確認した時には、そこには何もありませんでした」
マダムが低く言った。
薄い本だった。
表紙は白い。題名も、飾りもない。ただ真っ白な表紙が、床の青を映して冷たく見える。
「これは」
ローゼがかがもうとした瞬間、マダムが手で止めた。
「触れないで」
ローゼの指が空中で止まる。
本は、床の上でひとりでに開いた。
ページは白かった。
最初はそう見えた。けれど、次の瞬間、細い文字が浮かび上がる。誰かが目に見えないペンで書いているみたいに、文字は紙の上を走り始めた。
昨日の朝、アリスは目を覚ました。
マシュマロをひとつ食べた。
ローゼに叱られた。
ひかりを迎えに行った。
文字はそこで止まらず、昨日の出来事を次々に書き写していく。中庭で寝転んでいたこと、私を絵の子と呼んだこと、ローゼが来て、校長室へ向かい、特別留学生の話を聞いたこと。寮へ戻って夕食を取り、食堂でローゼに注意されたことまで、まるで昨日のアリスの一日を、そのままなぞっているようだった。
「アリスの日記……?」
私は呟いた。
「日記の形をしていますが、日記ではありません」
マダムの声は静かだった。
「記録する本です。取り込んだ相手の日々を書き写し、その続きを勝手に綴り、やがて本人ごと本の中へ閉じ込める。見習いが触れてよいものではありません」
「アリスは、この中に」
ローゼの声がかすかに震えた。
マダムは答えず、ページを見つめる。
文字は昨日の夜へ進んでいた。
アリスは眠れなかった。
ひかりの探し物が気になっていた。
図書塔の上へ行けば、何か分かるかもしれないと思った。
でも、勝手に行ってはいけないと言われた。
だから、せめて図書塔の下層で、もう一度だけ探そうと思った。
ローゼの顔色が変わる。
「アリス……」
文字はさらに続く。
アリスは白い本を見つけた。
まだ何も書かれていない日記だと思った。
白いページなら、絵を描けると思った。
その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
ページの上に、新しい文字が生まれる。
アリスは絵を描いた。
最初に描いた小さなお菓子が本の中で形を持つと、アリスは驚きながらも、もう一度、線を引いた。鳥の形をした線はページから浮き上がり、花は紙の上でひらき、動物のようなものが余白の端を走ったらしい。文字は淡々とそれを記していたけれど、読んでいる私には、アリスが息を呑みながら次の線を探している姿が見えるようだった。
私はローゼを見た。
ローゼも同じ箇所を読んでいる。青紫の瞳が大きく開かれていた。
「具現化……?」
ローゼが呟く。
「アリスが?」
昨日の授業で、アリスの石は光らなかった。杖の先から出たのは、ぽふん、と白い煙だけだった。けれど、この日記の中では、アリスは絵に形を与えている。
紙の中でだけ。
本の中でだけ。
それでも、今までできなかったことが、そこには書かれていた。
「これは、アリスの魔力なのですか」
ローゼがマダムへ訊いた。
「まだ分かりません」
マダムは本の上に杖をかざした。
「けれど、この本は、アリスの中にあった線を引き出している。何もないところから力を与えているわけではありません」
「では、アリスは」
「話はあとです」
マダムの声が鋭くなった。
文字はまだ増えている。
アリスはさらに描き続けていた。空を泳ぐ魚や笑う帽子、歩き出す砂糖菓子みたいな、彼女らしいものたちが白い余白を賑わせるたび、本はその分だけ新しいページを増やしていく。楽しいものを描いているはずなのに、帰り道だけが少しずつ遠くなる。やがて文字は、アリスがローゼと私に会いたくなり、いちばん大切なものを描こうとしたところまで進んだ。
その時、ページの余白に青い線が走った。
震えるような線だった。
続いて、ひかりという文字の横に、小さな麦わら帽子のような絵が浮かぶ。
アリスはふたりに会いたくなった。
いちばん大切なものを描こうとした。
けれど、描けば描くほど、本はページを増やした。
帰り道が遠くなった。
「校長先生」
ローゼがマダムを見る。
声は震えている。けれど、逃げる気配はなかった。
「中へ入れますか」
「入れます」
マダムは答えた。
「ただし、これは普通の本ではありません。中に入れば、書かれたものが形を持ちます。アリスが描いたものも、アリスが恐れたものも、アリスが望んだものも」
「それでも行きます」
ローゼはすぐに言った。
迷いはなかった。
私はその横顔を見た。
昨日まで、ローゼの声はいつもアリスを叱っていた。背筋を伸ばしなさい。授業を抜けるな。魔法で済ませようとするな。マシュマロばかり食べるな。
けれど今、その声の奥にあったものが見えた気がした。
アリスを失いたくないのだ。
たぶん、それだけだった。
「私も行きます」
私は言った。
ローゼがこちらを見る。
「ひかりさん」
「アリスは、私のために探しに行ったのかもしれないので」
「あなたのせいではありません」
「はい。でも、私も行きたいです」
ローゼは何か言いかけて、やめた。
その代わり、静かに頷いた。
マダムは私たちを順に見た。
「よろしい。私が道を開きます。中で勝手に離れないこと。本の中で見たものを、すべて本物だと思わないこと。けれど、偽物だと決めつけて油断もしないこと」
「はい」
「はい」
私とローゼの声が重なった。
マダムが杖を振る。
ペン先の飾りから水色の線がこぼれ、本の上へ落ちた。線はページの文字をなぞり、余白へ広がり、やがてひとつの扉の形を描く。
白いページの真ん中に、青い扉が浮かび上がった。
扉の向こうから、甘い匂いがした。
マシュマロの匂い。
それから、まだ乾いていないインクの匂い。
マダムが扉へ手を伸ばす。
紙の上の扉が、音もなく開いた。
「行きましょう」
その言葉を合図に、私たちは白い日記の中へ足を踏み入れた。




