私は魔女じゃないのにな
「あつ……暑い……」
列車を降り、改札を抜けた先は炎天下だった。
魔女の国への道中までしか行かない駅だったようで、外に放り出された気分だった。
いつもの服のままでは辿り着くまでにバテていただろう。
ちなみにハートはひとつ前の駅で降りていった。
ハートは、そう言っていた。
「熊の蒸し焼きになんてなりたくないからね。毛皮に熱がこもって、妙な匂いでもしたらたまらない」
とのことだった。
「でも、綺麗……」
そこは一面のひまわり畑だった。
ひまわりたちは私が漏らした言葉を耳にしたのか、その顔を赤く染めて通り過ぎる私へ代わる代わるお辞儀をした。
魔女の国へ向かう道なのだから、花が照れるくらいは普通なのかもしれない。
私はそう思うことにして、白い道を進んだ。
遠くに見えていた城壁は、歩くほどに大きくなっていく。列車の窓から見た時は青い線のようだったのに、近づいてみると、それは見上げるほど高かった。青い石を積み上げた壁は、ただ塗られているのではなく、石そのものの奥に色が沈んでいる。薄い水色の石、雨上がりの空のような石、夜に近い濃い青の石。それらが少しずつずれながら組み合わさり、遠くから見るとひとつの大きな青に見えるのだった。
門の上には、尖った塔の影が落ちている。
その塔も青かった。けれど城壁よりもずっと深く、湖の底に沈んだ宝石みたいな色をしている。てっぺんには細い金の輪が浮かび、その輪の内側で小さな星のような光が回っていた。昼なのに星があるのは変だけれど、魔女の国ならそういうこともあるのだろう。
門の前まで来ると、ひまわり畑はそこで終わっていた。
最後のひまわりが、私の背中へ向かって小さくお辞儀をする。私も振り返って頭を下げると、ひまわりは花びらを震わせながら、嬉しそうに太陽の方へ顔を戻した。
門の両脇には、二人の魔女が立っていた。
どちらも大人の女の人で、長い杖を持っている。杖の先には丸い青硝子がついていて、その中で水のようなものが静かに揺れていた。ひとりは赤茶色の髪をきっちり後ろでまとめ、もうひとりは淡い金色の髪を肩のあたりで切りそろえている。髪の色は青くない。けれど、二人が身につけている帽子の縁や、袖口の刺繍、杖に巻かれた細い紐には、必ずどこかに青が入っていた。
この国では、青はただの色ではないのかもしれない。
そう思った時、赤茶色の髪の魔女が私を見るなり杖を少しだけ上げた。
「止まりなさい」
声は冷たくない。けれど、門そのものが喋ったみたいに逃げ場がなかった。
「この国は、外から来た者を入れません」
「あの、私は列車で来ました」
「列車で来た者も、外から来た者です」
それはそうだ。
私は返す言葉に困って、麦わら帽子のつばを両手でつまんだ。青い城壁の上では、旗がゆっくり揺れている。旗に描かれているのは、星でも月でもなく、一本の杖と、その周りを囲む小さな花の模様だった。
「名前は」
淡い金色の髪の魔女が訊いた。
「ひかりです」
私が答えると、二人の魔女は少しだけ目を細めた。
「聞いたことのない名ね」
「この国の名簿にはありません」
「やっぱり入れませんか」
「それを確かめます」
赤茶色の髪の魔女が杖を持ち上げた。先についた丸い青硝子の中で、揺れていた水が急に静かになる。硝子の表面が鏡のようになり、そこに私の姿が映った。
けれど、少し変だった。
鏡の中の私は、私より遅れて瞬きをした。麦わら帽子の輪郭も、白い袖も、青い吊りズボンも、たしかに映っているのに、線がまだ定まりきっていないみたいに淡く揺れている。
「魔女見習いに見える」
金色の髪の魔女が言った。
「でも、ただの見習いではないわ」
「魔女でもない」
「けれど、外から侵入した者の影ではありません」
赤茶色の髪の魔女が青硝子を覗き込む。
私は身動きできなかった。悪いことをしたわけではないのに、身体の内側まで見られている気がして、背筋が少しだけ伸びる。
「これは……生まれたばかりのものに近い」
「生まれたばかり?」
思わず訊き返すと、二人の魔女は私を見た。
「あなた自身が知らないなら、こちらも断定はしません」
「ですが、門はあなたを弾いていない。外のものなら、ここまで近づいた時点で青に触れず、影が薄くなるはずです」
「影が薄く……」
私は足元を見た。
夏の日差しを受けて、私の影は白い道の上にちゃんと落ちている。少し頼りない形をしているけれど、消えそうではなかった。
赤茶色の髪の魔女は、杖の青硝子を下ろした。
「通りなさい」
「いいんですか」
「門が許したものを、門番が拒むことはできません。ただし、知らない魔女の道具に触れないこと。空を飛ぶ箒に手を振らないこと」
「手を振るのも駄目なんですか」
「未熟な箒は喜ぶと落ちます」
それは困る。
私は真面目に頷いた。
「気をつけます」
「それから」
金色の髪の魔女が、少しだけ声をやわらげた。
「暑さにやられそうなら、青い屋根の下を歩きなさい。この国の青は、夏を少しだけ冷ましてくれます」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、二人の魔女は門の方へ向き直った。
青い門が、音もなく開いていく。
重そうな見た目に反して、門は風に押された布みたいに滑らかに動いた。隙間から、ひんやりした空気が流れてくる。ひまわり畑の熱を含んだ風とは違う。石と水と、乾いた花の匂いが混ざった風だった。
私はその境目を越えた。
最初の一歩で、足元の色が変わった。
外の白い道は終わり、門の内側には青い石畳が続いていた。薄い青、白に近い青、灰色を含んだ青。石畳は一枚ごとに色が違い、しかも光の当たり方で少しずつ揺れて見える。まるで足元に浅い水が張っているみたいだった。
顔を上げる。
そこには、青い町があった。
壁が青い。
階段が青い。
窓枠も、扉も、屋根の縁も、店先に吊るされた小さな札までもが、どこかに青を含んでいる。真っ青なものばかりではない。白い壁に淡い水色の影が落ちていたり、群青の扉に銀色の取っ手がついていたり、空色の布が窓辺で揺れていたりする。青はひとつではなく、いくつもの顔を持って町の中に散らばっていた。
けれど、そこを歩く魔女たちは青一色ではなかった。
栗色の髪を三つ編みにした魔女が、青いリボンで束ねた薬草の籠を抱えている。黒髪の魔女が、白い日傘の内側に小さな星を浮かべながら通り過ぎる。銀色に近い髪の老婦人が、青い刺繍の入った手袋で杖をつき、店先の瓶をひとつずつ眺めている。
青は町に満ちている。
けれど、誰もが青そのものを持っているわけではないらしい。
細い路地の間を、水路が走っている。
水は透明なはずなのに、底の石が青いせいで、流れそのものが青く光って見えた。小さな橋の上では、三角帽子をかぶった子どもたちが瓶を並べている。瓶の中には光る砂や、小さな雲や、眠っている火の粉みたいなものが入っていた。
頭の上を、箒が一つ通り過ぎる。
門番に言われたことを思い出して、私は手を振りかけた腕を慌てて下ろした。箒はそれでもこちらに気づいたのか、少しだけ柄の先を揺らしてから、青い屋根の向こうへ飛んでいった。
この町では、普通なら動かないものまで、こちらを見ている気がする。
窓辺の鉢植えが葉を伸ばし、通りの看板が風もないのにきい、と揺れる。店の軒先に吊るされた青い硝子玉は、私が通ると小さく鳴った。涼しい音だった。暑いのに、その音だけで額の汗が少し引く。
私は麦わら帽子のつばを押さえながら、ゆっくり歩いた。
外から見えていた高い城壁の向こうに、こんな町が隠れていたのだ。
青い国。
遠くから見た時に思った呼び名は、間違っていなかった。
でも、中へ入ってみると、それだけでは足りない気がした。
ここは、ただ青く塗られた国ではない。
青そのものが息をしているようだった。
私はその中を、しばらくあてもなく歩いた。
大通りらしき道はあったけれど、そこから細い路地がいくつも枝分かれしている。どの路地にも階段や水路があり、窓辺には花や小瓶や、用途の分からない道具が並んでいた。店先では、瓶詰めにされた小さな雲が棚の中で丸くなって眠っている。隣の店では、星の形をした砂糖菓子が、皿の上でかすかに瞬いていた。
甘い匂いにつられてそちらへ寄りかけると、足元の石畳が小さく光った。
まるで、そっちじゃない、と言われたみたいだった。
「……えっと」
私は立ち止まって周りを見る。
門から真っすぐ来たつもりだった。けれど、振り返った先に青い門は見えない。代わりに、三つの階段と、四つの細道と、どれも同じように綺麗な青い壁が私を囲んでいる。
どの道を通ってきたのか、もう分からなかった。
「迷った、かな」
声に出してみても、返事はない。
いや、返事はないはずだった。
けれど、近くの壁に掛けられていた小さな看板が、きい、と揺れた。そこには丸い眼鏡をかけた猫の絵が描かれている。猫は看板の中で眠っていたはずなのに、私が見つめると、片目だけを薄く開いた。
「すみません」
つい看板に話しかけてしまう。
「魔女の国で、何かを知っていそうな場所って、どこでしょうか」
猫の看板はしばらく私を見ていた。
そして、面倒くさそうに尻尾を一度振る。
すると、路地の奥から青い風が吹いた。
風は涼しかった。さっきまで額に浮かんでいた汗をさらって、私の麦わら帽子のリボンを少しだけ揺らす。青い風は階段の方へ流れていき、そこで一度くるりと回った。
「そっち、ですか?」
看板の猫はもう目を閉じていた。
私はお礼を言って、青い風の向かった階段を上った。
階段は思ったより長かった。上っても上っても、また踊り場があり、そこから別の階段が続いている。
壁には小さな白い花が咲いていて、私が通るたびに、花びらの先から水色の光がこぼれた。その光はすぐに消えてしまうけれど、まるで私の足元を照らしてくれているみたいだった。
途中で、箒を抱えた女の子たちとすれ違った。
みんな私と同じくらいか、少し年下に見える。黒い髪の子も、茶色い髪の子も、赤毛の子もいた。けれど服のどこかには必ず青があって、リボンだったり、袖口の刺繍だったり、帽子の内側だったり、それぞれ違う形で町の色を身につけている。
女の子たちは私を見ると、少し不思議そうな顔をした。
でも、誰も何も言わない。
この国では、見知らぬ子が一人で歩いていても、そこまで珍しくないのかもしれない。あるいは、私の格好が魔女見習いに見えたせいで、どこかの学校の生徒だと思われたのかもしれない。
そんなことを考えながら階段を上りきると、急に視界が開けた。
目の前に、大きな建物があった。
門から見えた塔とは違う。もっと近くて、もっと生活の匂いがする建物だった。白い壁に青い屋根。屋根の上にはいくつもの小さな煙突が並び、そのうちの一本からは煙ではなく、薄い水色の泡がぷかぷかと浮かんでいた。窓は縦に長く、硝子には星や花や杖の模様が彫られている。建物の正面には広い門があり、その上に青い文字で何かが書かれていた。
読めない。
でも、門の近くに立てかけられた看板には、箒にまたがる子どもの絵と、杖を持って背筋を伸ばす女の子の絵が並んでいた。
「学校……?」
私は小さく呟いた。
その時、建物の奥から、ぱん、と軽い音がした。
続いて、女の子たちの笑い声。誰かが慌てて走る足音。焦げた甘い匂い。たぶん授業中なのだろう。窓の向こうで、青い煙がふわりと膨らみ、すぐに小さな鳥の形になって飛んでいった。
魔法学校。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ高鳴った。
この国のことを知りたいなら、ここへ入るのが一番早いかもしれない。門番の人たちは、知らない魔女の道具に触れるなとは言っていたけれど、学校へ入るなとは言っていなかった。
そう自分に言い訳をして、私は門の内側へ足を踏み入れた。
正面の広場には誰もいなかった。
授業中だからだろうか。青い石畳の上に、丸い影だけがいくつも落ちている。見上げると、建物の上を小さな箒が何本か飛んでいて、まだ持ち主のいない子犬みたいに、くるくると練習していた。
私は手を振らないように気をつけながら、そっと奥へ進んだ。
廊下のような通路を抜けると、中庭に出た。
そこだけ、外の炎天下とは空気が違っていた。
青い屋根の影が四方から落ち、中央には小さな噴水がある。噴水の水は上へ噴き上がるのではなく、空中で丸くなって浮かび、ゆっくり回りながら涼しい霧をこぼしていた。庭の隅には背の低い木が並び、その葉の裏から薄い風が吹いている。
魔法で冷やされた風なのだろうか。
首筋を通った瞬間、さっきまでまとわりついていた暑さがすっと引いた。
「涼しい……」
思わず息を吐く。
外とは別の場所みたいだった。
私は噴水の近くまで歩いた。水の球の中には、小さな魚のような光が泳いでいる。光は私に気づくと、丸い水の内側からこちらを覗き込み、すぐに逃げるように奥へ潜った。
かわいい。
そう思ってもう少し近づこうとした時、噴水の向こうに誰かがいることに気づいた。
女の子だった。
中庭の芝生の上に、大の字になって寝転んでいる。
この涼しい場所をひとり占めしているみたいに、麦わら帽子もかぶらず、両手両足を投げ出して、空を見上げていた。髪は熟れかけた杏みたいな明るい色で、青い国の中にいると、そこだけ夏の日だまりが落ちているように見える。頬には白い粉が少しついていて、片手には食べかけのマシュマロが握られていた。
歳は、私とそう変わらないように見えた。
起きているのか、眠っているのか分からない。
けれど、女の子は突然、空に向かって呟いた。
「あついなぁ」
私と同じことを言った。
思わず笑いそうになって、慌てて口を押さえる。
すると、女の子の蜂蜜色の瞳が、ゆっくりこちらを向いた。
目が合った。
女の子はしばらく私を見つめていた。驚くでも、警戒するでもない。ただ、私の顔をじっと見て、麦わら帽子を見て、青い吊りズボンを見て、もう一度私の顔へ戻ってくる。
そして、がばりと起き上がった。
「絵の子だ」
今度は目を見開いた。
「え?」
「絵の子!」
女の子は手に持っていたマシュマロを慌てて口に放り込み、もぐもぐしながら立ち上がった。芝生についた葉っぱを払うことも忘れて、私の方へ駆け寄ってくる。
「あなた、私の絵から出てきたの?」
「……絵からは、出てきていないと思います」
「じゃあ、紙から?」
「紙からでもないです」
「じゃあ、どこから?」
「駅から来ました」
女の子は目を丸くした。
「駅から絵が出てくるの?」
「出てこないと思います」
「だよねえ」
そう言って、女の子はなぜか納得したように頷いた。
近くで見ると、頬についた白い粉はやっぱりマシュマロの粉だった。髪は柔らかそうで、ふわふわと肩のあたりで跳ねている。服は見習い用なのか、白と淡いクリーム色を混ぜたような軽い生地で、ところどころに薄い青の縫い取りがあった。
けれど、この国の青に染まりきってはいない。青い石畳の上に立っていると、彼女だけが別の季節から迷い込んできたみたいだった。
「私はひかりです」
私が名乗ると、女の子の顔がぱっと明るくなった。
「ひかり! やっぱり!」
「やっぱり?」
「うん。だって、私が描いた子も、そんな感じの名前が似合いそうだったもの。明るくて、でも眩しすぎない感じ。朝の窓みたいな、さわれそうでさわれない感じ」
何を言っているのか、少し分からなかった。
でも、悪いことを言われているわけではなさそうだった。
「あの、あなたは」
「私はアリス!」
女の子は胸を張った。
「アリス・オリエンス!魔女見習いだよ。今は、ちょっとだけ授業から逃げてるところ」
「授業……?」
私が訊き返そうとすると、後ろから駆けてくる音がした。
「アリス!あなたったらまた――あら」
現れたのも、女の子だった。
この国のありとあらゆる場所に散らばっている青にそっくりな髪、それに見劣りしない、青紫の瞳をした女の子。
けれど、それは町の壁や石畳と同じ青ではなかった。
もっと澄んでいて、もっと冷たく、夏の空をそのまま硝子の中へ閉じ込めたみたいな色だった。長い髪は背中の途中でまっすぐに揺れ、そこに結ばれた濃い青のリボンまで、彼女のために選ばれたもののように見える。
怒っているはずなのに、その色だけで少し見惚れてしまうくらい、綺麗だった。
「アリス、あなたまた授業を抜け出していたのね」
「抜け出してないよ。涼しいところで魔力を整えていただけ」
「芝生に寝転んでお菓子を食べることを、魔力を整えるとは言いません」
「でも、少し整ったよ」
「それはお菓子を食べて元気になっただけでしょう」
青い髪の女の子は、そこでようやく私の方を見た。
その視線は、門番の魔女たちより少しだけ鋭い。けれど冷たいというより、何かをきちんと確かめようとしている目だった。
「それで、あなたはどなた?」
「あ、私はひかりです」
「ひかりさん」
女の子は私の名前を一度口の中で確かめるように言ってから、アリスへ目を向けた。
「アリス。まさかとは思うけれど、今この方にあなたの真の名を告げたのではないでしょうね」
「え? 言ったよ」
「言ったよ、ではありません」
女の子の眉がきゅっと寄った。
「国の中とは言え、魔女は真の名を、初対面の相手に軽々しく告げるものではないでしょう」
「でも、ひかりは絵の子だよ」
「なんのことですか?」
「私の絵から出てきたかもしれないの」
「出てくるような魔法をあなたは使えたかしら?」
「うーん。わかんない。紙からでもないって言ってた」
「なおさらです」
初対面ではあるが、私はなんとなくこの女の子がアリスの面倒をずっと見てきたのだろうと思った。
叱り方に慣れがある。アリスの方も怒られているのに、少しも怖がっていない。
むしろ、叱られることまで含めていつものことみたいに、蜂蜜色の瞳をぱちぱちさせている。
「失礼しました」
青い髪の女の子は、今度は私へ向き直り、背筋を伸ばした。
「私はロージリア・リベリオです。親しい者はローゼと呼びます」
「あ、ローゼも言った」
アリスがすかさず指を差した。
ローゼはぴたりと固まる。
「私は礼儀として名乗っただけです」
「私も礼儀として名乗ったよ」
「あなたの場合は勢いです」
「勢いの礼儀もあるかもしれないよ」
「ありません」
二人のやり取りがあまりに自然で、私は少しだけ笑ってしまった。
するとローゼがこちらを見た。
しまった、と思ったけれど、ローゼは怒らなかった。ただ、少しだけ気まずそうに咳払いをする。
「それで、ひかりさん。あなたはどちらからこちらへ?」
「駅から来ました」
「駅?」
「魔女の国への道中までしか行かない駅みたいで、そこから歩いてきました。門のところで、魔女の方に調べてもらって、中へ入れてもらいました」
「門を通ったのですか」
ローゼの表情が少し変わった。
警戒が消えたわけではない。でも、ただ迷い込んだ子を見る目から、何か珍しいものを見る目になった。
「門が拒まなかったのなら、外からの侵入者ではないのでしょうね」
「たぶん、そうみたいです。生まれたばかりのものに近い、と言われました」
「生まれたばかり?」
アリスが目を輝かせた。
「すごい。ひかり、生まれたばかりなの?」
「違うと思います」
「でも、門の人が言ったんでしょう?」
「私にもよく分からなくて」
「分からないの、いいね」
「いいんですか?」
「うん。分からないものは、描ける余地があるもの」
アリスはそう言って、どこから出したのか分からない小さな紙束を胸に抱えた。
その紙の端には、薄い線がいくつも重なっている。風景のようにも、人の輪郭のようにも見えたけれど、私がよく見る前に、ローゼがアリスの手元を軽く押さえた。
「今は描く時間ではありません。授業中です」
「でも、絵の子が来たんだよ」
「授業中です」
「絵の子は一生に一回しか来ないかもしれないよ」
「あなたは毎日、何かしら一生に一回のものを見つけます」
「それって素敵じゃない?」
「素敵かどうかと、授業を抜けていいかどうかは別です」
ローゼの声はきっぱりしているのに、手つきはやわらかかった。アリスの頬についていた白い粉を、指先でそっと払ってやっている。
アリスはそれを当たり前みたいに受け入れていた。
ローゼは怒っている。
でも、アリスを嫌っているわけではない。
それだけは、すぐに分かった。
「ではひかりさん。申し訳ないのですが、これで失礼します」
ローゼはアリスの手を引いて立ち去ろうとする。
私が声を掛けるより、アリスの方が早かった。
「ここで待っててね!お昼になったら行くから!」
アリスが大きく手を振って、引きずられて消えていった。




