待合室
樹海の魔女は、季節の匂いを間違えない。
雨の前には葉が濃く息をし、冬の前には土が眠る支度を始める。春が来る時、根は音もなく水を吸い上げ、秋が近づけば、花々は自分の色を少しずつ畳んでいく。
だから彼女には分かっていた。
また、夏が来る。
庭の奥で、マリィが硝子瓶を磨いていた。棚には古い薬草と、乾かした花と、色の抜けたリボンが並んでいる。窓辺には、白い皿に乗せられたマシュマロがひとつだけ置かれていた。
「師匠、それ、召し上がらないのですか」
マリィが訊くと、魔女は水色の瞳を細めた。
「これは私のものではないわ」
「お客様用ですか」
「ええ。いつか来る子のためのもの」
マリィは不思議そうに首を傾げた。けれど、それ以上は訊かなかった。この家には、訊かない方がよいものがいくつもある。開けてはいけない小箱。読んではいけない古い手紙。名前を呼んではいけない花。師匠が時折、誰もいない庭へ向けて微笑む理由。
樹海の魔女は、窓の外を見た。
庭の向こうでは、夏草が少しずつ背を伸ばしている。青い蝶が一匹、花の上を渡っていく。その羽の色は、あの町の壁によく似ていた。どこもかしこも青かった町。白い階段も、窓辺の鉢も、水路の底も、夏の影さえも青く染まっていた。
そして、その青の中に、ひとりだけ違う色をした子がいた。
熟れかけた杏のような髪。
蜂蜜を落としたような瞳。
あの子は、よく笑った。
よく転び、よく怒られ、よく食べ、よく描いた。何もかもが軽やかで、けれどその線だけは、誰よりも遠くまで届いた。
樹海の魔女は、自分の髪を一房指に取った。
水色。
昔は、もっと鋭い青だった。家の名にふさわしく、国の色に恥じない、冷たく澄んだ青だった。
けれど長い年月の中で、その青は少しずつやわらいだ。
誰かに負けたわけではない。
奪われたわけでもない。
あの子の線に触れた青が、少しずつほどけて、朝の湖のような色になっただけだ。
「師匠?」
マリィの声に、魔女は手を離した。
「何でもないわ」
「また、昔のことを考えていらしたのですか」
「そうね。少しだけ」
魔女は立ち上がり、庭へ出た。夏の風が、水色の髪をそっと揺らす。花々はまだ満開ではない。けれど、蕾の奥にはもう色があった。開く準備をしている。時が来れば、迷わず開く。
彼女はその花のひとつに触れた。
「今年は、少し早いかもしれないわね」
「何がですか」
「夏が」
マリィは空を見上げた。
木々の隙間から、まぶしい青が覗いている。
「夏なら、毎年来ます」
「ええ」
魔女は微笑んだ。
「でも、同じ夏は二度と来ない」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。
二度と来ない夏がある。
けれど、長い時を越えて、もう一度こちらへ歩いてくる夏もある。
古い約束のように。
閉じた手紙の続きのように。
まだ描き終わっていない線の先のように。
樹海の奥で、風が鳴った。
それは誰かの足音に似ていた。
魔女は顔を上げる。
まだ誰もいない。
けれど、彼女は知っていた。
待つことは、何もせずにいることではない。庭を整え、火を守り、道に迷った者が来た時のために扉を開けておくことだ。
あの夏の日、ひとりの少女が青い国へやって来た。
名前を訊けば、まっすぐに答えた。
樹海の魔女は、思わず微笑んだ。
また夏がやって来る。
あの子が来た、夏の日が。
私の一番大好きな季節になった、あの夏が。




