友達の成り方
取り残された中庭には、噴水の水が丸く浮かんだまま、ゆっくり回っていた。
さっきまでアリスが寝転んでいた芝生には、彼女の体の形だけ少し草が倒れている。そこに白い粉が点々と落ちていて、近くの小さな虫が不思議そうに近づいては、甘い匂いに誘われるように触角を揺らしていた。
私は噴水の縁に腰を下ろした。
ひんやりしている。
外の道を歩いていた時は、麦わら帽子の下まで熱がこもっていたのに、この中庭では風が肌の上を薄く撫でていく。青い屋根の影と、空中で丸くなった水と、葉の裏から吹く風が、炎天下の夏をここだけ別の形に変えているみたいだった。
これも、魔法なのだろう。
私は噴水の水球を見上げた。
中にいた魚みたいな光は、もう逃げるのをやめたらしい。透明な水の中から、こちらの様子を窺っている。目があるのかは分からないけれど、たぶんこちらを見ている。そう思って小さく手を振りかけ、門番の魔女の言葉を思い出して、途中で手を止めた。
箒ではないから平気だと思う。
でも、この国では、何が喜んで落ちるか分からない。
私は手を膝の上に戻した。
建物の奥からは、ときどき授業の音が聞こえてくる。
ぱん、と乾いた音がしたかと思うと、誰かが「あっ」と声を上げる。続いて、窓の外へ青い煙が流れ出した。煙はそのまま消えず、空中で小さな羊の形になる。羊は眠そうにあくびをしてから、風に乗って中庭の上をふわふわ漂い、噴水の水球に鼻先を突っ込んだ。水の中の光が驚いて散り、羊は満足そうに身を震わせて、また煙に戻っていく。
別の窓では、何人かの女の子たちが杖を構えていた。
先生らしき魔女が何かを説明している。私には言葉までは聞き取れない。ただ、女の子たちが順番に杖を振ると、机の上に置かれた小さな石が浮き上がったり、花びらになったり、逆に何も起こらなくて肩を落としたりしていた。
その中に、アリスはいなかった。
ローゼの姿も見えない。
きっと別の教室なのだろう。
私はほっとして、それから少しだけ困った。
ここで待っていていいと言われた。けれど、本当に待っていていいのだろうか。学校に勝手に入り込んだようなものなのに、誰も私を追い出しに来ない。門を通ったからいいのか、魔女見習いに見えるからいいのか、それとも、この学校そのものが私をまだ見つけていないだけなのか。
考えていると、足元の芝生がかすかに揺れた。
見ると、私の靴のそばで、草が一本だけ背を伸ばしている。ほかの草よりも少し青みが強く、先端に小さな白い花をつけていた。その花が、私の方へ顔を向ける。
「こんにちは」
小さく声をかけると、花は嬉しそうに揺れた。
この国にいると、花にまで挨拶してしまいそうだった。
私は笑って、星型ポーチに手を添えた。
シドの町でもらったものは、ちゃんと中にある。赤い花も、あの町で受け取った言葉も、消えてはいない。けれど、目の前に広がる青は、さっきまで抱えていた赤い夕陽を少しずつ別の場所へ押しやっていく。
忘れるのではない。ただ、次の景色が入ってくる余地を作るみたいに、胸の奥で色が並び直していく。
赤の次は、青の国か。
ハートの言葉を思い出す。
ハートはこの国を名前だけは知っていると言っていた。魔女は、いろいろなものを知っている。けれど、知っているから優しいとは限らない。
その言葉は、門を越えた今になって少し重くなった。
ここは綺麗だ。
涼しくて、青くて、花も看板も水も生きている。けれど、綺麗だから安全だとは限らない。
魔女の国にも、きっと何かがある。
そう思った時、遠くで鐘が鳴った。
高く澄んだ音だった。金属の鐘というより、青い硝子を指で弾いたような音。ひとつ鳴るたびに、中庭の水球がふるりと震え、木の葉の裏に隠れていた風がぱっと散る。
授業が終わったのだろう。
建物の中が急に騒がしくなった。廊下を走る足音、笑い声、先生に叱られる声。窓という窓が少しずつ開き、そこから子どもたちの声と、焦げた甘い匂いと、薬草の青い匂いが一緒に流れてくる。
そして、その騒がしさの中でもひときわ元気な声が聞こえた。
「ひかりー!」
振り向くより先に、アリスが中庭へ飛び込んできた。
さっきよりも頬の白い粉が増えている。片手には紙束、もう片方の手には大きな布袋を抱えていて、その口から白いマシュマロがいくつか覗いていた。授業へ戻ったはずなのに、どうして増えているのだろう。
「待っててくれた!」
「ここで待っててね、と言われたので」
「えらい」
「えらい、のでしょうか」
「うん。私は待っててって言われても、ときどき待てないから」
それは自分で言っていいことなのだろうか。
アリスは私の隣まで来ると、噴水の縁に腰を下ろす前に、また芝生へ座り込もうとした。その瞬間、後ろから伸びてきた手が、彼女の襟元をつまむ。
「座る前に、制服についた草を払いなさい」
「ローゼ」
「ローゼ、ではありません」
遅れて中庭に入ってきたローゼは、さっきと同じように背筋を伸ばしていた。けれど、授業を終えたばかりだからか、少しだけ息が弾んでいる。青い髪は乱れていない。長いリボンも、まるで風が彼女だけを避けて通ったみたいに綺麗に結ばれていた。
その手には、細い杖と、何冊かの本が抱えられている。
本の表紙には青い紋章があり、光の角度で文字が浮かんだり消えたりしていた。難しそうな本だ。私なら、開く前から眠くなってしまうかもしれない。
「ひかりさん」
ローゼは私を見ると、小さく頭を下げた。
「お待たせしました」
「いえ。ここ、涼しくて気持ちよかったです」
「中庭には冷風の術式が敷かれています。夏場に見習いが倒れないようにするためのものです」
「術式……」
言葉だけで少し難しい。
私が噴水の水球を見ると、ローゼはすぐに気づいた。
「あれに触れてはいけませんよ。冷却用の水核ですから、下手に崩すと中庭中に雨が降ります」
「触らなくてよかったです」
「触ろうとしてたの?」
アリスが楽しそうに訊いてくる。
「少しだけ」
「分かる。あれ、触りたくなるよね。前に触ったらね、中庭が水びたしになった」
「あなたが言うと、説得力が違いますね」
ローゼの声が低くなる。
アリスは慌ててマシュマロをひとつ口に入れた。
「怒られる前に魔力を戻しておこうと思って」
「怒られるのに魔力は必要ありません」
「でも、元気は必要だよ」
「反省が必要です」
アリスはもぐもぐしながら、私へこっそり布袋を差し出した。
「ひかりも食べる?」
「いいんですか?」
「うん。マシュマロは分けると増えた気がするから」
「実際には減ります」
ローゼが横から言った。
「気分の話だよ」
「気分で数は増えません」
そう言いつつ、ローゼは止めなかった。
私は差し出されたマシュマロをひとつ受け取った。指に触れたそれは、想像していたよりも柔らかく、少しだけ冷たかった。口に入れると、ふわりと溶ける。甘い。けれど、ただ甘いだけではなく、舌の上に薄い風が残るような、不思議な味がした。
「おいしい」
「でしょ」
アリスは嬉しそうに笑った。
「魔女にはマシュマロだよ」
「そうなんですか」
「少なくともアリスには、です」
ローゼが訂正する。
「一般的な魔力回復食として認められているわけではありません」
「でも私は戻るよ」
「戻ってその程度なら、食べていない時はどうなっているのかしら」
「ひどい、ローゼ」
「事実です」
二人のやり取りを聞いていると、少しずつこの国の空気が分かってくる気がした。
ローゼは正しいことを言う。
アリスはその正しさから少しずれたところで、平気な顔をして笑っている。
けれど、ローゼはそのずれを見捨てない。
アリスも、叱られながらローゼのそばを離れない。
青い町の中で、アリスだけが別の季節に見えた理由が、少し分かった気がした。
「それで」
ローゼが本を抱え直した。
「ひかりさんは、この国へ何をしに来たのですか」
まっすぐな問いだった。
私は少しだけ言葉を選ぶ。
夢から覚める方法を探している。
そう言って、この二人に通じるのだろうか。そもそも私は、自分がどこから来て、どこへ戻ればいいのかも、まだはっきり分かっていない。
「探し物をしています」
結局、そう答えた。
「探し物?」
アリスが首を傾げる。
「はい。夢から覚める方法を」
その言葉を口にした瞬間、ローゼの表情がわずかに変わった。
驚きではない。
むしろ、聞き慣れない言葉を、頭の中の本棚のどこへしまえばいいのか探しているような顔だった。
「夢から覚める方法」
ローゼは静かに繰り返した。
「少なくとも、見習いの授業で扱う内容ではありませんね」
「じゃあ、大人の魔女なら知ってる?」
アリスが身を乗り出す。
「可能性はあります。ただし、簡単に教えていただけるとは限りません。魔女は、知っていることを何でも話すわけではありませんから」
ハートと似たようなことを言う。
やっぱり魔女は、優しいだけの存在ではないのかもしれない。
「でも、ひかりは私の絵の子だよ」
アリスが胸を張った。
「そもそも絵の子、とはなんなのですか?」
私が訊くと、アリスは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「いい質問だね」
アリスはそう言って、さっきローゼに押さえられていた紙束を大事そうに抱え直した。その中から一枚を選び、私の前へ差し出す。
「これ」
そこには、絵が描かれていた。
アリスらしき女の子。
ローゼらしき女の子。
そして、私らしき女の子。
白い肩の出る服に、青い吊りズボン。頭には麦わら帽子。絵は決して上手とは言えない。線は少し曲がっているし、手足の長さもなんだか怪しい。けれど、描かれている女の子が私に似ていることは、見間違えようがなかった。
「……私ですか」
「ね? ひかりにそっくりでしょ?」
「そっくり、ですね」
私は紙の中の自分を見つめた。
不思議だった。
アリスとは、今日初めて会ったはずだ。少なくとも、私はそう思っている。なのに、この紙の中には、さっき早着替えコンパクトで着替えたばかりの私がいる。麦わら帽子まで、ちゃんと描かれている。
「これ、いつ描いたんですか」
「少し前」
「少し前?」
「うん。まだ会っていない友達の絵を描こうと思ったの」
アリスは当然のことみたいに言った。
「まだ会っていないのに、友達なんですか」
「会ってから友達になることもあるし、友達だから会えることもあるでしょう?」
やっぱり、何を言っているのか少し分からない。
けれど、アリスの中では、それでちゃんと道がつながっているようだった。
ローゼが横から絵を覗き込む。
「……確かに、似ていますね」
「でしょ」
「ですが、似ているからといって、あなたの絵から出てきた証明にはなりません」
「でも、似てる」
「それは認めます」
「ローゼが認めた」
「絵から出てきたとは言っていません」
ローゼはそう言いながらも、紙から目を離さなかった。
その表情は少しだけ複雑だった。驚いているようにも見えるし、納得したくないものを納得しかけているようにも見える。
「だから、私が手伝う」
アリスは紙を胸に抱えて、もう一度そう言った。
「なぜ、だから、になるのですか」
「絵の子が困っていたら、描いた人が責任を取るものでしょう?」
「あなたが描いたから来たと決まったわけではありません」
「でも、似てる」
「似ているだけで責任を背負うものではありません」
「じゃあ、似ているから友達になる」
アリスはあっさり言い換えた。
ローゼが一瞬、言葉に詰まる。
私はその隙に、アリスの顔を見た。
友達。
その言葉は、あまりにも簡単に差し出された。けれど、軽く扱われた感じはしなかった。アリスは本当に、今ここで私と友達になれると思っているのだ。昨日から知っていたみたいに。あるいは、絵の中でずっと会っていたみたいに。
「友達……」
私が小さく呟くと、アリスは満面の笑みを浮かべた。
「うん。ひかりが嫌じゃなければ」
「嫌では、ないです」
「じゃあ決まり」
アリスは私の手を取った。
手は少しひんやりしていて、マシュマロの甘い匂いがした。
「ローゼもいいよね」
「なぜ私の許可が必要なのです」
「だって、ローゼも友達になるでしょう?」
ローゼの青紫の瞳が、私とアリスのつながれた手へ落ちる。
ほんの少しだけ、表情が揺れた。
それは怒りではなかった。困惑でもない。もっと小さな、名前をつける前に消えてしまうような色だった。
けれど次の瞬間には、ローゼはいつものきちんとした顔に戻っていた。
「私は、簡単に友人を増やすような性格ではありません」
「じゃあ、ゆっくり増やせばいいよ」
「そういう問題ではありません」
アリスは気にした様子もなく笑う。
ローゼは小さく息を吐き、それから私へ向き直った。
「ひかりさん。少なくとも、あなたがこの国で迷子であることは確かです。夢から覚める方法については、私たちではお答えできませんが、図書塔か、先生方なら何か手がかりをご存じかもしれません」
「図書塔」
「魔女の国の記録が集められている場所です。ただし、見習いだけでは入れない区画もあります」
「じゃあ、ローゼがいれば行ける?」
アリスがすぐに訊く。
「私がいても入れない場所はあります」
「じゃあ、入れるところまで行こう」
「あなたは午後の授業があります」
「ローゼもあるよ」
「だから戻るのです」
「でも、ひかりが、絵の子が来たよ」
「絵の子が来たことと、授業を受けなくていいことは別です」
また始まった。
私は二人を見ながら、少しだけ笑ってしまう。
青い中庭に、アリスの声とローゼの声が重なる。噴水の水球がゆっくり回り、光の魚がその中を泳ぐ。外は炎天下で、知らない町で、私は夢から覚める方法を探している。
それなのに、この瞬間だけは、迷子でいることも悪くないように思えた。
「ひかり」
アリスが私の手を握ったまま、名残惜しそうに言った。
「ここで待っててね。午後の授業が終わったら、すぐ戻ってくるから」
「はい」
「絶対だよ。どこかに行っちゃ駄目だよ」
「それはあなたが言われる側でしょう」
ローゼがすぐに言う。
「私は戻ってくるよ」
「午前の授業にも戻るべきでした」
「戻ったよ。途中から」
「途中から戻ることを、戻ったとは言いません」
アリスは口を尖らせたけれど、ローゼに袖を引かれると、しぶしぶ立ち上がった。
「ひかりさん」
ローゼは私へ向き直る。
「申し訳ありませんが、少しだけここでお待ちください。中庭から出なければ、問題にはならないと思います」
「分かりました」
「水核には触れないように」
「はい」
「知らない道具にも」
「はい」
「それから、アリスが戻ってきても、すぐにどこかへ連れていかれないように」
「ローゼ、それはひどい」
「事実です」
ローゼはそう言ってから、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「では、またあとで」
「ひかり、待っててね!」
アリスは大きく手を振りながら、ローゼに引かれて校舎の奥へ消えていった。




