魔女見習いひかり
その夜、私は魔法学校の寮で眠った。
寮母さんへ仮許可証を渡し、アリスに手を引かれ、ローゼに何度も廊下を走らないよう注意されながら、私は青い屋根の下にある小さな部屋へ案内された。食堂で出された夕食は、見たことのない青い野菜と、星の形をしたパンと、夏の果物を冷やした甘いスープだった。アリスは私の隣でよく喋り、ローゼはその向かいで、食べながら話すなと三回注意した。
疲れていたのだと思う。
部屋に戻り、星型ポーチを枕元に置いたところまでは覚えている。窓の外では、青い町の灯りが水の底みたいに揺れていた。
*
目の前にはブリキの人形がいる。
人形はただ懇願する。
救いを求める。
いくら祈っても、いくら願っても、彼女が幸せになることはないのだ。
しかし、恍惚の笑みを浮かべる人形を置いて、私は部屋を出た。
鳩の頭をしたクジラの絵画が道端に落ちていた。
クジラはこちらを見た途端喋るのだ。
「もう、時間がないぞ。雨が降る」
構うもんか、雨に濡れたところで大したことではない。
吊り革に体重を乗せて、私を運ぶ七色のバスは出る。
追いかけてくる。
雨が。
どこまでも、どこまでも。
暗い痛みを抱えて。
「お前が真剣に祈らないから不幸になるのだ」
無限とも言える雨が刃に変わり、口々にそう言った。
この先に、兄はいるだろうか。
そう思った私は、吊り革を握る手に力を込めた。
*
私は扉を叩く音と、自分を呼ぶ声で目が覚めた。
「ひかりー!朝だよ、起きて!」
アリスの声がする。
どうやらローゼはいないようだ。
彼女一人だと止まらない乗り物のようで、このままだといつまでも私を呼び続けそうだ。
私が扉を開けようと思うと、部屋の扉は先にひとりで開き、アリスを迎え入れた。
「おはよう、ひかり!」
飛び込んできたアリスには、子犬みたいな尻尾が見えた気がした。
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい」
目の前のアリスは朝の光そのものみたいに明るかった。熟れかけた杏のような髪が、窓から入る日差しを受けてふわふわ揺れている。
「朝ごはん、行こう」
「ローゼさんは?」
「先に食堂へ行ってる。私がひかりを迎えに行くって言ったら、絶対に寄り道しないこと、走らないこと、廊下でマシュマロを食べないことって言われた」
「守れそうですか」
「今のところは」
アリスは胸を張った。
今のところ、という言葉が少し不安だったけれど、私は星型ポーチを肩にかけ、アリスについて部屋を出た。
寮の廊下は、昨夜よりもずっと明るく見えた。壁は白く、窓枠や手すりには淡い青が使われている。天井には丸い硝子の灯りが並び、その中で小さな魚のような光が泳いでいた。足元の敷物には星と花の模様が織り込まれていて、歩くたびに花びらだけがほんの少し揺れる。
食堂へ向かう途中、壁にかけられた絵が小さくあくびをした。
「あ」
「おはようって言うと、ちゃんと起きるよ」
「おはようございます」
私が声をかけると、絵の中の小さな犬が片目を開け、尻尾を一度振った。それからまた丸くなって眠る。
魔女の国では、絵にも朝があるらしい。
食堂へ入ると、もうたくさんの見習い魔女たちが席についていた。黒髪、茶色い髪、赤毛、銀色に近い髪。やっぱり髪の色はさまざまだ。けれど制服のリボンや袖口には必ず青があり、食器にも、窓辺の花瓶にも、壁の時計にも、どこかに青が差している。
ローゼは窓際の席にいた。
姿勢よく座り、私たちを見るなり、まずアリスの頬を見た。
「アリス」
「まだ食べてないよ」
「では、その粉は何ですか」
「昨日の名残」
「寝ている間もつけていたのですか」
「たぶん」
「顔を洗いなさい」
アリスは小さく舌を出してから、近くの水差しに指をかざした。水差しの水がふわりと浮いて、彼女の頬へ近づく。けれど、途中で水はぽとりと落ち、床に小さな丸い染みを作った。
「あ」
アリスが言う。
ローゼは何も言わずに席を立ち、ハンカチを取り出して床を拭いた。それから水差しを手に取り、普通にハンカチを濡らしてアリスの頬を拭く。
「魔法で済ませようとする前に、手でできることをしなさい」
「はあい」
「返事だけはよろしい」
そのやり取りを聞きながら、私は席についた。
朝食は、丸いパンと、白い湯気が立つスープと、薄く焼いた卵のようなものだった。パンには青い実のジャムが添えられている。焼けた小麦の香りが鼻をくすぐる。
青いジャムに少し怖気づきながら恐る恐る口に入れると、舌の奥に甘酸っぱさが広がった。
夏の朝の匂いがした。
「おいしい」
「でしょ」
アリスが嬉しそうに笑った。
「寮の朝ごはんは、パンが一番おいしいんだよ」
「あなたは何でも一番おいしいと言います」
「その時食べてるものが一番だから」
「幸せな舌ですね」
ローゼは呆れたように言いながらも、アリスの皿に残った野菜を見逃さなかった。
「それも食べなさい」
「青いから、見てるだけで魔力が戻りそう」
「食べなければ栄養は戻りません」
アリスはしぶしぶ野菜を口に入れる。
私はその横顔を見ながら、少しだけ笑ってしまった。
朝食のあと、私たちは魔法学校へ向かった。
昨日歩いた廊下も、朝にはまた違って見えた。窓から差し込む光はまだ白く、青い石の床に薄く伸びている。
見習いたちの声があちこちで重なり、箒を抱えた子、杖を磨く子、分厚い本を胸に抱えた子が、教室へ急いでいた。
私もその中に混ざって歩いている。
昨日まで、この国の外にいたはずなのに。
不思議だった。
最初の授業は、魔力の基礎だとローゼが教えてくれた。
教室は円形で、机も椅子も中央を囲むように並んでいた。床には薄い青の線がいくつも描かれている。模様にも見えるし、道にも見える。先生は栗色の髪をした大人の魔女で、青い縁の眼鏡をかけていた。
「今日は、魔力がどこから来るのかを確かめます」
先生はそう言って、机の上に小さな透明の石を配った。
私の前にも、石がひとつ置かれる。
「手を添えて、内側から流れるものを石へ向けてください。うまくいけば、石がそれぞれの色に光ります」
周りの見習いたちは、慣れた様子で石へ手を置いた。
すぐに、あちこちで光が灯る。淡い金、薄い緑、白、桃色。強い光もあれば、指先ほどの弱い光もある。
ローゼの石は、深い青に光った。
教室の空気が少し変わる。
その青は、町の石畳とも、水路とも違っていた。澄んでいて、奥行きがあり、まるで小さな夜空を手の中へ閉じ込めたみたいだった。光は石の中だけに留まらず、机の上の模様へ流れ、床の青い線へ触れ、そこから静かに広がっていく。
「やっぱり、ローゼはすごいね」
アリスが誇らしげに言った。
自分のことみたいに、本当に嬉しそうだった。
「ロージリアさんは、今年の試験でも期待されていますからね」
先生が穏やかに言う。
近くの見習いたちも、こそこそと話し始めた。
「天の魔女に選ばれるの、やっぱりローゼじゃない?」
「リベリオ家だもの」
「あの青、見た?」
「先生たちもきっとそう思ってるよ」
ローゼはその声を聞いていないふりをしていた。
けれど、指先は少しだけ強く石に触れている。
アリスはそんなローゼを見て、ますます嬉しそうにした。
「ローゼはすごいんだよ。何でもできるの」
「何でもではありません」
「でも、だいたいできる」
「だいたいでもありません」
「謙遜してる」
「訂正しているのです」
二人の声を聞きながら、私は自分の石へ手を添えた。
石は冷たい。
私は目を閉じて、先生が言った通り、内側から流れるものを探した。
けれど、何も分からなかった。
胸の奥には、いろいろなものがある。
月、ハルクの翼、シドの涙、フォルテの花、赤い夕陽、ハートの言葉。けれど、それをどうやって石へ流せばいいのか分からない。
しばらく待っても、石は光らなかった。
「……光りません」
私が小さく言うと、先生は私の机へやってきた。
石を覗き込み、私の顔を見る。
「魔力の流れは、ほとんど感じられませんね。でも、魔法を起こすものが魔力だけとは限りません」
先生はそう言って、石を指先で軽く撫でた。
「強い想いが、時として魔力に近い働きをすることがあります。願い、約束、誰かへ向けた言葉。そういったものは、魔法とは別の形で世界へ触れることがある」
「想いが、魔力に」
「ええ。ただし、それは扱いが難しいものです。魔力のように測れず、鍛えれば増えるとも限りません。けれど、ないものとして片づけることもできません」
私は石を見つめた。
そこには何の光もない。
でも、先生の言葉は、私の奥で小さく残った。
想いが、世界へ触れることがある。
それなら、私は今まで何に触れてきたのだろう。
ハルクを月へ連れていった言葉。
シドを地上へ戻した涙。
あれは魔法ではなかった。
でも、何も起こさなかったわけではない。
「ひかり、落ち込まなくていいよ」
アリスが横から顔を出した。
「私も光らない時あるから」
「あなたは、光らない時の方が多いでしょう」
ローゼが静かに言う。
「今日は光るかもしれない」
アリスは石に手を置いた。
真剣な顔をする。
教室の何人かが、くすくす笑った。アリスは気にしていないように見えた。けれど、ローゼの目がほんの少し細くなる。
アリスの石は、しばらく何も反応しなかった。
そして最後に、ぽふ、と白い煙を吐いた。
「煙が出た」
アリスは嬉しそうに言った。
「石を光らせる授業です」
ローゼがすぐに言う。
「でも、煙は昨日より丸かった」
「丸さは評価対象ではありません」
先生は困ったように笑った。
午前の授業は、そのあとも続いた。
ローゼはどの課題も綺麗にこなした。杖の先に灯した青い火は形が崩れず、水を浮かせれば一滴も落とさずに花の形へ変えた。教室の線を読む課題では、誰よりも早く答えを出した。
そのたびに、周りの見習いたちは息を呑んだ。
天の魔女。
誰かが小さくそう言う。
その言葉は、教室の中で何度も小さく跳ねた。
私は、その称号がどれほどのものなのか、まだよく分かっていなかった。けれど、ローゼがそれに近い場所へいることだけは分かった。
アリスは、自分の失敗のあとでも、ローゼが褒められるたびに嬉しそうに笑った。
その笑顔がまぶしくて、少しだけ不思議だった。
午後の授業は、図書塔での自習になった。
「校長先生が取り計らってくださったのでしょう」
ローゼは小さく言った。
「ひかりさんの探し物について、いきなり授業を休ませるのではなく、自習の形にしてくださったのだと思います」
「マダム、優しいね」
「優しいだけではありません。筋が通っているのです」
図書塔は、校舎の奥にあった。
塔という名前の通り、細長い建物が空へ伸びている。外壁は白く、ところどころに青い硝子がはめ込まれていた。中へ入ると、紙とインクと、乾いた薬草の匂いがした。
円形の部屋の壁を、本棚がぐるりと囲んでいる。
本棚は一階だけでは終わらない。上へ、上へ、何層にも続き、見上げると首が痛くなるほどだった。梯子が勝手に棚の間を動き、必要な本を取りに行っている。机の上では、栞が小さな鳥のように羽ばたいていた。
「すごい……」
私は思わず声を漏らした。
「見習いが使えるのは下の三層までです」
ローゼが説明する。
「それより上は、先生の許可がなければ入れません」
「じゃあ、下の三層で探そう」
アリスはやる気満々で袖をまくった。
「夢から覚める方法、夢から覚める方法……夢、夢、夢」
「声に出して探しても、本は返事をしません」
「返事をする本もあるよ」
「それは閲覧注意の本です」
ローゼはそう言いながらも、私のために目録を開いてくれた。
目録の文字は、私には読めない。けれどローゼが指でなぞると、青い文字が少しだけ浮かび上がり、棚の方へ細い光が伸びた。
「夢に関する記録は、上層に多いですね」
「上層」
「見習いの閲覧範囲外です。ただ、眠り、幻、記憶、夜の魔法についてなら、下層にもいくつかあります」
「それを見てもいいですか」
「もちろんです」
私とアリスは、ローゼが選んでくれた本を机へ運んだ。
眠りのしくみ。
悪夢を薄める香草。
幻を見る瓶。
忘れ物を夢で探す方法。
どれも不思議で、読んでいるだけなら面白そうだった。けれど、私が探しているものとは少し違う。
夢から覚める方法。
夢そのものから出る方法。
その答えは、見習いが手に取れる棚にはなさそうだった。
「うーん」
アリスが本の山に顔を埋める。
「ないね」
「まだ探し始めたばかりです」
ローゼはそう言いながらも、表情は少し硬かった。
きっと、彼女にも分かっているのだろう。ここにある本だけでは足りない。もっと上へ行かなければ、知りたいものには届かない。
私は一冊の薄い本を閉じた。
その時、本の間から、何かが滑り落ちた。
紙だった。
古い紙片が一枚、机の上へ落ちる。
拾い上げようとして、私は指を止めた。
紙の端に、黒い糸のようなものが絡んでいた。
細く、頼りなく、けれど見間違えようのない黒だった。糸は生きているみたいに一度だけ震え、紙の端へぴたりと張りつく。
「ひかり?」
アリスが私の顔を覗き込んだ。
私は紙片をそっと開いた。
そこには、短い文字が書かれていた。
『今夜だけ図書塔の警備がなくなる。見にくるならいまだ。』
私は息を呑んだ。
誰が書いたのか分からない。
けれど、その言葉は、私が探しているものを知っているような顔をしていた。
「どうしたの?」
アリスが紙を覗こうとする。
私は少し迷って、その紙をローゼへ渡した。
ローゼは読んだ瞬間、眉を寄せた。
「これは」
「行きません」
私はすぐに言った。
アリスが驚いたように私を見る。
「ひかり」
「行きません。こそこそしない方がいいって、ローゼさんが言ってくれたので」
自分で言いながら、少しだけ胸の奥がざわついた。
知りたい。
上の階に、夢から覚める方法があるかもしれない。
そう思わなかったわけではない。
けれど、黒い糸が絡んでいる紙に従うことが、いいことだとは思えなかった。
ローゼは紙を見つめたまま、静かに頷いた。
「賢明です」
「でも、これ、誰が入れたんだろう」
アリスが首を傾げる。
「分かりません。ただ、今日はもう遅い。これは校長先生に報告しましょう」
「はい」
私は頷いた。
紙片はローゼが預かった。
そのあと私たちは図書塔の司書をしている魔女のところへ行き、紙片のことを伝えた。司書の魔女はすぐに図書塔の警備を確かめ、校長先生にも使いを出してくれた。けれど、戻ってきた返事は、今のところ異常は見当たらないというものだった。
私たちには、寮へ戻るように言い渡された。
図書塔の自習は終わり、私たちは寮へ戻った。夕食をとり、アリスに今日の煙は昨日より少し丸かったのだと聞かされ、ローゼに早く休むよう言われ、私は自分の部屋へ戻った。
黒い糸のことは、眠るまでずっと頭の隅に残っていた。
けれど私は、行かなかった。
行かなかったはずだった。
翌朝、アリスは迎えに来なかった。
最初は、寝坊だと思った。
ローゼが扉の前に現れた時も、私はそう思っていた。アリスがまたどこかでマシュマロを食べていて、ローゼが呆れながら連れてくるのだろうと。
けれど、ローゼの顔を見た瞬間、違うと分かった。
青紫の瞳が、いつもよりずっと硬い。
「ひかりさん」
ローゼは静かに言った。
「アリスが、いません」




