魔女の国
私は列車の窓に額を近づけた。
モルタルを出てから、どれくらい経ったのだろう。観覧車の夕陽も、シドの涙も、フォルテがくれた小さな花も、まだ胸の奥に残っている。
列車は私が思い返す時間をくれるから好きだ。
立ち止まっていても、目的地へと進む。
記憶の少ない私には、新しい記憶をこうやって何度も頭の中で復唱する癖がついているみたいだ。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
車輪の音が、魔女の国へ近づいていく。
やがて、窓の外に青が見えた。
最初は空の色が低いところまで落ちてきたのかと思った。
けれど、違った。
遠くの丘の向こうに、大きな塔の先が見える。尖った屋根は深い青をしていて、朝の光を受けても金色にはならず、湖の底みたいに静かに光っていた。その下には、高い城壁が続いている。壁も、門も、そこにかかる旗までもが、どこか青を含んでいる。
町の中まではその壁が阻んでいて見えない。
けれど、あの壁の向こうにあるものが、普通の町ではないことだけは分かった。
青い国。
そう呼ぶしかないような場所が、列車の向かう先にあった。
「やぁ」
後ろから声がした。
振り返ると、黒いシルクハットをかぶった大きな熊が、いつの間にか通路に立っていた。
「ハートさん」
「久しぶり、ひかり」
ハートは窓の外を見た。遠くの丘の向こうで、青い塔の先が静かに光っている。
数日ぶりのはずだけれども、前の町でも色んなことがあったので、久しぶりという言葉にも不思議はなく、私は自然と笑った。
「魔女の国か」
「知っているんですか?」
「名前だけはね。魔女は、いろいろなものを知っている。けれど、知っているから優しいとは限らない」
「怖いところ、ですか」
「怖いかどうかは、会う魔女によるかな」
いじわるなことを言うハートの視線が、私の手元へ落ちた。
フォルテからもらった小さな花は、星型ポーチの中にしまってあるはずなのに、ハートには見えているみたいだった。
「赤の港を通ってきたんだね」
「……分かるんですか」
「少しだけ。君の中に、夕陽の色が残っている。あとは簡単なことさ。前に一緒に乗った時、あの場所は港が近かった」
「確かに、そうですね」
「赤の次は、青の国か」
「青の国?」
ハートの言葉に私は訊き返す。
私が思った通りの名前に驚いたからだ。
「ああ、あそこは……っと、それは着いてからのお楽しみだよ。――そういえば、段々と暑くなってないかい?」
そう言われれば、快適な車内にいても熱気が窓の外から伝わる気がする。
「青の国は今頃夏真っ盛りだろうな。毛皮の僕には辛い――ひかり、早着替えコンパクトを出すといい」
「早着替えコンパクト、ですか」
「うん。その服で夏が訪れている国へ降りるのは、少し大変だからね」
私は星型ポーチを開いた。
中を覗き込みながら、以前使った小さなコンパクトを思い浮かべる。すると、底のないはずのポーチの奥で、かちりと硬いものが指に触れた。
取り出したコンパクトは、ルチトクで使った時と同じように手のひらへ収まる大きさをしていた。表面には小さな星の模様が浮かび、光の角度を変えるたびに、淡い青と白が交互にきらめく。
「夏の服、夏の服……」
私は窓の外に見える青い城壁を見ながら、頭の中で服の形を思い浮かべた。
涼しくて、動きやすくて、魔女の国で浮きすぎないもの。けれど、あまり大人びているのも落ち着かない。そう考えているうちに、コンパクトの蓋がひとりでに開いた。
鏡の中で、光がくるりと回る。
次の瞬間、足元からやわらかな風が吹き上がった。冬の名残みたいに重たかった服がほどけ、白い光の粒になって宙へ散っていく。代わりに、肩のあたりへ薄い布がふわりとかかった。袖口には小さなフリルが揺れ、白い生地が夏の光を受けるみたいに軽く広がる。
その上から、青い吊りズボンがすとんと落ちてきた。
胸元には大きなポケットがひとつ。肩紐には小さな星型の金具がついていて、動くたびにかすかに光る。布はやわらかいのに丈夫そうで、列車の椅子に座ったり、知らない町を歩いたりしても、すぐにはへたれなさそうだった。
最後に、頭の上へ何かがふわりと乗った。
「わ」
思わず両手を上げると、指先にざらりとした編み目が触れた。麦わら帽子だった。広いつばの内側に白いリボンが巻かれていて、少し傾けると、窓から入る光が目元でやさしく止まる。
「帽子まで出てきました」
「いいじゃないか。夏らしい」
ハートは満足そうに頷いた。
私は窓硝子に映った自分を見た。白い肩の出る服に、青い吊りズボン。麦わら帽子の影が額に落ちて、いつもの私より少しだけ、どこかへ遊びに行く子どもみたいに見える。
でも、それでいい気がした。
麦わら帽子の影が揺れるたび、少しだけ胸が軽くなる。
「似合っていますか」
「とても」
ハートは大げさなくらい真面目に答えた。
「青の国にも、夏にも、よく似合っている」
その言い方が少し照れくさくて、私は麦わら帽子のつばを両手でつまみ、ほんの少しだけ深くかぶり直した。
窓の外では、青い城壁がさっきよりも近づいている。
塔の先が、夏の光の中で静かに輝いていた。




